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討伐隊 -後編-

 周囲の水温がさらに低くなり、肌を刺すような冷気が防寒着を貫いてくる。


 「ルシエル、大丈夫か?」


 「……大丈夫……じゃないけど、頑張らないとね」


 血流が悪くなったためか、普段は艶やかな唇を紫色に染めたルシエルは、身体をブルブルと震わせていた。


 その一方で、アークはたくさん食べて満足したのか、大地の懐に潜り込み、スヤスヤと眠っている。


 さらに進んでいくと、周囲の岩肌までもが白く凍りついていた。


 「こんな時に襲われでもしたら……」


 大地がそう呟いた、その時だった。


 頭上から、何か透明な物体が舞うように降りてくる。


 それは、ゆっくりと旋回しながら、こちらへ近づいてきた。


 「クリオネハンニャだ! 各人、戦闘態勢をとれ!」


 ペルカの大声が響き渡る。


 隊員たちが一斉に身構える。


 大地もまた、凍える身体に鞭を打つように気合いを込めると、ペルカの前へ出た。


 「隊長、ここは俺に任せていただけませんか?」


 「強敵だぞ?」


 「分かってます。雰囲気で……」


 大地は目の前の怪物を見据えた。


 「それに……コイツの切れ味も試してみたいので」


 そう言うと、大地はレッドファングの牙から作られたカランビットナイフを、指先でクルクルと回した。


 鋭く湾曲した刃が、海中の光を受けて鈍く輝く。


 ペルカは大地の顔を見る。


 そこに恐怖の色がないことを確認すると、ニヤリと笑った。


 「そうか。自信があるなら、やってみろ!」


 ペルカが大きな手で大地の背中をドンと押す。


 「ありがとうございます!」


 大地は喜び勇んで隊の先頭へ立った。


 「大地、一人で大丈夫?」


 後ろから、ルシエルが心配そうに声をかける。


 「ああ」


 大地はナイフを握り直す。


 「イメージは出来ている」


 ――両親のいない大地は、幼少期を施設で育った。


 特撮ヒーローものが大好きだった。


 放送時間になると、テレビに齧り付くように画面を見つめていた。


 悪と戦い、人々を守るヒーロー。


 強くて、格好良くて、どんな怪物が相手でも立ち向かう。


 大地は、そんなヒーローに憧れた。


 施設の友人たちと、寝る間も惜しむようにヒーローごっこに明け暮れた。


 しかし――


 友人たちは、一人、また一人と離れていった。


 有り余るほどの力を持っていた大地に、友人たちはついていけなくなったのだ。


 最初は楽しかった遊びも、大地にとっては次第に物足りないものになっていった。


 そして、いつしか大地は一人になった。


 それでも、大地は戦うことをやめなかった。


 想像の中で戦い始めたのだ。


 最初は動物だった。


 犬。


 狼。


 熊。


 やがて昆虫や爬虫類とも戦うようになった。


 そして、ついには――


 想像の中でしか存在しない「カイブツ」と戦い始めた。


 巨大な牙を持つ怪物。


 鋭い爪を持つ怪物。


 炎を吐く怪物。


 大地は、そんな存在を何度も何度も倒した。


 ――そして今。


 大地は、歓喜に打ち震えていた。


 レッドファングに立ち向かった時は、必死だった。


 生き残るために戦った。


 だが、目の前には今、自分が幼い頃から想像し続けてきた「カイブツ」と呼ぶに相応しい相手がいる。


 ――ブルッ。


 身体が震える。


 武者震いだった。


 寒さなど、いつの間にか忘れていた。


 凍えきっていたはずの身体が、内側から熱を帯びていく。


 頬が紅潮し、心臓が激しく鼓動する。


 「クリオネハンニャか……」


 大地は目の前の怪物を観察する。


 「これはさすがに、打撃は効きそうにないな」


 対峙するクリオネハンニャは、オレンジがかったプルプルの透明なボディをしていた。


 その中心には、紫色をした核のようなものが浮かんでいる。


 「ハンニャの要素も、今のところは……」


 大地が首を傾げた、その瞬間だった。


 透明なボディの中から、何かが飛び出した。


 触手。


 鞭のようにしなりながら、大地の身体へ襲い掛かる。


 「……っ!」


 大地は反射的にナイフを振るった。


 スパッ!


 触手が綺麗に切断される。


 切り落とされた触手は海底へ落ち、ウネウネと蠢いていた。


 「……助かった!」


 そう言い終える間もなく――


 第二、第三の触手が大地へ襲い掛かる。


 「おっと!」


 大地は身体を捻りながら、両手のナイフを振るった。


 スパッ!


 スパッ!


 またしても触手が切断される。


 その動きは、まるで踊っているかのようだった。


 襲い掛かる触手を紙一重で躱し、身体を翻し、すれ違いざまに刃を走らせる。


 一本。


 二本。


 三本。


 切り落とされた触手が、次々と海底へ沈んでいく。


 「ははっ……!」


 思わず笑みがこぼれた。


 楽しい。


 もっと戦いたい。


 もっと、このナイフを振るってみたい。


 そんな感情が、大地の身体をさらに軽くしていく。


 「大地!」


 ルシエルの声が響く。


 大地の足元から、新たな触手が伸びてきていた。


 「おっと!」


 大地は身体を反らし、紙一重で躱す。


 そのまま身体を回転させ――


 ザシュッ!


 触手を切り裂いた。


 次々と四方八方から襲い掛かる触手。


 大地は、それらをまるで飛んできた羽虫を振り払うかのように切り捨てていく。


 そして、少しずつ。


 確実に。


 クリオネハンニャとの間合いを詰めていった。


 (――核に届く!)


 その瞬間。


 クリオネハンニャの身体が、大きく変化を始めた。


 プルプルとした可愛らしい透明な身体が、大きく膨れ上がる。


 そして、その中心から浮かび上がってきたのは――


 恐ろしい「ハンニャ」の顔だった。


 吊り上がった目。


 裂けるような口。


 そして、その口が大きく開く。


 ――グワッ!


 大地を丸呑みにするつもりなのだ。


 「遅い!」


 大地が踏み込む。


 怪物の大口が迫る、その僅かな隙間へ身体を滑り込ませる。


 そして――


 ズブッ!


 カランビットナイフの刃が、紫色の核を正確に貫いた。


 ピシッ――。


 クリオネハンニャの身体に亀裂が走る。


 次の瞬間。


 その巨体は音もなく崩れ落ち、無数の透明な破片となって海底へ沈んでいった。


 ◇


 「随分と苦戦したのぉ。ワシならハンマーで一撃じゃ!」


 「くっくっくっ……私も、この大剣なら一閃ですよ。寒さで身体が縮こまってしまいましたか?」


 視界が白く霞むほどの冷気が漂う中、ペルカとキャペリンは寒さなど微塵も感じていないかのように、それぞれ手にした武器を軽々と振り回してみせた。


 「そ、そんなことは……」


 大地は悔しそうに言葉を濁す。


 「ア、アークです。懐で寝ているアークを起こさないように戦っていたので……」


 「ほう?」


 ペルカとキャペリンの視線が、大地の胸元へ向けられる。


 防寒着の隙間。


 そこには小さなアークが身体を丸め、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っていた。


 「ま、そういうことにしといてやろう」


 「くっくっくっ……」


 二人は顔を見合わせ、ニヤついている。


 「……」


 大地は何も言い返せなかった。


 その様子を見ていたセイゴたち三兄弟は、ただただ言葉を失っていた。


 つい先ほどまで、触手の猛攻をものともせずクリオネハンニャを切り刻んでいた男。


 それが今は、小さなアークを起こさないように戦っていたと言っている。


 理解が追いつかない。


 その隣では、紅い瞳のルシエルが寒さに身体を震わせていた。


 「……さ、寒い……」


 鼻の頭を赤くし、鼻水まで垂らしている。


 「ルシエル、大丈夫か?」


 「だ、大丈夫……」


 そう言いながら、声は明らかに震えていた。


 そんな一行がさらに進んだ、その時だった。


 「ん?」


 先頭を歩いていたペルカが足を止める。


 「迷ったか?」


 そう呟きながら、ペルカは目の前の岩肌へ大きな手を伸ばした。


 だが――


 「た、隊長……そ、それは……!?」


 セイゴの声に、ペルカが振り返る。


 「ん?」


 ペルカが岩肌だと思って触れたもの。


 それは、巨大な蟹だった。


 全身が完全に凍りつき、岩壁に張り付くような姿勢で動きを止めている。


 「ギ、ギロチンガザミか!?」


 ペルカの顔から笑みが消える。


 「捕食者が……凍っているなんて……」


 キャペリンも身構え、周囲を警戒する。


 ギロチンガザミ。


 この海域で恐れられている捕食者の一種だ。


 それが、何の抵抗もできないまま凍りついている。


 その事実が、この場所の異常さを物語っていた。


 「隊長、あそこにも!」


 マダカが指差す。


 その視線の先。


 巨大な星形の物体が、岩肌に張り付いていた。


 ペルカが目を細める。


 「……ヤマタノヒトデ」


 「ほ、捕食者が……二体も……」


 フッコの顔が青ざめる。


 今にも逃げ出しそうな三人を見て、ペルカはしばらく黙っていた。


 そして――


 「おい、お前たち」


 低い声が響く。


 セイゴ、フッコ、マダカの三人がペルカを見る。


 「ワシは隊長として、言わなければならないことがある」


 三人を見つめるペルカの目は、先ほどまでとは違っていた。


 「入隊試験の時、ワシはお前たちに聞いたな。死ぬ覚悟はあるか、と」


 「……はい」


 三人が小さく頷く。


 「だがな……」


 ペルカは拳を握る。


 「隊長であるワシには、皆を生きて帰す責任がある」


 そして、三人の顔を一人ずつ見た。


 「いや――」


 ペルカの声が、さらに低くなる。


 「生きて帰さなければならない者たちがいる」


 「……」


 セイゴたちは何も言えなかった。


 「セイゴ、フッコ、マダカ」


 ペルカは三人の名を呼ぶ。


 「お前たちは、大恩あるスズキ戦士長の息子たちだ」


 その言葉に、三人が息を呑む。


 「帰るぞ」


 「隊長……!」


 「これは命令だ」


 有無を言わせぬ声だった。


 ペルカは三人の肩に手を置く。


 「キャペリン」


 「はい」


 「あとを頼んでいいか?」


 ペルカはちらりと大地たちへ視線を向ける。


 「どうせこいつらは、ワシが帰れと言っても帰らん者たちだ」


 「……確かに」


 キャペリンが苦笑する。


 大地は何も言わず、前方を見据えていた。


 ルシエルもまた、不安そうな表情を浮かべながら大地の隣に立っている。


 「隊長」


 大地がペルカを見る。


 「俺たちは大丈夫です」


 「……ああ」


 大地の目を見たペルカは、静かに頷いた。


 「キャペリン、あとは任せたぞ」


 「お任せください」


 「隊長もお気をつけて」


 「ああ。任せておけ」


 こうしてペルカは、セイゴたち三兄弟を連れて、先に王宮へと戻ることになった。


 その背中を、大地たちは黙って見送る。


 やがてペルカたちの姿が冷気の向こうへ消えていく。


 「……大地」


 ルシエルが小さく呟く。


 「ああ」


 大地も短く答えた。


 二人は言葉を交わすことなく、静かにアイコンタクトを取る。


 ――ここから先は、何が起こるか分からない。


 それでも二人は、進む。


 凍りついた捕食者たちが眠る、さらに深い海域へと。


 ◇


 「アーク、起きろ! 俺たちを導いてくれ!」


 冷気によって、視界はほとんどゼロに等しい。


 大地は藁にも縋る思いで、胸元で眠っているアークの身体を軽く叩いた。


 「アーク、お願い……」


 ルシエルも祈るように声をかける。


 すると――


 アークの身体が、青白い光を帯び始めた。


 「……!」


 大地の胸元から、アークがゆっくりと顔を覗かせる。


 「おい、アーク……そんなところで光ると……」


 ピリッ!


 大地の身体に、電気が走った。


 「体が痺れ……」


 その瞬間だった。


 ピンッ!


 アークの髭が勢いよく伸びる。


 その一本が、霧のような冷気の向こうにある岩肌を真っ直ぐに指していた。


 「アーク……」


 大地は目を細める。


 「……あそこに、ゆきさんがいるのか?」


 「キュ、キュキューッ!」


 アークが鳴く。


 まるで「そうだ」と答えているかのようだった。


 「キャペリン副隊長!」


 ルシエルが声を上げる。


 「あそこを目指しましょう!」


 「待て、ルシエル!」


 キャペリンが制止する。


 しかし――


 「大地! 痺れてる場合じゃないわ!」


 ルシエルは、すでに先へ泳ぎ始めていた。


 「き、君っ!」


 キャペリンが慌てて後を追う。


 大地もその後に続いた。


 そして――


 先を泳いでいたルシエルの身体が、ピタリと止まった。


 「……なさい」


 冷気の向こうから、声が聞こえる。


 「返しなさい……」


 美しく、透き通るような声。


 それなのに――


 聞いているだけで、心の底から凍りついてしまいそうなほど冷たい。


 「引き返しなさい」


 キャペリンが大剣を構える。


 「冷笑の魔女か!」


 その瞬間――


 「ふふふふふっ……」


 冷気の向こうから、笑い声が響いた。


 パキパキパキッ!


 キャペリンの大剣が、刀身から柄に至るまで一瞬で凍りつく。


 「なっ……!」


 そして――


 バキィィン!


 大剣が粉々に砕け散った。


 「……これほどなのか」


 キャペリンの顔に戦慄が走る。


 武器を失った。


 それだけではない。


 これほどの冷気を、ただ声とともに放っている。


 「副隊長、下がってください」


 大地が前へ出た。


 「ここは俺が……」


 「大地!」


 キャペリンが叫ぶ。


 だが、大地は止まらない。


 その視線は、動きを止めたルシエルへ向けられていた。


 (ルシエルは……)


 大地はルシエルのもとへ泳ぎ寄る。


 (ルシエルは、大丈夫なのか……?)


 身体を寄せる。


 「……っ!」


 冷たい。


 ただ冷たいのではない。


 触れた瞬間、体温そのものを奪われるような冷たさだった。


 (つ、冷たい……それに……)


 ルシエルの顔色が、見る見るうちに悪くなっている。


 「引き返せって言ったよね!」


 冷気の向こうから声が飛んでくる。


 大地は声の主へ向き直った。


 「ゆ、ゆきさん……!」


 「……」


 「ゆきさんですよね!?」


 大地は必死に声を張る。


 「話を……話を聞いてください!」


 「話し?」


 冷たい声が返ってくる。


 「誰よ、アンタ」


 冷気がさらに勢いを増す。


 「大地!」


 「……大地?」


 「大地って言います!」


 大地は叫んだ。


 「良造さんに頼まれて、ゆきさんを迎えに来ました!」


 「迎え?」


 声の温度が、さらに下がった。


 「そんなこと、私は頼んでないわよ」


 「でも……!」


 「引き返しなさい!」


 その一言とともに、冷気が大地たちへ襲い掛かる。


 「くっ……!」


 大地は腕で顔を覆う。


 (駄目だ……)


 冷たい。


 身体の芯まで凍りついていく。


 (説得が通じない……)


 大地はルシエルを見る。


 その瞼が、今にも閉じようとしていた。


 (このままじゃ……ルシエルが……)


 「……大地」


 弱々しい声。


 ルシエルが、最後の力を振り絞るように口を開いた。


 そして――


 防寒着を脱ごうとする。


 「……大地だけでも……」


 「何してるんだ!」


 大地が止めようとする。


 「これを着て……大地だけでも帰って……」


 「駄目だ!」


 大地の胸の奥で、何かが弾けた。


 (死なせちゃいけない)


 ――ドクン。


 (こんないい子を……)


 ――ドクン。


 (失いたくない)


 ――ドクンッ。


 「俺は……」


 大地の拳が震える。


 「俺は……!」


 胸の奥から、熱が込み上げてくる。


 ――ドク。


 ――ドク。


 ――ドク、ドク、ドク。


 鼓動が早くなる。


 冷え切っていた身体が、内側から熱を帯び始めた。


 「……!」


 大地の身体から、熱が溢れ出す。


 凍りついていた防寒着の表面から、白い蒸気が立ち上った。


 「……大地?」


 ルシエルが顔を上げる。


 「温かい……」


 大地の身体から伝わる熱が、ルシエルの身体を包み込んでいく。


 青白くなっていた頬に、少しずつ血色が戻っていく。


 震えていた身体も、次第に落ち着いていった。


 「ルシエル……」


 大地は安堵の息を吐く。


 「良かった……」


 思わず、ルシエルを抱きしめる。


 「大地……熱いよ」


 「え?」


 「温かいを通り越してるよ」


 「熱い?」


 大地は自分の身体を見る。


 「……ああ」


 そして、白い歯を見せて笑った。


 「俺も熱い」


 「もう! 熱いから離れてよ!」


 ルシエルは大地を強引に押し退けた。


 その瞬間だった。


 「母ちゃん!」


 ルシエルが叫ぶ。


 「ゆき母ちゃん!」


 冷気の向こうへ向かって、必死に泳いでいく。


 「ルシエル……」


 「今更、何しに来たの?」


 冷たい声が響く。


 しかし――


 先ほどまで猛威を振るっていた冷気が、徐々に収まっていく。


 白い霧が晴れていく。


 そして、その向こうから――


 一人の女性のシルエットが浮かび上がった。


 白い着物。


 青白い髪。


 透き通るような白い肌。


 その姿はまるで――


 冷徹な雪女。


 「母ちゃん……」


 ルシエルの目から涙が溢れる。


 「ごめん……ごめんなさい……」


 震える声で、必死にゆきへ近づいていく。


 「わがまま言ってごめんなさい!」


 ゆきは何も言わない。


 「好き嫌いしない!」


 ルシエルの声が涙で震える。


 「勉強もする!」


 さらに一歩近づく。


 「だから……戻って来て!」


 そして――


 ルシエルは、ゆきへ飛び込むように抱きついた。


 「母ちゃん……!」


 「……」


 ゆきは黙ってルシエルを見下ろす。


 「それだけ?」


 「え……?」


 ルシエルが顔を上げる。


 「他には?」


 「……!」


 ルシエルは慌てて涙を拭う。


 「母ちゃんに隠し事しない!」


 必死に言葉を続ける。


 「ちゃんと……ちゃんと恋バナもする!」


 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔。


 それでもルシエルは、必死にゆきの顔を見つめた。


 「……ホント?」


 ゆきの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


 「ゔん……!」


 ルシエルが涙を流しながら頷く。


 その瞬間――


 ゆきが、ニッコリと微笑んだ。


 「ルシエル……」


 「……」


 「ルシー」


 ゆきは愛おしそうに娘を抱きしめる。


 「私の可愛い娘、ルシー」


 「母ちゃん……!」


 しばらくの間、二人は抱き合っていた。


 やがて、ゆきはルシエルの頭を優しく撫でる。


 「……もう、いいわ」


 「……!」


 ルシエルの顔がぱっと明るくなる。


 「帰りましょう、ルシー」


 そして、ゆきは大地へ視線を向けた。


 「それと……大地……くん?」


 「は、はい……」


 「良造さんに頼まれたのね?」


 「はい」


 ゆきは小さく頷く。


 「そう……」


 それから、今度はキャペリンへ視線を向ける。


 「あなたも一緒なのね」


 「……」


 キャペリンは答えない。


 いや――


 答えられない。


 視線だけが、粉々になった大剣の残骸へ向かう。


 そして、ゆきとルシエルを見る。


 再び大剣の残骸を見る。


 「……」


 何度見ても、状況が理解できない。


 「……あの」


 ようやくキャペリンが口を開く。


 「はい?」


 ゆきが首を傾げる。


 「……これは……一体……?」


 「何が?」


 「い、いえ……」


 キャペリンは言葉を失った。


 先ほどまで、辺り一帯を凍らせていた冷気。


 凍りついた巨大な捕食者。


 一瞬で粉砕された大剣。


 そして――


 そのすべての中心にいた「冷笑の魔女」が、今は娘を抱きしめている。


 キャペリンには、何一つ理解できなかった。


 「……」


 大地もまた、黙ってその光景を見つめている。


 だが、大地よりも混乱している者が一人。


 キャペリンだった。


 ――この日、キャペリンは生まれて初めて、


 「女性の親子喧嘩ほど恐ろしいものはない」


 という事実を身をもって知ることになるのであった。


 ◇


 「ルシー、帰るわよ」


 ルシエルの涙を拭うゆきの声は、先ほどとは打って変わって優しさに満ち溢れていた。


 「母ちゃん……もう怒ってない?」


 「可愛い娘が迎えに来てくれたのに……怒ってるわけないじゃない」


 そう言って、ゆきはルシエルをもう一度、優しく抱きしめる。


 その光景を見ながら、キャペリンはただ呆然としていた。


 ――理解できない。


 先ほどまで自分たちを凍死させかねないほどの冷気を放っていた女性が、今は娘を愛おしそうに抱きしめている。


 そして何より――


 人魚であるルシエルが、人間族の女性を「母」と呼んでいる。


 「……」


 キャペリンは、目の前の光景を何度も見直した。


 だが、何度見ても状況は変わらない。


 「キャペリンさん、でしたっけ?」


 「は、はひぃっ!」


 突然声を掛けられ、キャペリンの身体がビクッと跳ねる。


 「ふふふ」


 ゆきが微笑む。


 「そんなに怖がらなくても大丈夫よ」


 「は、はい……」


 「それで、この件を王宮にはどう報告するのかしら……」


 ゆきが考え込む。


 「……ちょっと待って」


 そして、ふと思い出したように大地を見る。


 「大地くん」


 「はい?」


 「アレ、取って来てもらえるかしら?」


 ゆきが指差した先。


 そこには、凍りついた巨大なギロチンガザミがいた。


 「……アレですか?」


 「ええ」


 「凍ってますよ?」


 「今の大地くんなら大丈夫よ」


 ゆきは何でもないことのように言う。


 「ナイフに『熱』を込めてごらんなさい」


 「熱って……」


 「イメージよ」


 ゆきは人差し指を立てる。


 「熱くなるイメージ。大地くん、そういうのは苦手?」


 「……いえ」


 大地は腰のカランビットナイフを抜く。


 「イメージなら、得意です」


 大地は刃をじっと見つめた。


 (イメージか……)


 熱くなる。


 燃える。


 溶かす。


 そんなイメージを頭の中で描く。


 すると――


 レッドファングの牙から作られた刃が、オレンジ色に輝き始めた。


 「……!」


 大地が目を見開く。


 「出来た……」


 「うん」


 ゆきは満足そうに頷く。


 「でも、まだ足りないわ」


 「足りない?」


 「もっとよ」


 「分かりました」


 大地は再びナイフを見つめる。


 (もっと……)


 さらに熱く。


 もっと。


 もっと――!


 すると、カランビットナイフの刃が、さらに強く輝き始めた。


 オレンジ色だった光は次第に白へ近づき、やがて青白い光へと変わっていく。


 その周囲の水が揺らめき、刃の表面から白い蒸気が立ち上った。


 「……!」


 キャペリンが目を見開く。


 極寒の水中。


 それなのに、大地の手にしたナイフだけが、異様な高温を示している。


 「うん、上出来」


 ゆきが満足そうに微笑む。


 「じゃあ、行ってらっしゃい」


 「はい!」


 大地は凍りついたギロチンガザミへ向かって泳いでいく。


 そして――


 ザンッ!


 青白い光を纏ったカランビットナイフが、巨大なハサミを根元から切断した。


 ズゥゥン……。


 切り落とされた巨大なハサミが、海底へ落下する。


 「……」


 キャペリンは、その光景を呆然と見つめていた。


 「キャペリンさん」


 「は、はい!」


 「アレ、差し上げるから……あとは宜しくね♡」


 「は、はひぃっ!」


 キャペリンの背筋が伸びる。


 「しかし……捕食者討伐の証は、倒した者が持ち帰るものでは……」


 「そうなの?」


 ゆきが首を傾げる。


 「でも、私には似合わないし、そういうの興味ないの」


 「……」


 「だから、分かったわね?」


 ニッコリ。


 「……は、はい」


 キャペリンは蛇に睨まれた蛙のように直立不動となった。


 それ以上、何も言えなかった。


 「大地くん」


 「はい?」


 「今度は、あっち」


 ゆきが指を差す。


 その先には、凍りついたヤマタノヒトデがあった。


 「ヤマタノヒトデの爪を取ってきて♡」


 「え?」


 「これはルシーへのプレゼント」


 「私の?」


 ルシエルが目を輝かせる。


 「母ちゃん……私の鉤爪、ボロボロなの……」


 ルシエルが自分の手を見る。


 長年使い込んできた鉤爪は、傷だらけになっていた。


 「そうね」


 ゆきは娘の手を優しく包み込む。


 「大切な娘のことだもの」


 そして、ニッコリと微笑んだ。


 「新しいのを作ってもらいましょ」


 「……誰に?」


 「もちろん――」


 ゆきが微笑む。


 「良造さんに」


 「父ちゃんに?」


 「うん。父ちゃんに」


 ルシエルの顔が、ぱっと明るくなる。


 「楽しみ!」


 「ふふふ。きっと、格好いいのを作ってくれるわ」


 その横で、大地は青白い光を纏ったナイフを見つめていた。


 (熱……)


 これまで自分は、ただ「熱」を放つだけだった。


 だが――


 (こういう使い方も出来るのか)


 大地は小さく笑った。


 そして、少し離れたところでは――


 「……」


 キャペリンが、未だに直立不動のまま固まっていた。


 自分の大剣は砕け散った。


 冷笑の魔女は娘と仲直りした。


 大地は新しい力の使い方を覚えた。


 そして、自分は巨大な捕食者のハサミを王宮まで運ばなければならない。


 ――何が何だか分からない。


 こうして――


 王国を震撼させた「冷笑の魔女」の騒動は、キャペリンに一任される形で、静かに幕を閉じるのであった。


 ただし。


 この日、キャペリンの中に一つだけ、確かな教訓が刻まれた。


 ――親子喧嘩には、絶対に首を突っ込んではいけない。


 

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