紅い瞳のマーメイド
「う〜む……」
大地は腕を組みながら、今の状況について考えていた。
目の前にいるのは、小柄な美女。
――もとい、白髪に紅い瞳をしたマーメイド。
透き通るような白い肌に、腰まで伸びた白髪。
そして水中をゆらゆらと漂う白銀の尾鰭は、淡い光を纏っているようで、とても美しい。
源爺から聞いた話では――。
「ルシエルはアルビノの人魚じゃ。白い髪と紅い瞳が気味悪いと言われて、王国では迫害を受けておった。じゃから、ここで家族として迎え入れたんじゃ。可愛いじゃろ? ワシにとっては孫娘みたいなもんじゃ。大地もルシエルのこと、頼んだぞ」
――とのことだった。
そこまでは分かる。
分かるのだが……。
それがどうして、こいつからこの世界での対人魚を想定した格闘を教わる流れになったのか。
別に驕っているわけではない。
ないのだが――仮にも世界戦まで経験してきたこの俺が、戦い方を教わる……だと?
「……ちょっと、大地。私の話、ちゃんと聞いてるのか?」
「ルシエル、呼び捨てで呼ぶな! 俺の方が年上だぞ!」
「大地こそ呼び捨てで呼ぶな! 私の方がこの村では先輩よ!」
「年上を敬え!」
「先輩を敬え!」
互いに一歩も譲らない。
ルシエルは頬を膨らませながら、白銀の尾鰭を優雅にはためかせた。
「ぐっ……まあいい。ルシエル、とりあえず掛かって来い」
大地は両拳を軽く構えると、水を蹴るように身体を上下左右へ揺らした。
まだ地上と同じようにはいかない。
だが、この世界へ来たばかりの頃に比べれば、水中で身体を動かす感覚はかなり掴めてきている。
「指導するのは私よ。大地の方から掛かってきな」
ルシエルが小さく手招きする。
「そうかよっ!」
大地は水を蹴った。
一気に間合いを詰め、その勢いのまま右ストレートを放つ。
――だが。
拳が届く寸前、ルシエルの姿が視界から消えた。
「上か!」
ルシエルは尾鰭を一振りし、真上へと逃れていた。
そのまま身を翻す。
白髪が水中で大きく広がり――両手の爪を立てたルシエルが、大地目掛けて頭上から急降下してきた。
だが、大地の反応も速い。
振り下ろされた両腕を掴む。
勢いには逆らわない。
突っ込んできた力をそのまま利用して身体を捻り――。
「ほっ!」
ルシエルを背後へ放り投げた。
「きゃっ!?」
くるくると水中を回転したルシエルが、尾鰭を広げて体勢を立て直す。
そして――。
「キィーーッ! なんで当たらないのよ!」
「なんでって……」
大地は何でもないことのように首を傾げた。
「似たような攻撃を、最初にこの世界へ来た時に見たからかな」
大地が思い出したのは、この世界へ来て間もない頃に襲い掛かってきた人魚だった。
上下から襲ってくるという発想そのものは、地上の格闘技には存在しない。
だが――攻撃する直前の視線、肩の動き、力の入れ方。
人である以上、攻撃には必ず予兆がある。
そこを読むことに関してだけは、大地にとって二十歳という年齢以上の積み重ねがあった。
「…………」
さらりと言ってのけた大地の余裕の表情を見て、ルシエルの白い頬がみるみる赤く染まっていく。
「ほらほら、ルシー。怒らないの。ご飯、持って来たわよ」
そこへ料理を抱えた美萩がやって来た。
「美萩姉!」
むくれていたルシエルを美萩が抱き寄せる。
小柄なルシエルの身体はすっぽりと収まり、美しい白髪が美萩の胸元でふわりと広がった。
「だって大地が……」
「もう、ルシーったら。拗ねた顔もかわいい」
「……揶揄わないでよ」
「はいはい、分かったわ。ほら見て。ルシーの胸が大きくなるように、今日もたくさん作って来たわよ」
「もう、美萩姉ったら……いつもそればっかり……」
ルシエルはますます頬を赤くする。
そんな二人のやり取りを、大地は少し離れたところから微笑ましく眺めていた。
◇
「美萩姉さん、ゆき……さんって、どんな人なんですか?」
食後のひと休みの最中、大地はふと思い出したように美萩へ問いかけた。
少し離れた場所では、ルシエルと以前よりひと回り大きくなったアークが、追いかけっこでもするように元気よく泳ぎ回っている。
「ゆきさんはね、良造さんの奥さんよ」
美萩は泳ぎ回る二人を眺めながら答えた。
「私が初めてこの世界に来た頃、この村を外敵から守っていたのがゆきさんだったの。ゆきさんって、本当に凄いのよ。この前襲ってきたレッドファング程度なら――」
そこで美萩は、さらりと言った。
「凍らせちゃうんだから」
「……凍らせる?」
大地が思わず聞き返す。
あの巨大なホホジロザメを思い浮かべたからだ。
「そう。ゆきさんの能力は『冷』。熱を奪って、あらゆるものを凍らせてしまう能力なのよ」
「……凄いですね」
「うん。凄いのよ。能力もそうだけど、とても優しい人でね……ルシエルのことも、本当の娘みたいに可愛がってたわ」
「それなのに、なんでこの村を?」
大地が尋ねると、美萩の表情からわずかに笑みが消えた。
「それは……」
一度口を開き――少し迷う。
「……大地くん。これは、まだ黙っててね」
そう言って美萩は、ちらりとルシエルの方を見る。
ちょうど目が合った。
「美萩姉ー!」
ルシエルが笑顔で手を振る。
美萩も何事もなかったかのように、にっこりと笑って手を振り返した。
そしてルシエルが再びアークを追いかけ始めたのを確認すると、小さく息を吐く。
「……ルシエルがね。ちょうど反抗期みたいな時期があって……その頃に、ちょっと色々あったのよ」
「色々?」
「うん……色々」
美萩は困ったように笑うだけで、それ以上は話そうとしなかった。
「それに、この世界は弱肉強食でしょう? そのうえ王国は男尊女卑。女の人魚が力を認めてもらうのは、男よりずっと大変なの」
美萩はもう一度、ルシエルへ視線を向ける。
「だから大地くん――ルシーのこと、よろしくね」
「…………」
なるほど。
大地はそこで、ようやく察した。
今の自分なら、おそらく討伐隊に参加すること自体はできる。
レッドファングとの戦いで、ある程度の実力は見せた。
あとは人魚との戦い方を覚え、この世界での戦闘経験を積めばいい。
だが――ルシエルは?
王国が男尊女卑なら、女であるルシエルが実力を認めさせるためには、ただ強いだけでは足りない。
誰にも文句を言わせないほどの――圧倒的な強さが必要になる。
大地は泳ぎ回るルシエルを見つめた。
――そういうことか。
源爺は、ルシエルを自分の指導役にした。
この世界で生きてきたルシエルから、大地が水中での戦い方を学ぶ。
だが同時に――。
世界戦まで経験した大地と戦わせることで、ルシエルにも戦い方を学ばせる。
お互いに教え、お互いに学ぶ。
最初から、それが狙いだったのだ。
「……回りくどいことを」
大地が呆れたように呟く。
「私や源爺には出来ないことだから……頼んだわよ、大地くん」
美萩が大地の顔を覗き込み、悪戯っぽくウインクする。
「お姉さんのお願い、ちゃんと聞いてね」
「……任せてください」
大地は再びルシエルを見る。
無邪気にアークを追いかける、白髪に紅い瞳のマーメイド。
そして――まだ会ったこともない、良造の妻。
「ルシエルも――そして、ゆきさんのことも」
「ふふっ。さすが大地くん、頼りになるぅ」
そう言いながら、美萩はそっと大地の背中を押した。
その先では何も知らないルシエルが、アークと楽しそうに泳ぎ回っていた。
◇
「仕切り直しよ! 大地っ!」
目の前には、白銀の尾を優雅にはためかせながら腕を組み、こちらを睨みつける紅い瞳のマーメイド。
――ルシエル。
しかも、その隣には電気ナマズのアークまでいる。
ルシエルを庇うように前へ出ると、小さな胸鰭をぱたぱたとはためかせていた。
「お、おい、アーク……」
「キュッ」
「お前……ルシエルの味方をするのか?」
「キュ、キュキュッ」
言葉を理解しているのか、いないのか。
アークは小さな魚体をくるくると回転させながら、楽しそうに泳ぎ回る。
「……そうかよ」
大地は口元を吊り上げた。
「なら、二人まとめて掛かって来い」
戦闘態勢に入った大地は両拳を構え、左右に身体を揺らす。
先ほどとは違う。
今度はルシエルの上下への動きも警戒する。
どこから来ても対応できるよう、視野を広く――。
「へへん! 私とアークが考えた連携技、とくと見よ!」
ルシエルが得意げに胸を張る。
「厨二病かよ!」
「ちゅうにびょう? なにそれ」
「知らなくていい」
ルシエルがアークへ視線を送る。
「行くよ、アーク!」
「キューッ!」
次の瞬間――。
ルシエルが白銀の尾鰭で水を強く叩いた。
その小柄な身体が弾かれたように加速し、一気に大地との間合いを詰める。
速い。
だが――見える。
「今度は――」
いける。
そう思った瞬間だった。
「アーク、今よ!」
「キュキュッ!」
――バチッ!
アークの身体から、眩い電光が弾けた。
「っ!?」
大地の視界が一瞬、真っ白に染まる。
(――目眩ましか!)
電撃を当てるためではない。
ほんの一瞬、大地から視界を奪うため。
そして、その一瞬で十分だった。
頭上。
水を切り裂く気配。
大地が顔を上げた時には――遅い。
「やぁっ!」
縦に大きく回転したルシエルの白銀の尾鰭が、まるで浴びせ蹴りのような軌道を描いて大地の肩口へ叩き込まれた。
――バシィッ!
「ぐっ!」
衝撃で大地の身体が下方へ流される。
だが、ルシエルの攻撃は終わらない。
「アーク、まだよ!」
「キュッ!」
縦回転を続けるルシエル。
その死角から――今度はアークが飛び込んできた。
(こいつまで!?)
小さな身体を横向きに一回転。
大地には、それが地上の格闘技でいう水面蹴りのように感じた。
アークの尾鰭が、大地の脛を正確に打ち抜く。
「うおっ!?」
足を払われる。
――もっとも、水中に踏ん張る地面などない。
身体の軸を崩された大地が、そのまま水中でくるりと回転した。
そこへ再びルシエルが迫る。
上から。
横から。
そして死角からは、アーク。
目眩まし。
縦回転。
横回転。
地上ではあり得ない方向から繋がっていく波状攻撃。
大地は防御するだけで精一杯だった。
(なるほど……)
腕でルシエルの尾鰭を受けながら、大地はようやく理解する。
(これが――この世界の戦い方か!)
先ほどまでとは違う。
相手の動きが読めないのではない。
読んだところで、次の攻撃が地上の常識にはない方向から飛んでくる。
しかも――二人がかり。
ルシエルとアークが繰り出す縦と横の波状攻撃を前に、大地は完全に後手へと回る。
(なんでもあり……か。忘れていたよ)
ルシエルとアークの波状攻撃を受けながら、大地は自嘲気味に笑った。
思えば、自分はずっとルールの中で戦ってきた。
格闘技と出会い、学び、やがてプロのリングへ上がった。
殴っていい場所。
蹴っていい場所。
使っていい技。
使ってはいけない技。
どれほど激しい戦いであっても、そこには必ずルールがあった。
だが――この世界には、そんなものはない。
最初に受けた、頭上からの引っ掻き。
そして今の、アークの電撃による目眩まし。
噛みつこうが、引っ掻こうが、死角から襲おうが――生き残った者が勝ち。
源爺が言っていたことは、決して大袈裟ではなかったのだろう。
(ルシエルは……ずっと、こうやって戦ってきたのか)
大地とは違う。
勝つためではない。
名誉のためでも、ベルトを手に入れるためでもない。
――生きるため。
迫害され、それでも生き延びるために。
使えるものは何でも使い、どうすれば自分より強い相手に勝てるのか、常に考えて戦ってきたのだろう。
ルシエルの攻撃を受け続けながら、大地にはそれが痛いほど伝わってきた。
(……なら、俺も負けられないな)
再びアークの電光が弾ける。
視界が白く染まった。
――見えない。
だが。
(……待てよ)
大地は目を閉じた。
ここはリングではない。
ましてや地上ですらない。
――水の中だ。
(だったら……目だけで追う必要はないんじゃないか?)
大地は意識を周囲へ広げていく。
肌を撫でる水。
身体を押す、僅かな流れ。
何かが動けば、水も動く。
ルシエルが尾鰭を振れば、大きな流れが生まれる。
アークの小さな身体が泳げば、それとは違う細かな流れが生まれる。
水流。
細かな渦。
弾ける泡。
そして――流れと流れの境目。
強く押してくる水と、ほとんど動かない水。
その境には、まるで目には見えない壁でもあるかのように、はっきりとした感触の違いがあった。
(……なんだ、これ?)
大地は感覚を研ぎ澄ませる。
ルシエルが泳ぐ。
その身体に押し退けられた水が流れとなり、周囲の水とぶつかって、新たな境目を作る。
見えない。
だが――感じる。
(流れに……壁がある)
そして、その壁が揺れた。
何かが――来る。
大地が反射的に腕を上げようとした、その時。
「はあ……はあ……はあ……」
攻撃が――止まった。
「……どうだ、大地!」
大地が目を開く。
そこには肩で息をしながらも、得意げに胸を張るルシエルがいた。
隣ではアークも疲れたのか、ぷかぷかと浮かんでいる。
「参ったか!」
「…………」
もう少しだった。
あと少し続いていれば、何かを掴めた気がする。
だが――。
大地は構えを解いた。
「ああ。降参だ」
「…………え?」
あまりに素直な返事だったからか、ルシエルが目を丸くする。
やがて、その意味を理解すると――。
「へへん! やったね、アーク!」
「キューッ!」
ルシエルが片手を差し出す。
アークも嬉しそうに泳ぎ寄り――。
――ぺちっ。
小さな胸鰭とルシエルの手が重なった。
「私たちの勝ち!」
「キュッ!」
無邪気に勝利を喜ぶルシエルとアーク。
大地はそんな二人を眺めながら、先ほど感じたものを思い返していた。
水の流れ。
渦。
泡。
そして――何かが近づいた瞬間に感じた、見えない壁のような感覚。
まだ分からない。
あれが何だったのか、自分でも説明できない。
それでも――。
(この感覚を掴めれば……)
大地は水中で、ゆっくりと拳を握り締める。
(俺は――もっと強くなれる)
その拳に、確かな手応えだけが残っていた。




