海底世界
(吸い込まれる)
(暗い……)
(冷たい……)
(息が……続かない……)
(苦しい……)
(……駄目だ!)
(駄目だ! 駄目だ! 駄目だ!)
(目を開けろ)
(目を開け続けろ!)
(見失うな! 絶対に見失うな!)
(先輩を、必ず……)
――トプンッ。
身体が、まるで巨大な泡の膜をすり抜けるような、不思議な感触に包まれた。
冷たい水の感覚が、一瞬だけ遠のく。
次の瞬間。
ドサッ。
全身を地面へ叩きつけられる衝撃が走った。
(水の中じゃ……ない……?)
そう思う間もなく、身体の下にある硬い地面の感触だけが、ぼんやりと意識に残る。
その違和感を理解する暇もなく、大地の意識は再び深い暗闇へと沈んでいった。
◇
「……おい、こっちだ!」
「いたぞ!」
「ああ、いたな」
(……声?)
「丁重に運べ」
「丁寧に運ぶぞ」
「ああ。王への貢ぎ物だ。傷一つつけるな」
(……貢ぎ物?)
その言葉に反応し、大地はゆっくりと瞼を開いた。
(……明るい)
ぼやけていた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
最初に飛び込んできたのは、どこまでも続く青。
空のようでいて空ではない。
頭上からは柔らかな蒼い光が降り注ぎ、岩肌や珊瑚を幻想的に照らしていた。
(青い……世界)
頬を撫でる空気はひんやりとしている。
どこか潮の香りにも似た匂いが鼻をくすぐった。
(なんだ……息が……)
恐る恐る息を吸う。
肺いっぱいに空気が流れ込み、苦しさはまるでない。
(呼吸が……できる?)
さっきまで溺れかけていたはずなのに。
水の中にいたはずなのに。
胸は苦しくない。
身体も濡れていない。
(ここ……どこだ?)
混乱した頭では、目の前の光景を理解できなかった。
その時、一つの名前が脳裏をよぎる。
(……先輩)
(そうだ! 真夏先輩は!)
大地は勢いよく上半身を起こした。
視界いっぱいに広がるのは、巨大な岩が幾重にも連なる岩礁。
岩肌には赤や紫、青の珊瑚が複雑に絡みつき、色とりどりの海藻がゆっくりと揺れている。
クラゲのような発光生物が静かに漂い、その淡い光が辺りを照らしていた。
見上げても空はない。
どこまでも青く、透き通った世界が続いているだけだった。
まるで、自分が海の底へ迷い込んでしまったかのような光景。
そんな幻想的な景色すら、一瞬で意識の外へ追いやるほどの存在が目の前にあった。
「……っ!」
声の主は、人だった。
いや、人ではない。
逞しい上半身は人そのもの。
しかし腰から下は、大きな鱗に覆われた魚の尾となっている。
おとぎ話の中でしか見たことのない存在――人魚。
しかも三人とも、大地より一回りは大きい体躯を持つ男人魚だった。
そして、その一人が今まさに、大地が必死に探していた森真夏を、牛ほどもある巨大なウミウシの背に取り付けられた荷台へ、壊れ物でも扱うかのように丁重に乗せている。
その姿を見た瞬間、大地の頭から海底世界への驚きはすべて吹き飛んだ。
「おい! 待て!」
思わず叫ぶ。
三人の男人魚が一斉にこちらを振り向いた。
「雄だ」
「雄だな」
「ああ。ツガイの雄みたいだな」
何を言っているのか理解できない。
だが、自分を見て話していることだけは分かった。
男人魚たちは槍を手にしたまま、尾鰭をゆっくりと揺らし、大地へ近付いてくる。
「その女性を、どうするつもりだ!」
「女性?」
「雌だ」
「ああ。貢ぎ物の雌のことか」
(くそっ……話が通じない!)
大地は拳を強く握り締めた。
「抵抗するつもりか?」
「抵抗するだろう」
「ああ。抵抗するなら力試しには丁度いい」
三人は自然な動きで縦一列に並び、槍を構える。
その様子を見た大地も、いつものように軽くステップを踏もうとした。
(……体が重い)
脚が鉛になったようだった。
まるで深いプールの底で、足首に錘を付けて動こうとしているかのような重さ。
それでも、動けないわけじゃない。
(三対一か……)
視線だけは真夏を捉え続ける。
(それでも……やるしかない)
静かに息を整え、大地はファイティングポーズを取った。
「フッコ、マダカ。行くぞ!」
「命令するな、セイゴ!」
「ああ、行こう!」
言い合いながらも三人は息を合わせ、槍を構えたまま一気に距離を詰める。
「波状攻撃!」
「ローリング!」
「ウェーブアタック!」
(速い!)
先頭を走るセイゴの槍が一直線に大地の膝を狙う。
その直後、二番手のフッコが胸元へ鋭い突きを放った。
(避け切れない……なら!)
大地は膝を狙う槍先を力任せに踏みつける。
ガンッ!
穂先が岩肌へ固定され、その反動で槍を握るセイゴの身体が大きく浮き上がった。
一瞬、後続のフッコの進路が塞がれる。
その隙を逃さず、大地は上体を大きく反らした。
フッコの槍先が鼻先を掠める。
(上……!?)
次の瞬間。
視界の上から黒い影が覆い被さる。
三人目――マダカが真上から槍を突き下ろしてきた。
(上から来るのか!)
海では上下すべてが戦場。
その当たり前の事実を、大地はこの瞬間まで理解していなかった。
咄嗟に身体を捻る。
槍先が頬を掠め、岩肌へ深々と突き刺さった。
「避けた」
「避けたな」
「ああ、避けられたな」
(まさか真上から来るなんて……)
(完全に意表を突かれた。運が良かっただけだ)
安堵から思わず息を吐いた、その瞬間だった。
――バサッ!
視界が一瞬で暗くなる。
「……っ!?」
何かが全身へ覆い被さった。
網。
太い縄で編まれた巨大な投網だった。
「しまっ――」
暴れようとする。
だが、網は腕にも脚にも絡み付き、力を入れるほど締め付けられていく。
(動け……ない!)
「楽勝だ」
「楽勝だな」
「ああ、楽勝だったな」
男人魚たちは槍を下ろし、肩の力を抜く。
最初から近接戦で勝負するつもりなどなかった。
大地の注意を引き付け、その隙に網で捕らえる。
それだけの作戦だったのだ。
「奴隷村に連絡しろ!」
「奴隷村に連絡だ!」
「ああ、奴隷村に連絡する」
三人の声が少しずつ遠ざかっていく。
「おい! 待て! 待ってくれ!」
必死に網を引きちぎろうとする。
しかし、絡み付いた縄はびくともしない。
「先輩! 真夏先輩!」
視線の先では、大きなウミウシ馬車がゆっくりと動き出していた。
荷台には、意識のない真夏。
「頼む! 真夏先輩を返してくれ!」
声は届かない。
「先輩――ッ!!」
青い海底の世界へ、その叫びだけが虚しく響く。
やがてウミウシ馬車は岩陰へ消え、その姿は見えなくなった。
「……くそっ!」
大地は網の中でもがき続ける。
「くそっ!! くそぉぉぉっ!!」
悔しさのあまり拳を岩肌へ叩き付ける。
鈍い音だけが、青く静まり返った海底世界へ虚しく響く。
真夏を乗せたウミウシ馬車は、もう見えなかった。




