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真夏は左党

「ドゥエラーさん、この本、借りてもいいですか?」


「また妙な本を選びましたねぇ。」


 ワダツミ王国・王宮図書館のさらに奥。


 主任司書ドゥエラーだけが管理する、小さな収集部屋。


 ドゥエラーは珍しい物を見ると放っておけない性分だった。王宮では「拾い癖の司書」と密かに呼ばれている。


 海流で流れ着いた地上の品々が並ぶその部屋で、真夏は息を呑んだ。


 海底世界へ来てから初めて、日本語が並ぶ本棚を目にした。


 文字を読む前から、涙がこぼれそうになった。


 真夏が抱えていたのは、日本語で『発酵食品と蒸留酒』と書かれた古びた一冊だった。


 海底世界の文字ではない。


 王宮内で、真夏だけが読める、故郷の本だった。


「お酒?」


「え、えへへ……ちょっと興味がありまして。」


 ドゥエラーは少し目を細めて笑う。


「王宮図書館にある本は全部ワダツミの文字です。でも、この部屋だけは違います。」


 ドゥエラーは本棚へ視線を向けた。


「読めない本でも捨てるのは惜しくて。海流で流れ着いた物は、全部ここへ集めているんですよ。」


 本だけではない。


 ガラス瓶、木の匙、紙の地図、古びた日記。


 地上世界の品々が静かに眠っていた。


「ほどほどになさってくださいね。」


「……はい。」


 真夏は笑顔で返事をした。


(あの娘、本当に本が好きね。でもあの目の輝かせ方は、ほどほどには、ならない気がする。)


 ◇


 ワダツミ王宮・医務棟地下研究室。


 王宮でも限られた者しか立ち入らない薬品庫の奥には、小さな研究室がある。


 壁一面には乾燥させた海藻や薬草が吊るされ、貝殻で作られた棚には珊瑚の粉末や魚の胆、色とりどりの液体が入った瓶が整然と並んでいた。部屋の中央には石造りの作業台。その上には大小さまざまな壺や乳鉢、細長いガラスのように透明な海晶管が所狭しと置かれている。


 薬草の香りに混じって、どこか甘酸っぱい匂いが部屋に漂っていた。


「……ふふふ。」


 静まり返った研究室に、不気味な笑い声が響く。


 白衣代わりの作業着を着た森真夏は、壺を見つめながら満面の笑みを浮かべていた。


「もう少し……もう少しで完成するかも。」


 その姿は患者を診る優しい看護師ではない。


 新薬を完成させようと徹夜する研究者そのものだった。


 足元では、小さなバクテリアナマズが尻尾を振っている。


「プギッ。」


「ソラ、今日もお願いね。」


 真夏が器を差し出すと、ソラは嬉しそうに跳ねた。


「プギプギッ!」


 ぷくり、と身体を震わせる。


 次の瞬間、小さな泡と一緒に乳白色の液体が器へと溜まっていく。


 真夏は目を輝かせた。


「やっぱり……!」


 両手で器を抱え、大切そうに見つめる。


「ソラの酵母、本物だ。」


 地上世界では顕微鏡がなければ見えないほど小さな存在。


 けれどソラが生み出すそれは、発酵を驚くほど早める特別な酵母だった。


「この世界にパンもお酒もない理由、これだったんだ。」


 真夏は独り言を漏らす。


 海底世界には発酵という文化がほとんど存在しない。


 保存食は塩漬けや乾燥が中心で、人魚たちは酒を造るという発想すら持っていなかった。


 だからこそ、この研究室は誰にも怪しまれない。


 真夏だけの秘密基地だった。


 作業台には、一冊の古びた本が開かれている。


『発酵食品と蒸留酒の基礎』


 真夏は古びた本のページをそっと撫でた。海流に乗って流れ着いた地上の書物を、ドゥエラーは一冊一冊修復し、大切に保管しているという。人魚たちには読めない文字も多いが、真夏にとっては故郷と繋がる宝物であり、そのおかげで知識欲が止まらなくなった。


「ドゥエラーさん、本当に何でも集めてるんだから。」


 真夏は苦笑する。


 ページを開くと、「酵母」「糖」「発酵」という文字が並ぶ。


「糖を酵母が食べて……アルコールと炭酸ガスを作る。」


 指で文章をなぞりながら確認する。


「理屈は同じ。」


 海ぶどうをすり潰した果汁。

 

 甘海藻から抽出した糖液。


 そこへソラの酵母を加える。


「うまくいけば果実酒になる。」


 真夏は木の棒でゆっくりとかき混ぜた。


 しばらくすると――


 ぽこっ。


 ぽこぽこっ。


 壺の中から小さな泡が湧き始める。


「きた!」


 思わず声が弾む。


「プギッ!」


 ソラも壺を覗き込み、嬉しそうに鳴いた。


「やったねソラ!」


 真夏はソラを抱き上げ、その頬へ自分の頬を擦り寄せる。


「プギプギ!」


 迷惑そうにヒゲをぴくぴくさせるソラ。


「えへへ、ごめんごめん。」


 壺の蓋を少しだけ開ける。


 ふわり、と甘い香りが立ちのぼった。


 真夏は思わず目を閉じる。


「……この匂い。」


 胸が締め付けられる。


 病院勤務を終えた夜。


 コンビニで買った缶チューハイ。


 父と晩酌した梅酒。


 友達と飲みに行った居酒屋。


 忘れたと思っていた記憶が、香りだけで一気によみがえった。


「日本酒も焼酎もビールも……。」


 小さく笑う。


「私、結構好きだったんだよね。」


 ——いや、「結構」ではない。


 夜勤明けでも飲める。


 歓迎会でも最後まで残る。


 医師に「森さん、肝臓どうなってるの?」と真顔で聞かれたこともある。


 職場では「全然酔わない人」として有名だった。


 誰にも言わなかっただけで、実はかなりの酒豪なのである。


「ツバキ様に知られたら驚くだろうなぁ。」


 王女のぽかんとした顔を想像して吹き出した。


「ルファ先生なら、『研究は認めます。でも飲み過ぎは認めません』って顔をしそう。」


「プギッ。」


「でしょ?だから、内緒ね?」


 真夏は唇へ人差し指を当てる。


「この研究は極秘事項。」


 ソラも真似するようにヒゲをぴんと立てた。


「プギッ!」


 「よし、秘密結社『酒造研究会』結成!」


 真夏は勢いよく拳を掲げる。


「部員一号、森真夏!」


「プギッ!」


「部員二号、ソラ!」


「プギプギッ!」


 もちろん部員は一人と一匹。


 真夏は机の端へ視線を向ける。


 そこには珊瑚や巻貝、海晶管を組み合わせた奇妙な装置の設計図が何枚も散らばっていた。


「問題はここから。」


 発酵酒はできる。


 だが、本当に作りたいものは別だった。


「焼酎……。」


 ぽつり、と憧れるようにつぶやく。


 蒸留酒。


 透明で香り高く、長く保存できる酒。


「火がない海底で蒸留なんて、普通なら無理。」


 紙へ何本も線を書き足していく。


「でも、水は冷たい。」


 海水を利用すれば冷却は簡単。


 蒸気さえ作れれば液体へ戻せる。


「つまり問題は――熱。」


 真夏は腕を組んだ。


「どうやって温めるか。」


 研究室は静まり返る。


 ソラだけが首を傾げていた。


「プギ?」


 真夏は壺を見つめながら、不敵に笑う。


「方法は……絶対ある。」


 その笑顔は看護師ではなく、新しい発明を前にした科学者の笑顔だった。


 ◇


 出来たばかりの発酵酒を、小さな茶色い小瓶へゆっくり注ぎ入れる。


 とろり、と琥珀色の液体が瓶の底へ落ちるたび、研究室いっぱいに甘く華やかな香りが広がった。


 海ぶどうの果実を思わせる香りに、ほんのりとアルコールの刺激が混ざる。


 真夏は瓶を光へかざし、小さく息を漏らした。


「……できた。」


 初めて海底世界で生まれた酒は発酵酒だった。


「ルファ先生なら、きっと興味を持ってくれる。」


 真夏が小瓶を持ち上げた、その時だった。


「っ……。」


 胸の奥が針で刺されたように痛む。


 一瞬だけ息が止まり、すぐに痛みは消えた。


「……また。」


 真夏は胸を押さえ、小さく笑ってごまかした。


 王宮へ来てからというもの、ルファは何度も真夏の身体を診察してくれている。


 理由もなく襲ってくる激しい頭痛。


 急に身体が重くなる日。


 熱もないのに高熱を出したような寒気。


 原因はまだ、何ひとつ掴めていない。


「人族だから……なのかな。」


 真夏自身もそう思うしかない。


 ルファは「必ず原因を見つけます」と言ってくれた。


 だからこそ、この発酵酒も先生に見てもらいたかった。


 診察室へ向かう廊下に出た瞬間だった。


 王宮中へ鐘の音が響き渡る。


 ガン、ガン、ガン――。


 普段は静かな医務棟へ、慌ただしく人魚たちが泳ぎ込んでくる。


「道を開けろ!」


「医師長を呼べ!」


 真夏は思わず立ち止まった。


「……何かあったの?」


 診察室へ飛び込むと、巨大な男人魚が三人の若い人魚を抱えていた。


 セイゴ。


 フッコ。


 マダカ。


 三人とも全身が白く霜に覆われ、尾びれには氷が張り付いている。


 唇は青く、呼吸は浅い。


「ガラ先生! 三人を……三人を助けてください!」


 ペルカが床へ額を擦り付けるほど頭を下げた。


 真夏は息を呑む。


(凍傷……それも重度。)


 「ペルカ討伐長、これは、“冷笑の魔女”にやられたのか?」


 「我々は“冷笑の魔女”に接触する前に引き返したのですが、引き返す途中に物凄い冷気に呑まれて…」


 「……恐ろしいのぉ」


 心配するペルカの話しを聞きながら、ガラは余りの恐ろしさに絶句する。


 「父さん、スズキ戦士長がお見えになりました」


 ルファの背後には、屈強な傷だらけの男人魚が泳ぎ寄る。


 「ペルカ討伐長、よくぞ息子たちを王宮まで連れて帰って来てくれた」


 「頭を上げてください戦士長」


 「そうだぞスズキ戦士長。息子達は必ず助ける。安心せい」


 「かたじけない。息子達を、セイゴ、フッコ、マダカを頼みます」


 「ルファ、凍傷が酷い。何か温める物を探して来てくれ」


 「ルファ先生、これ気休め程度になれば良いのですが…」


 「なぁに、これ?」


 真夏に茶色い小瓶を渡されたルファが怪訝な表情を浮かべる。


「発酵酒です。ソラと一緒に……、ツバキ様と、ルファ先生と飲もうと……」


「……発酵酒。」


 ルファは眼鏡のフレームを摘み、暫し考える仕草をする。


 真夏は迷わず三人のそばへ膝をついた。


 指先で頬へ触れる。


「冷たい……。」


 脈を測る。


 弱い。


 身体の芯まで冷え切っている。


「ルファ先生、このまま急激に温めちゃ駄目です。」


「理由は?」


「血流が一気に戻ると危険です。少しずつ体温を上げないと。」


 ガラが真夏を見る。


「ほう……。」


 真夏は瓶を差し出した。


「これ、発酵酒です。」


「酒……じゃと?」


「少量なら血流を促す効果があります。万能薬ではありません。でも気付け薬として使われることがあります。」


 ガラとルファは顔を見合わせた。


「お願いします。試させてください。」


 真夏の声は震えていた。


 飲ませたいからではない。


 助けたいからだった。


 診察室へ静寂が落ちた。


「プギ……。」


 いつも元気なソラが、小さく震えて真夏の白衣を掴んだ。


 真夏はそっと頭を撫でる。


「大丈夫。一緒に助けよう。」


 ガラは小瓶を受け取り、中の液体を光へ透かす。


「……見たことのない薬じゃ。」


「薬ではありません。」


 真夏はゆっくり首を振る。


「私の故郷では、お酒と呼びます。」


 ガラは小さくうなずいた。


「ならば、その故郷の知恵に賭けよう。」


 ルファも静かに息を吸う。


「真夏さん。あなたを信じます。」


 真夏は小さく頷いた。


 ——海底世界で初めて造った酒が、最初に救おうとしている命だった。



「ドゥエラーさんの海底散策」


― 王宮図書館・休館日 ―


「今日は収穫がありそうですねぇ。」


王宮図書館主任司書、ドゥエラー。


四十歳前後の穏やかな人魚だが、休館日になると誰よりも目が輝く。


理由はただ一つ。


海底散策。


「珍しい漂着物は、休館日に探すに限ります。」


大きな編み籠を背負い、鼻歌交じりに海流へ飛び込んだ。


一時間後。


「おや?」


砂に半分埋まっていた透明な瓶を拾い上げる。


「これは……綺麗ですねぇ。」


光へかざしてうっとりする。


もちろん中身は空。


用途も分からない。


「採用。」


籠へ入れる。


さらに泳ぐ。


「おやおや?」


今度は四角い木の板。


表紙には日本語で、


『週刊少年〇〇』


「読めません。」


採用。


「これは……。」


錆びたスプーン。


採用。


片方だけのサンダル。


採用。


コルク。


採用。


ボタン。


採用。


二時間後。


籠は山盛りになっていた。


「今日は大漁ですねぇ。」


満足そうに頷くドゥエラー。


その帰り道。


「ドゥエラー様。」


見回り中の衛兵が声を掛けた。


「また拾ってきたんですか?」


「ええ。」


「今回は何です?」


ドゥエラーは得意げに籠を見せる。


瓶。


板。


サンダル。


スプーン。


ボタン。


「……全部ゴミでは?」


ドゥエラーは心外そうに目を丸くした。


「違います。」


「未来の資料です。」


衛兵は何も言えなかった。


王宮図書館・収集部屋。


「今日の新入りはこちらです。」


一つ一つ丁寧に棚へ並べる。


瓶には札を書く。


透明瓶 用途不明 北西海流より漂着


サンダルには札を書く。


履物(片方) 相方捜索中


「いつか見つかるかもしれません。」


本人は本気だった。


その頃。


真夏が収集部屋へ入ってきた。


「ドゥエラーさん、また増えてる。」


「増えました。」


「……サンダル片方だけ?」


「もう片方も海のどこかにあります。」


「探すんですか?」


「もちろんです。」


即答だった。


真夏は笑いを堪えきれず肩を震わせる。


「プギッ。」


ソラまで笑うように鳴いた。


「ソラさんまで。」


ドゥエラーは少しだけ頬を膨らませる。


「収集家にとって、一つ足りないという状態が一番気になるんです。」


「分かるような……分からないような。」


「真夏さん。」


ドゥエラーは真剣な顔になる。


「もし海で右足用の履物を見つけたら、必ず持ってきてください。」


「そこまで!?」


「約束ですよ?」


「はいはい。」


真夏は笑いながら頷いた。


こうして王宮には今日も、用途不明の「宝物」が一つずつ増えていくのだった。

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