第20話 社畜、残業する
陽が西に傾き、町の影が長く伸び始めた。昼間の堀端での小競り合いから戻った俺たちは、その足で美弦の借り屋へ向かう。障子を閉ざした座敷は、外の夕焼けを遮って薄暗く、香炉から立ちのぼる沈香の香りが静かに満ちていた。卓の上には、すでに地図や符、筆墨、そしていくつかの小箱がきちんと並べられている。
「……で、夜までにやれることは全部やるわよ」
美弦は広げた地図の上に指を置き、北堀端を中心に円を描く。
「結界は四方から囲う形。ただし相手は水辺を移動できる。囲う前に動かれたら意味がない」
兵衛が腕を組み、眉を寄せる。
「動く相手を囲うのは容易ではござらぬ。結界師が四人は欲しいところ」
「こっちは三人と一匹だから、囲うより誘い込む形になるわね」
その“一匹”にあたる玉藻は、部屋の片隅で尻尾を二本揺らしながら、まるで会議を聞いているようだった。
美弦の視線が俺に向く。
「……というわけで、囮はあんた」
「だよなぁ……」
もう予想はついていた。怪火でも影でも、最初に突っ込まれるのは大体俺の方だ。
「まあ、槍持ってるし、距離は取れるわよ」
美弦があっさり言い放つと、玉藻が俺の足元に座り込んだ。二本の尾をぴんと立て、金色の瞳でじっと見上げてくるその姿は、どう見ても「一緒に囮やろうぜ」と言っている。
作戦が決まると、それぞれが静かに準備を始めた。
俺は畳の上に槍と太刀を並べ、まず槍の穂先を砥石で丁寧に研ぐ。鉄の擦れる低い音とともに、穂先が月明かりを思わせる鋭い輝きを帯びていく。石突には、美弦が書いた小さな護符を巻き付け、麻紐できつく固定した。墨の線は力強く、見る者に圧をかけるような形をしている。
「刺しても叩いても、霊的な効果が乗るわよ」
ありがたいが、同時に「絶対当てろよ」という無言のプレッシャーをひしひしと感じる。
兵衛は部屋の端で大太刀の刃を布で拭い、背負い紐を調整していた。夜間戦闘では鞘を素早く捨てられるよう、革の止め具を緩める手付きが無駄なく速い。
「大太刀は一合一合が命。外せば命取り」
短く言ったその声に、研ぎながら自然と背筋が伸びた。
美弦は机に向かい、筆を走らせている。白札の上に黒々とした文字が躍り、符が形を成していく。用意するのは三種類――対象を拘束する封符、光で目をくらます光符、そして爆符。
「爆符は使い所を間違えるとこっちも吹っ飛ぶから、渡すのは一枚だけね」
……なんか俺だけ危険物を渡されてないか? と思ったが、口には出さなかった。
符の整理を終えると、美弦は座敷の隅から長弓を取り出した。弦は新しく張り替えられ、握り革には彼女の手に馴染んだ跡がある。傍らには、符を巻き付けた矢が数本――封符を仕込んだもの、火を帯びるもの、そして目眩し用の光矢。
「接近戦はあんたと兵衛さんに任せるけど、遠距離から援護はする。こっちも一撃で仕留めるつもりよ」
そう言って、美弦は弓を軽く引き、弦の張り具合を確かめた。弦が低く唸る音が、部屋の緊張をさらに引き締める。
ふと、美弦が手を止め、机の下から細長い箱を取り出した。蓋を開けると、中には赤と金の組み紐が絡み合った飾り紐が入っていた。房飾りが小さく揺れ、光を受けて艶やかに輝く。
「玉藻、ちょっとこっち」
呼ばれた玉藻は素直に近寄り、前足をそろえて座る。
美弦は飾り紐を首に回し、ちょうど喉元に小さな護符が収まるように結んだ。結び目の位置を整え、房飾りが尾と干渉しないよう軽く撫でる。
「これ、匂いを拾いやすくする符を仕込んである。術者の気配や、魂を削った痕跡も辿れるはず」
玉藻は「きゅ」と鳴き、首を振ってみせる。飾り紐はしなやかに揺れ、尾の動きと呼応するようだった。
俺は思わず笑ってしまう。
「なんか……妙に似合うな。お祭りの首飾りみたいだ」
「可愛いだけじゃないわよ。これ、相当高性能なんだから」
美弦が軽く睨んできたが、その目尻はわずかに緩んでいた。
準備を終えた俺たちは、最後の作戦確認を済ませる。地図の上に置かれた四枚の封符は、北堀端周辺の要所を示している。
「玉藻が匂いを拾ったら、兵衛さんは右岸から回り込み。私は左岸から矢で援護。あんたは真っ正面から引きつける」
俺は溜め息をつきつつ、槍の石突を軽く床に打ち付けた。
「了解。どうせなら、夜討ち手当くらいは欲しいな」
「命があれば、請求くらいはできるんじゃない?」
美弦の軽口に、兵衛が小さく笑った。俺も苦笑しつつ、念のため兵法スキルを呼び出し、昼間見た地形を参考に、作戦を再確認した。
【修理術スキルの熟練度が上昇しました】
【兵法スキルの熟練度が上昇しました】
やがて、障子を開けると、外は群青色に染まり始めていた。通りを行き交っていた人々は家路につき、あちこちで提灯の灯りがともる。昼間の喧騒は遠のき、代わりに夜虫の声が町に溶けていく。夕風が冷たくなり、衣の袖がわずかに揺れた。
俺たちは無言のまま北堀端へ向かう。石畳の道を抜け、橋を渡り、水面が見える路地に差しかかる。堀の向こう側には、昼間と同じ白壁の蔵が黒々と影を落としている。その静けさが、逆に胸の奥をざわつかせた。
北堀端に着いた時には、空はすっかり群青に沈み、町の明かりがぽつぽつと川面に映っていた。昼間の喧騒は消え、聞こえるのは水音と、時折吹く夜風が白壁を撫でる音だけだ。
「……人払い、うまくいってるな」
兵衛が周囲を見回す。堀沿いの道には町人の姿はなく、提灯の灯も遠くで揺れるばかり。美弦は無言で弓を手にし、背負い袋から札を数枚抜き取った。
玉藻が低く「きゅ……」と鳴く。
二本の尾が膨らみ、首の飾り紐の護符が淡く光を帯びた。
「もう感じてる……水の匂いに混じって、あの影の気配」
美弦の声は囁きのように低い。
俺は槍の石突を地に軽く打ち込み、間合いを測る。湿った夜気が頬を撫で、堀の水面は異様なほど静かだった。その静寂の中――ぽたり、と水滴が落ちる音が聞こえた。
見上げると、堀の中央、水面から黒い波紋が広がっていた。波紋の中心は暗く、底知れぬ穴のように沈んでいる。そこから、昼間見た“黒い渦”が、ゆっくりと這い上がってきた。
「……来るぞ」
兵衛が大太刀の鞘を外す。刃が月明かりを反射し、青白く光った。
渦は形を変え、人影の輪郭を作る。その輪郭の中心に、昼間見た黒い呪符と同じ光が脈動しているのが見えた。まるで「これが媒介だ」と見せつけるかのように。
美弦が弓を引き絞り、矢先の札が淡く輝く。
「合図と同時に封印矢を撃つ。あんたは正面で引き付けて」
「……はいはい、囮ね」
俺は深く息を吸い、槍の穂先を渦の中心に向けた。
次の瞬間――水面が爆ぜた。黒い触手が四方八方に伸び、石畳と橋脚を絡め取る。そのうちの一本が、蛇のような速さで俺の脚を狙ってきた。
槍の穂で弾き返すと、触手が裂け、黒い飛沫が夜空に散る。飛沫が落ちた石畳がじわりと焦げ、煙を上げた。その臭気が鼻を刺し、昼間の戦いが脳裏に蘇る。
「兵衛、右!」
俺の声と同時に、大太刀の一閃が触手をまとめて断ち切った。切断面から黒い霧が立ち昇り、周囲の空気が急速に冷えていく。
その冷気の中、人影がぬるりと前に出た。顔は闇に隠れて見えないが、その視線だけは確かに俺たちを貫いている。ステータスを確認しようとした――だが、数値が霞のように揺らぎ、視界から滑り落ちていった。
(やっぱ名前がわからないとだめか……)
美弦の声が鋭く響いた。
「今――!」
弓弦が鳴り、封印矢が夜空を裂く。矢先の札が白く閃き、影の胸元に突き立った。
だが、次の瞬間――
影の体がぐにゃりと歪み、矢を吸い込むように呑み込んだ。札の光は瞬く間に消え、黒い笑い声のような響きが夜気を揺らした。
「……効いてねぇのかよ」
槍を構え直した俺の足元で、玉藻が低く唸る。その首の護符が一瞬だけ強く光った。
影は、まるで煙と水を混ぜたような質感で揺らめきながら、じわじわと距離を詰めてきた。その胸元で脈打つ黒い媒介が、まるで心臓のように明滅している。あれを壊せば――少なくとも術は一旦途切れる。
「兵衛、あれだ!」
俺の声に、兵衛は無言で頷き、大太刀を肩に担いだ。しかし影はその意図を見抜いたかのように、触手を束ねて壁のように前へ出す。刃が通れば裂けるだろうが、あまりに数が多い。
美弦が矢を二本、同時に弦にかけた。片方は光符、もう片方は火符を巻いた矢だ。
「せーの!」
矢が放たれ、光と火が同時に爆ぜる。瞬間、影の“壁”が揺らぎ、触手の一部が弛んだ。
「今だ!」
兵衛が踏み込み、大太刀が唸りを上げた。刃は触手をまとめて断ち割り、そのまま影の胴を裂く――はずだった。
しかし、影は水のように割れ、兵衛の刃を避ける。割れ目の奥で、媒介がより強く光り始めた。
「くそ……あれ、自分から見せびらかして挑発してやがる」
俺は槍を構え直し、影の横合いに回り込む。玉藻がすぐ後ろをついてきて、首の護符が脈打つように明滅している。
影が俺に気付いた瞬間、触手が一本、鋭く突き出された。紙一重でかわし、槍の穂で突き返す。石突に巻いた護符が反応し、穂先から淡い光が走った。
「効いてる……!」
触手が痙攣するように縮み、その隙に俺は距離を詰める。
背後から兵衛の声が飛んだ。
「若、抜け!」
その声と同時に、兵衛の大太刀が横薙ぎに走り、影の肩口を裂く。切り口から黒い霧が噴き出し、辺りの空気が一層冷たくなった。
その霧の奥――媒介がむき出しになっている。俺は槍を引き絞り、一気に突き込んだ。
「《霧突き》……!」
刃先が黒い珠を貫いた瞬間、耳を劈く悲鳴のような音が響き、珠がひび割れる。
同時に、珠の中から淡く白い靄が溢れ出し、夜空へと引き上げられていった。それは人の形を成す前に、光を失って霧散する――魂だ。胸の奥がざわりと震え、背中に冷たい汗が走った。
光と闇が入り混じる閃光が迸り、堀端の景色が一瞬真昼のように白く染まった。次の瞬間、媒介は粉々に砕け、影の輪郭が崩れていく。
「やった……のか?」
俺の息は荒く、槍を支える手が震えていた。
しかし、崩れ落ちるはずの影は、その場に留まり、黒い霧となって揺らめき始める。ひと息つく間もなく、霧はゆっくりと人の形を取り戻しつつあった。水面から吹き上がる冷気が、肌を鋭く刺す。
霧が蠢き、人の形を形作る。背丈は俺より頭ひとつ分高く、肩幅の広い男の輪郭。顔の上半分は黒い面で覆われ、下半分だけが月明かりに照らされている。唇が、ゆっくりと吊り上がった。
「……囮役、よくやったな」
……その瞬間、脳裏に昼間の光景が蘇る。
――堀端での小競り合いのあと、俺は水桶を担いだ町人と肩がぶつかった。
「おっと、失礼」
低くくぐもった声。桶の水が俺の足元に少しこぼれ、相手はにやりと笑って去っていった。その笑いは、妙に耳に残ったままだった。
今、その声が、霧の中から聞こえてきた。
昼間の町人と同じ声。間違いない。
「町人に紛れて……」
呟いた瞬間、男の背後で黒い触手が生まれる。媒介を失ったはずのそれは、以前より細く鋭く、まるで毒針のようだ。
「媒介は一つとは限らん」
男が面越しに笑う。
「今夜は試しだ。本命は……もう少し先でいい」
触手が一斉に襲いかかってくる。兵衛が前に出て大太刀を振り抜き、数本をまとめて叩き落とす。美弦の矢が光を放ち、残りの数本を焼き払う。
「若、左へ回れ!」
兵衛の声に従い、俺は槍を構えて駆ける。槍の石突が石畳を叩き、間合いを詰める。穂先を男の肩口に突き込むが、触手が蛇のように絡みつき、弾かれた。
「その程度か」
男が片手を上げると、周囲の水面から新たな霧が立ち上る。それは瞬く間に四方八方から迫り、俺たちを包囲した。
「兵衛、美弦! 一気に抜けるぞ!」
だが、美弦の声は霧の中でぼやけて聞こえる。視界が奪われ、音が遠ざかる。まるで霧そのものが、感覚を削いでいるかのようだ。
その時、玉藻の首の護符が強く脈打った。白い光が霧を裂き、一瞬だけ視界が戻る。
――男の胸元、衣の奥に、もう一つの黒い珠が見えた。
「見えた……!」
俺は踏み込み、槍を低く構える。しかし男は後退せず、逆にこちらに歩み寄ってきた。
「次に会う時は、お前の魂も頂く」
その囁きと共に、男の輪郭は霧と共に崩れ、堀の水面へと沈んでいった。
残されたのは、薄く漂う冷気と、背筋をなぞるような悪寒だけだった。
【槍術スキルの熟練度が上昇しました】
【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】
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