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脅威襲来

 坑道の出口付近まで戻ってくると、先を泳いでいた坑夫達が、なぜか次々と足を止めた。


 誰も喋らない。


 手にしたツルハシを下ろしたまま、揃って頭上を見上げている。


「どうした?」


 異変に気付いた千萩が、坑夫達の間を抜けて前へ出る。


「千萩さん、アレ……」


 ひとりの坑夫が、震える指を頭上へ向けた。


「レッドファング……レッドファングが、久々に現れました!」


「――っ!」


 その名を聞いた途端、千萩の表情が変わった。


 大地も坑道の外へ出て、坑夫が指差した先を見上げる。


「……なんだよ、アレ」


 奴隷村の遥か頭上。


 体長十メートルはあるかと思われる巨大なホホジロザメが、悠然と泳いでいた。


 いや――ただ泳いでいるのではない。


 奴隷村を中心に、グルグルと大きな弧を描いて旋回している。


 獲物を探している。


 大地には、そう見えた。


「みんな急げ! 慌てるでない! いつもの場所へ避難するんじゃ!」


 眼下の村では、すでに源爺の声が響いていた。


 その指示に従い、村人達が一斉に避難を始めている。


 干していた魚も、道具も、何もかも放り出して。


 親は子供の手を引き、足の遅い老人には若者が肩を貸す。


 美萩も小さな子供を両腕に抱え、何度も頭上を確認しながら避難場所へと誘導していた。


「……レッドファング」


 大地は、もう一度その巨体を見上げた。


 ホホジロザメならテレビで何度も見たことがある。


 だが――アレは違う。


 半開きになった巨大な口。


 そこから、まるで収まりきらないかのように突き出している、四本の紅い牙。


 一本一本が、大地の腕ほどもある。


 あんなものに噛みつかれたら――。


「…………っ」


 足が動かなかった。


 情けないほど、身体が言うことを聞かない。


 リングの上で、どれだけ大きな相手と向かい合っても、こんな感覚に襲われたことはない。


 人間とは違う。


 アレは――捕食者だ。


 自分達を喰う側の生き物。


「……大丈夫よ、大地」


 隣から千萩の声が聞こえた。


「村には源爺もいるし、美萩もいる。刺激しなければ、すぐに襲ってくるような奴じゃないわ」


「…………」


 大地は返事もできず、その場に佇んでいた。


 今の自分に何ができる。


 ツルハシ一本持って、あんな化け物とどう戦えというのだ。


 ただ村人達の避難が終わるのを見守る。


 それしかできなかった。


 ――その時。


「……千萩さん、アレ」


「え?」


 大地の視線の先。


 村の端に、ひとりだけ取り残された小さな子供がいた。


 恐怖で動けないのだろう。


 その場にしゃがみ込み、両手で頭を抱えながら震えている。


「まずい!」


 千萩が声を上げるより早く、美萩も気付いた。


 抱えていた子供達を近くの村人に託すと、踵を返す。


「美萩!?」


 迷いなどなかった。


 美萩は一直線に、取り残された子供へ向かった。


 ――その瞬間。


 レッドファングの動きが止まった。


「……え?」


 大地の喉から、小さな声が漏れる。


 巨大な頭部が、ゆっくりと下を向く。


 黒い眼が捉えた先にいるのは――美萩。


 ゾクリ。


 大地の背筋に冷たいものが走った。


「美萩! 上だっ!」


 千萩が叫ぶ。


 レッドファングの巨大な尾鰭が、海水を叩いた。


 ドンッ――!


 巨体からは想像もできない速さだった。


 大きな魚体をヒラリと反転させると、一直線に美萩へ向かって急降下を始める。


 紅い牙が覗く口が、大きく開いていく。


「み、美萩――っ! 逃げてぇぇぇっ!!」


 千萩の絶叫が奴隷村に響き渡った。


 その時にはもう――。


「どぉぉぉりゃぁぁぁぁぁっっ!!」


 大地も叫んでいた。


 恐怖を押し潰すように。


 震える身体を無理やり動かすように。


 いや――違う。


 動こうと思った時には、もう動いていた。


 大地の身体が。


「大地!?」


 両手でツルハシを握り締める。


 坑道出口の崖を思い切り蹴った。


 ドンッ!


 岩肌を蹴った反動と同時に、全身で水を掻く。


 レッドファングへ向かって、大地の身体が一直線に飛び出した。


「うぉぉぉぉぉっ!!」


 怖い。


 怖いに決まっている。


 それでも――。


 美萩が喰われるのを、黙って見ていられるわけがない。


 急降下するレッドファング。


 その横から、大地が突っ込む。


 狙う場所など考えている暇はなかった。


 目に入ったのは――口元から突き出した、巨大な紅い牙。


 ツルハシを振りかぶる。


「喰らえぇぇぇっ!!」


 全身の力を込めて――振り下ろした。


 ガッキィィィィン!!


 海中とは思えないほどの激しい衝撃音が響き渡った。


「ぐっ……!」


 両腕が痺れる。


 だが――。


 バキッ!


 紅い牙の一本が、根元からへし折れた。


 折れた牙がクルクルと回転しながら海底へ落ちていく。


 突然の衝撃に、レッドファングの巨体が大きく仰け反った。


「――今だっ! 美萩さんっ!」


「っ!」


 美萩が子供を抱きかかえ、その場から一気に離れる。


 大地はそれを確認する余裕すらなく、レッドファングの背中へしがみついた。


「まだだっ!」


 大きな背鰭を左手で掴む。


 暴れる巨体に振り落とされそうになりながら、その勢いを利用して反対側へ回り込む。


 もう一本。


 反対側から突き出している紅い牙。


「もういっちょうぅ!」


 右手一本でツルハシを振りかぶり――。


「おらぁぁぁっ!!」


 渾身の力で振り下ろした。


 ガッキィィィィン!!


「――っ!?」


 今度は違った。


 牙ではない。


 大地の手に握られていたツルハシが――。


 バキンッ!


 真ん中から、へし折れた。


「……マジかよ」


 大地の手に残ったのは、半分になった柄だけ。


 そして――。


 すぐ目の前で。


 レッドファングの黒い眼が、ゆっくりと大地を捉えた。


 ――目が合った。


 そう思った。


 真っ黒な眼。


 感情など何ひとつ読み取れないその眼が、間違いなく大地を捉えている。


 さっきまで美萩を狙っていた捕食者が――今度は自分を獲物として見ている。


(……喰われる)


 大地の脳裏に、最悪の光景が浮かび上がった。


 噛まれたところで、おそらく痛みは感じない。


 だが――そんなもの、何の意味もない。


(あの顎で噛み砕かれたら……)


 口元から突き出した紅い牙。


 その奥には、幾重にも並ぶ鋭い歯。


(腕を持っていかれる? 脚か? いや……胴体ごと噛まれたら……)


 ゾクリ――。


 背筋を、冷たいものが伝った。


(そのまま……呑み込まれたら……)


 死ぬ。


 痛くなくても。


 あんな化け物に噛み砕かれれば――死ぬ。


「…………っ」


 逃げろ。


 頭の中で何かが叫んでいる。


 今すぐ背鰭から手を離せ。


 泳いで逃げろ。


 生きたければ――。


 パチッ。


「……?」


 懐から小さな音がした。


 パチ、パチパチッ。


 服の中に潜り込んでいたアークが、小刻みに震えながら放電している。


「…………」


 怖いのか?


 お前も。


 それとも――俺が震えてるから、お前まで怖がってるのか。


 大地は一度だけ、ゆっくり息を吐いた。


(……大丈夫)


 誰に言ったのか、自分でも分からない。


(大丈夫だ)


 アークに。


 いや――自分自身に言い聞かせる。


 大地はレッドファングの背鰭から手を離した。


「大地!?」


 坑道の出口から千萩の声が飛ぶ。


 逃げるためではない。


 半分になったツルハシの柄を捨て、大地は両手を空けた。


 そして――。


 レッドファングと真正面から向き合った。


「…………」


 怖い。


 怖くて仕方がない。


 リングの上で感じた恐怖とは、まるで違う。


 相手のパンチが怖いわけじゃない。


 負けるのが怖いわけでもない。


 これは――。


 圧倒的な、死への恐怖。


 それなのに。


 大地は逃げなかった。


 真っ黒な眼を睨み返したまま――。


 ゆっくりと、海底へ両足をつけると、軽くステップを踏んだ。


「な、何してるのよ……」


 遠くから見守る千萩の顔が青ざめた。


「大地……早くこっちへ……」


 声が届いているのかすら分からない。


 大地はその場から動かない。


(人間なら……)


 目の前のレッドファングを見据える。


(この距離なら、まだ遠い)


 だが――。


(コイツは?)


 分からない。


 人間なら肩を見る。


 腰を見る。


 踏み込みを見る。


 何千、何万回と繰り返してきた経験から、攻撃の起こりを読むことができる。


 だが――。


 サメの攻撃の起こりなんて、知るわけがない。


「…………」


 なら――待つ。


 逃げない。


 近付かない。


 ただ、相手が動くのを待つ。


 レッドファングの黒い眼を、大地も真っ直ぐに見つめ返していた。


(来い)


 心臓が痛いほど脈打っている。


 怖い。


 今すぐ逃げ出したい。


 それでも、大地の眼だけは冷静だった。


(お前がどうやって喰うのか……見せろ)


 レッドファングが僅かに身体を傾ける。


 大地の眼が、その動きを追う。


 尾鰭。


 胸鰭。


 頭。


 口。


 どこが最初に動く。


 何が攻撃の合図になる。


 大地はただ、それだけを見ていた。


 そして――。


 ――ドンッ!!


 巨大な尾鰭が海水を叩いた。


(そこか)


 その瞬間。


 恐怖で埋め尽くされていた大地の頭から、余計なものが消えた。


 レッドファングの巨体が、一瞬で大地へ迫る。


「大地ぃぃぃっ!!」


 千萩の絶叫。


 紅い牙。


 迫り来る巨大な口。


(……真夏さん)


 なぜか。


 その瞬間、大地の脳裏に浮かんだのは彼女だった。


 病院で見た笑顔。


 自分と一緒に、この世界へ呑み込まれた人。


 まだ――助けていない。


(俺は――)


 ここで死ねない。


「うぉぉぉぉっ!!」


 生きる本能がそうさせたのか。


 考えるよりも先に、大地は右手を突き出していた。


 大顎が開き切る、その直前。


 迫ってきたレッドファングの鼻先へ――。


 ガシッ!


「――っ!?」


 大地の右手が触れた。


 いや。


 咄嗟に――掴んだ。


 その瞬間。


「…………え?」


 ピタリ。


 レッドファングの動きが止まった。


 大地の目の前。


 あと僅か。


 ほんの少しでも大顎が開いていれば、腕ごと持っていかれていた距離で。


 十メートルもの巨体が、まるで何かに怯んだかのように静止している。


「な……なんだ?」


 大地自身、何が起こったのか分からない。


 ただ必死に、鼻先を掴んでいるだけだ。


 レッドファングの眼に力が戻り、僅かに頭を振る。


 大地の手が離れかける。


「うぉっ……!」


「離しちゃダメ!」


 坑道の出口から、千萩の声が響いた。


「そこよ、大地! 鼻先から手を離さないで!」


「はぁ!?」


 何のことだ。


 なぜなのかも分からない。


 それでも千萩の声に従い、大地は必死に指へ力を込める。


 そんな大地を見つめながら、千萩が息を呑んだ。


「……ロレンチーニ器官」


「ろ、ロレン……何だって!?」


「説明は後! そこから手を離さないで!」


「無茶言うな! コイツ、めちゃくちゃ力強ぇぞ!」


 レッドファングが頭を左右に振るたび、大地の身体も激しく振り回される。


「うぉっ……くそっ!」


「大地! よく聞いて!」


 千萩が両手を口元に添え、声を張り上げた。


「そいつの鼻先には、微かな電気を感じ取る器官があるの!」


「電気!?」


「そう! 獲物が出す僅かな電気まで感じ取れる、とっても敏感な場所!」


 パチッ。


 その言葉に反応したかのように、大地の懐でアークが小さく弾けた。


「……電気」


 大地が目を見開く。


「そこを刺激されるのを嫌がるの! 今あんたが触っている場所よ!」


「なるほど……って!」


 グンッ!


「うぉぉっ!?」


 レッドファングが激しく身を捩った。


 大地の指が鼻先からズルリと滑る。


「ちょっ……待て待て待て!」


「だから離すなって言ってるでしょ!」


「だったら代わってくれぇぇぇっ!」


「できるわけないでしょぉぉぉっ!」


 必死のやり取りなどお構いなしに、レッドファングは大地を振り落とそうと巨体を暴れさせる。


 だが――。


 大地の頭には、今の千萩の言葉が引っ掛かっていた。


(微かな電気まで感じ取る……)


 パチッ、パチパチッ。


 そして。


 懐には――。


「…………」


 大地がゆっくりと視線を落とす。


 服の隙間から、小さなアークが顔を覗かせていた。


「……お前」


 パチッ。


 目が合った。


「もしかして……いけるか?」


「キュ?」


 何のことか分かっていないように、アークが小さく首を傾げた。


「頼む、アーク……力を貸してくれ」


「キュッ!」


 大地の思いが通じたのか。


 懐から勢いよく飛び出したアークは、大地の腕を伝うように泳ぐと、そのままレッドファングの鼻先へ取りついた。


「アーク!」


 ――バチッ!


 アークの小さな身体が、青白く発光する。


 次の瞬間――。


 バチバチバチィッ!!


 凄まじい放電が、レッドファングの鼻先で弾けた。


「――っ!!」


 ビクンッ!


 十メートルもの巨体が大きく震える。


 大地を振り払おうとしていた動きが、一瞬止まった。


「効いた……!」


 思わず声が漏れる。


 だが――。


「…………いや」


 大地の目から警戒の色は消えなかった。


 レッドファングの尾鰭が、まだ力強く海水を掻いている。


 胸鰭も動いている。


 何より――。


 あの黒い眼は、まだ死んでいない。


(怯んだだけだ)


 倒したわけじゃない。


(まだコイツ……全然、力が抜けてねぇ)


 大地が身構え直した――その時だった。


「よぉし! もう十分だ!」


「――っ?」


 背後から、聞き慣れない野太い声が響いた。


「あとは任せろ! 若いの――引けぇっ!!」


 その声を聞いた瞬間、大地は振り返らなかった。


 言われた意味だけを理解する。


 アークへ手を伸ばす。


「アーク、戻れ!」


「キュッ!」


 鼻先から離れたアークを掴むと同時に、大地は海底を蹴った。


 ザッ――!


 レッドファングの正面から、一気に離脱する。


「今だぁっ!」


 先ほどの野太い声が響く。


「網をかけろぉぉぉっ!!」


「「うぉぉぉぉぉぉっ!!」」


「なっ!?」


 岩陰から、何人もの男達が一斉に飛び出した。


 その先頭にいるのは、ずんぐりとした体格の中年男。


 男達の手には、それぞれ太い縄が握られている。


 そして、その縄の先には――。


「そぉらぁぁっ!!」


 バサァッ!


 巨大な網が広がった。


 数人がかりで投げ放たれた網が、レッドファングの巨体を丸ごと覆い隠す。


「――!!」


 突然身体へ絡みついた網に、レッドファングが激しく暴れ始めた。


 ブンッ!


 巨大な尾鰭が海水を薙ぐ。


「うぉっ!」


「踏ん張れぇっ!」


「縄を離すな!」


 男達が必死に縄を掴む。


「大地! こっち!」


「千萩さん!」


 坑道から飛び出してきた千萩に引かれ、大地も岩陰まで下がった。


「これで……捕まえられるのか?」


「まさか」


「え?」


「あんな化け物、私達に仕留められるわけないでしょ」


 千萩はレッドファングから目を離さない。


「じゃあ、あの網は……」


「追い払うのよ」


 その言葉を合図にしたかのように――。


「よぉぉし!」


 ずんぐりとした男が片腕を大きく振り上げた。


「投石開始ぃぃぃっ!!」


「「おぉぉぉぉぉっ!!」」


 待ってましたとばかりに、男達が一斉に海底の石を拾い上げる。


「おりゃぁぁぁっ!」


「喰らえぇっ!」


「二度と来んなぁっ!」


 ゴンッ!


 ゴツッ!


 次々と石がレッドファングへぶつかる。


「…………」


 大地は思わず目を瞬かせた。


「……石?」


「馬鹿にしないの」


 千萩が言った。


「倒せなくても、ここに来たら嫌な目に遭うって覚えさせればいいのよ」


「なるほど……」


 網に身体を絡め取られ。


 鼻先にはアークの電撃を浴び。


 さらに四方八方から石を投げつけられる。


 さすがのレッドファングも嫌気が差したのか、巨体を激しく捩った。


 ブチッ!


「網が!」


 口元から突き出した紅い牙が、太い網へ食い込む。


 ブチブチブチッ!


 そのまま頭を振り回し、網を強引に引き裂いた。


「下がれぇっ!」


 野太い声と同時に、男達が一斉に縄を手放す。


 自由になったレッドファングが大きく旋回した。


 大地は身構える。


「…………」


 だが。


 レッドファングは、もうこちらへ向かってこなかった。


 黒い眼で大地達を一瞥すると――。


 ゆっくりと身体の向きを変える。


 そして。


 ブンッ。


 巨大な尾鰭を一度、大きく振った。


 その巨体が、奴隷村から遠ざかっていく。


 誰も声を上げなかった。


 まだ分からない。


 戻ってくるかもしれない。


 男達も石を握ったまま。


 千萩も。


 大地も。


 小さなアークさえも。


 遠ざかっていくレッドファングを、ただ黙って見つめていた。


 やがて――。


 巨大な影が、海の暗がりへと消えた。


「…………」


 誰かが、小さく息を吐いた。


 パチ……パチ……。


 どこからともなく、小さな拍手が聞こえてくる。


 それは一つ、また一つと増えていき――。


「やった……」


「追い払ったぞ!」


「助かったぁ!」


「うぉぉぉぉぉっ!!」


 張り詰めていたものが一気に弾けた。


 奴隷村の至る所から、歓声が湧き上がる。


「…………はぁぁぁぁぁ」


 その声を聞いた途端。


 大地の身体からも、一気に力が抜けた。


 へなへなと、その場に座り込む。


「こっ……えぇぇ……」


 今更になって、手が震えていることに気付いた。


 十メートルもの巨大な捕食者。


 あんなものに、自分はツルハシ一本で飛びかかったのだ。


「……俺、よくあんなことしたな」


「キュ……」


 懐から顔を出したアークも、どこか疲れた様子で鳴いた。


「お前もな」


 大地がアークの頭を指先で撫でる。


 すると――。


「おい、若ぇの」


「ん?」


 野太い声に顔を上げる。


 先ほど男達へ指示を出していた、ずんぐりとした体格の中年男が立っていた。


 煤で黒く汚れた顔。


 太い腕。


 いかにも職人といった風貌だ。


「無茶し過ぎだ」


「……すんません」


 男は大地の前まで来ると――。


 くしゃっ。


「うわっ!」


 大地の髪を大きな手で乱暴に掴み、そのままグシャグシャと掻き回した。


「でもまあ……あんがとよ」


「え?」


「あの子、お前が飛び出さなきゃ危なかった」


 そう言って男は、煤に汚れた顔から白い歯を覗かせた。


「お前のお陰で、子供も美萩も助かった」


「…………」


「俺は炭谷良造だ。よろしくな、若ぇの」


「良造さん……」


 大地も思わず笑みを返そうとした――。


 その時。


「大地の馬鹿っ!!」


「え?」


 パァンッ!!


 乾いた音が響いた。


「…………」


 大地の顔が横を向く。


「……千萩さん?」


 頬に手を当てながら振り向くと――。


 千萩が立っていた。


 唇を噛み締め。


 肩を震わせ。


 その目には、薄っすらと涙が浮かんでいる。


「…………」


「千萩さ――」


「馬鹿……」


 もう一度。


 今度は小さな声だった。


「本当に……馬鹿……」


「…………」


「何考えてるのよ……」


 千萩の拳が震えている。


「ツルハシ一本で……あんな化け物に飛びかかって……」


「いや、でも……」


「死んだらどうするのよ!」


「――っ」


 大地が言葉を失った。


「おいおい。無事だったんだから、その辺で――」


「良造さんは黙ってて!」


「……へい」


 良造が肩をすくめる。


「大地くん」


 今度は反対側から声を掛けられた。


「……美萩さん」


 振り向くと、美萩が立っていた。


 その隣には、杖を手にした源爺の姿もある。


 美萩は困ったように微笑んだ。


「助けてくれたことは、本当にありがとう。あの子も無事よ」


「……良かった」


「でもね」


 美萩の表情が少しだけ厳しくなる。


「この村には、この村のやり方があるの」


「…………」


「私達は強くない。だから源爺を中心に、みんなで協力して生きてる。誰か一人が無茶をして守るんじゃなくて……みんなで生き残るの」


「みんなで……」


「そう」


 美萩が頷いた。


「だから、もうあんな無茶しちゃダメよ」


「…………」


「ふぉっ、ふぉっ、ふぉ……」


 源爺が髭を撫でながら笑った。


「随分と怒られてしもうたの、大地」


「……はい」


「じゃが、皆の言う通りじゃ」


 源爺が大地の前に立つ。


「勇敢と無謀は違う」


「…………」


「お主も、それくらいは分かっておるじゃろ?」


「……はい」


 大地は小さく頷いた。


「何事にも準備というものが必要じゃ。相手を知り、備え、皆で力を合わせる」


 源爺が、周囲を見渡した。


 破れた網を片付ける男達。


 散らばった石を集める者。


 避難していた子供達を抱き締める家族。


 そこには、特別に強い者などいない。


「この村はな――そうやって生き延びてきたんじゃ」


「…………」


「お主は強い」


 源爺が大地を見る。


「じゃが、強いから生き残れるわけではない」


 その言葉に、大地が顔を上げる。


「この世界は弱肉強食じゃ。強き者が弱き者を喰らう。それが当たり前の世界じゃ」


 源爺は杖を握り締めた。


「だからこそ――」


 大地の目を、真っ直ぐに見つめる。


「生きろ」


「…………!」


「勝たんでもよい。逃げてもよい。格好悪くても構わん」


 源爺が静かに笑う。


「生きて、明日を迎えるんじゃ」


「…………」


 その言葉が、大地の胸へ深く沁み込んだ。


 勝つ。


 強くなる。


 チャンピオンになる。


 そんなことばかり考えて生きてきた自分には、どこか新鮮な言葉だった。


「……はい」


 大地は、しっかりと頷いた。


「分かりました」


「うむ」


 源爺も満足そうに頷く。


 その時だった。


「お~~~~い!」


「ん?」


 遠くから、微かに声が聞こえてきた。


「源爺~~~~っ!」


 全員が声のした方向へ振り返る。


「……なんだ?」


 大地が目を凝らす。


 遠くから、誰かが物凄い勢いでこちらへ泳いでくる。


(……白い髪?)


 近付いてくるにつれ、その姿がはっきりしてきた。


(女の子……いや、人魚?)


 真っ白な長い髪。


 透き通るような白い肌。


 そして――鮮やかな紅い瞳。


 腰から下を覆う鱗まで、雪のような白銀だった。


 この薄暗い海底世界の中で。


 その少女だけが、微かに光を纏っているかのように見えた。


「源爺ぃぃぃっ!」


 少女は必死に両腕で水を掻いている。


「大変! 大変だよぉ!」


「……なんじゃ?」


 源爺の表情が変わる。


 少女はそのまま源爺の目の前まで泳いでくると――。


 バサッ!


 白銀の尾鰭を大きく翻し、急停止した。


「はぁ……はぁ……!」


「どうしたんじゃ、ルシエル」


(ルシエル……)


 大地は、その名を心の中で繰り返した。


 ルシエルは息を整える間も惜しむように、源爺へ詰め寄った。


「ゆきさんが……!」


「……ゆき?」


 美萩の表情が強張る。


「ゆきさんの……!」


 ルシエルの紅い瞳が、不安に揺れた。


「ゆきさんの討伐隊が、結成されるみたいなの!」


「――っ!?」


 その瞬間。


 先ほどまで歓声に包まれていた奴隷村から――。


 音が消えた。


「……なんじゃと?」


 源爺の低い声だけが響く。


 千萩も。


 美萩も。


 良造も。


 そして周囲にいた村人達も――。


 誰一人、言葉を発しない。


「…………」


 大地だけが。


 突然変わった皆の表情の意味を理解できず、辺りを見回していた。


 

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