第19話 社畜、残業の気配におびえる
次の日。東の空がようやく白み始めた頃、川面にはまだ薄い霧が流れていた。草の露が足袋を濡らし、冷たい空気が肺に刺さる。昨夜の怪火の青白い光が、まだ網膜の奥でちらついている。
河原に着くと、兵衛はすでに立っていた。手には三尺三寸(約100cm)の大太刀、脇には六尺余(約185cm)の槍。俺も槍と太刀を手にしているが、今日の稽古内容は見た瞬間に察した。
「若、本日は槍と大太刀、両方使わせますぞ」
「……朝から二交代制ってことか」
「戦場で武器を選んでくれる敵はおりませぬ」
まずは俺が槍、兵衛が大太刀を構える。槍の穂先を低く構えて牽制しつつ、間合いを測る。兵衛はゆったりとした足取りで詰めてくるが、その一歩ごとに距離が吸い込まれるように狭まる。
一合目、大太刀が唸りを上げて振り下ろされる。俺は槍の柄で受け流し、反対の手で穂先を突き出すが、兵衛は刃をわずかに傾けて穂を逸らした。
「昨日の怪火……若はどう見ました?」
稽古の最中だというのに、兵衛は淡々と話を振ってくる。
「式神か、召喚獣の残骸だって話だろ。自然発生じゃない」
「ふむ……ならば主は必ずおる」
会話の隙を狙うように、大太刀が鋭く斜めに走った。慌てて槍で受け流すが、衝撃が手のひらを痺れさせる。
「喋りながらいなせるほど、まだ腕は上がっておりませぬな」
「いや、稽古しながら捜査会議って効率悪いだろ!」
「武も知も、同時に鍛えてこそ真の武士にございます」
そう言うや否や、一歩深く踏み込み、大太刀の一撃を再び繰り出してきた。
二合、三合と続けるうちに、兵衛は大太刀を納め、槍を手に取る。
「今度は同じ武器同士、どう詰めるか見せてもらいましょう」
穂先が閃き、突きの連打が押し寄せる。木の柄同士がぶつかるたび、乾いた音が霧の中に響く。
「昨日のあの群れ、単なる見世物ではありませぬ」
槍を押し返しながら兵衛が言う。
「試し撃ち、というやつか」
「あるいは我らの力を測っていたやもしれぬ」
その言葉に、背筋がひやりとする。
一瞬の隙をついて、俺は槍を背へ回し、太刀を抜いた。兵衛も槍を地に置き、大太刀を再び引き抜く。刃と刃がぶつかり、金属音が響く。大太刀の一撃は重く、受けるたびに腕が軋むが、太刀の軽さを活かして斜めにかわし、間を詰める。
昨日、美弦の結界で意識した“間合いの糸”をここでも張る。兵衛の肩がわずかに沈んだ瞬間、太刀の切っ先が彼の籠手をかすった。
「……半合、早うなりましたな」
「やっと褒めたな」
「しかしまだ半合。術も武も備えた相手に届くには、もう半合詰めねば」
川霧が晴れ、黄金色の朝日が水面を照らし始める。槍と太刀、二つの柄を握ったまま、息を大きく吐く。今日も朝から稽古、昼は怪火の解体、夕方には主の捜索――間違いなく、フル稼働の一日だ。
「では若、まずは朝餉を取り、すぐに美弦殿のもとへ参りますぞ」
「……休む暇もねえのかよ」
兵衛の笑い声と、朝日に照らされた大太刀の光が、妙に眩しく見えた。
【槍術スキルの熟練度が上昇しました】
【剣術スキルの熟練度が上昇しました】
稽古を終えると、その足で町の奥――美弦の借り屋へ向かった。まだ朝日が斜めから差し込む時間だというのに、部屋の障子はすべて閉ざされ、薄暗い。香炉から立ちのぼる沈香の香りが、鼻腔にじわりと染み込む。
「いらっしゃい。じゃあ始めるわよ」
美弦は座敷の中央に白布を敷き、その上に昨夜捕らえた怪火を置いた。符に封じられた光はまだ脈動し、青白い炎が布の上でゆらめく。
兵衛は壁際に大太刀を立て掛け、膝を折って見守る。俺は正直、これが暴れ出したらどうなるのか気が気じゃない。
「……暴発とかしないよな」
「暴発させないのが術師の腕よ。でなきゃ家ごと燃えるでしょ」
美弦は軽く笑い、筆と墨を手に取った。
床に大きく円を描き、四方に護符を置く。昨日、河原で俺が習った簡易陣とは比べものにならない複雑さだ。円の中には細かな文字や記号が幾重にも重なり、まるで蜘蛛の巣のように広がっていく。
「この式は、“核”を炙り出すためのもの。核が分かれば、誰が仕込んだかも見えてくる」
美弦の声は、筆の動きに合わせて低く、途切れ途切れになる。やがて墨が最後の線を結び、護符が淡く光を帯びた。
怪火がその光に引き寄せられるように揺らめき、炎の揺れが不自然に細かくなる。ぱちり、ぱちり――規則的な音が、炎の奥から響き始めた。それはまるで心臓の鼓動のようで、俺は思わず息を呑む。
「見えてきたわ」
美弦が筆を置き、両の掌を炎の上にかざす。怪火の光が剥がれ落ち、その中心に黒い塊が浮かび上がった。濡れた墨玉のようなそれは、表面に細かな文様を刻まれている。
「……呪符ですな」兵衛が低く呟く。
「式を動かす核。しかも、この文様……」
美弦はそれを指先でつまみ上げ、じっと見つめる。
「北山流……でも一部が改造されてる。古い術に誰かが手を加えたわね」
美弦の表情が険しくなる。そして俺に視線を向け、淡々と言った。
「これ、“媒介”よ」
「媒介?」
「怪火は、ただの式神じゃない。生き物の魂を削り取って集めるための入れ物。この前の西裏の時のと似た感じね」
「魂を……?」
「そう。少しずつ、目立たない程度に。だから昨夜のは町を狙ったものじゃなく、試験。どれくらい集められるか、術者が確かめたのよ」
背中に冷たい汗が伝う。偶然の怪火ではない。意図的な実験――それも、魂を集めるための。
「集めた魂は、どうするつもりだ」
「使い道は幾つかあるけど……一番いやなのは、儀式の触媒」
美弦の声が低くなる。
「大規模な召喚、結界の突破、あるいは――死者の蘇り」
兵衛の眉間に深い皺が寄る。
「昨夜、堀端で人影を見たのは……術者か」
「可能性は高いわね。自分の術の成果を、直接見に来ていたんでしょう」
美弦は呪符を小箱に収め、蓋を固く閉じた。その瞬間、座敷に漂っていた妙な湿り気がすっと消えた。
「核は抑えた。けど、放った主が近くにいる可能性は高いわ」
俺は深く息を吐き、槍の柄を握った。朝稽古を終えたばかりだというのに、胸の奥で戦の匂いが再び立ち上る。今日も定時退社は夢のまた夢だ――そして今度は、その“魂集め”の元凶を、どうしても捕まえなければならない。
【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】
美弦の部屋を出た頃には、すっかり陽が高くなっていた。川沿いの通りは洗濯物が揺れ、魚屋の威勢のいい声が響く。だが、俺の足取りは重い。
「魂集めの媒介、ねぇ……聞くだけで胃が痛くなる」
「若、痛むのは胃よりも、これからの行程にございましょう」
兵衛が淡々と答える。つまり、これからが本番だと遠回しに言っている。
まずは北堀端の再訪。昨日の夜は月明かりと怪火の光しかなかったが、昼の顔はまた違う。水面は眩しいほどに輝き、白壁と瓦屋根がくっきりと映っている。……だが、石垣の一角、焦げ跡はまだ残っていた。
「昨夜の光がここを照らしていたな」
俺が指差すと、美弦は屈んで跡を指先でなぞる。
「……炭化の仕方が変。普通の炎なら外側から焦げるはずなのに、これは内側から焼けてる」
「つまり、あの炎が接触した部分だけ、内部から燃えたってことか」
「そう。魂を削る性質が、物にも影響してるのかもしれない」
兵衛は周囲を見回しながら、低く言った。
「足跡は消されておりますな。……否、敢えて残さなかったのか」
「どういうことだ?」
「術者が自分の存在を知られたくなければ、跡は消す。だが消し方は雑。昨日の夜、人影を見たのも……我らに“気づかせた”のやもしれませぬ」
わざと気配を残すことで、こちらを誘っている……? 背筋が冷える。
堀端から町中へ戻ると、美弦が商家や茶屋に寄って、さりげなく聞き込みを始めた。怪火を直接見た者は見つからなかったが、「水辺で子供が急に倒れた」という話が二件。いずれも昨夜と一昨日の夜。倒れた後はしばらくぼんやりして、翌朝には何事もなかったように目を覚ましたらしい。
「魂を少しだけ抜かれたせいで、一時的に虚ろになったのかも」
美弦の推測に、俺は無意識に拳を握っていた。もしこれが繰り返されれば、いずれ“少し”では済まなくなる。
昼過ぎ、再び堀端に戻った。陽射しが強まり、石畳が白く光っている。だが、玉藻が突然立ち止まり、二本の尾を逆立てた。
「……きゅ」
耳が前に倒れ、喉から低い唸りが漏れる。
「何か来る」美弦が短く告げた。
次の瞬間、水面の奥で微かな揺らぎが走った。炎ではない。だが、陽の下でもはっきり分かる、黒い影の渦――。
「昨夜の術者が、昼間でも仕掛けてきた……?」
兵衛の手が大太刀の柄にかかる。俺も槍を握り直し、影から目を離さない。
黒い渦は水面の奥でじわじわと大きくなり、やがてゆらりと形を変えた。それは人影にも見えるし、巨大な水蛇の頭にも見える、不定形の塊だった。
――――――――――
名前:ーー
種族:式神(不定形)
属性:陰/水
スキル:
・擬態【熟練】
・触手攻撃【中級】
・溶解侵蝕【中級】
・魂吸収【初伝】
・媒介化【初伝】
・主従同調【修練】
・水域転移【初伝】
――――――――――
「……あれは怪火じゃないな」
「別系統の術だわ。おそらく、怪火の主が直接操ってる」
美弦の声は低く、抑えた緊張を帯びている。
周囲には昼間の散歩客や荷を運ぶ町人たちが行き交っている。この場で派手にやれば、堀端が騒ぎになるのは目に見えていた。兵衛がちらりと俺を見る。
「若、人目がある以上……最小限で」
「分かってる」
俺は槍を低く構え、水辺の端へじり寄った。黒い影はそれに呼応するように近づき、やがて堀の縁にまで迫る。不意に、影の中から細い“腕”のようなものが伸びてきた。水でできた触手――いや、液体の鎖のようだ。
ひゅるり、と音を立てて俺の足元に巻きつこうとする。槍の穂先で払うと、手応えのない感触だけが残り、水飛沫が散った。しかし、飛沫が石畳に触れた瞬間、そこに焦げ跡がじわりと広がる。
「……やっぱり媒介の性質を持ってる」
美弦が短く呟き、袖の中から小さな護符を放った。護符は空中で火花を散らし、触手に触れると蒸発するように消える。けれど、その一瞬だけ影がひるみ、形が揺らいだ。
「若、今!」
兵衛の声に合わせ、俺は槍を突き出す。穂先が影の中心を貫いたかと思ったが――空を突いたような感触。次の瞬間、影は水面に吸い込まれるように沈み、跡形もなく消えた。
……と思ったら、堀の中央で青白い火花がぱちりと弾けた。その光が淡く人型を描く。背の高い、細身の影。顔は見えないが、視線だけは確かにこちらに向けられていた。
「……見てる」
俺の言葉に、美弦が小さく頷く。
「挑発よ。『次は夜に来い』って言ってる」
その瞬間、人型はふっとかき消え、ただ陽光を反射する水面だけが残った。
昼下がりの堀端に戻った喧騒が、妙に遠く感じられる。川沿いの道では行商が声を張り上げ、魚籠を提げた女房が威勢よく値切り交渉をしている。水車の軋む音と、どこからともなく響く笛の音が重なり、昼の町は陽気な熱気に包まれていた。
俺は息を吐き、兵衛と視線を交わした。
「……夜まで待たせる気らしいな」
「ならばこちらも備えを整えるまで」
【槍術スキルの熟練度が上昇しました】
【陰陽術スキルの熟練度が上昇しました】
人波に紛れて歩き出したとき、肩口に硬い感触が当たった。見ると、水桶を担いだ町人がすれ違うところだった。桶の縁がごつりと当たり、冷たい水がぱしゃりと足元に跳ねる。すれ違いざま、湿った木桶の匂いに、どこか鉄錆のような匂いが混じって鼻をかすめた。
「おっと、失礼」
低く、くぐもった声。人混みのざわめきに紛れて、軽く会釈したその口元が、わずかに吊り上がった気がした。
ほんの一瞬のことで、周囲の賑わいにすぐ掻き消されたはずなのに、その笑みだけが妙に脳裏に焼きつく。ステータスを覗いておけば――そう思った時には、もうその背は人混みの向こうに溶けていた。
……気のせいかもしれない。今の俺は、相手の影を追うあまり、町人の何気ない仕草にも神経を尖らせているのかもしれない。だが、それでもあの笑みの残像は、頭の奥にじっと居座り続けていた。
相手は魂を集める術者――こちらをじわじわと試しながら、確実に一線を越えてくる。
……定時退社の道は、ますます遠のいていった。
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