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第32話 社畜、シークレットサービスになる

 翌朝――。

 橋場宿の町並みは、いつも通りのざわめきに包まれていた。行き交う行商人の掛け声、荷車の車輪が石畳を擦る音、通りに漂う煮売屋の味噌と焼き魚の匂い。


 だが、その賑わいの真ん中で、俺たちは張り詰めた糸の上を歩くように動いていた。


 九条は白布に包んだ“核”を懐に忍ばせ、何食わぬ顔で露店の前を通り過ぎる。その一歩後ろ、兵衛と俺が位置を取り、視線を絶やさず周囲を監視する。霧丸は道の向こうを悠々と歩きながら、通行人の足元や路地裏を覗き込み、玉藻は俺の肩の上で耳をぴくぴくと動かしている。


 「まるで要人護衛だな……」

 思わず漏れた呟きに、兵衛が小さく鼻を鳴らす。

 「要人で間違いありますまい。九条卿の懐には、敵が命を賭してでも奪いに来る“餌”がある」


 通りの喧騒に紛れて歩きながらも、俺の耳は妙に敏感になっていた。草履が砂を擦る音、遠くの鍛冶屋の金槌、子どもの笑い声――どれも、普段なら気にも留めない生活音だ。だが今日は、背後から一歩速い足音が聞こえるだけで、手が符袋に伸びそうになる。


 霧丸が短く喉を鳴らし、玉藻も尻尾を軽く振った。

 「……気配はなし、か」

 俺は胸の奥の緊張を、そっと吐き出すように息に混ぜた。

 (こんなに神経使うなら、営業同行で得意先に行く方がまだマシだ)


 一方その頃、別行動の美弦は宿場の外れにある旅籠へ向かっていた。

 「格子窓と石の階段」――探査術で見たあの背景に該当する場所を突き止めるため、商人や寺社筋からの情報収集に動いているのだ。

 口預所や関所に残された道中帳の写しは九条が目を通しており、候補地はいくつか挙がり始めている。


 (今のところ、敵は動きなし……だが、誘引はこれからだ)

 俺は周囲を一望しながら、これが嵐の前の静けさだと直感していた。


 九条は露店の前で足を止め、まるで珍しい細工物でも眺めるような顔で立ち尽くした。だが、俺はその仕草がただの芝居であることを知っている。


 白布に包まれた“核”が懐の中で、かすかに震えた。空気の奥底に潜んでいた何かが、ほんの少し揺らぐ。

 ――霊的な波。核を媒介に放たれる、わずかな痕跡信号。


 「……始めたな」

 兵衛が低く呟き、周囲への視線をさらに鋭くする。


 俺も通りを見渡す。野菜籠を担ぐ婆さん、遊びに興じる子ども、呑気に串焼きをかじる旅人。一見、日常の風景。だが――視界の端に、妙に動きの少ない男の姿が映った。


 木賃宿の軒先に腰掛け、顔を半ば布で隠しながら、人波の中でただ一点を見つめている。その視線の先は……九条。


 (……来たか?)

 霧丸が低く喉を鳴らし、玉藻の耳がぴんと立つ。兵衛もわずかに肩を揺らし、合図を送ってくる。


 九条は、あくまで自然な歩調を崩さない。その背中を守るように兵衛と俺が位置を変えながらついていく。霧丸は時に先を行き、時に路地の奥を覗き込み、玉藻は俺の肩の上で耳を細かく動かしている。


 通りのざわめきの中に、異質な波が混ざり始めた。

 ――一定の間隔で響く足音。

 ――人混みの流れに逆らわない程度の距離保持。それでいて、視線の向く先は九条の懐。


 (……一人じゃない)

 俺の兵法スキルが示す簡易地図に、小さな赤い光点が三つ、四つと浮かび始める。位置はバラバラだが、動きは同調している。狩人の連携……あるいは、刺客の群れ。


 「若、尾が増えてますな」兵衛が低く告げる。

 「俺も見えてる。……どうする?」

 「裏手へ。人混みを避ければ、動きがはっきりする」


 九条に合図を送り、表通りから細い横丁へと足を向ける。道は石畳から土に変わり、両脇の町家は軒を低くして並んでいた。物干し竿に吊るされた洗濯物が風に揺れ、奥からは味噌を煮る香りが漂ってくる。


 ――だが、この裏道に入ってきた足音は、俺たち以外に五つ。


 (ほぼ確定だな)

 俺は槍を握り直し、即座に飛び出せる構えを取る。霧丸は尻尾を低く垂らし、ぴたりと足を止めた。玉藻も尻尾の毛を逆立て、俺の首筋を軽く叩く。


 兵衛が前方に目をやりながら小声で言った。

 「先の角を曲がれば袋小路。右手の蔵を抜ければ別の路地へ出られます」

 「そこに誘い込むってわけだな」

 「はい。網は狭く、逃げ道は一つ……そこを抑えれば」


 九条は何も言わず、ただ頷き、足を速めた。路地の曲がり角を曲がる――と同時に、九条が懐から符を抜く。


 「――結界展開」

 低く響く声とともに、袋小路の入口に霊的障壁が立ち上がる。透明な膜のような光壁が道を塞ぎ、外界との行き来を断ち切った。


 後続の二人が慌てて引き返そうとするが、すでに兵衛が回り込み、槍の一閃で道を断つ。霧丸が霧の中から飛び出し、一人の腕を噛んで引き倒す。玉藻が俺の肩から飛び降り、符を敵の胸に貼り付けて小さな結界を展開した。


 俺は槍と符で前衛を固め、九条と兵衛の背を守る。


 「……さて、魚は全部網の中だ」

 九条が涼しい声で言い放つ。


 狭い袋小路の中、霧丸が押さえ込んだ男が呻き声を上げる。玉藻が尻尾をぱしぱしと叩きつけ、俺の足元に戻ってきた。


 「動くな」

 兵衛が槍の石突きを地面に叩きつけ、敵の動きを牽制する。九条はその間に結界の密度を上げ、逃げ場を完全に潰した。


 影たちは五人。どれも顔を布で覆い、動きは鋭いが、どこか統一感に欠ける。

 (操られてるのか、それとも……)


 「お前が術者か?」

 俺は一歩踏み込み、最も後ろにいた、印を切りかけた男の腕を符で封じる。反応は早いが、印が甘い。霊力の質も――あの自爆野郎とは別物だ。


 九条が低く呟く。

 「霊紋が違うな。術の“型”も粗い」

 そう言いながら、男の胸元に符を貼り、封印の文様を走らせる。


 封印の光が走った瞬間、男の体がびくんと震えた。目の焦点が外れ、口からひゅう、と浅い息が漏れる。


 「……こいつも操りだな」

 九条の声は冷静だった。

 「霊脈の奥に、別の術者の痕跡がある。ここにいる連中は“操り駒”で、術を繋いでいるだけだ」


 兵衛が小さく鼻を鳴らす。

 「つまり、本命はまだ別の場所に……」


 「そういうことだ」

 九条は結界を維持したまま、残りの影たちにも同じ封印を施す。次々と霊糸が断たれ、操られていた者たちは糸の切れた人形のように崩れ落ちた。


 「情報は……?」

 俺の問いに、九条はわずかに首を振った。

 「術者の気配は切り離された直後に消えた。場所も、姿も掴めない」


 背筋に冷たいものが走る。

 (やっぱり……また空振りか)


 玉藻が肩に飛び乗り、軽く額を小突いた。

 ――気を抜くな、まだ終わってないぞ。そんな声が、確かに聞こえた気がした。


 袋小路に沈黙が落ちた。操りの糸を断たれた影たちは、虚ろな目をしたまま膝をつき、もはや動こうとしない。


 九条は結界を解きながら、低く言った。

 「……これで確定だ。自爆した術者とも、探査術で見えた人物とも別人だ」


 兵衛が槍を納め、深く息を吐く。

 「本命は、まだこちらを試している……そういうことですな」


 俺は槍を杖のようにして立ち、悔しさを押し殺した。

 「結局、何も掴めなかったってことか」


 九条がわずかに目を細めた。

 「いや、一つだけ確信できた。――核を狙う“意思”は間違いなく存在する」


 「……つまり?」

 「囮行動は続行だ。だが、今度は動きの幅を広げる」


 九条の視線は、既に袋小路の外、町の通りの向こうを見据えていた。

 「核を持ち歩き、あえて人目につく行動を取る。連中が仕掛けざるを得ない状況を作る」


 兵衛が頷く。

 「ならば、護衛も倍は慎重に動かねばなりませんな」


 「霧丸と玉藻は索敵の範囲を広げろ」九条が指示を飛ばす。

 霧丸が低く吠え、玉藻が「きゅ」と返事をした。


 俺は眉をひそめた。

 「……わざと敵を近づけるってことですよね。危なくないですか?」


 九条は俺を見やり、口の端をわずかに上げた。

 「危ない。それでもやる。――今度こそ、本命を釣る」


 冷たい風が、路地を抜けていった。その予感は、確かに胸の奥で警鐘を鳴らしていた。

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