初めてのおつかい ー後編ー
潮の流れがゆるやかになり、海の森に静かな時間が戻ってきた。
いつの間にかグンタイアジの巣穴を襲っていたナゲヤリイカの群れは姿を消し、騒がしく泳ぎ回っていたナナシャクメバルたちも、それぞれ岩陰へと戻っている。
ついさっきまでの大騒ぎが嘘のようだった。
「それにしても、イモチボラが膨らんだり粘液を出すなんて聞いたことないなぁ……」
栗色のポニーテールをぴょこん、と揺らしながら少女――春陽が首をかしげる。
「変異体……? ううん、違うなぁ」
その隣では、褐色の肌をした女性が白く膨らんだイモチボラを手のひらに乗せてじっと見つめていた。
黄金色の、どこか爬虫類を思わせる瞳が興味深そうに細められる。
「こんなふうに膨らんだイモチボラ、初めてみたわ……。」
小さく呟いた、その瞬間――
「……変態、ならばその男で間違いないでしょう。」
背の高い青年が真顔のまま大地を指差した。
一拍置いて、口元だけがわずかに笑う。
「へいへい。もう好きにしてくれ。」
大地は肩を落としてため息をつく。
「違う違う! 虎太郎くん、それ変異体!」
春陽が腹を抱えて笑い出した。
「ふふっ。」
シャイナまで尻尾を揺らして笑う。
「笑うな!」
大地のツッコミだけが、静かな海の森に響いた。
ようやく笑いが落ち着くと、ルシエルは姿勢を正し、三人へ深々と頭を下げた。
「た、助けていただいて、本当にありがとうございました。私は採掘の奴隷村に住んでいるルシエルと申します。」
「ルシエルさんね。」
シャイナはにこりと笑い、長い深緑色の尾をゆったりと揺らした。
「私も改めて自己紹介するわ。狩猟の奴隷村のシャイナよ。」
彼女は胸に手を当てる。
「私は人魚じゃなくて蛇女だけど、よろしくね。」
人懐っこい笑顔とは対照的に、鋭い黄色い瞳が印象に残る。
「改めて、ボクの名前は日之出春陽!」
春陽は元気よく人差し指を立てた。
「シャイナと同じ狩猟の奴隷村の出身。そして――この世界で勇者になる男だよ!」
胸を張って言い切る姿に、大地は思わず眉をひそめる。
(勇者って、自分で言うんだ……。)
「……その反応はひどいなぁ。」
春陽は頬を膨らませた。
「なあルシエル。」
大地は気になっていたことを口にする。
「狩猟の奴隷村とか採掘の奴隷村って、一体――」
「大地!」
ルシエルが肘でつんつんと脇腹を突いた。
「まずは自己紹介!」
「あ、悪い悪い。」
大地は頭をかきながら向き直る。
「湯本大地です。ルシエルと同じ採掘の奴隷村に住んでます。」
胸元を指差した。
「それと、こいつが相棒のアーク。」
「キュ、キューッ!」
勢いよく飛び出したアークが、大地の肩へぴょこんと乗る。
春陽の目がきらりと輝いた。
「かわいい!」
「キュッ!」
アークは得意げに胸を張る。
最後に、背筋を伸ばした青年が一歩前へ出る。
「最後は私ですね。」
両手を揃え、丁寧に頭を下げた。
「私は狩猟の奴隷村の水無瀬虎太郎と申します。以後、お見知りおきを。」
その礼は舞台役者のように美しく、どこか品があった。
大地はその名字に引っかかった。
「……水無瀬?」
記憶の奥で何かが繋がる。
「もしかしてラスベガスのホテルでやってたサーカス団の……若くしてクラウンに任命された、水無瀬虎太郎か?」
虎太郎は少し目を丸くし、それから柔らかく微笑んだ。
「大地さん、よくご存じですね。」
照れくさそうに頬をかいた。
「ええ。あれは私です。」
「やっぱり……。」
世界的に有名だったクラウン。
テレビでも何度も特集を見たことがある。
まさか海底世界で会うとは思わなかった。
「私も貴方のことを知っています。」
虎太郎は静かに続ける。
「あの大晦日の試合……残念でした。」
大地の表情がわずかに曇る。
「ですが。」
虎太郎は真っ直ぐ大地を見つめた。
「あの頃よりも今の貴方のほうが……ずっと生き生きして見えます。」
「それは……。」
返事に詰まる大地。
すると、その空気を待っていたかのように春陽が割って入った。
「虎太郎、それ異世界来たら本気出すってやつだよ!」
「うむ!」
虎太郎は親指を立てる。
「さすがお嬢だ。まさにエンターテイメントゥ!」
「いや、何がだよ。」
大地は即座に突っ込む。
ルシエルは小さく吹き出した。
「ふふっ。」
張り詰めていた空気が、一気にほどける。
シャイナは呆れたように腰へ手を当てた。
「はいはい、自己紹介は終わり。」
ぱん、と手を叩く。
「仕事、仕事。イカのエンペラをたくさん拾って帰らないと、またマダムにどやされるわよ。」
「げぇっ! 完全に忘れてた!」
春陽の顔が青ざめる。
「マダムは時間に厳しいですからね。」
虎太郎も苦笑した。
「くくく。それでは大地さん、ルシエルさん。また――」
三人が泳ぎ出そうとした瞬間、大地が呼び止めた。
「待ってくれ!」
三人が振り返る。
「助けてくれて、本当にありがとう。」
ルシエルも慌てて頭を下げる。
「ありがとうございました!」
虎太郎は穏やかに笑う。
「大地さん。"水無瀬さん"ではなく、虎太郎で構いません。同い年ですから。」
「えっ。」
春陽がすぐ反応した。
「じゃあボクより年上じゃん。」
「年齢で張り合うところ?」
シャイナが呆れ顔になる。
「もう、本当に騒がしいんだから。」
そしてルシエルへ手を振った。
「ルシエルちゃん、アークちゃん。またね。」
「キューッ!」
アークも小さなヒレをぶんぶん振り返す。
三人は身を翻し、海藻の間を縫うように泳ぎ去っていく。
その姿は本当に風のようだった。
大地は遠ざかる背中を見送りながら、小さく呟く。
「狩猟の奴隷村……か。」
初めて出会った、自分たちとは違う奴隷村の住人たち。
この出会いが、ワダツミ王国の知らなかった世界へ繋がっていくことを、この時の大地はまだ知らなかった。
◇
所々に穴の空いたグンタイアジの巣穴の下では、争いに敗れたグンタイアジの死骸を二人でせっせと荷車へ積み込んでいた。
ウミウシの牛車は、魚体が一匹乗るたびにぎしりと揺れる。
「なあ、ルシエル。」
大地は死骸を抱え上げながら口を開いた。
「奴隷村って、俺たちが住んでる村以外にもあるのか?」
ルシエルは魚を荷台へ乗せ終えると、小さく頷く。
「うん、あるよ。」
指を一本立てながら数え始めた。
「私たちが住んでるのは採掘の奴隷村。春陽ちゃんたちが住んでるのは狩猟の奴隷村。」
少し考え込むように首を傾げる。
「あと……他にもあるって聞いたことはあるんだけど、名前は忘れちゃった。」
「そうなのか。」
大地は感心したように辺りを見回す。
「この世界に来て初めて、自分たち以外の奴隷村の人間に会ったよ。」
そして、ふっと笑う。
「いい奴らだったな。」
「うん。」
ルシエルも笑顔になる。
「初対面の私たちを助けてくれたもんね。」
少し間を置いて、不思議そうな顔をした。
「そういえば春陽ちゃんが言ってた"勇者"って、何?」
大地は荷車へ魚を乗せる手を止めた。
「勇者っていうのは……。」
記憶を探るように空を見上げる。
「俺がいた世界のおとぎ話や物語によく出てくる存在だ。」
「物語?」
「世界を苦しめる魔王とか悪い奴を倒して、人々を救う英雄って感じかな。」
肩をすくめて苦笑する。
「まあ、春陽の言い方だと、多分そんな意味で言ってるんだと思う。この世界に本当に魔王なんているかは分からないけど。」
「悪い存在……かぁ。」
ルシエルはぽつりと呟き、どこか考え込むような表情を浮かべた。
その横顔を見て、大地は少しだけ気になった。
「どうした?」
「ううん。なんでもない。」
ルシエルは慌てて笑顔を作る。
「じゃあ、異世界って?」
「異世界は、今いる世界とは違う世界のこと。」
大地は海の青さを見渡した。
「俺が生まれて育った世界から見れば、この海底世界は十分すぎるほど異世界だよ。」
「私、大地が前に住んでた世界のこと、何も知らない。」
「ルシエルが聞かなかったから話さなかっただけさ。」
「じゃあ――」
ルシエルは嬉しそうに身を乗り出した。
「村を出るときにお願いしたこと、決めた。」
「お願い?」
「大地が住んでた世界のこと、いっぱい教えて。」
大地は思わず笑ってしまう。
「そんなことでいいのか?」
「うん。」
ルシエルは迷いなく頷いた。
「それがいい。」
その笑顔を見て、大地も優しく笑う。
「じゃあ、また騒がしくなる前にさっさと片付けちまおう。」
「うん!」
二人は再びグンタイアジを荷車へ運び始めた。
ふと、大地が辺りを見回す。
「そういえばアークは?」
「キュ……ギュギュ……!」
少し離れた岩陰から、聞いたことのない苦しそうな鳴き声が響いた。
ルシエルの顔色が変わる。
「大地、大変! アークが苦しんでる!」
「なんだって!?」
大地は慌てて泳ぎ寄る。
アークは口を大きく開けたまま、ぷるぷる震えていた。
「キュッ……ギュゥゥ……!」
「……なるほど。」
大地は一目見て状況を理解した。
「膨らんだイモチボラを丸飲みして、喉に詰まらせたな。」
「えぇぇ!?」
ルシエルが目を丸くする。
大地はアークの尾びれを掴み、そのまま逆さ吊りにした。
「痛いけど我慢しろよ!」
ぽん、ぽん、ぽん。
背中を二、三度叩く。
「ギューーッ!」
次の瞬間――
ぽーーんっ!
餅のようにぷくっと膨らんだイモチボラが勢いよく飛び出した。
「キュッ……。」
アークは涙目になりながら大きく息を吸う。
「食い意地張りすぎだ、お前。」
大地は苦笑した。
吐き出されたイモチボラを拾い上げる。
「しかし本当に餅みたいだな。」
指で押すと、ぷにぷにと柔らかい。
「もしかして……熱を通したら食べられるんじゃないか?」
大地は腰の灰燼を抜き、刃へ熱を流し込んだ。
赤く熱せられた刃を海底の岩へ置き、その上へイモチボラを乗せる。
じゅっ――
小さな音とともに殻がぷくーっと膨らみ、やがて弾けた。
白くとろけた中身から、香ばしい匂いがふわりと広がる。
「すごい……。」
ルシエルが目を丸くする。
大地は恐る恐る口へ運んだ。
「……うまっ!」
思わず声が漏れる。
「焼き餅だこれ! 外は香ばしくて、中は熱々でとろっとしてる!」
夢中でもう一口頬張る。
「熱いけど、めちゃくちゃ美味い!」
ルシエルは半分呆れた顔をする。
「大地って、本当に何でも食べるね……。」
「食べてみろって。」
焼き上がったイモチボラを差し出す。
ルシエルも恐る恐る口へ運んだ。
「……あちっ!」
思わず頬を押さえる。
「私、熱いもの初めて食べた……。」
海底では温かい食べ物など存在しない。
初めて感じる"熱さ"に驚きながら、ゆっくり噛む。
「……でも。」
瞳がぱっと輝いた。
「熱いって……美味しいね。」
「だろ?」
大地も嬉しそうに笑う。
その瞬間、大地の視線が砕けた巣穴へ向いた。
「そういえば、この巣穴も……。」
「今度は何よ?」
ルシエルが半ば呆れながら聞く。
大地は崩れた巣穴の奥を覗き込み、小さな六角形の巣房を見つけた。
灰燼でそっと切り裂く。
すると――
とろり。
黄金色の液体がゆっくりと溢れ出した。
「なんだこれ……。」
指先ですくい、恐る恐る舐める。
「……甘い!」
大地は思わず目を見開いた。
「蜂蜜みたいだ。」
濃厚なのにくどくなく、花の蜜のような優しい甘さが口いっぱいに広がる。
「どれどれ。」
ルシエルも興味津々で指につけて舐めた。
「お、美味しい!」
思わず両手で頬を押さえる。
「こんな甘いもの初めて食べた!」
幸せそうに笑うルシエルを見て、大地も笑みを浮かべた。
「村のみんなの喜ぶ顔が浮かぶな。」
「うん!」
ルシエルは何度も頷く。
「父ちゃんも母ちゃんも、姉ちゃんたちも、きっとびっくりするよ!」
「源爺なんか全部食べそうだけどな。」
「ふふっ、それはありそう。」
二人は顔を見合わせて笑った。
それから時間の許す限り、イモチボラとグンタイアジの巣房を一つひとつ丁寧に荷車へ積み込んでいく。
今日のおつかいは、魚だけでは終わらなかった。
採掘の奴隷村へ持ち帰る、新しい"ごちそう"まで見つけたのだった。
◇
村へ戻ると、入り口の大きな石の上に源爺が腰を下ろしていた。
口にはゆきに内緒で良造に造ってもらったと思われる真新しいキセル。
もちろん、この海底世界に煙草は存在しない。だから煙は一筋も立たない。
それでも源爺は、まるで本当に煙をくゆらせているかのように目を細め、どこか満足そうな顔をしていた。
「源爺、ただいま。」
大地が声を掛けると、源爺はゆっくりとキセルを口から離し――
「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ……。」
「すぅぅぅ……はぁぁぁ。」
と、大げさに煙を吹き出す真似をした。
「煙、出てないって。」
大地はすかさず突っ込む。
「気分じゃ、気分。」
源爺は悪びれもせず笑った。
「よく戻ってきた。それで、どうじゃった?」
「死、死にかけました……。」
大地は荷車にもたれかかるように肩を落とす。
「本当に危なかったんだから。」
ルシエルも苦笑しながら頷く。
「でもね、狩猟の奴隷村の人たちに助けてもらったよ。」
「ほぉ。」
源爺の眉がぴくりと動く。
「マダムのところの者たちか。」
顎に手を当てて何度か頷いた。
「うむ。礼は早い方がよい。善は急げじゃ。明日にでも伺うとするかの。」
そう言うと、源爺はキセルの先を石へ軽く叩き、灰を落とす仕草をした。
もちろん灰も出ない。
「それなら俺も――」
大地が言いかけると、源爺はぴしゃりと遮る。
「お主は明日も狩りの練習じゃ。」
「えぇ……。」
「狩猟の奴隷村へは儂とゆきが行く。」
源爺は真面目な表情になる。
「死にかけたのじゃろう?」
「はい……。」
「ならば、なぜ死にかけたのかを考えねばならん。」
人差し指を立てる。
「日に三たび吾が身を省みる、というではないか。」
「なんですか、それ。」
「毎日、自分の行いを何度も振り返れという教えじゃ。」
源爺は得意げに胸を張る。
「さらに言えば、過ちて改めざる、これを過ちという。」
「また難しいこと言い始めた……。」
大地は頭をかく。
「つまり、一回失敗したなら次は失敗するなってことだ。」
「最初からそう言ってくださいよ。」
「ことわざは遠回しだから味があるんじゃ。」
源爺は満足そうに頷いた。
「なるほど……何となく分かりました。」
「何となくでは困る。」
「また始まった。」
大地がぼそりと呟く。
するとルシエルが荷車をぽんと叩いた。
「それより源爺!」
ぱっと笑顔になる。
「美萩姉は? 美味しいお土産をたくさん持って帰ってきたよ!」
「こら、ルシエル。」
源爺はすかさず人差し指を立てた。
「年長者の話は最後まで聞くものじゃ。」
「でも源爺。」
聞き覚えのある声が後ろから飛んできた。
「老いては子に従えって言うでしょう?」
美萩が笑顔で腕を組んで立っていた。
「いっぱい獲ってきてくれたんだから、まずは労ってあげないと。」
「むぅ……。」
源爺の肩が目に見えて落ちる。
「一本取られたの。」
「ことわざ返しだね。」
ルシエルがくすくす笑う。
「美萩姉!」
ルシエルは待ちきれない様子で荷車を指差した。
「大地がね、スイーツっていうのかな? 頬っぺたが落ちるくらい美味しいものを見つけたの!」
「頬っぺたが落ちるほど?」
美萩の目がきらりと輝く。
「そんな食べ物があるの?」
「あるある! 甘くて、とろーってして――」
「はいはい。」
美萩は優しくルシエルの肩を押した。
「ルシーもお疲れ様。まずは村の中に入って。それからゆっくりお話を聞かせて。」
「うん!」
ルシエルは嬉しそうに頷き、美萩と一緒に荷車を引いて歩き始める。
その後ろ姿を見送りながら、源爺はすっと大地の肩を掴んだ。
「大地、お主は儂のありがたい話をまだ聞いてくれるな?」
「えっ。」
大地の顔が引きつる。
「駄目ですよ。」
美萩が振り返り、にっこり笑った。
「大地くんには料理の手伝いをしてもらうんです。」
「聞いたか源爺? 美萩姉の命令だ。」
大地は小さく拳を握る。
「よし。」
誰にも気付かれないくらい小さなガッツポーズ。
その横で源爺は、石の上に取り残されたまま肩を落とした。
「後生畏るべし……。」
「今のことわざ、絶対意味違うだろ。」
村の入り口に、大地のツッコミと皆の笑い声が響いた。
◇
「それじゃあ、大地くん。お願い。」
美萩が優しく頷く。
厨房のかまどへ、大地は灰燼をかざした。
掌から流れ込んだ熱が石炭へと伝わり、黒い塊がじわりと赤く色づいていく。
ぱちっ、と小さな火花が散る。
海底では本来あり得ない"火の温もり"が、静かな厨房に宿った。
「……うん、もう大丈夫。」
美萩はそっと真新しい鉄のフライパンへ手をかざす。
鍛冶場で良造が打ち上げた、村で初めての鉄の調理器具。
そこへ丁寧に下処理を終えたグンタイアジの開きを乗せた。
ジュゥゥゥ――。
厨房いっぱいに焼ける音が響く。
脂が弾け、香ばしい匂いがふわりと広がった。
その瞬間だった。
ぽろり。
美萩の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
「美萩姉……泣いてる。」
ルシエルが心配そうに顔を覗き込む。
「ご、ごめんね、ルシー。」
美萩は慌てて笑おうとするが、涙は次々と溢れてくる。
「嬉しくて……。」
震える声で続けた。
「料理をしていて、こんな音を聞いたの……ずっと聞きたかった音だから。」
ジュッという音を、もう一度見つめる。
「温かい料理って、本当にこんな匂いがするんだね……。」
大地は何も言えなかった。
この世界では火が使えない。
美萩は料理人なのに、村のために一度も焼くことも煮ることも出来ずに調理してきたのだ。
しばらくして美萩は涙をぬぐい、深呼吸した。
「よし。」
笑顔を取り戻す。
グンタイアジの巣蜜を小さなハケで魚の表面へ丁寧に塗る。
蜜が熱で照り始め、黄金色の艶が魚を包んだ。
甘く香ばしい匂いが厨房中へ広がる。
「できた。」
皿へ美しく盛り付けると、美萩は大地へ振り向いた。
「大地くん。」
少しだけ照れたように笑う。
「この世界で初めて作った焼き魚……千萩に最初に食べてもらってもいいかな?」
その一言に、大地はすぐ頷いた。
「もちろんです。」
優しく笑う。
「千萩姉、今日も一日働いて帰ってきますから。」
「きっと、一番喜びます。」
「ええー。」
ルシエルが口を尖らせた。
「私も食べたい。」
「ルシエル、我慢。」
「むぅぅ……。」
頬を膨らませるルシエルを見て、大地は苦笑する。
美萩はそんな二人を微笑ましく見つめると、皿を大事そうに抱えて厨房を出ていった。
「千萩ー。」
村の外から呼ぶ声が聞こえる。
しばらくして――
「おっ。」
聞き慣れた声とともに千萩が厨房へ入ってきた。
「なんだ、このいい匂い。」
仕事帰りで少し汗を流した千萩は、匂いにつられるように鼻をひくひく動かす。
「グンタイアジの照り焼き風。」
美萩は少し緊張した顔で皿を差し出した。
「熱いうちに食べて。」
千萩は一瞬きょとんとした。
「……私が最初でいいのか?」
「うん。」
美萩は照れくさそうに頷く。
「一番最初は、千萩に食べてもらいたかったから。」
厨房が静まり返る。
千萩は箸を持ち、ゆっくり魚の身をほぐした。
白い湯気が立ち上る。
「熱っ……。」
思わず笑ってしまう。
「これが"熱い料理"か。」
ふうふうと息を吹きかけ、口へ運ぶ。
一口。
噛んだ瞬間、照り焼きの甘辛い香りと魚の旨味が口いっぱいに広がった。
千萩の動きが止まる。
「……どう?」
美萩は両手を胸の前で握りしめ、不安そうに見つめる。
数秒の沈黙。
やがて千萩は、ゆっくり笑った。
「うまい。」
その一言だけだった。
けれど、その声は震えていた。
「美萩……。」
目元をこすりながら笑う。
「こんなうまい料理、ありがとうよ。」
もう一口頬張る。
「やっぱり、あったかい料理って最高だな。」
そして大地とルシエルを見る。
「大地も、ルシーも。本当にありがとう。」
「やったぁー!」
美萩は子どものように飛び跳ねた。
その笑顔につられてルシエルも笑う。
「美萩姉、かわいい。」
「こら。」
美萩は照れて頬を赤くした。
千萩は皿を見つめながら聞く。
「美萩、これだけじゃない顔してるな。」
「えへへ。」
美萩は悪戯っぽく笑った。
「お餅もあるし……甘いものもあるわよ。」
「餅!?」
「甘いもの!?」
今度は千萩とルシエルが同時に目を丸くする。
「ふふっ。」
美萩は腕まくりをした。
「今日はみんなでごちそう。」
肩をぐるりと回す。
「久しぶりに腕が鳴るわ。」
その姿を見て、大地は静かに笑った。
海底世界へ来てから初めての"温かい食卓"が、今から始まろうとしていた。
こうして、大地とルシエルの初めてのおつかいは、大きな土産と、小さな幸せを村へ持ち帰って幕を閉じるのだった。
日之出春陽は、日之出家の末っ子として生まれた。
父は食堂を切り盛りしながら、次々と事業を広げていくやり手の経営者。
母は背が高く、美しい花屋を営む女性。
兄も姉も、誰もが「日之出家の子」と呼ばれるだけの才能を持っていた。
……ただ一人を除いて。
春陽だけは小柄で、勉強も運動も、何をやっても兄や姉ほどではなかった。
だから春陽は、いつも心のどこかで思っていた。
「ボクだけ、何もない。」
学校帰りになると、春陽はよく近所の朝日夫妻の家へ入り浸った。
そこには所狭しと並ぶフィギュア、アニメのBlu-ray、漫画、そして山積みになったライトノベル。
特に春陽が夢中になったのは――異世界転生ものだった。
勇者。
魔王。
冒険。
現実では何者にもなれない少年が、異世界で英雄になる物語。
ページをめくるたび、春陽は胸を熱くした。
「この世界じゃなくて、あっちの世界に行きたい。」
そんな夢を、本気で抱いていた。
一方、水無瀬虎太郎は春陽より二つ年上の青年だった。
母は美術教師。
幼い頃から絵や舞台、美しいものに囲まれて育った虎太郎は、初めて母に連れて行ってもらったサーカスで人生を変えられる。
スポットライトの下で笑い、泣かせ、人を幸せにするクラウン。
その姿を見た瞬間、彼の人生は決まった。
「私は、人を笑顔にする人間になる。」
誰よりも自分の才能を信じていた。
だから高校卒業と同時に、たった一人でアメリカへ渡る。
言葉も文化も違う世界。
それでも努力を積み重ね、ついにはラスベガスの名門サーカス団でクラウンにまで上り詰めた。
非凡な才能。
そして、それ以上の努力家。
それが水無瀬虎太郎という青年である。
そんな二人は、久しぶりの再会を果たす。
ある日、日之出家の父が言った。
「家族旅行でラスベガスへ行くぞ。」
春陽はまったく乗り気ではなかった。
けれど、一つだけ楽しみがあった。
兄のように可愛がってくれた水無瀬虎太郎のサーカスだ。
憧れのクラウンに会える。
それだけを楽しみに飛行機へ乗った。
公演が終わったあと、二人は久しぶりにラスベガス郊外の湖を散歩した。
春陽はぽつり、ぽつりと胸の内を話す。
兄や姉への劣等感。
何者にもなれない自分。
そして――異世界へ行きたいという、本気とも冗談ともつかない夢。
虎太郎は最後まで一度も遮らず聞いていた。
やがて、柔らかく笑う。
「お嬢。」
「誰がお嬢だよ。」
「貴方は昔から、本当に面白い人ですね。」
その言葉に、春陽は少しだけ救われた気がした。
帰ろうとした、その時だった。
湖の中央が轟音とともに盛り上がる。
一本の巨大な水柱が、空へ向かって伸びた。
「え……?」
春陽の身体が宙へ引き寄せられる。
「春陽っ!」
虎太郎は迷わず湖へ飛び込んだ。
必死に手を伸ばす。
指先が届く。
ぎゅっと、その手を掴んだ瞬間――
二人まとめて水柱へ飲み込まれた。
呼吸もできない水の中。
普通なら恐怖で叫ぶ場面だった。
けれど春陽だけは、目を輝かせていた。
「これって……」
満面の笑み。
「キタァァァーーーッ!!」
虎太郎が思わず目を丸くする。
「虎太郎! 手を伸ばしてくれてありがとう!」
水の中なのに、なぜか元気いっぱいだった。
「ボク、異世界に行ったら本気出すから!」
虎太郎は呆れ半分、笑顔半分で答える。
「期待してますよ、お嬢。」
「私はお嬢を死なせません。それが私の使命です。」
春陽は吹き出した。
「何それ、ウケる!」
そして拳をぎゅっと握る。
「守るのはボクだよ!」
「本気になったボクは――誰も死なせないんだから。」
その言葉を最後に、二人の視界は深い青へ染まった。
こうして、ラノベ好きの少女と、エンターテイメントを愛するクラウン。
少し変わった幼なじみの二人は、海底世界ワダツミ王国へ辿り着いたのである。




