第36話 社畜、再会する
夕闇が宿場町を包み始める頃、俺たちは表通りを抜け、辰巳屋の暖簾の前に立った。二階建ての木造、格子窓からは柔らかな灯が漏れ、暖簾には「辰巳」の染め抜き文字。通りに面しているせいか、出入りする客の姿もちらほら見える。
「桐生殿、霧丸――お前たちは外だ。裏口や出入り口を監視して、怪しい動きがあればすぐ知らせろ」
「了解。」
美弦は短く頷き、周囲の路地を素早く見回した。
「変なとこに首突っ込まないでよ」
その言い方が妙に引っかかったが、反論する間もなく、美弦は霧丸を伴って裏手の方へと消えていく。
霧丸は角を曲がる直前、一度だけ振り返り、低く「ぐる」と喉を鳴らした。
(……了解ってことか)
「さて……堂々と入るぞ」
九条の低い声に頷き、俺たちは暖簾をくぐり、辰巳屋の中へ足を踏み入れた。
竹鈴の澄んだ音が、ほんの一瞬、外界と内側を切り離す。板の間に進んだその瞬間――奥からすっと現れた女の姿に、俺の足は止まった。
「……あら」
艶やかな紅の着物、腰まで届く黒髪をゆるく結い、白粉の香りを纏った女が、こちらへ微笑みを向ける。唇が柔らかく弧を描き、俺の顔をじっと見つめた。
「どこかで会ったわね、坊や」
その声は、柔らかいのにどこか掴み所がない。次の瞬間、彼女の瞳がわずかに細まり――
「そうそう、“またね”って言ったわよね。……現実になったじゃない」
胸の奥に、妙な感覚が走る。既視感――いや、これは確かに知っている。雑踏の中で漂った甘い香り、袖がかすめた瞬間、扇子の端で肩を軽く叩かれた感触。そして、唇だけで告げられた「またね」。
橋場宿で、お上りさんみたいに市場をうろついていた自分。あの艶やかな着物姿、金のかんざし、袖口から香った甘い匂い――全部が一瞬で蘇る。
「えっと……」
言葉を探す俺に、女将は首を少し傾け、目尻を細める。
「……ふふ、覚えていてくれて嬉しいわ。坊や、名前は?」
(……色気が過ぎる)
胸の奥でざらつく感覚を押し殺し、俺は視線を外しながら名乗った。
――――――――――
名前:辰巳
年齢:21歳
称号:女将(辰巳屋)
流派:
《スキル》
・陰陽術 :【皆伝】★★★★★☆☆☆☆☆(18,554 / 20,000)
・呪術 :【皆伝】★★★★★☆☆☆☆☆(11,230 / 20,000)
・交渉術 :【皆伝】★★★★★☆☆☆☆☆(10,890 / 20,000)
・魅惑術 :【中伝】★★★★☆☆☆☆☆☆(8,920 / 10,000)
・謀略術 :【修練】★★★☆☆☆☆☆☆☆(4,546 / 5,000)
・薬術 :【中伝】★★★★☆☆☆☆☆☆(7,903 / 10,000)
――――――――――
――そして、浮かんだのは陰陽術と呪術に優れたステータス。やはり、この女……ただの宿の女将じゃない。
九条が一歩前に出て、涼やかな声で告げる。
「今宵は三人と一匹、お世話になる。二間、隣同士を用意してくれ」
「まあ……“一匹”まで数えるお客様は初めて」
女将の視線が玉藻を撫でる。玉藻は小首を傾げ、金色の瞳でじっと返す。
「それでは――」
女将はゆったりと振り返り、廊下へと歩き出した。腰のあたりで結ばれた帯が揺れ、その動きに合わせて黒髪がさらりと流れる。後ろを歩く俺は、無意識にその動きに目を奪われ――すぐさま「いやいやいや」と首を振った。
(社畜だった頃、こんな色香むんむんの職場環境なんてなかったぞ……)
廊下は丁寧に磨かれ、板の間から仄かに香木の匂いが漂っていた。女将の草履の音が、ゆったりと響く。
「こちらですわ」
突き当たりで彼女が立ち止まり、襖をすっと開ける。
中は六畳ほどの和室。新しい畳の香りと、格子窓から差し込む夕陽が、赤と金の光を床に描いている。
「お湯は裏手の湯殿をご自由に。夕餉は酉の刻にお持ちしますわ」
女将は扇子を閉じ、艶やかに一礼すると、静かに襖を閉めた。
残された俺たちは、しばし無言。九条は表情ひとつ変えずに荷を下ろし、兵衛はわずかに眉をひそめていた。俺は……心臓の鼓動がまだ早いままだった。
「……妙に落ち着かん女ですな」
兵衛が低く呟く。
「落ち着かん?」
「色香もそうですが……何かを隠しておる顔だ」
胸の奥がざわつく。あの視線や立ち居振る舞い、全部が計算のうちってことか。
九条は、小さく頷いた。
「確かめる必要があるな。夕餉までに準備を整えろ」
俺たちはそれぞれ荷を解きながら、今夜の腹の探り合いに備えることにした。
酉の刻――
襖がすっと開き、香の甘い匂いと共に辰巳が現れた。手には漆塗りの膳。湯気の立つ鍋、焼き魚、香の物。並べられるたび、部屋の空気がゆっくり満たされていく。
「口に合えばよいのだけれど」
辰巳は俺の正面に膝をつき、箸を揃えて差し出す。その距離が近い。わずかに袖口が触れそうになり、胸元からほのかな白粉と花の香りが流れてくる。
(……近いって。ていうか目線、妙に絡めてくるな)
九条は箸を受け取りつつ、まるで感情を挟まぬような声で言う。
「立派なもてなしだ。だが、これほどの品数を出せる宿はそう多くはないだろう」
「ええ。ここは特別なお客様ばかりですから」
辰巳は笑みを崩さない。だが、その瞳の奥にわずかな光が走る。
兵衛は酒の徳利を手に取り、平然と酌を受けながらも口を開いた。
「“特別”とは、腕の立つ旅人か、それとも懐の暖かい者か」
辰巳は小首を傾げ、意味ありげに俺へ視線を送る。
「……どちらも、かしら」
(おい、なんで俺を見る)
九条が間髪入れず口を挟む。
「女将の目は鋭い。客の素性も、腕も、よく見抜けると聞く」
「ええ、それが商売ですもの」
辰巳は扇子を軽く打ち合わせ、柔らかく笑った。だが、その笑顔の奥にある温度は、まるで計算で冷やされているように見えた。
辰巳が湯呑に茶を注ぎ、俺の前に置く。
「旅の話を、聞かせてくださる?」
その声音は優しいのに、耳の奥にわずかな圧を感じさせた。
(……やっぱり、探ってる)
俺は茶の湯気越しに、九条と兵衛の表情を盗み見た。二人ともわずかに頷く――これは油断するな、という合図だった。
「旅の話?」
俺は茶を一口含み、わざとゆっくりと置いた。
「そうだな……その前に、女将さんの話も聞かせてほしい」
辰巳は微笑みを崩さず、扇子で口元を軽く隠した。
「わたくしの話なんて、退屈よ」
「いや、そうでもないだろう」
俺は視線を合わせる。
「この町の表通りで、若い女性が旅籠を切り盛りしてるなんて、珍しい話だ」
九条が淡々と味噌汁をすくいながら言葉を添える。
「資金力、仕入れ先、信用――いずれも簡単には揃わぬものだ」
「ふふ……お二人とも、まるで役人の詰問みたい」
辰巳はさらりと笑い飛ばした。声も所作も、どこまでも艶やかで、間に棘は感じられない。
兵衛が酒を一口あおり、軽く笑う。
「若い女が、この宿場でこれほどの旅籠を切り盛りするとは……並大抵ではござらん」
「偶然よ」
その返しは一拍の迷いもなく、あまりにも自然だった。
「偶然にしては出来すぎている」
俺はわざと軽く挑発するように言った。
辰巳は目を細め、扇子をぱたりと閉じた。
「……しょうがないわね」
ふっと笑みを薄め、膝をわずかに崩すと、静かな声で語り始めた。
「あるところに、一人の少女がいたの。村一番の美人でね」
「あるとき、それを聞きつけた隣領の殿様が、少女をさらいに来たのよ」
室内の空気が、ゆっくりと重く沈む。茶碗を持つ手の温度さえ、少し下がった気がした。
「戦になったわ。でも隣領の方が強かった。地元の殿様は討たれ、少女は館へ連れて行かれた…その先は、言わなくてもわかるでしょう?」
彼女の視線が、一瞬だけ俺の目を射抜く。背筋の奥に、かすかな冷気が走った。
「精も痕も尽き果てたころ、ようやく解放されたの。でもね、村に戻ったら…何も残ってなかったの。妖が襲ったんですって」
「少女はすべてを失った。けれど、世の中の理不尽に抗うことを決めたの。そのためなら、なんでもしたわ。一歩一歩進んで――今じゃ、こんな旅籠の女将にまで上り詰めたってわけ」
言い終えると、膳の上に小さく息を吐き、薄く笑った。
「おしまい」
沈黙。部屋の外から、遠く鍋の煮える音がかすかに聞こえる。
「……」
俺が口を開こうとした瞬間、辰巳は扇子で口元を隠し、軽く肩を揺らした。
「あらやだ、作り話よ。真に受けないで」
その笑顔は、さっきの話が冗談だったのか、本当だったのか、一切の手掛かりを残さない。
「ねぇ坊や、あんまり詮索ばかりしてると、せっかくの夕餉が冷めてしまうわ」
にこりと笑い、膳の一品を俺の前へ押し出す。
気がつけば、九条も兵衛も言葉を飲み込み、場の空気は完全に辰巳のものになっていた。
(……くそ、流れを持ってかれた)
女将は涼しい顔で箸を進め、話題を旅の土産話や町の噂へと巧みに誘導していく。結局、核心には一歩も近づけないまま、夜は静かに更けていった――。
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