第9話 因果応報
社交界に激震が走ったのは、アネットが公爵邸に来て五週間目のことだった。
「アネット様、聞きました? ホルスト家のこと!」
ルーシーが新聞を片手に、興奮した様子で温室に駆け込んできた。
「ホルスト家の不正取引が正式に立件されたそうです! 当主のホルスト男爵は逮捕、爵位は剥奪。セレナ様も男爵令嬢の身分を失ったとか」
アネットは手を止めた。
「そう……」
「それだけじゃないんです! アルベルト様も——グランツ侯爵家も、ホルスト家の不正取引に一枚噛んでいたことが発覚して、王室から取り調べを受けているそうです」
「……アルベルト様が?」
「はい。ホルスト家との縁談は、不正取引の利益を分配するための政略結婚だったみたいで。アネット様を捨ててセレナ様を選んだのは、純粋にお金目当てだったってことですね」
アネットは複雑な気持ちで新聞に目を通した。確かに一面に、ホルスト家とグランツ家の不正が大きく報じられている。
「愛ではなかったのね。最初から」
「アネット様?」
「ううん、なんでもないわ」
悲しいかと問われれば、もう悲しくはない。怒りもない。ただ、五年間を費やした相手が、最初から最後まで自分を道具としか見ていなかった事実に、虚しさだけが残った。
昼食の席で、ルシアンがその話題を切り出した。
「グランツ家の件は聞いたか」
「ええ、ルーシーから」
「不正取引への関与が証明されれば、侯爵位の降格は免れない。社交界からも追放されるだろう」
ルシアンの声は淡々としていたが、どこか——してやったりという響きがなくもない。
「……ルシアン様。まさか、ホルスト家の告発に関わっていたりしませんよね?」
「俺は何もしていない」
嘘だ、とアネットは直感した。視線が右にずれている。
「本当に?」
「不正を知った以上、然るべき機関に報告するのは国民の義務だ」
「やっぱり関わっていたんですね」
「……義務を果たしただけだ」
アネットは呆れたように、でも少しだけ嬉しそうに笑った。この人は、アネットを傷つけた相手を——自分のやり方で、きちんと裁いてくれたのだ。
「ルシアン様。ありがとうございます、とは言いません」
「言わなくていい」
「でも——あの人たちのことは、もう気にしないでください。私は今が幸せですから」
ルシアンのフォークが皿の上で止まった。
「……今が?」
「はい。ここでの暮らしが。庭の手入れをして、温室で薬草を育てて、ルーシーやクラウスさんとお話しして——」
アネットはルシアンの目を見て、微笑んだ。
「ルシアン様と一緒にお食事をすることが、幸せです」
ルシアンは無言のまま、ゆっくりとフォークを置いた。
そして立ち上がり、アネットのそばまで来ると——
「今日の午後は庭に出るな」
「え?」
「温室にもだ。部屋にいろ」
「ど、どうしてですか?」
「いいから言う通りにしろ」
それだけ言って、ルシアンは足早に食堂を出ていった。
アネットは首を傾げたが、言われた通り部屋で過ごすことにした。窓から庭を見ると、ルシアンが——まさかの——庭に出ているのが見えた。
「……ルシアン様が庭仕事?」
ルシアンは慣れない手つきで何かを植えている。クラウスが横で指示を出しているが、明らかにぎこちない。
「何を……」
夕方になって庭に出る許可が下りたアネットは、ルシアンに言われた場所に向かった。
薔薇のアーチの傍らに、新しい花壇ができていた。小さな花壇だが、丁寧に土が盛られ、中央に——
「スズラン……」
白くて可憐なスズランの苗が、丁寧に植えられていた。
「母の好きだった花だ」
背後からルシアンの声がした。
「ずっと植えたいと思っていたが、俺が植えるとすぐに枯れた。だから——」
「私に育ててほしい?」
「……頼めるか」
アネットは膝をついて、スズランの苗に触れた。指先から緑の光が漏れ、小さな苗がふるりと葉を揺らす。
「もちろんです。大切に育てますね」
顔を上げると、ルシアンがじっとアネットを見下ろしていた。夕暮れの光に照らされた銀灰色の瞳は、いつもの冷たさが消えて、深い湖のように静かだった。
「アネット」
「はい」
「お前に渡したいものがある。——だが、今はまだ渡さない」
「?」
「準備ができたら渡す。それまで——」
ルシアンは視線を逸らした。耳が赤い。
「それまで、ここにいろ」
「はい。いますよ」
アネットは立ち上がって、そっとルシアンの手に自分の手を重ねた。泥と土にまみれた手。庭仕事をした証拠。
「ルシアン様の手、泥だらけですね」
「……悪いか」
「いいえ。とても——嬉しいです」
夕焼けに染まる庭で、二人は並んで立っていた。
手と手が触れ合う、たったそれだけのことが、アネットにはどんな宝石よりも尊く感じられた。




