第8話 社畜、稽古する
鳥の鳴き声が、どこか遠くから聞こえてきた。
まだ瞼が重く、意識の底は眠気の水面に沈んだままだったけど――外から聞こえてくる、規則正しい「シュッ、シュッ」という風を裂く音が、それをじわじわと引き戻していく。
目を開けると、天井の木の節が見えた。乾いた草の香りと、ほのかに焦げた匂いが鼻をかすめる。……ああ、そうか。ここは、昨日泊まらせてもらった村の小屋。洞窟で小鬼を倒して、帰ってきて――。
(……ほんとに、あれ全部、昨日のことか)
ぼんやりしたまま、天井を見つめる。けど、胸の上に乗ってる小さな重みが、現実を思い出させてくれた。
「……おはよう、な」
小さく呟くと、子ぎつねはぴくりと耳を動かしただけで、まだ眠っているようだった。白くてふわふわの毛皮に、二本の尻尾。小さな鼻先が、時折ふにっと動いている。俺の胸の上で、穏やかに息をしているその姿は、信じられないくらい無防備で、でも、妙に安心感があった。
(不思議だな……つい一昨日まで、ただの社畜だった俺が)
小さく息をつき、ゆっくりと体を起こす。子ぎつねはそのまま胸元に転がり込んできて、丸くなった。
気をつけながら上半身を起こして、隅の戸口から外を覗く。朝日が昇りかけていて、空はうっすらと朱色に染まりはじめていた。地面には露が降りて、草の先に小さな光の粒が揺れていた。
そして――見えた。
小屋の裏手、少し開けた空き地で、兵衛が太刀を振っていた。袴姿で背筋を伸ばし、正面に向かって一太刀ずつ、丁寧に。まるで呼吸するように、無駄のない動きで。
「……すげぇな」
思わず声が漏れた。
それは、昨日の戦いのときとはまた違う雰囲気だった。戦場での兵衛は獣のように速く、鋭く、容赦がなかった。でも今の兵衛は、静かで、厳かで、まるで何かと向き合っているように見えた。
(あの人は……積み重ねてきたんだ。長い時間をかけて)
俺はどうだ。昨日の戦いはすべて、“スキル”の補正ありきだった。熟練度が上がるたび、少しずつ扱いやすくはなっていく。でも、それはあくまで“数値”の話だ。
現実の兵衛の動きに、俺は追いつけなかった。何度も助けられた。小鬼に飛びかかられて、槍を弾かれて、背中を取られかけて――。俺が一人だったら、あの洞窟で死んでたかもしれない。
(今の俺は、まだ“借り物”の力でしか戦えてないんだ)
寝床をそっと抜け出し、まだ眠る子ぎつねを抱き上げる。あたたかな重さ。ちいさな命。その体を、俵山の上に置いてやると、子ぎつねはふにゃっと体を伸ばして、そのまま丸くなった。
俺は、扉を開けて、兵衛のもとへ向かった。
近づくにつれて、太刀の音が耳に鮮明に届く。振る、止める、構える――そのすべてが正確で、無駄がない。近づくのが申し訳なくなるほどに、静かな気迫があった。
「……爺」
その名を呼ぶと、動きが止まった。太刀を静かに下ろし、振り返る。
「若。お目覚めにございますか」
「うん……というか、すでに鍛錬中か。朝からすごいな」
「これが日常にございますゆえ。武士たるもの、己の刃を磨かぬ日など、ございませぬ」
(……そうだよな。これが、日常)
俺は一歩踏み出して、真っすぐ兵衛を見た。
「兵衛。俺に……稽古を付けてくれないか?」
一瞬、兵衛の目がわずかに細くなった。俺を値踏みするような視線。でも、すぐにふっと微笑み――いや、静かに認めるような目で俺を見た。
「承知仕った。若の覚悟、しかと受け取りました」
その言葉に、思わず胸の奥が熱くなる。
「槍を握られよ、若」
言われるままに、昨日使った槍を手に取る。柄は手にしっくり馴染み、きっと兵衛が夜のうちに手入れしてくれたのだろう。
俺は槍を構えようとして――そのまま固まった。
(……どうだったっけ、構え)
昨日の戦いでは、スキルが勝手に体を動かした。自分の意志で構えた感覚はなかった。
もう一度、ゆっくりと体を動かす。肩幅より少し広く足を開き、左足を半歩前へ。腰を落とし、両手で槍を前に。
「構えが浮いておりますな。腰、もうひと押し落としましょう。背筋はまっすぐ。首が……落ちとりますぞ」
言われた通りに修正すると、足腰にずしりと重みがのしかかった。静止するだけで、もう汗が滲む。
「よろしい。まずは“霧足”。霧を踏むがごとく、地を擦るように一歩を運びなされ」
足を前へ――だが足音が響いた。
「……音が立っております。霧は形を持たず、ただ揺らぐのみ。膝を抜き、足裏で地を撫でるように」
意識してやると、音は消えた。だが、外から見れば、ふらついているように見える。
兵衛がうなずく。
「それでよい。霧は揺らぎて掴めぬもの。安定した足であればこそ、外からは揺れて見えるのです」
次に兵衛が指示を飛ばす。
「“霞息”を合わせましょう。吸う息は胸に留め、吐くときは腹から細く。霞が風に漂うがごとく、長く静かに」
言われるままに息を吐くと、槍の穂先がぶれずに伸びた気がした。
「よろしい。では霧足と霞息を重ね、“霧突き”を試みられよ」
腰を沈め、息を吐き、足を擦り、槍を低く構える。そこから――跳ね上げるように突き出した。
だが穂先は大きく逸れた。
「違う。刃を揺らしてはならぬ。霧・霞のように揺らごうとも、芯はぶれぬもの」
(……なるほど。揺れるように見せつつ、実際は一本の芯を通す……!)
もう一度構え直す。足、息、腰、刃――そして突き。
スキルの動きと、今の自分の動きを重ね合わせ――ほんの一瞬、刃が思い描いた軌道をなぞった。
わずかに、刃が描く軌跡が霧のように揺れ、それでいて芯は外れなかった。
(……今のだ)
その手応えを忘れないように、すぐにもう一度。だが二度目は、呼吸が合わず崩れる。
(やっぱり、まだ遠い……でも、確かに近づいた)
右、左、踏み込み、返す――頭の中で繰り返し再生しながら、体を何度も動かす。
動くたびに、昨日は意識しなかった筋肉が悲鳴を上げる。だが同時に、ほんの少しずつ、スキルの軌跡が俺の筋肉に染みこんでいく感覚もあった。
「よろしい。今日の稽古は“霧足”と“霞息”に尽きます。外から見える型は霞の幻。足と息を掴んでこそ、いずれ刃は霧を割るのです」
兵衛はそれ以上、何も言わない。ただ、じっとこちらを見ている。
その沈黙は、試されているようで――でも不思議と、ありがたかった。
太陽が高くなり、体中から汗が噴き出す。腕も脚も痛い。けれど、心だけは、不思議と軽かった。
数度目の型を振ったとき、背後で「きゅうっ」と小さな鳴き声がした。
振り返ると、俵山の上で寝ていた子ぎつねが、いつの間にか起きていた。白くもふもふとした毛並みが朝の光に照らされて、ふわりと光っている。まだ少し痩せているが、その目はしっかりとこちらを見ていた。
「……起きたのか」
子ぎつねはちょこんと座り、しばらくこちらを眺めていたが、やがて小さく跳ねて地面に降りると、とことこと駆け寄ってきた。
「きゅっ」
槍を構え直した俺の足元にちょこんと座り、尻尾をふわふわと揺らしながら、まっすぐに見上げてくる。
(……なんだよ、応援か?)
小さく笑いがこみあげた。足の痛みも、腕のだるさも、一瞬だけ遠のいた気がした。
「悪いな、見ててくれよ。もうちょいマシになるからさ」
そう言って、もう一度槍を構える。さっきよりも、ほんの少しだけ動きがスムーズになる。
「……きゅっ」
どこか満足げに鳴いて、子ぎつねはまた尻尾を揺らした。
その光景を、少し離れた場所で兵衛が黙って見守っていた。何も言わないが、その目がわずかに和らいでいるように見えたのは――気のせいじゃなかったと思う。
太陽が頭上に昇り、蝉の声がどこかで鳴き始めていた。ひと通りの鍛錬を終えた俺は、槍を地面につき、膝に手をついて大きく息を吐いた。額から流れる汗が、顎をつたって地面に落ちる。
「はあ……っ、はあ……少しは……マシになったか?」
肩で息をしながら、兵衛の方を見やる。老人は腕を組み、まっすぐに俺を見据えていた。
「――使い物になるには程遠いが、意志は本物ですな」
その言葉に、思わず笑いがこぼれた。
「まだまだ、これからだって。俺なりに……前に進むよ」
【槍術スキルの熟練度が上昇しました】
そのときだった。
「……あの」
遠巻きに声がした。振り向くと、数人の子供たちが、木の陰からこちらをのぞきこんでいた。昨日の騒ぎを見ていたのか、それとも噂が広まっていたのか、みんな目をまん丸くしてこちらを見ている。
「ほんとに……お侍なんだ……」
ぽつりと呟くような声。
「昨日の小鬼、倒したんでしょ!? どうやって戦ったの? 聞かせて!」
無邪気な瞳が次々とこちらに集まる。戸惑っていると、兵衛が一歩前に出た。
「うむ、よいだろう。若の武勇、語って聞かせてしんぜよう」
「ちょ、爺……!」
「この霧村次郎殿――小鬼どもを相手に、見事な立ち回りであった。闇の洞窟にて一人、槍をもって挑み、見事に敵を撃ち果たしたのだ」
「おぉ~!」
「かっこいい~!」
子供たちが目を輝かせるなか、俺は苦笑いしかできなかった。
(いや、実際には兵衛の援護がなかったら、今ごろここにいなかっただろうけど……)
そんなとき、一人の小さな女の子が俺のそばに駆け寄ってきて、足元にいる子ぎつねを見て声を上げた。
「わあ、かわいい……このこ、どうしたの? お名前は?」
「……名前?」
聞かれて初めて、そのことを考えていなかったことに気づいた。確かに、何か呼び名がないと不便だ。
子ぎつねは「きゅっ」と鳴いて、子供の差し出した手の匂いをくんくんと嗅いでいる。その姿はどこか誇らしげで――まるで、これからも“俺のそばにいる”とでも言っているかのようだった。
「その前に……オスかメスか、だな」
しゃがみ込み、そっと子ぎつねの腹を持ち上げようとした――
「きゅっ!」
バシィッ!
小さな後ろ足が見事に俺の頬を蹴り飛ばした。予想外の衝撃に思わずのけぞる。
「いってぇ!?」
頬を押さえる俺を見て、兵衛がくつくつと笑う。
「若……おなごの扱いがなっておりませぬな」
「おな……ご?」
「はい。あれは間違いなく雌狐にございます。怒らせれば牙では済まぬやもしれませぬぞ」
子ぎつねは尻尾をふわりと揺らし、勝ち誇ったように金色の瞳で俺を見上げている。
「……先に言えよ、そういうことは」
兵衛は相変わらず楽しげに笑っていた。
(妖狐……二尾の狐。妖の血を引く、でも人を恐れず、俺についてきた)
この世界に来る前、俺が知っていた妖狐の名前――思い浮かぶのは、たった一つ。
「……玉藻」
ぽつりと、そう口にすると、子ぎつねがぴょんと跳ねた。
「きゅっ!」
「玉藻ちゃん……! いい名前!」
女の子が嬉しそうに笑う。それを見て、俺もふっと笑った。
(……まあ、悪くないか)
名前を持つことで、玉藻は“誰か”になった。
この旅の、小さな相棒として――ちゃんと、迎えられた気がした。
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