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第38話 社畜、核心に迫る

 夜半過ぎ。障子越しの月明かりがぼんやりと畳を照らし、部屋は息を潜めたように静まり返っていた。兵衛と九条の寝息が、暗がりの中で規則正しく重なる。俺は音を立てぬよう、布団からそっと身を起こした。


 (……さて行くか)


 肩の上の玉藻が、すぐに耳をぴくりと動かす。

 「声を出すなよ」と囁けば、尾を一度だけ振り、小さく「きゅ」と返した。


 襖をわずかに開け、廊下へ足を踏み出す。磨かれた板の間は夜気を含んでひんやりとしており、素足に冷たい感触が伝わる。灯は落ち、廊下は月明かりとわずかな行灯の明かりだけ。遠くで風が瓦を鳴らす音と、木が軋むような低い響きが混じっている。


 足音を殺しながら、廊下を突き当たりへと進む。昼間から気になっていた――客間でも台所でもない位置にぽつんとある、一枚の地味な板戸。ただそこにあるだけなのに、妙に空気が張り詰めているように感じる。


 俺は足音を殺しながら近づき、日中に見た辰巳の仕草を思い出す。

 ――扇子の先で軽く枠を叩く。その回数、間隔、力加減。頭の中で反芻し、同じ動きを指先で真似る。板戸の冷たい感触が指に伝わり、軽く二度、間を置いて一度叩いた。


 ……何も起きない。耳を澄ませても、中から人の気配は感じられなかった。


 (……やっぱり、そう簡単にはいかねぇか)


 そのとき、玉藻が鼻先を戸の下へ近づけ、くんくんと短く嗅いだ。耳がぴくりと動き、次の瞬間、小さな前足で板戸の下部を二度、軽く引っかく。すると――かすかに、内部から空気が漏れる音がした。甘く、それでいて鼻腔の奥をくすぐるような薬臭さが、細い線のように流れ込んでくる。それは昼間、廊下で嗅いだ香りと同じものだった。


 やや遅れて、金属がこすれるような音。

 ――カチリ。鍵の外れる音が、闇に溶けるほど小さく響いた。


 玉藻は俺を見上げ、瞳を細めて一度だけ尻尾を振る。

 (入れ、ってことだな)


 ごくりと喉を鳴らし、俺はゆっくりと戸に手をかけた。指先に伝わる木の冷たさが、妙に現実感を帯びていた。


 戸はわずかな抵抗を見せた後、きしみを殺すように静かに開いた。中から流れ込む空気はさらに濃く、甘さと薬草の香りが胸の奥をじんと刺す。


 そこは、思っていたよりもずっと暗かった。しかし足元から奥へと続く石の階段が、うっすらと光を帯びている。階段の下方――壁に嵌められた格子窓から、ぼんやりとした灯りが差し込んでいた。


 (……この光景、前にも見た)

 あの時、探査術で垣間見た映像が脳裏によみがえる。


 玉藻が先に一段降り、振り返って俺をじっと見上げる。

 「行け」と言わんばかりの金色の瞳に、俺は深く息を吸った。




 戸をそっと押し開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。そこは昼間の宿の喧騒からは想像もつかない、静まり返った空間だった。


 格子窓から差し込む月明かりが、石造りの階段を白く照らしている。


 (……この光景、前にも見た)

 あの時、探査術で垣間見た映像が脳裏によみがえる。格子窓、それに石階段。


 階段は地下へと続き、その奥からはかすかに薬草を煮る匂いと、焦げたような香りが混じり合って流れてきた。甘く、そしてどこか鼻腔を刺す薬臭――昼間廊下で嗅いだものと同じだ。


 玉藻が肩の上で耳を立て、尻尾をゆるく揺らす。俺は足を忍ばせ、階段を下りた。


 地下は石壁に囲まれた調合所になっていた。棚には乾燥させた薬草や鉱石が整然と並び、奥の机では辰巳が背を向けて符と薬瓶を仕分けている。机の上には、符の束と、細長い木箱がいくつも積まれていた。


 そこで俺の目は止まった。

 ――木箱の蓋の隅に、涙型のような焼き跡が押されている。よく見ると先端が尖り、根元に小さな切れ込みがある。まるで、何かの花弁の形をそのまま焼き付けたような跡だった。焦げた部分は黒く沈み、近くに立つだけでほのかに炭の匂いが漂う。


 辰巳はその木箱をひとつ開け、中から細長い陶器瓶を取り出す。符の端にも同じ焼き跡が押されていた。それを見た瞬間、背筋にひやりとしたものが走る。

 (……偶然じゃない。同じ印だ)


 ふと視線を奥へ向けたとき、石壁のさらに奥まった空間に、奇妙なものが目に入った。祭壇――いや、それはもっと異様な形をしていた。黒光りする石板に複雑な紋様が彫り込まれ、そこにいくつもの黒い核がはめ込まれている。中央には核を囲むように、歪んだ円と幾何学模様が重なり合い、淡く赤い光を放っていた。紋様の一部は呼吸するように脈動し、まるでその場に生き物が潜んでいるかのようだ。


 (……これは、儀式陣か?)

 見たことのない構造だったが、直感でわかった――核を媒介に何かを呼び出すためのものだ。


 「……あれは、何に使うんだ?」

 思わず口から漏れた問い。


 その瞬間、玉藻が小さく「きゅ」と鳴き、背後から、ごくかすかな衣擦れの音が迫る――


 「坊や、夜は肌に毒だって言ったでしょう?」


 甘い声がすぐ耳元で響いた。振り返ると、そこにはもう辰巳が立っていた。さっきまで机にいたはずなのに――距離が、一瞬で詰まっている。


 心臓が、ひとつ遅れて跳ねた。寒さではない震えが、足の先から這い上がってくる。


 「……道に迷って、降りてきただけだ」

 舌の奥が少し乾き、声がわずかに掠れた。


 辰巳はゆるく首を傾け、紅い唇に笑みを浮かべる。

 「へぇ……道に迷って、鍵がかけられた部屋に入ってくるのね」

 その声音は甘く、けれど棘を隠そうともしない。


 俺は何か言い返そうと口を開きかけたが、辰巳はそれを許さなかった。紅の着物の裾をふわりと揺らし、一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。石壁に反射した灯火が、彼女の瞳にゆらめく炎を映した。


 「――そんなに知りたいの? わたくしの“秘密”」

 吐息が肌をかすめるほどの距離。玉藻が俺の肩で身を固くし、尻尾がぴんと立った。


 「坊やは可愛い顔をして、案外しぶといのね。普通なら、あの祭壇を見た時点で足が竦むものよ」

 言葉は笑っているのに、瞳の奥には温度がなかった。まるで獲物を値踏みするように、俺の全身を静かに舐めるような視線。


 「でも――もう何を探っても無駄よ」

 紅の唇がゆっくりと歪み、囁きが降りる。

 「すべて終わっているもの。……すぐに見せてあげるから、楽しみにしていて」


 囁きの余韻を残したまま、辰巳は俺からわずかに距離を取った。その仕草は、獲物を締め上げる直前にわざと逃がす捕食者のようだ。


 「今夜は特別に見逃してあげる。――坊やが、このことを口外しないなら」


 甘い香と薬臭さが混じった空気の中で、彼女の瞳だけが鋭く光る。その視線は、「覚えておきなさい」という無言の印を焼き付けてくるようだった。


 「ねぇ、夜は冷えるわ。早くお部屋に戻って、布団にくるまることね」

 まるで何事もなかったかのように、辰巳は背を向ける。袖口からのぞく白い指が、机の上の符をひらりとひとつ摘み上げた。それは軽く揺れて――まるで「次はない」と告げる合図のように見えた。


 玉藻が肩で小さく「きゅ」と鳴く。俺は息を詰めたまま、何も言わず石階段を引き返した。背後で、戸が音もなく閉じる。


 (……泳がされた、か)

 足の裏から冷たさが這い上がり、背筋を撫でていった。




 翌朝。辰巳屋の朝餉を終えたあと、俺たちは人通りの少ない裏路地に集まった。表は朝市で賑わっているが、この路地はまだ影の中だ。薄暗く、屋根瓦の上を渡る風がひゅうと鳴っている。


 「昨夜のことだが……」

 俺は低く切り出した。

 「例の板戸の奥に入った」


 美弦が驚き混じりに眉を上げる。

 「行ったの? で?」


 「格子窓と石の階段……探査術で見た部屋そのものだった。石階段を下りた地下には、棚一面に薬草や鉱石が並んでて、辰巳は符と薬を組み合わせて何かを調合してた」

 九条が顎に手を当て、短く「ふむ」と呟く。兵衛は腕を組んだまま、表情を動かさない。


 俺は一拍置き、声をさらに落として続けた。

 「……だが、それだけじゃない。さらに部屋の奥に、祭壇があった。黒い核がいくつもはめ込まれた台座で、床一面には複雑な陣が刻まれていた」


 その瞬間、兵衛の目が細く鋭くなった。

 「魂入りの核……やはり、何かしでかす気ですかな」

 美弦はわずかに息を呑み、霧丸が低く「ぐる」と鳴いた。


 俺は昨日の光景を思い返しながら、さらに言葉を重ねる。

 「辰巳は、それを見た俺にこう言った――“もうすべて終わっている。探っても無駄。すぐに見せてあげるから楽しみにしていて”」


 あの笑みと声音が、まだ耳にこびりついて離れない。何が起こるかは分からない。だが、あの口ぶりからして、もう一刻の猶予もないことだけは確かだった。胸の奥に重い石を押し込まれたような圧迫感が広がる。


 「……待ってりゃ向こうの思うツボってわけね」

 美弦が低く吐き捨てる。

 「それに、“見せる”なんて言い方……ただの脅しじゃなさそうだ」


 九条は短く頷き、視線を全員に巡らせる。

 「なら、こちらも動くしかあるまい。今夜――全員で再突入だ。辰巳の腹の内、全て引きずり出す」


 俺たちは顔を合わせうなずいた。


 玉藻が肩で小さく「きゅ」と鳴き、尾を一度だけ振った。その仕草はまるで、「今度は絶対に逃がすな」と告げているようだった。

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