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第25話 社畜、地獄の特訓を受ける

 一日ゆっくり休み、体の重さも頭の霞も抜けた翌朝。今日は兵衛との武芸修練から始まる日だ。


 宿を出て河原に向かう。川面に朝靄が漂い、流れの音が涼しく耳を打つ。そこには兵衛が既に立っており、槍と大太刀を脇に置いて準備を整えていた。


 「若、手合わせ願います」

 その声には、稽古というより戦場に出る前の張りつめた空気があった。


 まずは槍。兵衛が穂先をわずかに揺らし、間合いを探る。俺も中段に構えるが、刃の冷たい光が視界に入るだけで、背筋がじりじりと熱を帯びる。


 「踏み込め!」

 鋭い掛け声と同時に、兵衛の穂先が一直線に喉元を狙ってきた。咄嗟に柄を払うと、金属が弾ける音が澄んだ空気に響く。返す動きで突きを入れようとした瞬間、兵衛の槍が弧を描き、俺の脇腹すれすれを掠めた。

 (今の、かすってたら終わってたな……)


 数合交えるうちに、息が荒くなり、手の中の柄が汗で滑る。兵衛は容赦なく間合いを詰め、槍を大太刀に持ち替えた。


 真剣同士の斬り結びは、さらに緊張感が増す。一太刀でも受け損ねれば、骨ごと断たれる――その恐怖が、逆に集中を研ぎ澄ませる。刃と刃が噛み合い、火花が散る。兵衛の斬撃は重く速い。防ぐたび腕が痺れ、足が砂利を滑る。


 「間合いを読み切れ! 刃を見過ぎるな!」

 叱咤と同時に、兵衛の刃が肩口をかすめ、衣が裂けた。冷たい風が肌を刺す。


 最後の一合、全力で踏み込み、俺の刃が兵衛の喉元すれすれで止まる。兵衛は動じず、わずかに口元を緩めた。

 「……動きが鋭くなりましたな。だが、まだ実戦では足りませぬ」


 そう言って大太刀を鞘に納めると、普段の落ち着いた表情に戻った。

 「午後は美弦殿の指導ですな。ここで昼を済ませ、待つとしましょう」


 緊張が解けると、汗が一気に噴き出した。屋台で握り飯と焼き魚を買い、河原の石に腰を下ろす。口に広がる塩気と炊きたての香りが、さっきまでの殺気をゆるやかに洗い流していった。


 【槍術スキルの熟練度が上昇しました】

 【剣術スキルの熟練度が上昇しました】




 昼下がり、川面の光が柔らかく揺れている。屋台飯を平らげ、石に腰を下ろしてぼんやりしていると、背後から水音を踏む足音が近づいてきた。


 「待たせたわね」

 振り向くと、美弦がいつもの涼しげな顔で立っていた。陽射しに揺れる黒髪と、背に軽やかに担いだ長弓、その脇に下げられた矢筒が目を引く。片手には札束を持ち、もう片手は弓の弦を無意識になぞっている。


 「さて――今日は前回の続きよ。起符と護りの陣、覚えてるわね?」

 (忘れたなんて言えない……)

 素直にうなずくと、“美弦”は袖を翻し、河原の砂地に白墨で大きな円を描き始めた。


 前回の復習として、まずは札の扱いから。風に揺れる札を押さえながら、指先で霊力を流し込む。紙の感触と指先の熱に集中していると、周囲の音がすっと遠のく。


 「……悪くないわ。じゃあ、護りの陣を」

 足元に描いた円の四方へ札を配置し、結印とともに霊力を繋ぐ。淡く青白い光が線を走り、陣が完成する。


 復習を終えると、美弦が手元の木箱を開く。中には、きっちり束ねられた白い和紙と、数本の筆、墨壺。


 「さあ、今日の相手は手強いわよ。符の準備、ちゃんと出来てる?」

 「……前の分は使い切ったけど」

 「じゃあ、今から作るの。ほら、筆持って」


 美弦は何枚もの符を広げ、指先でとんとんと叩く。

 「まずは護りの陣符、十枚。次に起符を五枚。封符と結界符、火符に雷符に風符、光符をそれぞれ三枚ずつ。全部書き上げなさい」

 「え、そんないっぺんに!?」

 「足りないよりマシ。途中で“もう符がない”なんて言ったら、即死よ?」


 横で墨を擦る美弦は、まるで茶を点てるみたいに落ち着いている。俺は慌てて筆を取り、見本を確認しながら符の模様を描く。だが、ほんの一筆でも形が歪めば、美弦の手がすっと伸びて符を引き取る。

 「線が滲んでる。これじゃ効力が半減するわ。書き直し」

 「うっ……」


 川風に墨の香りが流れ、紙の擦れる音と筆の走る音だけが続く。時間を忘れるほど集中して、ただひたすら符を描き続けた。護りの陣符、起符、封符、結界符――要求された枚数を積み上げるたび、指先に墨が染み、肩が重くなる。


 最後の一枚を書き終えると、美弦が符の束を手に取り、軽くうなずいた。

 「ふふ、まあ合格点ね。これなら一戦くらいは持つでしょう」

 「……一戦くらいって、どんな相手を呼ぶつもりだよ」

 「前に言ったでしょ? “強い相手”よ」


 その笑みは、どう見ても何か企んでいる顔だった。胸の奥に、嫌な予感がひたひたと広がっていく。


 美弦が唇を歪める。

 「じゃあ――宣言通り呼ぶわよ」

 彼女は懐から一枚の札を取り出した。それは他の札より厚みがあり、墨色も深い。

 「正直、この子はあまり得意じゃないの。性格が荒いから」


 言いながら、札を空へ放り投げ、指で鋭く印を切る。札が宙で燃え上がり、灰が渦を巻いて形を成す――


 現れたのは、二間(約3.6メートル)はあろうかという漆黒の獣。鋭い金色の眼がこちらを射抜く。低く喉を鳴らすと、空気がびりびりと震えた。


 (……ステータス、表示)

 頭の中でいつものように念じる――が、何も出てこない。

 (……え? 見えない?)

 視界はただ、黒い毛並みと牙の光だけを映している。

 混乱が胸の奥をざわつかせる。

 (俺の強さが足りないのか……? それとも、やっぱり“名前”がないとダメなのか?)


 「今日の課題は、こいつ相手に符を使いながら戦うこと。護りの陣はあくまで保険よ」

 「……保険ってレベルじゃねぇだろこれ」

 美弦は聞こえないふりをして、ひらりと後ろへ下がる。

 「じゃ、始め!」


 獣が地を蹴った瞬間、地面が低く唸った。黒い影が一直線に迫る。視界の端で砂利が跳ね上がり、風圧が頬を叩く。


 「――っ!」

 反射的に護符をかざし、陣を展開。紙片が白光を放ち、迫る爪を受け止める。


 轟音。防壁に獣の爪が食い込み、目の前で紙片が裂ける音がした。腕にかかる重さは、人ひとり分どころではない。押し返され、足が河原の石を削りながら後退する。


 「ぐっ……!」

 歯を食いしばり、符を強く握る。紙片は淡く火花を散らしながらも、なんとかその一撃を受けきった。


 獣はすぐに飛び退き、二間あまりの距離を取る。低く喉を鳴らし、唸り声が胸の奥に響く。その黄金の眼は、次こそ獲物を仕留めると告げていた。


 (やっぱり、午後も命懸けじゃねぇか……!)


 獣の肩がわずかに沈む。次の瞬間、地を裂くような踏み込みと共に、その巨体が消えた――いや、速すぎて目が追いつかないだけだ。


 「来るっ!」

 反射的に身を捻った。背後で水飛沫が弾ける音。振り返った時には、獣の尾が鞭のように横薙ぎに迫ってきていた。


 「――っぶな!」

 飛び退くと同時に、懐から符を抜き放ち、指先で撫でて術を起動する。符面の朱が光り、風が弾ける。

 瞬間、目の前を灰色の毛並みが通過。紙一重で躱した俺の足元に、鋭い爪痕が刻まれ、砂利がざらざらと崩れ落ちる。


 (動きが……読めねぇ! 槍の間合いよりずっと近い!)

 頭の奥で、朝の兵衛との稽古が蘇る。――間合いを読む。刃を見すぎるな。獣の牙や爪ではなく、肩や腰の動きに意識を集中させる。


 再び距離を詰めてくる影。今度は退かず、腰を沈め、符を逆手に構えた。踏み込みと同時に、足元に護りの陣を展開。獣の爪が白光を叩き割る瞬間、その反動を利用して逆側へ飛び出す。


 「――っ、今だ!」

 間合いの外から、起符を投げつける。符が獣の胸元で爆ぜ、小さな雷光が弾けた。咆哮。焦げた毛の匂いが漂い、獣が一歩退く。


 だが、その眼はまるで笑っているかのようだった。

 (……今ので怯むどころか、こっちの力量を測ったって顔じゃねぇか)


 次の瞬間、獣の姿が視界から消えた。

 「……っ!」

 耳の奥で風を裂く音――反射的に身を捻った刹那、背後の砂利が爆ぜ、鋭い爪が地面を抉る。背筋に冷たい汗が伝う。さっきまで立っていた場所が、今はえぐれた溝になっていた。


 振り向くより早く、獣が再び跳びかかる。符を引き裂く勢いの爪――間一髪、護りの陣を足元に再展開する。白光が砕け、衝撃が全身を揺らす。防いだはずなのに、腕が痺れ、膝が沈んだ。


 「耐えられるのは二度までね」

 いつの間にか背後に回った美弦の声が、氷のように冷たく響く。

 「三度目は、命を持っていかれるわ」


 (――じゃあ、その前に決めるしかねぇってことか)

 唇を噛み、俺は次の符を指先に挟み込んだ。


 獣は低く身を伏せ、今度こそ仕留めるつもりでいる。砂利の上を爪がかすめ、微かな火花が散った。

 (こいつ……距離を詰めさせたら終わりだ)


 俺は符に息を吹き込み、印を切る。

 「――風符、起動!」

 符が淡い蒼光を帯びて弾け、突風が獣の視界を乱す。砂と霧が舞い上がり、白い影がぼやけた。


 その隙を逃さず、胸元へ雷符を投げ込む。紫電が一閃し、獣の毛並みが逆立つ。呻き声と共に、巨体が一歩よろめく。


 (まだだ……一撃じゃ倒せない!)

 すかさず起符を叩きつけ、次の術式を重ねる準備に入った。


 雷光を浴びても、獣の眼はなおも濁らぬ炎を宿していた。再び喉の奥で低く唸り、霧を切り裂いて突進してくる。足元の砂利が弾け、衝撃波のような風が肌を打つ。


 (もう防御に回ったらやられる……!)

 俺は護りの陣符を握りしめ、踏み込みの瞬間に足元へ叩きつけた。白光が咆哮とぶつかり合い、一瞬だけ獣の勢いが鈍る。


 「――今だ!」

 腰の袋から火符と雷符を同時に抜き、二枚を重ねるようにして投げ込む。術式が絡み合い、紅蓮の炎に紫電が走った。


 爆ぜる轟音。視界いっぱいに火花と焔が広がり、獣の姿が光の中に呑まれていく。焦げた匂いと熱気が、肌を焼いた。


 膝をつき、息を整えながら炎の向こうを睨む。

 (……決まったか?)


 次の瞬間、煙の中から低く笑うような唸り声が返ってきた。揺らめく炎の向こうに、まだ立っている影。


 炎と煙の向こうから、影が一歩、また一歩と現れる。毛は焦げ、片目は閉じているはずなのに、その歩みは揺るがない。胸の奥を、冷たいものがぞわりと這い上がってきた。


 (……ダメだ、まだ動ける)

 腰の袋に手を伸ばす。残りの符は――


 「そこまで」


 凛とした声が、戦場の空気を断ち切った。次の瞬間、足元から冷気が噴き上がり、獣の動きがぴたりと止まる。美弦が片手を上げ、指先から淡い青光が迸った。


 「試しはここまでよ」

 軽く指を鳴らすと、獣の姿は霧に溶けるように掻き消えた。残ったのは、焼け焦げた匂いと、まだ鼓動の速い俺の胸だけ。


 「……今のは手加減してあげた方。次は、本当に食われるかもね」

 美弦は淡々と告げ、地面に散らばった符を拾い上げる。

 「符の扱いは悪くない。でも、間合いの読みと判断が甘い。次の稽古までに、修正しておくこと」


 俺は返す言葉もなく、ただ深く息を吐いた。


 そのとき、袖口に温かな感触が触れる。見ると、いつの間にか玉藻が足元にいて、小さな鼻先を押しつけてきた。


 「……玉藻?」

 呼びかけると、きゅう、と小さな声を漏らして、するりと袖の中に潜り込む。丸まった体が二の腕あたりまで滑り上がってきて、胸元でぴたりと動きを止めた。ふわふわの毛並みが汗ばんだ肌をくすぐり、思わず肩の力が抜ける。


 (……心配してくれてたのか)

 小さな鼓動が、まだ荒い俺の呼吸と重なって伝わってくる。


 (……っていうか、なんでこう急に難易度が跳ね上がるんだよ)

 午前は真剣の稽古、午後は殺意マシマシの化け物との符バトル――休む暇なんてどこにもねぇ。


 「事件続きだから、早急に力をつける必要があるでしょ? やっぱり、実戦じゃないとね?」

 美弦は当たり前のように言い放つ。


 「……その通りですな」

 背後で兵衛が、珍しく口元を緩めて笑った。

 「それに若――実戦では、よく動けておりましたぞ」

 不意にかけられた言葉に、一瞬だけ胸の奥が温かくなる。


 ――だが、すぐに現実が戻ってきた。俺は天を仰ぎ、ため息を一つ。

 (やっぱり、この先も気楽な修行はなさそうだ……)


 【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】

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