第10話 これからも、ずっと
薔薇のアーチに、白薔薇が咲いた。
公爵邸に来て六週間。アネットが丹精込めて育てた白薔薇が、ようやく最初の花を開いたのだ。
「咲きましたよ、ルシアン様!」
朝一番に庭に出たアネットは、歓声を上げた。朝露に濡れた白薔薇は、朝日を受けて真珠のように輝いている。
「ああ——咲いたな」
ルシアンはアーチの下に立ち、花を見上げた。
その横顔に浮かんだ表情を、アネットは見逃さなかった。無表情の奥に潜んでいた——あまりにも深い感慨。
「お母様も、喜んでいらっしゃると思います」
「……そうだな」
ルシアンはしばらく白薔薇を見つめ、それからアネットに向き直った。
「アネット。今日の夜、ここに来い」
「夜?」
「日没後だ。庭に来い」
それだけ言って、ルシアンは屋敷に戻っていった。いつもより足取りが速いのは気のせいだろうか。
その日のアネットは、まったく落ち着かなかった。
庭仕事をしていても手元が狂い、温室で水やりをすれば鉢を倒しかけ、ルーシーとの会話もどこか上の空。
「アネット様、今日はどうされたんですか?」
「え? な、なんでもないわよ」
「お顔が赤いですよ」
「日焼けよ、日焼け」
「温室の中で?」
ルーシーのツッコミを聞き流しながら、アネットは日没を待った。
そして——夜。
庭に出たアネットは、息を呑んだ。
薔薇のアーチから続く小道に、無数の小さなランタンが灯されていた。温かなオレンジ色の光が、花壇の花々を幻想的に照らし出している。
噴水の水面には月が映り、月光花が静かに光を放っている。
まるで——夢の中の庭園。
「ルシアン、様……」
アーチの下に、ルシアンが立っていた。
いつもの黒い外套ではなく、白いシャツに深い紺色のベスト。整えられた漆黒の髪。そして——
その手に、小さな箱を持っている。
「来たか」
「……はい」
アネットはゆっくりとアーチに近づいた。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
「アネット。俺は口下手だ。気の利いた言葉は言えない」
「知っています」
「感情を表に出すのも苦手だ」
「それも知っています」
「だが——」
ルシアンは手の中の箱を開いた。
中には、銀色の指輪が入っていた。リングの中央に、小さな緑の石——翠玉石が嵌め込まれている。その石の中で、淡い光がゆらめいていた。まるで、アネットの緑命の力のように。
「月光花の蜜から精製した石だ。この庭で、お前が咲かせた花から生まれたもの」
「……っ」
「お前は六週間前、雨の中で倒れていた。行く宛もなく、誰にも必要とされていないと思い込んでいた」
ルシアンの銀灰色の瞳が、まっすぐにアネットを射抜く。
「俺も同じだった。この屋敷で十年、誰も必要とせず、誰にも必要とされず。——枯れた庭と同じだ。生きてはいたが、咲いてはいなかった」
アネットの目に涙が滲んだ。
「お前が来て、庭が咲いた。屋敷が変わった。——俺が、変わった」
ルシアンは膝をつかなかった。代わりに、まっすぐに立ったまま、アネットの目を見据えて言った。
「アネット・レイヴンクロフト。俺と——」
一度、言葉が詰まった。氷の公爵の仮面が、最後の抵抗を見せるかのように。
だが、ルシアンは自分の意志でそれを砕いた。
「俺と、夫婦になってくれ」
庭に静寂が落ちた。ランタンの光がゆらめき、月光花が柔らかく輝いている。
アネットは涙を流しながら——けれど、満面の笑みで答えた。
「はい。喜んで」
ルシアンの指が、アネットの左手の薬指に指輪を通した。その手が、かすかに震えていた。
「……サイズは合っているか」
「ぴったりです。いつ測ったんですか?」
「……クラウスが勝手にやった」
「嘘ですね。視線が右にずれました」
「……」
ルシアンはばつが悪そうに目を逸らした。その耳が真っ赤に染まっているのを見て、アネットはくすくすと笑った。
「ルシアン様——いえ、ルシアン」
「……なんだ」
「大好きです」
ルシアンの表情が、一瞬にして崩れた。
無表情でも、仏頂面でもない。ただ純粋に——嬉しそうな顔。
「……俺も、だ」
ぶっきらぼうな告白。でも、それがこの人らしくて。
アネットはルシアンの胸に額を預けた。大きな手が、おそるおそるアネットの背中に回される。
白薔薇のアーチの下で、二人はしばらくの間、ただ寄り添っていた。
庭の花々が祝福するように揺れ、月光花が一層明るく輝いた。
——これが、始まりだった。
二人がささやかな幸せを噛みしめていたその頃。
王都の宮殿では、ある会議が行われていた。
「陛下。ラヴロック公爵領にて、月光花が開花したとの報告がございます」
「月光花? あの伝説の——」
「はい。さらに、枯死したはずの希少薬草が多数蘇生しているとのこと。緑命の力を持つ者が、公爵邸にいる可能性が高いかと」
玉座に座る王は、深く考え込んだ。
「緑命の力——建国の聖女が持っていたとされる、失われし力か」
「さようにございます。もしこの力を王家の管理下に置くことができれば、荒廃した北方領土の再生も——」
「うむ。ラヴロック公爵に勅命を出せ」
王の言葉に、大臣が一礼する。
「公爵夫人候補となる女性——アネット・レイヴンクロフトの、王宮への出頭を命ずる」
幸せの傍らで、新たな嵐が静かに近づいていた。
——けれど、二人はきっと大丈夫だ。
だって、枯れた庭に花を咲かせた二人だ。
どんな嵐が来ても、また花を咲かせることができる。
これは、捨てられた令嬢と氷の公爵の——終わりではない。
物語は、ここからが本番だ。




