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再会 〜そして〜

 シン・シティ、ラスベガス。


 世界中の富と欲望が集まる眠らない街で、年末最大の格闘技イベントが開催されようとしていた。


 世界各国から集まった数万人の観客。


 数億人規模のライブ配信。


 そして今、総合格闘技界最高峰のベルトを懸けた一戦が始まろうとしている。


 挑戦者は、日本からやって来た一人の若武者。


 わずか二十歳。


 無敗のまま世界の頂点へ駆け上がった天才格闘家――湯本大地。


 「だ、大地! ぜ、ぜ、絶対勝つぞ!」


 圧倒的アウェーの空気に飲まれたのか。


 セコンドの声は上擦り、足元まで落ち着きを失っている。


 だが、当の本人は違った。


 「大丈夫です。必ず勝って、世界一になります」


 そう言って笑う大地の表情に、緊張は欠片もない。


 目が痛くなるほど眩いスポットライト。


 巨大な会場を埋め尽くす歓声。


 割れんばかりのブーイング。


 すべてが渦巻くリングの中央で、大地は静かに深呼吸した。


 対戦相手は現役王者。


 誰もが認める世界最強の男。


 だが、不思議と恐怖はなかった。


 「だ、大地!お前の強さを証明して来い!」


 セコンドから最後の檄が飛ぶ。


 そして、会場の熱気が高まれば高まるほど、大地の意識は研ぎ澄まされていく。


 歓声が遠ざかる。


 視界が狭まる。


 世界から余計なものが削ぎ落とされていく。


 (静かだ……)


 まるで、自分だけが別の世界にいるようだった。


 やがてレフェリーが両者の間に立つ。


 開始の合図。


 ゴングが鳴る。


 その瞬間だった。


 目の前にいたはずの王者の姿が消えた。


 「――え?」


 一瞬。


 本当に一瞬だけだった。


 次の瞬間。


 背中を何かに貫かれたような激痛が走る。


 「……がっ」


 呼吸が止まる。


 膝から力が抜ける。


 視界が大きく揺れた。


 リングも。


 観客も。


 スポットライトも。


 すべてが遠ざかっていく。


 そして――


 湯本大地の意識は、深い闇の中へ沈んでいった。


 ◇


 ――熱い。


 ――熱い、熱い、熱い。


 まるで両脚に真っ赤に焼けた鉄棒を押し当てられているような痛み。


 さらに腰の辺りには溶岩でも流し込まれたかのような灼熱感が広がっている。


 「……っ!」


 大地は息を呑みながら目を開いた。


 最初に見えたのは真っ白な天井だった。


 ぼやけた視界。


 焦点が合わない。


 頭の中には濃い霧が立ち込めているようだった。


 「……白い、天井」


 かすれた声が漏れる。


 「し、試合は……」


 その時だった。


 「よ、良かった……」


 安堵に震える女性の声が耳に届く。


 聞き覚えのある声。


 ゆっくりと視界の霧が晴れていく。


 白衣。


 長い黒髪。


 涙をこらえるように唇を噛みしめる女性。


 「……白衣の……女性……」


 そして次の瞬間。


 「――っ!? せ、先輩!?」


 大地の目が大きく見開かれる。


 高校時代のニつ上の先輩。


 保健委員で、いつも誰かの世話を焼いていた女性。

 

 知的な雰囲気で生徒会の書記も兼任していた。


 森真夏。


 「ど、どうしてここに!? い、今は試合中じゃ……」


 混乱の中で言葉がもつれる。


 その時になって初めて気づいた。


 右手を誰かが握っていることに。


 温かい。


 優しく包み込むような温もりだった。


 「それに……手……」


 「落ち着いて。大丈夫、大丈夫だから」


 真夏はそう言って、握る手に少しだけ力を込めた。


 その温もりだけが、混乱する意識を現実へ引き戻してくれる。


 「せ、先輩……俺のこと……知ってますか?」


 口にしてから、自分でも妙な質問だと思った。


 だが今の大地には、それを確かめずにはいられなかった。


 真夏は一瞬だけ目を丸くし、そして柔らかく微笑んだ。


 「知ってるわよ」


 その答えに、大地の肩から少しだけ力が抜ける。


 「湯本大地くん。ずっと、ずっと見てたもの」


 「えっ……」


 思わず起き上がろうとする。


 だが身体は言うことを聞かなかった。


 両脚に力が入らない。


 腰も重い。


 まるで自分の身体ではないようだった。


 「無理しちゃ駄目」


 真夏は慌てて肩を支える。


 「大丈夫よ。手術は成功したから。そのうち、また元気に動けるようになるわ」


 「手術……? 動ける……? 真夏先輩、俺……どうなって……」


 「ゆっくりでいいの」


 真夏は優しく首を振る。


 「まずは先生に報告してくるわ。状況はその後で一緒に整理しましょう」


 そう言って立ち上がる。


 大地の手から、真夏の温もりがゆっくりと離れていった。


 名残惜しさにも似た感覚が胸をよぎる。


 「……真夏先輩」


 呼び止めると、真夏は振り返った。


 「そんな顔しないの」


 柔らかな笑み。


 「大丈夫。すぐ戻ってくるわ」


 病室の扉が静かに閉まる。


 再び静寂に包まれた部屋で、大地は自分の手のひらを見つめた。


 そこに残る微かな温もり。


 なぜだろう。


 それだけで少し安心できる気がした。


 ◇


 (そう言えば……今日は何日なんだ?)


 動かない下半身を気にしながら周囲を見渡すと、テレビ台の上にスマホが丁寧に置かれているのが目に入った。


 ゆっくりと手を伸ばし、画面を開く。


 表示された日付を見て、大地は静かに目を伏せた。


 (そうか……もう、年が明けたんだ)


 世界一になるはずだった新年。


 その現実を確かめるように、大地はSNSを開いた。


 画面には、無数のコメントが流れていた。


 ――期待はずれ。


 ――口だけは世界王者だったな。


 ――調子に乗りすぎ。


 ――日本の恥。


 ――弱っwww


 ――秒で終わってて笑った。


 ――あれで世界最強とか冗談だろ。


 ――スポンサー可哀想。


 ――金返せ!!


 ――もう引退しろ。


 ――応援して損した。


 スクロールするたび、新しい言葉が胸へ突き刺さる。


 誰も大地の怪我など知らない。


 知ろうともしない。


 ただ敗者を笑い、叩き、消費しているだけだった。


 心臓が嫌な音を立てる。


 額を冷たい汗が伝い落ちた。


 気付けばスマホを握る手には力が入り、ケースが軋む。


 (やっぱり……負けたんだな)


 その一文だけが、胸の中で静かに沈んでいく。


 乾いた喉を鳴らそうとしても、声にならなかった。


 ――ガラッ。


 病室の扉が開く。


 「……真夏先輩」


 「やっぱり、見ちゃったよね」


 真夏は大地の手元へ視線を向ける。


 スマホは強く握られ、今にも壊れてしまいそうだった。


 そっとベッドの傍らへ歩み寄ると、真夏はその手を優しく包み込む。


 「……気にしないで、なんて簡単には言えないけど……」


 真夏は画面に並ぶ言葉へ目を向け、小さく息をつく。


 「今は心も身体も傷ついてるの。だから、焦らなくていい。まずは身体を治そう?」


 柔らかな声が病室に響く。


 「リハビリも、その先のことも……私が目一杯サポートするから。だから、一人で抱え込まないで」


 「な、なんで先輩は……そんなに俺のことを……」


 真夏は少し照れたように視線を逸らした。


 「ん……それは……さっき言ったでしょ?」


 そして、もう一度大地を見る。


 「ずっと見てたって。それはね……ずっと、ずっと応援してたってこと」


 その頬は、ほんのり朱色に染まっていた。


 「先輩!」


 大地は思わず声を張る。


 「俺、リハビリ頑張ります!! 応援してくれる先輩のためにも!」


 「ふふっ」


 真夏は嬉しそうに笑う。


 「ありがとう。でも、今は頑張りすぎなくていいの。まずはちゃんと休んで、身体を労わってあげて」


 その笑顔は、SNSに並ぶどんな言葉よりも温かかった。


 (もう一度……)


 (もう一度、あの舞台へ)


 (真夏先輩のためにも……必ず)


 大地は静かにスマホをベッドへ置く。


 そして、夕日に照らされ朱色に染まる真夏の笑顔を見つめながら、胸の奥で誰にも聞こえない誓いを立てるのだった。


 ◇


 若くして、そのキャリアを絶たれたプロ総合格闘家。


 敗戦後、大地を待っていたのは休養ではなかった。


 スポンサーへの謝罪行脚。


 格闘技雑誌やスポーツ紙の取材対応。


 所属ジムの会長や関係者への報告。


 プロである以上、敗北から逃げることは許されない。


 「現在のお気持ちを聞かせてください」


 「現役続行は考えていますか?」


 「怪我はどの程度深刻なのでしょうか」


 マイクを向けられるたび、大地は悔しさを胸の奥へ押し込み、誠実に答え続けた。


 「応援してくださった皆様の期待に応えられず、申し訳ありませんでした」


 その言葉を何度口にしたのか、もう覚えていない。


 しかし、車椅子に座る大地へ向けられる視線は、以前とはまるで違っていた。


 世界王者候補を見る目ではない。


 夢を絶たれた一人の元選手を見る目だった。


 雑誌には車椅子姿の大地の写真が掲載された。


 『若き天才、無念の終幕』


 そんな見出しと共に。


 タイトルマッチ前の熱狂は、まるで幻だったかのように消え去り、世間の興味はすでに次のスターへと移っていた。


 それでも、大地は下を向かなかった。


 リハビリを続けた。


 応援してくれる真夏先輩のために。


 若い身体は、その努力に応えるように少しずつ回復していく。


 最初は足の指がわずかに動いた。


 次は足首。


 膝。


 そして太腿。


 一つ動くたびに真夏は自分のことのように喜んでくれた。


 「先輩!」


 平行棒での訓練を終えた大地が、嬉しそうに振り返る。


 「俺……もう車椅子なしでも歩けそうです」


 真夏は優しく微笑みながら頷いた。


 「でも、無理は禁物よ。大地くん……私の肩、使って」


 「あ、ありがとうございます」


 真夏の肩へそっと腕を回す。


 二人の距離が一気に縮まった。


 ふわりと髪が揺れる。


 ほのかにシャンプーの香りが鼻をくすぐった。


 体温が伝わるほど近い距離。


 (……先輩の髪、いい匂いがする)


 思わず鼓動が速くなる。


 (それに柔らか……)


 「……っ!」


 慌てて首を振る。


 (ダメだ、ダメだ! 俺、何考えてるんだ!)


 真夏はそんな大地の様子に気付くことなく、小さな歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。


 その温もりが心地よかった。


 大地が一人で歩けるようになった頃。


 病室の窓の外では、新緑が風に揺れ、木々は鮮やかな深緑へと姿を変えていた。


 ◇


 その日、大地は病院に外出許可をもらい、一人で街へ出ていた。


 目的は一つ。


 真夏先輩への、お礼のプレゼントを買うこと。


 帽子を目深に被り、サングラスまで掛ける。


 少しでも顔を知られないようにと変装したつもりだったが、鏡に映る姿はどう見ても挙動不審だった。


 (だ、大丈夫だよな……)


 電車を乗り継ぎ、何度もスマホで地図を確認しながら目的地へたどり着く。


 そこは、落ち着いた雰囲気の貴金属店だった。


 店先まで来たものの、足が止まる。


 (いや、待て待て待て……。)


 (男一人で入るのか?)


 (高そうだし……。)


 (いやでも、お礼だし……。)


 一歩前へ。


 二歩後ろへ。


 また店の前を行ったり来たり。


 ガラス越しの店員と何度も目が合う。


 店内では小さなざわめきが起こり始めていた。


 「あのお客様……」


 「さっきから十分くらい……」


 「もしかして下見?」


 「いや、万引きの下見じゃ……」


 店長らしき男性が真剣な顔で受話器へ手を伸ばす。


 (や、やばい!!)


 通報される!!


 大地は勢いよく自動ドアをくぐった。


 「い、いらっしゃいませ!」


 さっきまで警戒していた店員が、一瞬で営業スマイルへ切り替わる。


 「本日はどのようなご用件でしょうか?」


 「ぷ、プレゼント……です!」


 思わず裏返る声。


 店員はにっこり微笑む。


 「贈られるお相手は、男性ですか? 女性ですか?」


 「じょ、女性です」


 その一言を口にした瞬間だった。


 女性。


 贈る相手。


 真夏先輩。


 頭の中に浮かぶのは、病室で微笑む姿。


 手を握ってくれた温もり。


 肩を貸してくれたリハビリの日々。


 (……あれ?)


 (俺……)


 (真夏先輩のこと……)


 格闘技のことしか考えてこなかった二十年間。


 世界一になることだけが夢だった。


 そんな自分の胸が、今は試合前よりもうるさい。


 真夏先輩が他の男と笑っていたら嫌だ。


 誰かに取られたくない。


 もっと一緒にいたい。


 ――これが。


 (好き……ってことなのか)


 大地は、自分の気持ちをようやく理解した。


 「では、お相手は恋人様でしょうか?」


 「ち、違います!!」


 店内に響くほど大きな声だった。


 「まだ……先輩です」


 「まあ!」


 店員はどこか嬉しそうに微笑む。


 「でしたら、初めての贈り物ですね」


 「は、はい」


 「あのぉ……」


 大地は恐る恐る口を開いた。


 「最初のプレゼントが……指輪って……重くないでしょうか?」


 店員は一瞬だけ考え込み、営業スマイルを浮かべる。


 「そんなことはございませんよ。お気持ちが伝わる、とても素敵な贈り物です」


 さらにケースを開く。


 「こちらは人気のペアリングでございます。」


 「ぺ、ペア!?」


 「サイズさえ分かれば、後日お揃いでお使いいただけますよ」


 「お、お揃い……」


 大地の頭の中では、


 真夏と並んで歩く自分。


 同じ指輪。


 照れながら笑う真夏。


 そんな未来予想図が勝手に出来上がっていた。


 (……いいかもしれない)


 店員は心の中で小さくガッツポーズを決める。


 (よし、決めた)


 その日。


 湯本大地は、世界王座挑戦で手にしたファイトマネーの、およそ半分を指輪へ注ぎ込んだ。


 もちろん。


 真夏の指のサイズは知らないままである。


 ◇


 「だぁ〜いち、くん」


 病室へ戻った大地を、真夏が腕を組んで待ち構えていた。


 「どこへ行ってたのかな?」


 声はいつも通り穏やかだ。


 なのに。


 その笑顔だけが、なぜか少し怖い。


 「ちょ、ちょっと街に……」


 真夏への恋心を自覚したばかりの大地は、露骨に視線を泳がせる。


 その反応を見て、真夏は小さく息をついた。


 「街?」


 「は、はい」


 「私に内緒で?」


 「うっ……」


 返す言葉がない。


 真夏はふいに窓の外へ目を向けた。


 「……そうよね」


 ぽつり、と呟く。


 「大地くんは、世界チャンピオンまであと一歩だった人だもの」


 少しだけ寂しそうに笑う。


 「きっと……素敵な女性くらいいるわよね」


 その横顔は笑っているのに、どこか泣きそうにも見えた。


 大地は慌てて首を横に振る。


 「そ、そんな人いません!」


 勢いよく否定した拍子に、ベッドの上へ置いていたリモコンが床へ落ちた。


 カチッ。


 偶然、テレビの電源が入る。


 『――今週末は、数年ぶりとなる皆既日食です』


 画面の中では女性アナウンサーが興奮気味に解説していた。


 『全国各地で観測できる見込みです』


 その言葉を聞いた瞬間だった。


 「ま、真夏先輩!」


 「えっ?」


 「お、俺と……」


 喉が渇く。


 心臓が痛いほど鳴っている。


 リングへ上がる時より緊張していた。


 「お、俺と二人で……皆既日食、見に行きませんか!」


 言ってしまった。


 勢いだった。


 でも、今さら取り消せない。


 「皆既日食を……」


 真夏は目を丸くする。


 「二人で?」


 「は、はい」


 沈黙。


 病室に時計の秒針だけが響く。


 「そ、その時に……」


 大地はぎゅっと拳を握る。


 「伝えたいことが、あります」


 そして、小さく付け加えた。


 「渡したい物も」


 真夏はじっと大地を見つめていた。


 その視線から逃げられない。


 やがて、ゆっくりと歩み寄る。


 顔が近い。


 近すぎる。


 「……本当に?」


 「ほ、本当です」


 「約束……してくれる?」


 「はい!」


 迷いはなかった。


 真夏の頬が少しずつ赤く染まっていく。


 「……うん」


 嬉しそうに微笑む。


 「楽しみにしてる」


 その笑顔を残したまま、真夏は照れ隠しをするように病室を出て行った。


 扉が閉まる。


 静かになった病室で、大地は数秒間その場に立ち尽くした。


 そして。


 「……よしっ!」


 思い切り両拳を握り締め、小さくガッツポーズを作る。


 世界王者への挑戦が決まった日よりも。


 そのガッツポーズは、ずっと嬉しそうだった。


 ◇


 皆既日食当日。


 平日の真っ昼間ということもあり、街はいつもと変わらない日常を送っていた。


 そんな中、湯本大地は病院最寄り駅の時計台の下で、落ち着きなく辺りを見回していた。


 待ち合わせの三十分前には到着している。


 時計台を見上げる。


 腕時計を見る。


 もう一度時計台を見る。


 ……三十秒しか経っていない。


 「まだかぁ……」


 思わず呟き、深呼吸する。


 服装は大丈夫だろうか。


 シャツの襟を整える。


 髪は乱れていないか。


 手鏡を取り出して確認する。


 バッグの中の指輪は無事だろうか。


 チャックを開けて箱を確認する。


 閉める。


 ……やっぱり気になって、もう一度開ける。


 「よし」


 小さく頷いた、その時だった。


 「ふふっ、どうしたの? 大地くん」


 聞き慣れた優しい声。


 「何か忘れ物?」


 顔を上げた大地は、そのまま固まった。


 淡い色のワンピース。


 風に揺れる長い黒髪。


 いつもの白衣ではない真夏が、少し照れくさそうに立っていた。


 (……きれいだ)


 思わず見惚れる。


 「だ、大地くん?」


 「せ、せ、せ、先輩!」


 ようやく我に返る。


 「ほ、本日は! お、お日柄も……お、お……およぴゅ」


 盛大に噛んだ。


 「……ぷっ」


 真夏は口元を押さえ、


 「なぁに、それ」


 と笑い出す。


 「ふふっ。もしかして、大地くん……緊張してるの?」


 少し意地悪そうに首を傾げる。


 「し、してません!」


 即答だった。


 しかし耳まで真っ赤だ。


 「ふふふっ」


 「行こう。電車、遅れちゃう」


 そう言って真夏は自然に大地の手を取った。


 「は、はい!」


 触れた手の温もりだけで心臓が跳ね上がる。


 (む、無理だ……近い……)


 二人は並んでホームへ向かった。


 ◇


 電車は穏やかに揺れていた。


 二人並んで座る座席。


 窓の外を流れる街並み。


 何気ない時間なのに、大地には夢のようだった。


 「どうしたの?」


 真夏が首を傾げる。


 「さっきから、ずっと見てるけど……私の顔に何かついてる?」


 「いや……」


 大地は照れ笑いを浮かべる。


 「夢みたいだなって」


 「夢?」


 「試合に負けて、大怪我して……全部終わったと思ってたんです」


 ゆっくりと言葉を続ける。


 「でも、昔から憧れていた真夏先輩と再会して……こうして二人で出掛けられるなんて」


 「…………え?」


 真夏の思考が止まる。


 「い、今……なんて?」


 「え?」


 「わ、私に……憧れてたの?」


 「はい」


 あっさり頷く大地。


 真夏の顔がみるみる赤く染まっていく。


 耳まで。


 首筋まで。


 「し、知らなかったわ……」


 小さな声で呟く。


 「そ、それと……」


 大地はバッグを開けた。


 「皆既日食を見る前に、渡したいものがあって」


 箱を取り出す。


 パカッ。


 指輪だった。


 「…………え?」


 真夏が固まる。


 「ちょ、ちょっと待って!」


 大地は何の迷いもなく真夏の左手を取った。


 「だ、大地くん!」


 「サイズ、合えばいいなぁって」


 「こ、こ、こらっ!」


 「ほ、他のお客さんが見てるから!」


 しかし大地の耳には届かない。


 そっと薬指へ指輪を通す。


 すっと吸い込まれるように収まった。


 「わぁ!」


 「ぴったりだ!」


 その瞬間。


 近くの乗客たちが思わず拍手した。


 「おめでとう!」


 「若いっていいねぇ」


 「幸せになれよ!」


 車内が温かな空気に包まれる。


 「ち、違うんです!」


 真夏は顔を真っ赤にしながら必死に手を振る。


 「これは、そういうんじゃなくて!」


 「え?」


 大地は首を傾げる。


 「これ、ペアリングなんですよ」


 そう言って、自分用の指輪を嬉しそうに取り出した。


 「お揃いです!」


 満面の笑みだった。


 真夏は左手の薬指を見つめる。


 それから大地を見る。


 薬指。


 大地。


 薬指。


 大地。


 「……だ、大地くん」


 「はい!」


 「左手の薬指……なんだけど?」


 「はい!」


 「…………」


 「一番、落ちにくいかなって」


 悪気は、一ミリもなかった。


 「もぉぉぉぉ!!」


 真夏は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆う。


 「ふぇぇぇん……恥ずかしいよぉ……」


 その姿を見ても、大地は首を傾げるばかりだった。


 恋愛IQゼロ。


 世界王座目前の青年は、リングの駆け引きには長けていても、恋愛の駆け引きだけはまるで初心者だったのである。


 ◇


 目的地である埠頭前の公園へ着く頃には、街の空気は朝とはまるで違っていた。


 皆既日食が近づくにつれ、人々は足を止め、専用の太陽観測レンズを手に空を見上げている。


 会社員も。


 買い物帰りの主婦も。


 制服姿の学生たちも。


 ほんのひとときだけ、誰もが空へ心を奪われていた。


 そんな喧騒から少し離れ、大地と真夏は並木道をゆっくり歩いていた。


 五月の風が、新緑の葉を優しく揺らす。


 青々と茂る木々の間を抜けた風は、少しだけ潮の香りを運んできた。


 柔らかな陽射し。


 穏やかな波音。


 この時間が、いつまでも続けばいい。


 そんな錯覚すら覚えるほど、世界は穏やかだった。


 「先輩」


 「なぁに?」


 「ここだと人が多いので……桟橋まで行きませんか?」


 「うん」


 真夏は嬉しそうに頷く。


 左手の薬指には、先ほど大地から贈られた指輪が小さく光っていた。


 何度も嬉しそうに眺めては、照れ笑いを浮かべている。


 その姿は、病院で見せる看護師の顔ではなく、一人の年頃の女性そのものだった。


 二人は桟橋へ向かう。


 色とりどりのボートが静かに揺れている。


 「わぁ……」


 真夏は子どものように目を輝かせると、石畳の上を小走りに駆け出した。


 風に揺れるスカート。


 長い黒髪が陽射しを受けてきらめく。


 「先輩! 待ってくださいよ!」


 大地も慌てて追いかける。


 ようやく歩けるようになったばかりの身体では、まだ真夏の足取りには追いつけない。


 「ごめん、ごめん」


 笑いながら戻ってきた真夏は、そっと大地の手を握った。


 「今日は私が支える番」


 「……ありがとうございます」


 二人は手を繋いだまま、桟橋の先端まで歩いていく。


 海面では、小魚の群れが陽の光を受けながら跳ねていた。


 きらきらと飛び散る水滴が宝石のように輝く。


 どこまでも穏やかな海だった。


 「もうすぐね」


 真夏が空を見上げる。


 二人は太陽観測レンズを目に当て、ゆっくりと空を見つめた。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 月が太陽を覆っていく。


 光が弱まる。


 風景から色彩が薄れていく。


 昼なのに夕暮れのような、不思議な明るさ。


 「……なんだか」


 真夏がそっと呟く。


 「少し、ドキドキするね」


 握る手から、わずかな汗が伝わってきた。


 大地はその手を握り返す。


 「先輩」


 「うん」


 「俺、先輩に伝えたいことが——」


 「うん」


 真夏は優しく微笑む。


 「ちゃんと聞いてるよ」


 その瞬間。


 太陽が完全に月へ隠れた。


 世界から光が消える。


 そして。


 ――カチッ。


 時計の針が進むような、小さな音が響いた。


 (……今の音は?)


 大地は太陽観測レンズを外した。


 異変は、すぐに分かった。


 風が止んでいる。


 波が止まっている。


 空を飛んでいたカモメが羽ばたいたまま動かない。


 海面から跳ねた小魚も、水滴ごと宙へ浮かんでいた。


 人々も。


 車も。


 木々も。


 まるで世界そのものが、一枚の写真になったようだった。


 「大地くん……」


 真夏の震える声。


 握る手に力がこもる。


 「これ……何?」


 答えられなかった。


 次の瞬間。


 ――ボシュウウウウウッ!!


 海が爆発した。


 桟橋のすぐ横から、天へ届くほど巨大な水柱が噴き上がる。


 黒い。


 あまりにも黒い海水だった。


 「逃げ——!」


 叫ぶより早く。


 濁流が牙を剥いた。


 「ゴボッ!」


 「真夏さん!!」


 「大地……くん!」


 圧倒的な水量が二人を飲み込む。


 身体が浮く。


 天地が分からない。


 息ができない。


 それでも。


 大地は必死に真夏の手だけは離さなかった。


 (離さない)


 (この手だけは)


 (絶対に——)


 その瞬間。


 渦が二人を引き裂いた。


 指先が滑る。


 温もりが離れていく。


 「……だいち……くん」


 泣きそうな声だけが、水の轟音の向こうから微かに聞こえた気がした。

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