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第21話 社畜、追加の残業が確定する

 影の術者の輪郭が霧と共に崩れ、堀の水面へと沈んでいく。残されたのは、冷たく湿った空気と、背筋をなぞるような悪寒だけだった。


 兵衛が大太刀を肩に担ぎ直し、周囲を素早く見回す。

 「……このままでは町人が巻き込まれますな」

 美弦が短く頷き、弓を下ろした。

 「口預所に報告する。状況を共有しないと、次は防げない」


 俺は槍を地面に突き立て、荒い息を整える。足元では玉藻が低く唸り、二本の尾をふくらませていた。首の護符が微かに光り、まだ敵の気配を探っているかのようだ。鼻腔を刺すのは、水と鉄、それに焦げたような臭気。――この匂い、知っている。


 昼間、堀端ですれ違った水桶の町人。あのとき、桶の水が足元に跳ねた瞬間に感じた、同じ匂い。声も、口元の笑みも、間違いない。霧の中で挑発してきたあの術者と、あの町人は同一人物だ。


 だが、なぜわざわざ昼間に接触してきた?こちらの様子を探るためか、それとも別の狙いがあったのか――。

 考えれば考えるほど、胸の奥にざらつくような不快感が広がっていく。


 「行きましょう」

 兵衛の短い声に背を押され、俺たちは堀端を後にした。


 夜の町を抜ける。川面を渡る冷たい風が、戦いの匂いをまだ運んでくるように思えた。通りの両脇では、茶屋がまだ暖簾を出しており、障子越しに笑い声と三味線の音が漏れてくる。橋のたもとを過ぎれば、行き交う人影もまばらになり、代わりに提灯の明かりがゆらゆらと路地を照らした。


 足音が石畳に響くたび、全身の疲れがじわじわと浮かび上がってくる。肩は重く、握った槍の柄がいつもより遠く感じる。こんな時間に、しかも命をかけてまで何をしているんだろう――そんな思いが、ふと頭をよぎった。


 しかし足は止まらない。昼間のあの笑み、そして堀端に漂った冷気が、まだ背中を押してくる。玉藻は前を歩きながら、時折尾をぴんと立て、路地の奥をじっと見やった。あの護符の光がまた瞬けば、次の戦いがすぐそこにあるということだ。


 やがて、夜風に混じって墨と紙の匂いが漂い始める。口預所はもうすぐだ。




 重い木戸を押し開けると、油皿の灯がぱちぱちと小さく揺れ、紙障子に柔らかな橙色の光がにじんでいた。帳場の奥では、夜番の役人が二人、筆を走らせている。筆の先が紙を擦る音が、静かな部屋にかすかに響いていた。棚には巻物や木札が隙間なく並び、墨の香と、紙の乾いた匂いが入り混じる。昼間の喧騒とは隔絶された、仕事だけが流れる空間だ。


 俺たちの姿を見るや、一人が顔を上げた。

 「……北堀端の件か?」

 兵衛が大太刀を背に負ったまま進み出て、背筋を正す。

 「依頼の“北堀端の物怪調査”――本日も発生。影を操る術者と交戦し、媒介の一部を破壊。しかし、術者は霧と共に撤退」

 短く、しかし一語一語を噛み締めるような声。夜番の役人は筆を止め、手元の帳面に視線を落とした。


 「昨夜も目撃があった」

 もう一人が言う。眼鏡越しの視線が鋭くなる。

 「陰陽寮も、この件に強い関心を持っている。詳しく聞かせてくれ」


 美弦が弓を机の脇に立て掛け、懐から細く巻いた布包みを取り出す。机上に置かれたそれは、開かれると中から黒くひび割れた小片が現れた。

 「これが現場で回収した媒介の欠片。霧と冷気を伴い、魂を抜き取る性質を持っている。――先月の西裏の蔵で見つかった“魂の核”と同質のもの」


 役人の手が止まり、部屋に一瞬の沈黙が落ちた。西裏の蔵――鬼が潜み、数人の魂が封じられていたあの事件。封印した核は陰陽寮預かりになったはずだ。それと同じものが、今また町の水辺で使われている。偶然で済む話ではない。


 「術者の特徴は?」

 「顔は黒い面で覆われており、不明。ただ、昼間、堀端で接触した町人と同一人物と見ている」

 俺が口を開くと、二人の視線が一斉にこちらに向いた。

 「水桶を担いだ町人だった。肩がぶつかり、水が足元に跳ねたとき……同じ匂いを感じた。水と鉄、それに焦げたような匂い」

 言葉にすると、再び鼻腔にあの臭気が蘇る。冷たい感触とともに、昼間の笑みが脳裏に浮かび、胸の奥がざらついた。


 「……術者は、あなた方に意図的に接触してきた可能性があるな」

 夜番の一人が低く呟き、机の端を指で叩く。

 「今夜は巡邏を増員する。陰陽寮からの調査官ももうすぐ戻られる筈だ。それまでに詳細な記録を整えてくれ」


 筆の音が再び部屋に満ちる。美弦が淡々と戦闘の経過を述べ、兵衛が要所の距離や地形を正確に答える。俺は壁際に立ち、黙って耳を傾けながら、窓の外に目をやった。提灯の灯りが川面に映り、夜風が障子をわずかに揺らす。


 報告を終える前に、口預所の戸口が静かに開いた。夜風と共に、背の高い影が一つ、室内に滑り込む。長い黒衣に銀の飾り緒、胸には陰陽寮の紋。深くかぶった烏帽子の下から、鋭い眼差しがこちらを射抜いた。


 「……先客かな?」

 口預所の役人が慌てて立ち上がる。

 「調査官殿、お戻りで」

 男は軽く手を上げ、形式ばった挨拶を制しながら卓に歩み寄った。

 「“北堀端”の件か、私も報告を聞かせてもらおう」

 声は低く、抑揚が少ないのに、不思議と耳の奥まで響く。


 俺たちは思わず姿勢を正す。調査官――西裏の鬼封じの時に現れ、核の回収を一手に引き受けていった陰陽寮の使いだ。あの時も一言も余計なことは言わず、淡々と現場を掌握していった。その眼差しに射抜かれると、自分が何か隠しているような錯覚すら覚える。


 兵衛が簡潔に戦闘経過を説明し、美弦が媒介の欠片を机に置く。調査官はそれを白木の箸でつまみ、灯りに透かして眺めた。

 「……同質だな。西裏の“魂の核”と」

 その一言で、口預所の役人たちの表情が一瞬強張る。


 「つまり、同じ術者か、それに連なる者の仕業だと?」

 美弦の問いに、調査官は短く頷いた。

 「核は陰陽寮の蔵に封じたはずだが、手口も霊力の質も、あの時と酷似している。――詳細は追って共有する。今は続けてくれ」


 俺は昼間の出来事を話した。水桶を担いだ町人と肩がぶつかり、桶の水が跳ねた時に嗅いだあの匂い。水と鉄、焦げの混じる臭気――そして霧の中で挑発してきた術者の声と、同じだったこと。話しながらも、背筋を這う感覚が抜けなかった。


 調査官は一言も挟まず聞き終え、やがて細く息を吐いた。

 「術者は、あなた方を試している」

 淡々とした声だが、その言葉だけが妙に重く響く。

 「次は、おそらく“核”そのものを完成させるために動くはずだ。北堀端だけでは済まない」


 油皿の灯がぱちりと音を立てた。報告の筆を取っていた役人が顔を上げ、眉を寄せる。

 「では、今夜から巡邏を――」

 「増やすだけでは足りない」

 調査官が短く遮る。

 「位置を絞り込む。匂いを辿れる者と、結界を扱える者をすぐに集めろ」

 その眼差しが、俺たち三人と玉藻に向いた。

 「あなた方にも、動いてもらう」


 ああ、まただ。こんな時間に、俺は何をやっているんだろう――昼の勤務どころか、もう翌日分の残業に突入している気がする。だが、調査官の目に射抜かれると、断る選択肢はどこにもなかった。


 調査官は卓上の地図を広げ、堀から川へと続く水路をなぞった。

 「今回の術は、水場を介して発動している可能性が高い」

 指先が止まったのは、川と堀が交わる地点だった。


 「ここは流れが緩み、澱が溜まりやすい」

 低い声に、部屋の空気が少し張り詰める。

 「こうした場所は、気配や霊力が長く留まりやすい。媒介を仕込むには好都合だ」


 兵衛が腕を組み、顎をさすった。

 「つまり、あの術者はこの澱を根城にしているかもしれぬと」

 「あるいは、複数の澱を渡り歩きながら仕込みを進めているかだ」

 調査官は淡々と答え、地図のいくつかの要所に印をつけていく。


 印が増えるたび、俺の胸の奥で重さが増していく。どの場所も、夜間は人通りが少なく、見通しが悪そうだ。そこへ媒介を仕掛けられれば、町人は気づくこともなく飲み込まれるだろう。


 「……一晩で全部回るのは無理だな」

 思わず口にすると、調査官がこちらを見た。

 「だからこそ、動ける者を増やす。あなた方には、匂いを辿り、最も気配の濃い場所を探ってもらう」


 玉藻が低く鳴き、尾を揺らした。護符がかすかに光る。この町の暗がりのどこかで、あの笑みを浮かべた術者が次の仕込みをしている――その想像だけで、背筋が冷たくなった。


 ……今夜も終わらない。朝の訓練に続き、昼の探索、夜の戦闘、そしてこれからの探索。気がつけば、俺の一日はとっくに二十時間を超え、まだ延長戦に突入している。残業の概念が、前の世界からはみ出している気がする。疲労と、これから向かう暗がりへの恐怖が、胃の奥で同じ形をして重く沈んでいた。

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