第23話 社畜、自分について知る
口預所の木戸を出る頃には、東の空の端がじわりと白み始めていた。川面に漂っていた霧はほとんど晴れ、湿った石畳に朝の光が細く差し込んでいる。戦いの緊張が切れたせいか、足取りは重く、背中に溜まった疲労がずしりと響く。
報酬の袋は腰の帯にくくりつけたままだ。じゃらりと銀子の重さが伝わるたび、ほんの少しだけ心が温まる。しかし、気力の残りはとっくに底をついていた。
口預所の帳場で、美弦が短く告げた。
「……本日の修練はなし。明日の昼から再開ね。各自、休養に充てるように」
その声音は普段よりも低く、彼女自身の疲れを隠しきれていない。兵衛も深く頷き、玉藻はあくびをひとつして尾をふわりと揺らした。
木戸を閉めると、通りには早起きの町人たちがちらほらと動き始めていた。井戸端で水を汲む音、朝餉を支度する匂い――夜通しの戦いの直後とは思えぬ、日常の音と匂いがそこにある。だが俺たちの世界だけは、まだ夜の余韻が残っていた。足の裏には石畳の冷たさが染み、腰から上は鉛のように重い。
玉藻は俺の頭の上に居座り、時折大きなあくびをし、二本の尾を気怠げに揺らす。兵衛は背中の大太刀を持ち直し、肩を軽く回すと、ごきりと骨の鳴る音がした。
「ふぅ……年は取りたくないものですな」
「いや、ほぼ毎晩フル稼働したせいだろ……」
そんな軽口を交わす元気は、まだわずかに残っていた。
宿に着く頃には、玉藻はほとんど眠りかけていたらしい。戸を開けるなり、するりと部屋に入って畳の上を三歩ほど歩き、布団に飛び込む。ごろん、と一回転して毛並みを落ち着けると、もう目を閉じて小さな寝息を立て始めた。
俺も鎧紐を解きながら、兵衛に声をかける。
「……今日は残業代も出たし、もう寝る」
「おやすみなされ」
兵衛は静かに頷くと、自分の荷を片付けて隅に置いた。
鎧を脱ぎ終え、槍を壁に立てかけると、体の重さが一層際立った。布団に身を投げ込むと、畳の香りと玉藻の体温がふわりと混ざり合って鼻先をくすぐる。瞼が自然と落ち、意識が沈みかけた瞬間――
昨夜の光景が脳裏に蘇る。霧の中でぼんやりと浮かんだ黒い面、低く湿った笑い声、冷たい水の匂い。あの術者の視線が、まだ背中に残っているような気がした。
――まあ、今はいい。考える力すら、もう残っていない。
次の瞬間、全てが闇に沈み、俺は深い眠りに落ちていった。
――まぶしい。
瞼の裏がじんわりと熱を帯び、ようやく意識が浮上した。外から差し込む陽射しは、もう真上に近い。どうやら昼をとっくに過ぎているらしい。布団の端では、玉藻が丸くなったまま、耳だけぴくぴくと動かしている。二本の尾は時折、夢の中で何かを追い払うように揺れた。
体を起こすと、背中や肩がぎしりと鳴る。寝たはずなのに、疲れはまだどこかに居座っているようだった。鎧も刀もない格好は、久々に自分の体が軽いと錯覚させる。
顔を洗おうと洗面桶に向かうと、水面に映った自分の顔が目に入った。濁りのない蒼――この国の人々の黒や茶の瞳の中では、やけに浮いて見える色。
――そういえば、この蒼い眼のこと、あまり指摘されたことがないな。初めて会ったときの美弦も、あまり大げさには触れなかった。まるで当たり前のように。
桶の水で頬を叩くと、少しだけ頭が冴える。せっかく時間があることだし、今日は兵衛に自分のこと、この国のことを色々聞いてみるか。
ちょうど部屋の隅では、兵衛が荷を整えていた。
「昼飯にしないか?」と声をかけると、彼は「では、屋台で何か買って参りましょう」と軽く頷いた。
外は、戦いのあった昨夜が嘘のように穏やかで、香ばしい匂いが漂ってくる。串に刺した焼き魚と、包み飯を持ち帰り、卓を挟んで向かい合う。箸を取りながら、俺は口を開いた。
「あの日、戦の時に異能が目覚めた時、異界の何かと混ざったかもって話したよな?」
「はい、しましたな」兵衛は魚の骨を外しながら答える。
「……あのころから前のことが、結構あいまいでさ。ふとした時に思い出すような感じなんだ」
箸先で魚をほぐしながら、俺は続ける。
「例えば、この眼の色って普通なのか? 俺以外に見たことないけど。あまり他人に指摘されないなと思ってな」
兵衛は箸を置き、しばし俺の顔をまっすぐ見つめた。
「……若の眼は、この国では滅多に見られぬ色ですな。海の底の蒼にも似て、澄んでおります」
「やっぱり珍しいのか」
「ええ。珍しいどころか、私の生涯でも、若お一人です」
そこで、兵衛は少し声を落とした。
「この色にはいくつかの云われがございます。ある者は、湖や海の神の血を引く証と言い、ある者は、異国より渡った者の末裔と申す。……また、陰陽師の中には、異界の力に触れた者の瞳は色を変える、と説く者もおります」
「異界の力……」
「あの日、戦のさなかに異能が芽吹いたのは、もしかすると――」
兵衛はそこで言葉を切り、首を横に振った。
「いえ、推測の域を出ませぬ。ただ、この色は若の証。誰に何を言われようとも、大事になされませ」
「……証、ね」
「はい。そして、この色が珍しいがゆえに、人はあえて触れぬのです」
「……あえて?」
「ええ。この国では、異質なものを軽々しく口にせぬのが礼儀。ましてや霊や異能に縁のありそうな色となれば、なおさら。己の身を守るためにも、見て見ぬふりをするのが常でございます」
「なるほどな……」
「この色は、若の故郷を思い起こさせます。城の背後に広がる湖の水面、早朝の霧を透かして射す陽の光……あの蒼とよく似ておられます」
懐かしむように、兵衛の目尻がわずかに緩む。
「若の御父君もまた、その湖を殊のほか愛しておられました。朝な夕なに岸辺を歩き、時に釣り糸を垂らして……」
「……そういえば、俺、湖の記憶はぼんやりしてるな」
「無理もございません。あの日より前のことは、思い出せぬ部分が多いでしょうから」
兵衛は一度目を伏せ、そして静かに続けた。
「では――若の生まれ故郷のこと、少しお話ししましょうか」
兵衛は湯呑を手に、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「若の生まれは、山間の小国。霧深い谷間に城と町がありました。四方を山と森に囲まれ、外界と繋がる道は谷川沿いの細い街道ひとつ。春は雪解け水が轟き、秋は山肌が錦に染まる、美しい地でございました」
その景色を思い描こうとした瞬間、胸の奥にぼんやりとした映像が浮かぶ。
――高い城壁の向こう、白い霧が朝日に淡く染まり、城下町の屋根がかすかに濡れている。
「若は領主様の次男としてお生まれになった。幼き頃から、妙に勘の鋭いお子でしたな。人の心の動きや、場の空気を読むことにかけては、年長の者をも驚かせたものです」
兵衛は懐かしそうに笑ったが、すぐに表情を引き締める。
「……ですが、あの夜がすべてを変えました。黒蓮の一団が城を襲い、炎と霧に紛れて中へと押し入り……」
その言葉に、断片的な記憶が脳裏をよぎる。
――赤黒い炎が夜空を舐め、石畳に影を乱舞させる。
――耳を裂く叫び声と、甲冑のぶつかり合う音。
――焦げた木の匂いに混じる、湿った土と血の臭い。
「私は御父君の命を受け、若をお連れして城を抜け出しました。背後で門が閉ざされる音を、今も忘れられません」
兵衛の語りに、別の映像が重なる。
――暗い回廊を駆け抜ける自分。手を引く兵衛の背。
――遠くで、兄の声が何かを叫んでいる。
――母の姿は見えず、ただ裾を翻して消えていく白い袖だけが記憶に残っている。
「その後は各地を転々とし、追手を避けながら……」兵衛の声は少しだけ掠れた。
「やがて、この地に落ち着くまでに、幾年もかかりました」
俺は魚の身を箸先でほぐしながら、小さく息を吐いた。曖昧な記憶の断片が、兵衛の語る現実と少しずつ重なり、形を持ち始めている。だが、まだところどころが白く抜けたままだ。
――あの夜、自分は何を見て、何を置いてきたのか。答えは、まだ霧の向こうにある。
「……父や母、兄のことを教えてくれないか」
俺の問いに、兵衛はしばし黙した。箸を置き、湯呑を両手で包み込みながら、静かに言葉を探すように目を伏せる。
「御父君――領主様は、剛直にして温厚なお方でした。戦場では獅子のごとく振る舞い、民の前では笑みを絶やさず、誰よりも領を愛しておられた」
その声に合わせるように、胸の奥でひとつの映像が浮かぶ。
――高い椅子に腰掛け、俺を膝に抱き上げる大きな手。
――低く穏やかな声が、耳元で何かを諭している。
兵衛はわずかに目を細めた。
「若の眼を見て“湖の子”と呼ばれたのも、御父君でございました」
「母君は……」兵衛は少し声を和らげる。
「気丈にして聡明、しかして誰よりも慈愛に満ちたお方。政務にも携わられ、城の隅々にまで目を配り、民の声をよく聞かれておりました」
――白い袖が揺れ、振り返った笑顔が、霧の向こうにかすむ。
――髪から香る梅の匂い。
記憶の中の母は、いつも何かを抱き寄せてくれていた。
「そして御兄君。若より五つ年長で、槍の腕は若いながらも見事なものでした。学問にも通じ、いずれは領を継ぐ器と誰もが認めていた」
――稽古場で笑いながら木槍を構える兄。
――泥まみれになって競い合った夕暮れ。
しかしその笑顔は、城が炎に包まれた夜を境に、記憶から途切れてしまっている。
兵衛は短く息を吐いた。
「三方とも……あの夜以降、行方は知れませぬ。私が連れ出せたのは、若お一人だけ」
胸の奥で、何かが静かに疼いた。思い出そうとすればするほど、記憶の霧は濃くなり、父や母、兄の姿は遠ざかっていく。
兵衛の語りを聞きながら、妙な違和感がじわじわと広がっていった。
――この生まれ、領主の次男、霧深い山間の城、湖のほとり。
全部、俺があのゲームのキャラクリで“背景設定”として書き込んだやつじゃないか。
「領主の家柄の次男、幼少から鍛錬を積んだが、……一族は『黒蓮』と名乗る陰陽師集団に滅ぼされる」
かつてモニターの前で、軽い気持ちで選んだその一文が、今は兵衛の口から淡々と告げられている。背筋が薄ら寒くなる。
当時は、戦場に立つための理由付け――それ以上でも以下でもなかった。悲劇的な過去があれば物語は盛り上がる、そんな安直なノリで作った設定だ。けれど今、この現実でそれを聞くと、笑える要素なんて一つもない。そこには確かに生きていた人がいて、血を流し、炎に呑まれていった夜があった。
“背景”なんかじゃない。これは俺の現実で、失われた家族の話だ。軽いノリで作った設定が、こうして胸にのしかかる日が来るとは――あの時の俺を殴ってやりたい。
そういえば、剣の師についての設定もしたはずだ。
「兵衛、俺の剣の師については知っているか?」
「もちろんです。御家がまだ健在の頃、城に招かれた隻眼の老武芸者。名は――斎藤 無岳。無影流の免許皆伝を受けた剣客です」
その名を耳にした途端、胸の奥でかすかな火花が散ったような感覚があった。
――薄暗い道場。正座を崩さず、ただ黙ってこちらを見据える片目。
――木刀を握る手の震えを、見抜くような鋭い視線。
断片的な映像が、記憶の霧の中から浮かび上がる。
「無岳殿は若の御父君の古き友にして、戦場を渡り歩いた歴戦の武士。片目を失ってなお、その剣は影も踏ませぬほど早かった……ゆえに“無影流”と呼ばれるのです」
兵衛の声には敬意が滲んでいた。
「若が槍を学ぶ前に、まずは身体の使い方と間合いを覚えさせるため、剣術の基礎を仕込んでくださった。――あの方は、容赦なき稽古をなさる御仁でしたな」
記憶の中で、少年の俺が木刀で打ち込む。次の瞬間、視界が回転し、尻餅をつく。鼻先に突き付けられた木刀の切っ先。「力むな」「目を逸らすな」と、低く響く声。その声と共に、あの片目がこちらを射抜く感覚までもが蘇る。
「無岳殿は、戦場で生き残るための“理”を叩き込もうとされておりました。形や美しさではなく、ただ勝つための剣。だからこそ、あの稽古は厳しく、そして……本物でございました」
兵衛はふっと目を細める。
「若が無岳殿から学んだ動きや癖は、今も無意識に出ておられます。あの御仁が見たら……きっと、少しは褒めてくださるでしょうな」
俺は黙って箸を置き、わずかに息を吐いた。霧の向こうから覗く片目の輝きと、木刀の重みが、やけに鮮明に残っていた。
兵衛は少し間を置き、視線を落とした。
「……あの夜の混乱で、無岳殿とも離れ離れになりました。城門が破られる直前まで、若の兄君と共に踏みとどまっておられたと聞きます。あの剣なら、そう易々とは……と思いたいのですが」
最後の言葉は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。
――炎の夜、城の廊下の奥で、片目の老人が振り返った気がする。その背は揺らがず、ただ剣の切っ先だけがかすかに揺れ、次の瞬間には視界から消えていた。
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