第39話 社畜、突入する
夜。橋場宿の裏手は、川沿いの湿気と夜気に包まれ、ひどく冷えていた。人通りはなく、虫の声さえ遠い。
俺たちは宿の裏口の陰に身を寄せる。闇の中、兵衛がすっと前に出て、物陰に潜んでいた見張りの口を押さえた。短い呻きが漏れると同時に、男の体が糸の切れたように崩れ落ちる。気配すら立てずに無力化するその手際は、もはや芸術だ。
裏口の戸を押し開け、暗い廊下へ足を踏み入れる。板の間は冷たく、遠くで風が軋む音がするだけ。誰の足音もなく、まるで宿全体が息を潜めているかのようだった。
目指すは突き当たり手前の、あの地味な板戸。昨夜は固く閉ざされていたはずのそれが、今夜は半ば開き、暗い口をぽっかりと開けていた。
(……誘ってやがる)
玉藻が肩で尾をぴんと立てる。
階段を下りると、地下の空気が頬を撫でた。薬草と焦げた香の入り混じった匂いが鼻を刺す。石壁に囲まれた調合所、その奥――
祭壇の前に、辰巳が立っていた。月明かりに似た灯が陣の縁をなぞり、黒い核が淡く脈動している。
「坊や、昨日はせっかく見逃してあげたのに……やっぱり来たのね」
紅い唇が歪み、視線がこちらをなぞる。
「それも――お友達を連れて」
九条が一歩前に出る。
「その祭壇の核は、魂を封じたものだな。最近、この核絡みの事件が何件も発生していた……お前が黒幕だな? 何が目的だ」
辰巳はゆっくり瞬きをし、扇子の骨を軽く鳴らした。
「ええ……あなたたちでしょう? さんざん魂集めを邪魔してくれたのは」
声には怒りではなく、愉悦の色が混じっている。
「計画が少し遅れたわ。――でも、もうすべてが整ったの」
九条の目が鋭く光る。
「計画とは何だ」
辰巳は小さく笑い、ふっと息を吐く。
「……あの夜、私が話したことを覚えているかしら。村一番の美人が奪われ、すべてを失った娘の話」
一瞬だけ紅い瞳が俺を射抜く。
「作り話だと思った? なら、それでよかった。でも――あれは私自身のこと」
空気がぴんと張り詰めた。
「領主の欲に弄ばれ、帰る村も焼かれ、妖に家族も友も奪われた。
その時悟ったの。この国の秩序は、弱き者を守らない――守る気すらない」
彼女の声は凍てつくように冷たく、それでいて燃える芯を孕んでいた。
「だから壊す。血も地位も関係ない、新しい法と秩序を作る。どんな人も、同じ旗の下で生きる世界を」
「そのためには、人々が古い世を見限り、絶望しなければならない。
この呼び水は、そのための号砲――そして、私が生き延びてきた意味なのよ」
次の瞬間、彼女の指が複雑な印を切った。床板に刻まれた薄い紋様が淡く光り始め、空気がぴんと張り詰める。
「下がれ!」九条が叫び、俺たちは同時に後退した。
――轟音。地の底から突き上げるような衝撃が町中に響き渡り、建物の柱がきしむ。
急いで外へ飛び出すと、夜空に異様な光景が広がっていた。町中の家々、通りを行く人々から、淡い光の粒がふわりと浮かび上がる。それらは糸を引くように空中で集まり、町の中心上空に巨大な渦を形作っていく。
「……魂を、吸い上げている……どうやってこんな……」
美弦が低く呟く。
闇の向こうから、艶やかでいて底冷えするような声が返ってきた。
「そんなの、簡単じゃない」
「これまで集めた魂を――呼び水にしてるだけ」
間を置き、ふっと笑う気配がする。
「ほら、“こっちへおいで”ってね」
ぞわりと、背筋を冷たいものが走った。渦を描きながら昇っていく魂の光が、まるで彼女の声に応えるかのように速さを増していく。
「何をする気だ」
俺が叫ぶと、辰巳の声は一層鮮明になり、夜気の中で響き渡った。
「――すべては、霊災と乱世を終わらせるためよ」
彼女の声は穏やかで、しかし底に鋼のような硬さを秘めていた。
「皆が平等に生きられる世界を作る。そのためには、旧き世の秩序を打ち砕かねばならない」
ゆっくりと一歩、また一歩と後ずさりしながら、辰巳の足元で複雑な術式の光が広がっていく。
「見せてあげるわ――新時代の幕開けを彩る、号砲を」
次の瞬間、町のあちこちから轟音が鳴り響いた。屋根瓦が震え、建具がきしみ、地面そのものが脈打つ。俺たちが戸口から飛び出すと――空は魂の光で満たされていた。
家々から、人々の身体から、淡い光が糸のように吸い上げられ、町の中空に渦を巻いて集まっていく。まるで夜空に新たな太陽が生まれようとしているかのように、その中心は眩く輝いていた。
吸い上げられる光は、美しいはずなのに、見ていると胸の奥がざらつく。怒り、憎しみ、悲しみ――その全てが凝縮された色をしていた。
「やめろ……! 何を呼び出す気だ!」
俺の声は、耳を裂く轟音の中に吸い込まれていく。
「国中の民が、目を覚ますのよ」
辰巳は振り返り、紅い唇で微笑んだ。
「妖の脅威には、今の世じゃ太刀打ちできない――そう思い知ればいい」
渦はさらに大きくなり、稲妻のような光が夜空を裂いた。
「その時こそ、我ら黒蓮の力が必要とされる」
「そして、新しい世を作るための礎となるのよ」
空が裂け、何か巨大な“影”が向こう側から覗いた。形を持たぬまま、それは恐怖と圧力だけを押し寄せさせてくる。
「そのために……どれだけの人を犠牲にするつもりだ!」
辰巳は一切揺るがず、ただ紅い瞳を細めて言った。
「何もわかっていないのね――これも必要な犠牲」
「これも、新しい世のため」
光渦の中心で、黒い核が一斉に脈打った。そのたび、足元の術式がまるで生き物のように震え、淡い光が脈動と同じリズムで広がっていく。町のあちこちから昏倒する音と悲鳴が混ざり、夜の空気がどんどん濃く、重くなる。
やがて渦の向こうから、無数の目のような光がこちらを見下ろした。形はまだ掴めない。だが、その存在だけで心臓が凍りつく――これは間違いなく、大妖怪だ。
次の瞬間、渦の中心から、耳を裂くような咆哮が響き渡った。
渦の中心で稲光が絡み合い、黒い裂け目がさらに大きく口を開けた。そこから、粘りつくような妖気が溢れ出し、肌にじりじりと焼けつく感覚が走る。空気は重く、息を吸うだけで胸が苦しくなった。
「……来るぞ!」
九条の鋭い声に、全員が即座に構えを取る。
裂け目から、先端だけ覗く巨大な腕――いや、腕と呼ぶにはあまりに異形なものが押し出される。鱗と骨が入り混じり、節の一つ一つが顔のように蠢き、目のない眼窩から黒煙が流れ出ている。腕がひと振りされただけで、周囲の屋根瓦が一斉に吹き飛んだ。
(……ステータス確認!)
意識を集中させ、視界に半透明のウィンドウを呼び出そうとする――しかし。
出ない。一切の情報が浮かび上がることはない。
(……ダメか)
額に冷たい汗が滲む。
「こんなのが完全に出てきたら……町どころか、周囲の村まで一晩で消えるぞ!」
俺は玉藻を肩から飛び降ろし、腰の符を抜き取る。
「ふふ……その通りよ、坊や」
裂け目の手前で、辰巳はまるで舞うような仕草で印を結び、長い袖を翻した。
「だからこそ、今――目覚めさせるの」
九条が疾風のように駆け出す。
「兵衛! 右から回り込め!」
「承知!」
兵衛は刀を抜き、裂け目を支える術式の外縁に切り込んだ。刃が触れた瞬間、術式が悲鳴のような音を立て、火花を散らす。
「くっ……厚いですな、この結界!」
兵衛が弾かれ、瓦礫の上に着地する。
俺は符を投げ、空中で燃やすように破る。炎が術式の一部を焦がし、渦がわずかに揺らいだ。だが、その隙間から、第二の腕がぬるりと伸びかけてくる。
「美弦!」
呼びかけに応じ、美弦が矢をつがえて放つ。矢尻に貼られた封符が命中と同時に炸裂し、腕の表皮がはじけ、黒煙が噴き出した。獣じみた咆哮が夜空を震わせる。
「……効いてる」
美弦が次の矢を番えながら低く呟く。
辰巳は眉ひとつ動かさず、さらに術式を加速させる。
「無駄よ。あなたたちの小細工で、この呼び水が止まるものですか」
その言葉と同時に、町中から吸い上げられていた魂の光が、一気に裂け目へと流れ込んだ。その圧力に、俺の耳はキンと鳴り、視界が白く霞む。
(……やばい、あと一歩で完全に出てくる!)
九条が俺の横に戻り、短く言う。
「総力で結界を裂く。三……二……一!」
俺は符を重ねて投げ、美弦の矢と兵衛の一閃が同時に結界を叩く。九条の掌底が術式の中心を突き、白と黒の光が激しくぶつかり合った。
――轟音とともに、裂け目の形がぐらりと歪む。
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