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アーク

 ーー真夏さん……真夏さん、待て! 頼む、待ってくれ!


 全身を汗で濡らしながら、大地は勢いよく飛び起きた。


 「はぁ……はぁ……夢、か……。いや、これが現実なんだよな……」


 荒い呼吸を整えながら、見慣れない天井を見上げる。


 岩をくり抜いて造られた住居は質素そのものだった。壁も天井も岩肌がむき出しで、窓から差し込む青白い光だけが室内をぼんやりと照らしている。


 (本当に、不思議な世界だよな……)


 昨日――皆既日食を見るまでは、確かに幸せだった。


 電車で隣に座る真夏へ指輪を差し出すと、周囲からなぜか拍手が湧き起こった。


 そのあと、思いの丈を伝えようと心に決めた俺の気持ちなど知る由もなく、真夏は桟橋の上を飛ぶように歩いていった。


 必死にその背中を追い掛けた昨日のことを思い出す。


 それが今では、この海底世界の奴隷村にいる。


 (結局何も、伝えられず終いだったな)


 思わず宙を見る。


 (それにここは……水の中なんだよな)


 何度考えても理解が追いつかない。


 呼吸ができる。


 普通に歩くこともできる。


 重力もちゃんと感じる。


 水中であることを忘れてしまいそうになる。


 それなのに、ひとたび体を預ければ泳ぐこともできる。


 地上の常識とは、何もかもが違っていた。


 そして昨日、美萩は困ったように笑いながら言っていた。


 「この世界は料理に火が使えないの…」


 限られた食材。


 限られた調味料。


 それでも昨日の料理は驚くほど美味しかった。


 (美萩姉さんの海藻サラダ…絶品だったな)


 そう思うと自然と笑みがこぼれた。


 「……さて」


 大地はゆっくりと拳を握る。


 「そろそろ、本格的に体を動かさないとな」


 怪我で長いブランクがあったとはいえ、負けた。


 その結果、真夏は攫われた。


 初めて戦う相手だったとはいえ、決して勝てない相手ではなかった。


 そう思えば思うほど、自分の未熟さが悔しい。


 「強くなる……もっと、もっと強く。二度と、大切な人を守れないなんて思いはしたくない」


 決意を胸に起き上がろうとした、その時だった。


 ――むにゅ。


 (……柔らかい?)


 「んっ……」


 指先に伝わる柔らかな感触と同時に、小さな吐息が耳に届く。


 恐る恐る視線を落とす――


 「み、み、み、美萩さん!?」


 「ん……大地くん、おはよう……」


 まだ眠たそうに目をこすりながら、美萩がふんわりと微笑んだ。


 そのすぐ反対側からは、


 「……大地、朝っぱらからうっせぇぞ」


 目を閉じたままの千萩が、不機嫌そうに呟く。


 「ど、どうして二人がここに!?」


 慌てふためく大地とは対照的に、美萩はその場で大きく背伸びをした。


 「どうしてって……昨日、歓迎会したでしょ? 覚えてないの?」


 くすっと笑い、


 「一人にしておくの心配だったから、そのまま一緒に寝ちゃった」


 ぺろりと小さく舌を出す。


 その仕草だけで、大地の心臓は一気に高鳴った。


 「ね、寝ちゃったって……」


 すると千萩が寝返りも打たずに言う。


 「いいじゃねぇか。アタイらはもう家族なんだからよ」


 その一言に、大地は返す言葉を失う。


 昨日まで誰一人知り合いのいなかった世界。


 それなのに、この人たちは自分を家族だと言ってくれる。


 胸の奥が少しだけ温かくなった。


 「……でも、その……ああもう! お、俺、走ってきます!」


 照れ隠しのように立ち上がる大地へ、美萩が優しく笑う。


 「ふふっ。そんなに慌てなくてもいいのに。朝ごはんまでには帰ってくるのよ」


 「は、はい!」


 返事だけを残し、大地は逃げるように家を飛び出した。


 まだ朝靄のような青い光に包まれた奴隷村。


 冷たい海水を切るように走りながら、大地は新たな一日を踏み出した。


 ◇


 「よしっ! お前ら、今日から採掘の仕事に加わる新人の大地だ! よろしく頼む!」


 村の奥にある採掘坑道の入口。


 朝、家で見せていた気だるそうな様子とは打って変わり、竹を割ったような威勢のいい千萩の声が坑道中に響き渡る。


 「「「了解です!」」」


 ヘルメットを被り、ツルハシを肩に担いだ千萩の前には、屈強な男たちが整列していた。


 皆、使い込まれた作業着を身にまとい、日に焼けた逞しい腕には、この過酷な仕事を続けてきた証が刻まれている。


 「大地、挨拶!」


 「はい! 湯本大地です。本日より採掘作業に加わらせていただきます。皆さん、よろしくお願いします!」


 緊張で背筋をぴんと伸ばしたまま頭を下げると、男たちから温かな拍手が湧き起こった。


 「よし! 朝礼終わり! 仕事始め! ――ご安全に!」


 「「「ご安全に!」」」


 威勢のいい掛け声とともに、男たちはそれぞれの持ち場へ散っていく。


 その姿を見送りながら、大地は思わず感心したように呟いた。


 「千萩さんが、採掘現場の監督だったんですね」


 「なんだい。意外だったか?」


 「いえ。知ってる人が上にいてくれると、すごく心強いです」


 飾らない大地の言葉に、千萩は照れ隠しをするように鼻の頭をぽりぽりと掻いた。


 「アタイの能力は建築向きらしくてな。坑道の補強や掘削の指揮なんかを任されてる。源爺からは『怪我人だけは絶対に出すな』って、口酸っぱく言われてるんだ」


 言われてみれば、坑道の入口は丸太で頑丈に補強され、足元も歩きやすいよう丁寧に均されている。


 安全を第一に考えて造られていることが、一目で分かった。


 坑道の中へ足を踏み入れると、青白く発光する光りくらげが、ゆらゆらと水中を漂い、薄暗い坑道を幻想的に照らしていた。


 「ここでは何を採掘しているんですか?」


 「石灰岩と石炭さ。この村は、それを王宮へ納めることで何とか食いつないでる」


 そう言うと千萩は口元を布で覆い、表情を仕事人のものへと切り替えた。


 ガキンッ――。


 勢いよくツルハシを振り下ろすと、乾いた音が坑道の奥まで響き渡る。


 「ほら、大地も頼んだぞ! それと、少しでもおかしいと思ったら、すぐ報告するんだ。無理だけはするなよ!」


 「はい!」


 力強く返事をすると、大地はツルハシを握り直し、自分の持ち場へ向かって歩き出した。


 ◇


 (なるほどな)


 工事現場で見かける鉄製の物とは違う。


 硬い石を丁寧に削って尖らせ、それを流木に括り付けただけの原始的なツルハシを握り締めた大地は、小さく頷いた。


 (良い重さだ)


 電子機器や自動車に囲まれた現実世界は、どれほど恵まれていたことか。


 普通の人間ならそう感じるのだろう。


 だが、根っからの格闘馬鹿である大地の感想は違った。


 (これは広背筋のトレーニングに持ってこいだな)


 両脚をしっかりと踏み締め、腰を落とす。


 両手に力を込め、大きく振りかぶると、目の前の岩へ渾身の一撃を叩き込んだ。


 ――ガッキィィン!


 (丁寧に作られてる。思った以上に頑丈だ)


 満足のいく手応えだった。


 飛び散る小石など気にも留めず、大地は無心でツルハシを振るい続ける。


 ――ガキーン。


 ――ガキーン。


 何度もツルハシを振るった。


 岩肌が少しずつ砕け、足元に瓦礫が積み重なっていく。


 (ああ……いい)


 肩から背中へ。


 広背筋に心地よい負荷がかかる。


 (筋肉が喜んでる)


 自然と口元が緩んだ。


 (俺は……もっと強くなれる)


 ――ガキーン!


 ――ガキーン!


 ――ガキーン!


 「……くん。大地くん」


 どれほど時間が経ったのだろう。


 美萩がお昼ご飯を持って呼びに来るまで、大地は無心でツルハシを振り続けていた。


 気が付けば、彼の両手には無数のマメができ、皮が破れ始めていた。

 

 ◇


 数日が過ぎ、気付けば一週間が経っていた。


 両手にできていた無数のマメはすでに潰れ、幾重にも皮がめくれていた。


 飛び散る小石でできた無数のアザが全身に刻まれている。


 頑丈なツルハシを何本も壊しながら岩を掘り続けるたび、大地は肉体が少しずつ全盛期へ戻っていくのを実感していた。


 だが、その充実感とは裏腹に、一つの疑念が脳裏を離れない。


 ――俺は、本当に生きているのか。


 ――それとも、生きていると思い込んでいるだけなのか。


 ふとツルハシから手を離し、血の滲む掌を見つめる。


 皮は裂け、赤い雫がゆっくりと流れ落ちていた。


 (本来なら、激痛でツルハシなんて握れないはずだ)


 確かめるように拳を握る。


 そして、目の前の岩肌へ思い切り叩きつけた。


 ――ゴツッ。


 鈍い音が坑道に響く。


 骨まで響くような衝撃はある。


 それでも、痛みだけは感じなかった。


 「大地! ボーッとするな!」


 遠くから千萩の叱咤が飛ぶ。


 「す、すみません!」


 (考えるのはやめだ)


 (どうせ今考えたって、答えなんて出やしない)


 気持ちを切り替えるようにツルハシを握り直し、大地は再び岩壁へ振り下ろした。


 ――ガキィン!


 次の瞬間。


 ――ガラガラガラッ!!


 岩壁が大きく崩れ落ちた。


 「えっ……光っ!?」


 崩れた岩の奥から、青白い光が漏れ出す。


 考えるより先に体が動いた。


 危険を察知した大地は反射的にバックステップで距離を取る。


 その瞬間だった。


 ――バチィィィン!!


 「ぐあっ!?」


 腕から全身へ、激しい痺れが駆け抜ける。


 ――ビリビリビリッ!!


 「くっ……なんだ、この痺れ……!」


 その場に膝をつき、しばらく動けなくなる。


 やがて痺れが治まると、大地はゆっくりと顔を上げた。


 そこには、ぽっかりと口を開けた大きな空洞が広がっていた。


 「なんだったんだ、今のは……」


 空洞の奥からは、まだ青白い光が漏れている。


 (……千萩さんを呼ぼう)


 理由は分からない。


 だが、自分一人で近付いてはいけない――そんな直感だけはあった。


 久しぶりに「生きている」という実感を覚えながら、大地は千萩のもとへ駆け出した。


 ◇


 「千萩さん、報告があります」


 「どうした?」


 千萩が振り返る。


 煤で黒く汚れた顔には、現場監督らしい鋭い眼差しが浮かんでいた。


 「空洞を発見しました。確認をお願いします」


 「空洞?」


 千萩の表情が引き締まる。


 「わかった。案内してくれ」


 二人は崩れた岩壁の前へ戻る。


 千萩は腰に提げていた光りくらげを空洞へ放り込んだ。


 ふわり、と漂う淡い光が闇を押し退けるように広がっていく。


 「……思ったより広いな」


 慎重に一歩踏み出そうとした、その時だった。


 大地が咄嗟に千萩の肩を掴む。


「待ってください」


 「……?」


 「何かいます」


 二人は息を潜め、光の先を見つめる。


 そこには、小さな黒い影が浮かんでいた。


 体の表面では、


 パチ……パチッ。


 弱々しい青白い火花が弾けている。


 まるで命の灯火が消えかけているようだった。


 しかし、その黒い瞳だけは真っ直ぐに大地を見つめている。


 「……ナマズか?」


 恐る恐る大地が両手を差し伸べる。


 するとナマズは逃げることも威嚇することもなく、最後の力を振り絞るように尾を揺らした。


 ふらり、ふらりと泳ぎ――


 そっと、大地の掌へ身を預けた。


 「……」


 小さな体は驚くほど軽かった。


 それでも確かに、生きていた。


 「はは……随分と人懐っこいやつだな」


 千萩が笑う。


 「そ、そんなことないですよ」


 大地も苦笑する。


 「初対面で電撃を食らわせてきましたから」


 「そうか」


 千萩はあっさり頷いた。


 「それなら今夜の食料だな。美萩にうまく料理してもらおう」


 その言葉を理解したのか。


 ナマズは大地の掌の中で小さく丸まり、じっと見上げてくる。


 助けを求めている。


 そんな気がした。


 「……待ってください」


 大地はそっと両手で包み込む。


 「俺は――」


 一度だけナマズを見る。


 そして静かに笑った。


 「こいつのビリビリで、生きてるって実感できたんです。」


 痛みを感じない。


 傷付いても平気だった。


 生きているのかさえ分からなくなっていた。


 そんな自分の体が、初めて確かに反応した。


 だから――


「俺、こいつを飼います」


 「……飼うだって?」


 その瞬間だった。


 ナマズの体から、


 パチッ。


 小さな青白い火花が弾けた。


 まるで喜んでいるかのように。


 大地は思わず笑みを浮かべる。


 「そうだな……」


 青白い電撃を見つめながら、小さく呟いた。


「今日からお前の名前は――アークだ」


 その名を呼ぶと、


 ナマズは再び小さく体を光らせた。


 まるで返事をするように。


 こうして大地は、海底世界で初めて”相棒”と呼べる存在を手に入れたのであった。


 その日の仕事を終えた帰り道、大地は大切そうにアークを胸へ抱き寄せた。


 小さな電撃が胸元で「パチッ」と弾ける。


 大地は思わず笑みをこぼす。


 「よろしくな、アーク」


 返事をするように、再び小さな火花が弾けた。

「アークの災難」


 海底の暗い岩場を、一匹の小さな電気ナマズが必死に泳いでいた。


 キュッ、キュッ!


 後ろから迫ってくるのは、自分の何十倍もある肉食魚。


 大きな口を開けて追い掛けてくる。


 アークは尾びれをこれでもかと振り、岩と岩の隙間を縫うように逃げた。


 キューーーッ!!


 必死で放った小さな電撃。


 しかし相手にはほとんど効かない。


 むしろ怒らせてしまったらしい。


 肉食魚はさらに勢いを増した。


 「ギャオオオッ!」


 キュッ!?


 目の前にぽっかりと開いた穴が見えた。


 細い。


 でも、自分なら入れる。


 迷う暇なんてない。


 アークはそのまま穴へ飛び込んだ。


 ズボッ。


 肉食魚は体が大きすぎて入れない。


 入口で何度も頭をぶつける音だけが響いた。


 ゴンッ。

 ゴンッ。

 ゴンッ。

 キュ……。


 助かった。


 そう思って振り返った瞬間だった。


 ゴゴゴゴ……。


 崩れた岩が入口をふさいでしまう。


 キュー!?


 出口が消えた。


 アークは慌てて岩を押してみる。


 押す。


 押す。


 全然動かない。


 キュッ……。


 しばらく考える。


 もう一度押す。


 やっぱり動かない。


 キュー……。


 完全に閉じ込められた。


 それから何日経ったのか。


 お腹はぺこぺこ。


 たまに弱々しく電気を出してみる。


 パチ……。


 誰も来ない。


 暇だった。


 石を眺める。


 天井を眺める。


 自分の尻尾を追い掛けてぐるぐる回る。


 目が回った。


 キュ〜……。


 もうだめかもしれない。


 その時だった。


 遠くから響く音。


 ガキーン!


 アークの髭がぴくりと震える。


 キュ?


 また音がした。


 ガキーン! ガキーン!


 誰かが近づいている。


 アークは残った力を振り絞り、小さく放電した。


 パチ……パチッ。


 お願い。


 気付いて。


 キュ……。


 次の瞬間。

 

 ガラガラガラッ!!


 岩壁が崩れ、眩しい青い光が差し込んだ。


 そこにいたのは、煤だらけで汗だくの人間。


 大きな目を丸くしてこちらを見ている。


 キュッ。

 

 なんだか、この人なら大丈夫。


 そんな気がした。


 アークは最後の力を振り絞って泳ぎ――


 そのまま、大地の掌へ飛び込んだ。


 キュー。


 ――こうして、一匹の食いしん坊になり損ねた電気ナマズは、海底世界で一番変な人間の相棒になったのである。

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