第15話 枯れた大地
王都を発って三日、馬車は北方領土の入り口に到着した。
アネットは馬車の窓から外を見て、言葉を失った。
——何もない。
見渡す限りの灰色の大地。木も草もない。ただ乾いた土と砕けた岩が、地平線まで続いている。風が吹くたびに砂埃が舞い上がり、空までが灰色に霞んでいた。
「十年前の大旱魃で、地下水脈が枯れた」
ルシアンが静かに説明した。
「水がなくなれば植物が死に、植物が死ねば土が痩せ、土が痩せれば——こうなる」
「ここに、人が住んでいたんですか」
「三つの町と十以上の村があった。今は廃墟だ」
護衛の騎士団と共に、一行は荒野を進んだ。やがて、崩れかけた石壁に囲まれた廃墟が見えてきた。
「北方最大の町、エルンスト。かつては五千人が暮らしていた」
案内役の騎士が説明する。だが、今そこにあるのは崩れた家屋と乾いた井戸だけ。人の気配はどこにもない。
馬車を降りたアネットは、大地に膝をついた。
「……っ」
土に手を触れた瞬間、全身に悲鳴のようなものが走った。大地が——泣いている。水を求め、命を求め、十年間ずっと叫び続けている。
「アネット?」
ルシアンが駆け寄った。
「大丈夫。大丈夫です。ただ——この土地が、苦しんでいるのが伝わってきて」
アネットは両手を大地に押し当てた。緑の光が指先からこぼれ、乾いた土に染み込んでいく。
だが——光はすぐに消えた。
「え……」
公爵邸の庭では、触れただけで植物が蘇ったのに。ここでは、力が大地に吸い込まれて、何も起こらない。
「無理もない。これほど広範囲が死んでいれば、一人の力では足りないだろう」
同行していた王室付きの学者が冷たく言った。
「やはり緑命の力も万能ではありませんな。陛下にはそのように報告いたします」
その言葉にアネットは唇を噛んだ。万能ではないことくらいわかっている。でも——
「待ってください」
アネットは立ち上がり、廃墟の中を歩き始めた。崩れた家屋の隙間を覗き込み、枯れた井戸の縁を確認し、瓦礫の下を丹念に探っていく。
「何をしている」
「探しているんです。生き残りを」
「生き残り?」
「植物の。どんな荒地でも、どこかに必ず——」
瓦礫の奥、日陰になった石壁の割れ目に、アネットは見つけた。
「ありました……!」
小さな、本当に小さな苔。灰色の石に張りつくようにして、かろうじて生きている緑の点。
「この子がいる。まだ生きている命がある」
アネットは苔に指先を触れた。今度は力を一点に集中する。公爵邸の枯れ木に花を咲かせたときのように。
緑の光が、苔を包んだ。
そして——小さな奇跡が起きた。
苔が広がった。石壁の割れ目を這うように、緑が少しずつ、少しずつ広がっていく。一センチ、二センチ。ほんのわずかだが、確かに命が息を吹き返している。
「荒地全体を一度に蘇らせるのは無理です。でも、生き残った命を起点にして、少しずつ広げていくことならできるかもしれません」
アネットは振り返って、ルシアンを見上げた。
「時間はかかります。でも——やらせてください」
ルシアンはアネットの目をまっすぐに見つめ返した。そこに迷いはなかった。
「お前がやると言うなら、俺は支える。それだけだ」
「……ありがとうございます」
学者は鼻を鳴らしたが、何も言わなかった。
苔の一点から始まる再生。気の遠くなるような作業だが、アネットの目には確かな光が宿っていた。
その夜、野営地のテントで。
「ルシアン様、お母様の庭も最初はこうだったんですよね」
「何がだ」
「荒地から始まった。お一人で、一本ずつ花を植えて。気が遠くなるような作業だったはずなのに」
ルシアンは天幕の布越しに、灰色の夜空を見上げた。
「……母なら、何と言っただろうな」
「きっと——『花を枯らさないで』って」
ルシアンは小さく笑った。今度は、はっきりとわかる笑顔だった。
「そうだな。あの人なら、そう言う」
枯れた大地に、ひとつの苔が息を吹き返した。
それはほんの小さな一歩だったが、アネットには確信があった。
この大地は、蘇る。




