第37話 社畜、調査する
月明かりが障子を淡く照らす。吐く息は白くないが、夜の空気は昼よりもずっと冷たく感じられた。
(……今しかないな)
兵衛と九条の寝息を確認し、音を立てないように身を起こす。畳の感触を踏みしめ、一歩ずつ襖へと近づく。肩の上で、玉藻が「きゅ」と小さく鳴いた。
「声を出すなよ」
囁くと、玉藻は尻尾を一度だけ振り、前足を俺の肩に置いたまま静かになる。
廊下は昼間よりも広く感じられた。磨き込まれた板の間が月光を鈍く反射し、壁にかかる灯はすでに落とされている。足音を殺し、耳だけを研ぎ澄ませる――遠くで、かすかな水音。
(……裏手の湯殿か? こんな時間に?)
足を向けかけたその時、下の階からわずかな声が漏れてきた。囁き声、しかし抑えた響きではない。確かに誰かが話している。
階段の手前でしゃがみ込み、手摺の隙間からそっと覗く。帳場の明かりがぼんやりと灯り、その前に――辰巳が立っていた。紅の着物の裾が月明かりに揺れ、彼女は何かを机上に並べている。白い指先が符のようなものを滑らせ、一枚ずつ別の束へと分けていく。
(……符? なんで旅籠の女将がそんなものを……)
玉藻の耳がぴくりと動いた。同時に、階段の奥から別の影が現れる。背の高い男――顔は見えないが、肩から下げた刀と、足取りの静かさがただ者ではないと告げていた。
辰巳はその男に何かを囁き、符の束を手渡す。男は無言でそれを受け取り、裏口の方へ消えていった。
(……やっぱり、普通の宿じゃない)
しかし、その瞬間――
「坊や、夜更かしは肌に毒よ」
背後から甘い声がした。
心臓が一気に跳ね上がる。振り返れば、すぐ後ろに辰巳が立っていた。さっきまで帳場にいたはずなのに、距離が一瞬で詰まっている。
「……廊下を散歩してただけだ」
「ふふ、そう。……じゃあ、おやすみなさい」
それだけ言って、彼女は俺の肩に軽く触れ、すれ違って部屋へと戻っていった。甘い香りが、いつまでも鼻に残って離れなかった。
部屋に戻り、襖をそっと閉める。玉藻は俺の肩から軽やかに飛び降り、そのまま窓際へすたすた歩いていった。格子の隙間から外を覗き、耳をぴくぴくと動かす。夜気と一緒に、かすかな香木の匂いと遠くの太鼓の音が流れ込んだ。
「……見ただろ、さっきの」
俺が低く問いかけると、玉藻は窓の外を見たまま「きゅ」と短く鳴いた。尻尾が一度だけしなやかに揺れ、視線がこちらに向く。
(ああ、“見た”って意味だな)
「符だ。しかも、ただの飾りじゃない……あれは使えるやつだ」
玉藻はそこでくるりと振り返り、真っすぐ俺の目を見る。瞳が細まり、首がほんのわずかに縦に揺れた。
(……間違いないって顔してる)
畳に腰を下ろすと、玉藻が音もなく近づいてきた。前足で俺の膝を二回、軽く叩き――すぐ爪先を部屋の外へ向ける。
「今は外に気を向けろ」って言ってるようだ。
「……今は動くなってことか?」
「きゅ」
短い鳴き声と同時に、玉藻は顔をそむけ、毛繕いを始めた。けれど耳だけは俺の方を向けたままだ。
(肯定だな……やっぱこいつ、人の話わかってる)
「泳がせろってか。でも、今夜あの符の使い道がわかれば――」
そう言いかけた瞬間、玉藻は毛繕いをやめ、俺の足の甲を前足でちょんと突いた。そして小さく首を横に振る。
「……きゅ」
(ダメ、ってことか)
しばらく見つめ合う。玉藻の金色の瞳は、妙に人間くさい意思を帯びていて、俺の中の熱を冷ますように揺れていた。
「……わかった。今は何もせず、明日以降に仕掛ける」
「きゅぅ」
少し長めの鳴き声とともに、玉藻は尻尾をゆるく振った。そのまま俺の膝に飛び乗り、くるりと丸くなる。体温がじんわりと伝わり、心臓の鼓動まで落ち着いていく。
「……お前がそう言うなら、そうするさ」
返事の代わりに、玉藻は鼻先で俺の手の甲を小さく押した。まるで「いい子だ」とでも言っているみたいに。
外では虫の声が静かに続き、風が瓦をなでていく。俺は玉藻の温もりを膝に感じながら、天井の木目を見つめた。明日の夜、この女将の化けの皮を一枚剥がす――そう決めて、目を閉じた。
翌朝、まだ宿場町の通りが本格的に賑わう前、俺たちは辰巳屋から少し離れた路地裏で美弦と霧丸と合流した。朝の空気は冷たく澄み、屋根瓦の上を渡る風が、昨夜の余韻を一気に吹き払っていくようだった。
「おう、おつかれ」
声をかけると、美弦は軽く手を上げただけで、まずは九条の方を見やった。
「裏口、夜半に二度、客の出入りあり。どちらも男。ひとりは役人風、もうひとりは……刀を帯びた武士」
霧丸はその横で「ぐる」と短く鳴く。美弦が通訳するように続ける。
「どっちも帰るときは妙に足取りが軽かったって」
「ほう……それは情報として覚えておこう」
九条は腕を組み、何やら思案顔になる。
と、その横で、美弦が俺をじろりと見た。
「……で、あんたは? 昨夜は女将と一緒の部屋にいたんでしょ?」
「いや、兵衛も九条卿もいたって」
「そういう意味じゃないの」
美弦は口の端を上げて、やけに含みのある目つきをする。
「鼻の下、伸ばしてなかった?」
「の、伸ばしてねぇよ!」
慌てて否定する俺に、霧丸がちらりと顔を向け、「ぐるっ」と一声。美弦はそれを聞くなり、肩を揺らして笑った。
「ほら、霧丸もそう言ってる」
「待て、それ翻訳間違ってるだろ! 今のはたぶん“違う”って――」
「はいはい」
完全に流され、俺は唇を噛むしかなかった。
九条が小さく咳払いをし、場を締め直す。
「女将の素性はまだ掴みきれぬ。だが今のところ、辰巳屋は“夜の顔”を隠していると見ていいだろう」
打ち合わせを終えると、九条は簡潔に指示を出した。
「昼間は表立って動く。桐生殿、霧丸は引き続き外から。俺と兵衛は町で情報を拾う。霧村殿は……」
「俺は?」
「辰巳屋の中だ。客として振る舞いながら、女将や従業員の動きを見ておけ」
(つまり、スパイの真似事か……)
会社時代はオフィスの噂を聞き出すぐらいが関の山だったけど、今は本物の“現場”だ。気を抜けばすぐ足がつくかもしれない緊張感が、逆に胃の奥を妙に冷たくする。
美弦は肩をすくめ、軽く手を振った。
「じゃ、あんたが鼻の下伸ばしてる間に、こっちはちゃんと仕事するわ」
「誰が伸ばすか!」
霧丸はそれを聞いて「ぐる」と低く鳴き、尻尾を揺らす。
(……絶対、からかってる)
午前中、辰巳屋の一階は一見、穏やかな宿の顔をしていた。帳場では若い女中が宿帳をめくり、裏方では年配の下働きが桶を運び、廊下を行き交う。けれど時折、客室の襖が静かに開き、中から豪奢な着物を着た男が現れる。その表情はやけに満ち足りていて、足取りも軽い。
(昨夜、美弦が言ってた“妙に火照った顔”って、これか……)
女将・辰巳はほとんど帳場には姿を見せない。たまに現れたかと思えば、ゆるりと客間へ向かい、しばらくしてから静かに戻ってくる。廊下を通るその後ろ姿には、客や従業員までもが自然と距離を取る。まるでそこだけ空気が違うような――濃くて甘い匂いの層に包まれているようだった。
俺は廊下の端の縁側に腰を下ろし、何気ないふりをしながらその様子を目で追った。
(……やっぱ、ただの宿屋じゃないな)
俺は湯呑を手にしたまま、縁側から廊下の奥をちらりと見やる。辰巳は客間から出ると、決まって同じ方向へ歩いていく。突き当たりの手前――一枚の地味な板戸。その先は客間でも台所でもなさそうな位置だ。
(……あの扉だな)
女将は戸の前で一度周囲を見回し、扇子の先で軽く枠を叩く。すると、かすかに中から鍵の外れる音がして、ゆっくりと戸が開く。中の様子は覗けなかったが、立ちこめた香が一瞬だけ廊下へ流れ出た。甘く、それでいて薬臭さの混じる、不思議な匂い。
辰巳は中に姿を消すと、長い時をかけて戻ってくる。その顔には、客間で見せる柔らかな笑みとは違う――もっと冷たく澄んだ表情があった。
(裏の仕事場か……それとも、もっと別の)
湯呑の中身を飲み干し、何事もなかったように立ち上がる。玉藻が肩で「きゅ」と短く鳴き、同じ匂いを感じ取ったのか、小さく尻尾を揺らした。
夕刻、辰巳屋近くの裏路地。人通りの少ない藍染屋の軒先で、俺たちは九条と兵衛と再び顔を合わせた。
美弦が低く告げる。
「裏から出たのは三人。商人が二人と、刀持ちが一人。全員、町の奥へ消えたわ」
霧丸が「ぐるっ」と短く鳴く。
「……あと、馬が一頭、裏の柵に繋がれてたらしい」
九条は腕を組み、視線を落とす。
「動きが多いな。夜だけでなく、昼間も何かを運び入れているかもしれん」
俺も口を開く。
「店の中で辰巳はほとんど姿を見せなかった。けど、豪華な服を着た男が何人か、妙に火照った顔で帰っていった」
九条が視線を向ける。
「続けろ」
「女将が必ず出入りする扉がある。客間でも台所でもない。叩くと中から鍵が開く。……中からは甘くて薬臭い匂いがした」
九条は顎に手を当てた。
「……薬臭い、か」
兵衛は目を細め、「調合所か、儀式場の類かもしれん」と低く呟く。
「間違いなく、あそこが拠点だ」
玉藻が「きゅっ」と鳴き、同意するように尻尾を揺らす。
九条が淡々と告げた。
「辰巳屋に出入りする商人は、町の口入屋を通していない。すべて直取引だ」
「直取引?」
「宿場町では、口入屋や問屋を経由するのが通例だ。だが辰巳屋はそれを避けている。普通の宿屋ではあり得ん」
九条の声は冷ややかだ。
「しかも運び込まれる荷は、帳簿にも記録がない」
兵衛が続ける。
「表の噂じゃ、辰巳屋は“上客”ばかり泊めているそうでな。商人でも役人でも、裏の太い筋を持つ連中ばかり。しかも泊まった翌日には、妙に懐が軽くなって帰っていくとか」
美弦が片眉を上げる。
「懐が軽く……ね。何か買わされたのか、抜かれたのか」
「どっちもだろうな」
俺は息を吐く。昼間見た、火照った客の顔が脳裏によぎった。
(……色香で誘って、財布も情報も抜く。そんなところか)
九条は結論を下すように言った。
「辰巳屋を動かしているのは表向き女将ひとりだが……背後に何者かがいる可能性が高い」
その言葉に、胸の奥のざらつきが一段と強くなる。何かがここで動いている――しかも、この町の表の仕組みをすり抜ける形で。
俺は腰の刀に手をやり、短く告げた。
「だったら今夜――俺があの扉の向こうを見に行く」
美弦が眉を上げる。
「……ひとりで?」
「ひとりのほうが足もつきにくい」
九条はしばし目を閉じ、考える素振りを見せたのち、静かに頷いた。
「わかった。もう一泊して様子を見るとしよう」
「ただし、戻らぬ時は――」
「わかってる」俺は言葉を遮った。
玉藻が肩の上で小さく鳴く。その金色の瞳は、「今夜だ」と言っているように見えた。
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