初めてのおつかい ー前編ー
狩場となる海域は、まさに別世界だった。
生命の樹・ニライカナイから降り注ぐ柔らかな光が、色とりどりの珊瑚礁を照らし出す。赤、青、紫、橙――無数の珊瑚が宝石のように輝き、その光は揺れる海水に溶け込んで幻想的な景色を生み出していた。
足元には、大草原のように広がる海藻が一面を覆っている。緩やかな潮流を受け、長い葉が風にそよぐ草花のようにゆらゆらと揺れ、その合間を小魚の群れが流れるように泳ぎ抜けていく。
奴隷村の岩肌ばかりの景色とはまるで違う。
豊かさそのものが、この海には息づいていた。
「……凄いな」
思わず漏れた言葉だった。
大地は目の前に広がる光景に、ただ圧倒されていた。
「ふふっ。初めて見ると、みんな同じ顔をするのよ。」
ルシエルは少し誇らしげに笑うと、ウミウシの牛車の手綱を器用に操りながら先へ進む。
「でも、見惚れてばかりもいられないわ。お目当ての獲物はこっちよ。」
二人と一匹を乗せた牛車は、海藻の草原をゆっくりと進んでいく。
やがて景色が変わり始めた。
背丈ほどだった海藻は次第に太く長くなり、幹のような茎を何本も伸ばして林を作っている。視界は狭まり、水流もどこか複雑になる。
まるで森へ足を踏み入れたようだった。
ルシエルが牛車を止め、小さく手を上げる。
「あったわ。」
その声に、大地は身を低くする。
「――あれが今回の獲物。グンタイアジの巣よ。」
視線の先にあったのは、巨大な黄色い建造物だった。
表面には無数の穴が開き、その姿はまるで巨大なミツバチの巣そのもの。珊瑚と海藻が絡み合ってできた巣穴は、人間の家など軽く飲み込めるほどの大きさがある。
静まり返った巣からは、不気味な気配だけが漂っていた。
大地は静かに腰へ手を伸ばす。
村を出る前、良造から護身用として渡された鋼鉄製のカランビットナイフ――灰燼。
冷たい柄を握ると、不思議と心が落ち着いた。
その瞬間、良造の太い声が脳裏によみがえる。
「狩りってのは詰まるところ、生命の奪い合いだ!
俺たちの世界でもそうだろ? 家畜ならまだしも、野生相手に武器も持たず勝てる人間なんてまずいねぇよ。どれだけ人畜無害に見える獲物でも、決して油断するな!」
「……分かってる。」
小さく呟き、もう片方の腰からもう一本を抜く。
レッドファングの牙を打ち直して作られた白い刃――赫灼牙。
灰燼と赫灼牙。
二本の柄には、どちらにも炭谷良造の銘が刻まれていた。
村で初めて鍛えられた鉄と、村を襲った捕食者の牙。
この二刀は、大地にとって初めて「自分の武器」と呼べるものだった。
隣ではルシエルも深く息を吸う。
両腕に装着した鉤爪を静かに構えた。
ヤマタノヒトデの爪から鍛え上げられた八本刃の鉤爪――八星爪。
白い指先が震えている。
「八星爪……初陣だね。」
ルシエルは胸元へそっと手を添え、小さく祈るように目を閉じた。
「父ちゃん……私を守ってね。」
その声は、大地にだけ聞こえるほど小さかった。
大地は何も言わず頷く。
二人は音を立てないよう牛車を離れ、ゆっくりと巣穴へ近づいていく。
海藻の陰から様子をうかがうと、巣の入口には二匹のグンタイアジが泳いでいた。
黄色と銀色の縞模様を持つ魚体は、およそ三十センチほど。
しかし、その目は休むことなく周囲を見回し、まるで働き蜂の門番のように巣を警戒している。
可愛らしい大きさなど、まったく信用できない。
ここは野生だ。
ほんの一瞬の油断が命取りになる。
緊張で喉が渇く。
額から一筋の汗が流れ、それが海水へ溶けて消えた。
この場にはペルカもキャペリンもいない。
頼れる討伐隊の戦士はいない。
いるのはルシエルとアーク、そして自分だけ。
初めて自分たちだけで挑む、本当の狩りだった。
「大地、どうする?」
ルシエルが囁く。
大地が答えようと口を開いた、その時だった。
――サラッ。
足元を撫でるような、小さな流れが生まれる。
次の瞬間、それまで穏やかだった潮が、一斉に向きを変えた。
海藻の林がざわめき、何百本もの葉が同じ方向へとなぎ倒される。
まるで海そのものが息を吸い込んだようだった。
大地の瞳がわずかに見開かれる。
ゆきが教えてくれた言葉が脳裏によみがえった。
「潮は敵の居場所も、動きも教えてくれる。」
――来る。
そう直感した瞬間だった。
ドンッ!!
白い一本の閃光が海を裂いた。
目で追うことすらできない速度。
一直線にグンタイアジの巣へ突き刺さり、
――バキャァッ!!
黄色い巣壁が砕け散った。
珊瑚の破片が四方へ飛び散り、水中に白い粉塵が舞う。
しかし、それで終わらない。
ヒュンッ!! ヒュンッ!! ヒュンッ!!
二本、三本、十本――。
白い槍が雨のように飛来し、巣へ次々と突き刺さっていく。
バキャッ! バキャァッ! ガガガガガッ!!
巣穴が悲鳴を上げるようにひび割れた。
すると――
ブブブブブブブブッ!!
巨大な巣全体が低く唸り始める。
水そのものが震え、大地の胸まで振動が伝わってきた。
「ルシエル……あの白いのは何だ?」
大地は思わず声を潜める。
「あれは……ナゲヤリイカ。」
ルシエルの表情が強張る。
「群れで狩りをするイカよ。遠くから槍みたいに体ごと突っ込んで獲物を貫くの。」
説明が終わるより早かった。
ズドォッ!!
さらに巨大な一撃が巣へ命中する。
巣壁が大きく抉られ、黄色い外殻が崩れ落ちた。
その瞬間だった。
巣穴という巣穴から黒い影が噴き出した。
何百――いや、何千匹。
グンタイアジの群れだ。
銀色の体が一斉に向きを変え、瞬く間に巨大な壁を作る。
頭上の海が黒く染まったようだった。
群れが一つの意思を持った生き物へ変わる。
巣を守るための防衛陣形だった。
対するナゲヤリイカも止まらない。
白い群れが左右から渦を巻き、槍の豪雨となって突撃する。
ドドドドドドドッ!!
銀と白が正面から激突した。
衝突音というより、水圧が爆ぜる轟音だった。
グンタイアジが体当たりでイカを弾き飛ばし、ナゲヤリイカは鋭い口先で魚体を貫く。
銀色の壁が波打つたびに、何十匹ものナゲヤリイカが弾き飛ばされる。だが倒れた隙間を埋めるように、新たな白い槍が飛び込んできた。
鱗が舞う。
墨が広がる。
血が噴き出す。
海中が一瞬で紅く染まった。
「なんだよ……これ……。」
大地の喉が震える。
目の前で起きているのは狩りではなかった。
戦争だった。しかも誰も憎しみで戦っているわけてわはない。ただ、生きるためだけに。
巨大な群れ同士が互いを食い破り、飲み込み、押し潰していく。
一匹が死ねば、その場所を埋めるように十匹が飛び込む。
命の数が多すぎて、一匹一匹の死に意味など存在しない。
血に染まった海藻が激しく揺れ、切り裂かれた魚体やイカの腕が雨のように降り注ぐ。
海底には瞬く間に死骸が積み重なっていった。
さっきまで楽園だった海が、赤い戦場へ姿を変えていた。
その時だった。
「大地、今!」
ルシエルが袖を掴む。
戦っている群れではなく、その外側――海底へ視線を向けていた。
死骸だ。
狩りに失敗した個体や食い散らかされた獲物が、海底へ沈み始めている。
ルシエルは気配を消すように身を低くし、ゆっくりと死骸の山へ近づいていく。
「え……あれを拾うのか?」
「そう。戦いの最中に落ちた獲物を持ち帰るの。」
その声はひどく小さい。
「でも、一番危ない時間でもある。」
ルシエルの言葉通りだった。
血の匂いが海へ広がった瞬間、それまで姿を見せなかった魚たちが一斉に現れる。
ギョロリ、と大きな目がこちらを向く。
岩陰から。
海藻の隙間から。
砂の中から。
中型魚が何十匹も飛び出してきた。
死骸へ一直線に群がる。
「ナナシャクメバル……イサキボタンまで……。」
ルシエルの顔から血の気が引く。
「大地、見つからないように。お願い。」
「き、気を付けてって言われても……。」
魚たちは互いに噛み付き合い、死骸を奪い合っている。
グンタイアジの腹を食い破る者。
ナゲヤリイカの脚を引きちぎる者。
死肉一切れを巡って、今度は別の争いが始まっていた。
食物連鎖は終わらない。
勝者など、どこにもいない。
源爺の言葉が脳裏をよぎる。
「この海で勇気と無謀は違う。生き残った奴だけが、次の日も飯を食える。」
ルシエルが小さく頷く。
「源爺のことを思い出して。私たちは戦うために来たんじゃない。」
「……生きることを最優先。」
「ああ。」
大地も頷いた。
「死骸だけ回収して、すぐ撤退する。」
そう決めた、その瞬間だった。
ザリッ。
足元から嫌な感触が伝わる。
視線を落とした大地の全身から血の気が引いた。
海底一面を覆い尽くすほどの、小さな貝。
玉砂利だと思っていたものが、すべて生きていた。
数え切れないほどの貝殻が口をわずかに開き、大地たちの足元を埋め尽くしている。
「しまった……!」
思わず声が漏れる。
その一言だけで十分だった。
周囲の魚たちが、一斉にこちらを振り向く。
ギョロリ。
無数の瞳が動いた。
世界が止まる。
ルシエルの顔が凍り付いた。
「ああ……もう、使うしかない……。」
生き残るために。
大地は赫灼牙を強く握り締め、静かに意識を集中し始めた。
赤い刃が、微かに熱を帯び始める。
赫灼牙の牙が赤熱し、その熱は次第に青白い輝きへと変わっていく。
冷たい海の中で、その光だけが異質だった。
「頼むぞ……赫灼牙、灰燼。」
大地は二刀を構え、息を整える。
次の瞬間――。
イサキボタンが大きく口を開けて突っ込んできた。
鋭い歯が目前まで迫る。
「遅い!」
体をひねって噛み付きをかわす。
その勢いを利用し、赫灼牙を下から振り上げた。
ズバァッ!!
刃が魚の腹を深々と裂く。
切り口から泡と血が噴き出し、同時に――
ジュッ。
焼け焦げる音が海中に響いた。
肉が一瞬で白く変色し、香ばしい匂いが周囲へ広がる。
「いける!」
熱が通る。
この海でも赫灼牙は通用する。
「アーク! ルシエルを頼む!」
「キューッ!!」
大地の胸元からアークが勢いよく飛び出した。
小さな体とは思えない速度で水を駆け抜け、イサキボタンの群れへ一直線に突っ込む。
ルシエルは八星爪を振るい、二匹、三匹と払い落としていた。
しかし数が多すぎる。
四方八方から牙が迫る。
「アーク砲、乱射ぁ!」
「キュキューーーッ!!」
アークの全身が青白く発光する。
ヒゲが逆立ち、小さな体から放電が弾けた。
バリバリバリバリッ!!
稲妻が枝分かれしながら海中を駆け巡る。
電撃は海藻を縫うように走り、イサキボタンへ次々と命中した。
痙攣した魚体がひっくり返り、群れが一瞬だけ崩れる。
「今よ、大地!」
ルシエルが叫ぶ。
「そのまま距離を――」
「キャッ!」
突然、ルシエルの体勢が崩れた。
尾びれが海底へ吸い付くように止まり、その場に転びそうになる。
大地も踏み出した足が動かない。
「くっ……これは!」
視線を落とした瞬間、背筋が凍った。
足元を埋め尽くしていた無数の貝が、一斉に口を開いていた。
ぷくり、と白く膨らむ。
次の瞬間――
パチンッ! パチンッ! パチパチパチッ!!
貝が弾けるように開き、白い粘液を撒き散らした。
「うわっ!」
粘液が腕へ、足へ、服へ飛び付き、瞬く間に絡み付く。
糸を引くように伸び、肌へ吸い付いた。
まるで大量の餅が体へ貼り付いたようだった。
身動きが取れない。
ルシエルも必死にもがいている。
「大地!」
手を伸ばした彼女を、とっさに抱き寄せる。
だが――
ベチャァッ。
二人の体までくっついた。
「ちょ、ちょっと!!」
ルシエルの顔が真っ赤になる。
「どこ触ってるのよ、この変態!!」
「仕方ないだろ!」
大地も必死だ。
「くっついて離れないんだから!」
「だからって胸を押さえないでぇ!」
「押さえてない! 引き剥がそうとしてるだけだ!」
「言い訳するなぁ!」
二人でもがけばもがくほど粘液は伸び、さらに絡まる。
「なんなのよ、これぇぇぇ!」
半泣きの叫びが海藻の森へ響いた。
大地も額に汗を浮かべる。
「ルシエルも知らないのか?」
「知らないわよ! 初めて見た!」
「アーク! 全部食べ――」
「キュ〜……」
二人が振り向く。
アークも見事にルシエルの背中へ貼り付いていた。
ヒゲまで粘液で固まり、ぺたんと潰れている。
「…………」
三人とも固まった。
アークが情けない声で鳴く。
「キュゥ……」
「アークまでぇぇ!?」
ルシエルが叫ぶ。
「役に立たないじゃない!」
「キュ〜……」
必死に体をよじるが、ますます張り付くだけだった。
大地は乾いた笑いを漏らす。
「終わったかもしれん。」
「終わらせないでよ!」
ルシエルが涙目で睨む。
「大地、どうするのよ!?」
「どうするって言われても、このままじゃ歩けない……。」
その時だった。
ザリ……。
血で染まった海底を、一つの影がゆっくり横切る。
二人の喧騒が止まる。
ギョロリ、と巨大な目玉がこちらを向いた。
イサキボタンより一回り大きな魚が、口をゆっくりと開く。
「ギャーーーーッ!! 見つかったぁ!」
ルシエルが悲鳴を上げる。
「ば、馬鹿! 大きな声を出すな!」
「馬鹿って言うな! 馬鹿大地!」
「今はそこじゃない!」
魚は二人を獲物と認識したのか、ゆっくりと向きを変える。
口の奥には鋭い歯が何列も並んでいた。
「く、喰われる……!」
「ギャーーッ!! もうダメぇぇぇ!!」
ルシエルは目をぎゅっと閉じ、涙目で叫んだ。
その巨大な口が、二人へ向かって一直線に迫ってくる――。
もう駄目だ。
そう思った、その瞬間だった。
「陽光の膝蹴り!!」
凛とした少女の声が海中へ響く。
次の瞬間――
ドガァァァン!!
水圧が爆発したような轟音とともに、ナナシャクメバルの巨体が真横へ吹き飛んだ。
魚体は岩壁へ一直線に叩きつけられ、
ゴゴンッ!!
鈍い衝撃音とともに岩肌へ深々とめり込む。
衝撃波で周囲の小魚たちは一斉に散り、海藻の林が大きく揺れた。
「た、助かった……。」
「あ、生きてる……。」
大地とルシエルは同時に大きく息を吐いた。
そこへ、小柄な人影が軽やかに泳いでくる。
ベースボールキャップを後ろ向きに被り、栗色のポニーテールを揺らした少女だった。
身長はルシエルより少し低い。
だが、今の一撃を放ったとは思えないほど華奢な体つきをしている。
「いたたた……。」
少女は照れくさそうに自分の膝をさすった。
「二人とも、大丈夫?」
痛そうな仕草とは裏腹に、その笑顔は太陽みたいに明るかった。
「た、助かりました。」
「あ、ありがとうございます!」
二人は慌てて頭を下げる。
「間に合ってよかった!」
少女は胸を張り、親指で自分を指差した。
「ボクの名前は 日之出春陽!」
そして、満面の笑みで宣言する。
「この世界で――勇者になる者だよ!」
「ゆ、勇者……?」
大地は思わず聞き返した。
この世界へ来て初めて耳にする言葉だった。
隣ではルシエルが不思議そうに首を傾げる。
「大地。勇者ってなに?」
「勇者っていうのは……。」
説明しようとした、その時だった。
「それより先に、この状況を何とかしようか!」
春陽が苦笑しながら二人を指差す。
大地とルシエルはいまだ粘液でぴったりと密着したままだった。
「あ……。」
大地の顔が固まる。
「見るなぁーーー!!……じゃなくて助けなさいよぉ!」
ルシエルの悲鳴が海中へ響いた。
春陽は口元を押さえ、笑いをこらえながら振り返る。
「虎太郎、お願い!」
「はいはい。」
その返事とともに、春陽の背後へ一人の青年が音もなく現れた。
長身で細身。
黒髪を後ろへ流し、細い目を楽しそうに細めている。
目元には小さな涙ぼくろがあり、どこか飄々とした笑みを浮かべた男だった。
「くくく……お嬢。」
青年は腕を組み、わざとらしくため息をつく。
「これは判断に悩みますねぇ。」
「何が?」
「仲睦まじいお二人の仲を、私が切り裂くなど……。」
「そんなわけあるか!」
大地が即座に叫ぶ。
「誰が好きでくっついてるんだ!」
「そ、そうよ!」
ルシエルも顔を真っ赤にして怒鳴る。
「全部この変態のせいなんだから!」
「だから違うって!」
「初対面で夫婦喧嘩とは、今日は運がいい。」
青年――虎太郎は肩をすくめる。
「実に仲がよろしい。」
「虎太郎。」
低く呆れた女性の声が割って入った。
「普通に助けてあげなさい。」
海藻の影から、一人の女性が姿を現す。
深緑色の長い髪が水に溶けるように揺れる。
褐色の肌。
鋭い黄色い瞳は爬虫類を思わせ、腰から伸びる長い深緑色の尾にはマムシのようなまだら模様が走っていた。
人魚とは明らかに違う。
野生そのものを纏ったような女性だった。
「シャイナくん。」
虎太郎がにやりと笑う。
「君は、この二人の仲を裂くことをどう思う?」
「どう思うも何も。」
シャイナは呆れたようにため息をついた。
「人助けよ、人助け。」
ギロリ、と黄色い瞳が虎太郎を射抜く。
その迫力に、虎太郎は両手を上げた。
「はいはい。怖い怖い。」
「ああもう!」
春陽が我慢できなくなった。
「勇者であるボクが助ける!」
「春陽ちゃん、待っ――」
シャイナが止めるより早かった。
春陽は勢いよく二人へ手を伸ばす。
ベチャッ。
「……あ。」
一瞬、海中が静まり返る。
春陽の両手も見事に粘液へ貼り付いていた。
「えぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「だから言ったでしょうが!」
シャイナが額を押さえる。
ルシエルはさらに顔を真っ赤にした。
「ば、馬鹿大地!」
「えっ、なんで俺!?」
「初対面の子のどこ触ってんのよ!」
「お、俺は悪くない!」
「きゃーーーっ! 変態ぁ!!」
今度は春陽まで悲鳴を上げる。
「違う違う違う! 身動きが取れないだけなんだ!」
「失礼でしょ!」
ルシエルが大地を睨み付ける。
「だから俺は動けないって!」
必死に否定する大地。
その姿を見て――
「くくくっ。」
虎太郎はとうとう堪えきれず吹き出した。
「全く……仕方ありませんね。」
青年はゆっくりと人差し指を立てる。
その指先から、いつの間にか一枚の白い膜が滑るように現れた。
ナゲヤリイカの翼――エンペラ。
「少しだけ我慢してください。」
次の瞬間。
シュンッ。
音だけが遅れて聞こえた。
虎太郎の指先が幾筋もの残像を描き、粘液だけを正確に切り裂いていく。
髪一本、肌一枚傷付けることなく。
糸を引いていた白い粘液が、するするとほどけていった。
ベチャッ。
三人は同時に海底へ転がる。
「ぷはぁ……!」
「助かったぁ……。」
ルシエルは尾を抱えながらその場に座り込み、大地も力が抜けたようにへたり込んだ。
春陽だけは勢い余って後ろへひっくり返っている。
「えへへ……失敗しちゃった。」
「笑い事じゃないわよ。」
シャイナは呆れながら言うものの、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
血で染まった海藻の森の中で。
騒がしくて、不思議な三人組との出会いが始まった。




