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真夏の覚悟

「あら、目が覚めたのね、調子はどうかしら?」


 今まで体験したことのない、ふかふかのベッドの上で、真夏は目を覚ました。


 ぼんやりと天井を見上げる。


 ここが自分の知っている病院ではないことなど、もう分かっている。


 室内は数々の煌びやかな装飾で彩られていた。壁には珊瑚を加工した飾りが並び、淡い光を放つ海底植物が、まるで照明のように部屋を照らしている。


 そんなベッドの傍らには、エメラルドグリーンの髪をポニーテールにした人魚がいた。


 白衣に眼鏡。


 いかにも医者らしい格好をした彼女は、心配そうに真夏の顔を覗き込んでいる。


「ルファさん……」


 真夏は上半身だけをゆっくりと起こした。


 そして、慣れた手つきで自分の手首に指を当てる。


 脈を確認する。


 少しだけ速い。


 けれど、問題があるほどではない。


「バイタルも安定してそうですし、動けるくらいには回復してそうです」


「そう」


 ルファは読んでいた本をパタンと閉じた。


 そのまま立ち上がると、ポニーテールを揺らしながら真夏へ近づく。


 そして――


 こつん。


 自身のおでこと、真夏のおでこをくっつけた。


「うん。体温も良さそうね」


「ルファさん、またその本を読んでらっしゃるんですね」


「ええ。真夏の症状を解明するのが今の私の仕事だから」


 ルファは閉じた本を軽く持ち上げる。


「でも、この本にも真夏の症状は載ってないわね」


 眼鏡の縁を押さえながら、ルファは残念そうに眉を寄せた。


「はあ……また父上に叱られる……」


 深いため息が漏れる。


 その様子を見た真夏は、そっとルファの手を握った。


「ルファさん。いつもありがとうございます」


「……真夏」


「私、ルファさんに迷惑ばかりかけてますから」


「迷惑だなんて思ってないわよ」


 ルファは少しだけ困ったように笑った。


「真夏は王様のコレクションであり……それに、ツバキ様への大事なプレゼントなのですから」


「プレゼント……ですか」


 その言葉に、真夏の表情がほんの少し曇る。


 けれど、それ以上は何も言わなかった。


 代わりに、ルファが持っている本へ視線を向ける。


「私もその本、手に取って読んでも宜しいでしょうか?」


「真夏はまだ、この国の文字が読めないのでは?」


「自分で言うのも恥ずかしいのですが……」


 真夏は胸を張った。


「文学少女を舐めないでください」


「……」


「ルファさんの横で本を眺めてましたら、いつの間にか読めるようになりました」


「いつの間にかって……」


 ルファが呆れた顔をする。


「それに、この子の魚種も調べて分かりました」


「プギッ」


 その時、布団の中から小さなナマズが顔を覗かせた。


「相変わらず変な鳴き声ね」


「ふふっ。本当ですよね」


 真夏の顔から自然と笑みがこぼれる。


「ねえ、ソラ」


「プギッ」


 小さなナマズは、真夏の胸元まで這い上がってくる。


 ソラ。


 真夏がこの国へ来た際、いつの間にか懐に潜り込んでいた小さなナマズだ。


 大地と離れ離れになった寂しさを埋めるように、真夏はソラのことをずっと調べていた。


 ツバキから図書館の使用許可を貰った真夏は、体調が良い時は何時間も籠り、わからないことがあれば司書に何度も尋ねた。


 そうしているうちに、この世界の文字まで読めるようになっていた。


「ソラ。バクテリアン・キャットフィッシュのソラ」


 真夏は小さな身体を撫でながら説明する。


「育て方次第で、生み出すバクテリアが変化する不思議な子なんですよ」


「育て方次第って……」


 ルファはソラをじっと見つめる。


「真夏、ホントにそのナマズ、大丈夫なの?」


「ふふ、どうでしょうね……」


 真夏はソラを両手で持ち上げる。


「でも私、育成ゲーム得意でしたから」


「……ゲーム?」


 ルファが首を傾げる。


「それは、何?」


「えっと……」


真夏が説明しようとした、その時だった。


 バンッ!


 部屋のドアが勢いよく開いた。


「ルファ~~」


 突然響いた、なんとも情けない声に、真夏はびくりと肩を震わせる。


 ルファが驚いて振り返る。


 すると、燃えるような赤い髪が白衣の胸元へ飛び込み、そのまますっぽりと収まった。


 真夏とどこか似た雰囲気を持つ、燃えるような赤い髪の人魚。


 その正体は――ワダツミ王国の女王、ツバキだった。


「ツ、ツバキ様。どうされたのですか? もしかして……また、ですか?」


 ツバキは赤い瞳を潤ませながら、上目遣いでコクリと頷く。


「ドラド君が……また勝手に無駄遣いを……」


「また、ですか?」


 ルファは呆れ気味にため息をつくと、ツバキの頭をそっと撫でる。


「マットウに……マットウに叱られる……。『夫の財布の紐をしっかり締めろ』って……『これ以上、国の財政を圧迫させるな』って……」


 ツバキは両手で顔を覆い、深いため息をついた。


「わかりました、わかりましたから……。これ以上は……真夏も見ていますし……」


 ルファが優しく宥める。


 その言葉に、ツバキはハッと顔を上げた。


 そして周囲を見渡すと、コホンと小さく咳払いをする。


「ま、真夏。今のことは内緒よ。私たちだけの秘密。わかりましたか?」


「はい。それは構いませんが……どういうことなのでしょうか?」


「ツバキ様、私から説明させていただきますね」


 ルファは眼鏡の位置を直しながら、真夏へ向き直る。


「端的に言うと、ドラド王は年の離れたツバキ様のことが大好きなのです」


「……大好き?」


「ええ。好きで好きで堪らないから……」


 そこでルファは一度言葉を切った。


 そして――


「キィーーッ! 私も結婚したい! 結婚したい! 愛されたい! 結婚して愛されたい……!」


「ルファさん?」


「コホンッ!」


 顔を真っ赤にしたルファが、慌てて咳払いをする。


「す、すいません。少し話が逸れました」


 何事もなかったかのように眼鏡を押し上げる。


「気を取り直しまして……ドラド王は、ツバキ様のお気持ちを繋ぎ止めようと、必死になって色々な物をプレゼントしているのです」


「そんなことしなくても……」


 ツバキは、少し恥ずかしそうに赤い髪の毛先を指先でくるくると弄る。


「私はドラド君のこと、大好きなのにね」


「…………」


 その言葉を聞いた真夏の胸が、ほんの少しだけ締めつけられた。


 大好きな人。


 自分も、そうだった。


「羨ましい……」


 気づけば、真夏の口から自然に声が漏れていた。


「真夏?」


「あ……」


 真夏は自分でも驚いたように目を瞬かせる。


「いえ……」


 少しだけ視線を落とした。


「でも、大事なお金を使い過ぎるのも良くないですよね……」


 真夏は気持ちを切り替えるように顔を上げる。


「よし、こうしましょう」


 パァン!


 真夏が両手を叩いた。


「ツバキ様、きちんとお気持ちを伝えてください」


「気持ちを?」


「はい。『好き』って」


 真夏は微笑む。


「毎日ちゃんと言葉にして伝えることで、きっと……」


 真夏の言葉を聞いていたツバキの視線が、ふと彼女の指先へ移った。


「真夏……これ、なぁに?」


 ツバキが指差したのは、真夏の左手。


 その薬指には、一つの指輪が光っていた。


 大地から貰った――


 真夏にとって、何よりも大切な物。


「これは……私の……」


 真夏は指輪を見つめる。


 一瞬だけ言葉に詰まった。


「す、大切な人からいただいた物です」


「大切な人……」


 ツバキの赤い瞳が、みるみる輝きを増していく。


「私、これが良い!」


「え?」


「これだけで良い! 私もこれが欲しい!」


 ツバキは真夏の指輪をじっと見つめる。


「同じ物をドラド君に頼んでくる!」


「えっ、ちょ、ツバキ様――」


 止める間もなかった。


 ツバキは満面の笑みを浮かべると、風のような勢いで部屋から飛び出していった。


「ドラド君にお願いしてくるー!」


「もう、ツバキ様ったら……」


 ルファは呆れたように笑う。


「少し様子を見てきますね」


 小さくお辞儀をすると、ルファもツバキを追うように部屋から出て行った。


「…………」


 静かになった部屋。


 真夏は一人、左手の薬指を見つめていた。


 そこには、大地から貰った指輪がある。


 今まで何度も触れてきたはずなのに、こうして見るたびに、あの日のことを思い出してしまう。


 そっと指輪を撫でる。


「大地くん……」


 名前を口にした瞬間だった。


 胸の奥から、堰を切ったように様々な感情が溢れ出してくる。


 大地と過ごした時間。


 くだらないことで笑い合ったこと。


 何気ない会話をしたこと。


 そして――大地が自分に向けてくれた、あの優しい笑顔。


 幸せだった。


 だからこそ、今が怖い。


 不安な気持ちと、寂しい気持ちが入り混じり、目頭が熱くなる。


 気丈に振る舞ってはいる。


 けれど、真夏はまだ、この世界に完全に馴染めたわけではない。


 海の中で生きることも。


 人魚たちと話すことも。


 見たこともない生き物たちに囲まれて暮らすことも。


 そして何より――大地がいないことも。


 何もかもが、まだ現実とは思えない。


「大丈夫よね……」


 指輪を握り締める。


「貴方も……私も……」


 大地を思い出す。


 汗だくになりながら、ただひたすらに強くなるため、過酷な練習を続けていた姿。


 どれだけ辛くても、弱音を吐かない。


 思うようにいかなくても、何度でも立ち上がる。


 世界に名だたる強敵を前にしても、挑戦者としてリングに上がり続けた。


 そんな大地の姿を、真夏はずっと見てきた。


 大地は、強かった。


 身体だけじゃない。


 何度倒されても、諦めない心が。


 自分自身に負けない強さが。


 真夏は、そんな大地が大好きだった。


「……笑っていたね」


 どんなに辛くても。


 どんなに苦しくても。


 最後には、笑っていた。


 大好きだった、あの笑顔。


「……ふふっ」


 真夏の頬を、一筋の涙が伝う。


 けれど――


 その表情には、もう先ほどまでの弱さはなかった。


「そうだよね……」


 涙を拭う。


「大地くんが頑張ってるのに、私だけ泣いてちゃ駄目だよね」


 真夏は小さく息を吸った。


 そして、拳をぎゅっと握る。


「よし……私も!」


 気合を入れるように頬を軽く叩く。


 そして、ベッドから降りた。


 まだ足元は少し頼りない。


 それでも、立つ。


 自分の力で。


 真夏はもう一度、左手の薬指を見た。


 指輪が淡い光を返す。


「まだ聞いてない……」


 あの日。


 あの場所で。


 大地が自分に伝えようとしていた言葉。


 あの時、最後まで聞くことができなかった。


「大地くんが、私に伝えたかったこと……」


 真夏は指輪をそっと握り締める。


「だから……私も、ここで出来ることを頑張る」


 もう、誰かに守ってもらうだけではいたくない。


 大地がどこかで頑張っているのなら、自分もここで頑張る。


 離れていても。


 会えなくても。


 今すぐ助けに行けなくても。


 自分にできることはある。


「絶対に、また大地くんに逢えるから……」


 その言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。


 怖い。


 寂しい。


 今でも泣きたくなる。


 それでも――


 大地にもう一度会うためなら、真夏は前を向く。


 真夏は覚悟を決めた。


 そして、部屋のドアへ向かう。


 その扉を開けようとした、その時だった。


「……真夏?」


 ドアの前に、ちょうど戻ってきたルファが立っていた。


「ルファさん……」


 ルファは少し驚いた表情を浮かべた。


 けれど、何も言わず、ただ真夏を見つめている。


 真夏は一度だけ深呼吸をすると、真っ直ぐにルファの瞳を見つめ返した。


「ルファさん」


「なに?」


「私に、ルファさんのお手伝いをさせてください」


「……え?」


 ルファが目を丸くする。


「私は医療従事者です」


 真夏の瞳には、先ほどまでの涙の跡が残っていた。


 それでも、その瞳には確かな決意が宿っている。


「まだ、この世界のことは何も分かりません。でも……医療の知識ならあります」


 一歩、ルファへ近づく。


「ルファさんが私のことを調べてくれているように、私もルファさんからこの世界の医療を学びたい」


 そして――


「必ず、ルファさんの力になってみせます!」


 真夏は、力強く言い切った。


 大地にもう一度会うために。


 そして――


 自分自身が、この世界で生きていくために。


 森真夏は、初めて自分から一歩を踏み出した。


 今日も王宮は平和です


 ――真夏が図書館へ行っている頃。


「ルファ~~!」


 バンッ!


 今日も今日とて、診療室の扉が勢いよく開いた。


 ルファは本から目を離すことなく、静かにため息をつく。


「ノックという文化を、そろそろ覚えていただけませんか?」


「そんなことより大変なの!」


「毎回そう言って入ってきますよね。」


 ぱたり、と本を閉じる。


 そこには、赤い髪を振り乱したワダツミ王国の女王ツバキが立っていた。


「ドラド君がまたやったの!」


「今回は何を買われたんですか?」


「巨大なシャコ貝のソファ!」


「……。」


「しかも二脚!」


「誰が座るんですか?」


「ドラド君と私!」


「普通の椅子で十分です。」


 即答だった。


 ツバキは肩を落とす。


「だって『ツバキが昼寝できるように』って……。」


「優しさの方向性が毎回おかしいんですよ、あのお方は。」


 ルファは額を押さえた。


「マットウ様、倒れますよ。」


「もう半分倒れてた。」


「でしょうね。」


 二人そろって深いため息をつく。


 しばらく沈黙が流れたあと、ツバキがぽつりと呟いた。


「……真夏が来てから、少し王宮が明るくなったと思わない?」


 ルファは少し驚いて顔を上げる。


「そうですね。」


「最初はずっと泣きそうな顔してたのに。」


「今では図書館に入り浸ってます。」


「司書さんが『あの人間のお嬢さん、本を読む速度がおかしい』って困ってたわ。」


「私も驚きました。」


 ルファは苦笑する。


「文字を覚える早さも異常ですし、生き物図鑑を全部読もうとしているみたいです。」


「文学少女ってすごいのね。」


「私も初めて見ました。」


 ツバキはふふっと笑った。


「ソラのことを話してる時の真夏、すごく可愛い。」


「ええ。」


「でも、大地さんの話になると……。」


 その先は言わなかった。


 ルファも静かに頷く。


「あの指輪、大事そうに握っていました。」


「会わせてあげたいね。」


「はい。」


 二人の表情が少しだけ曇る。


 その空気を払うように、ツバキが勢いよく立ち上がった。


「よし!」


「嫌な予感しかしません。」


「真夏のお祝いをしよう!」


「何のお祝いですか?」


「『医療助手就任記念』!」


「まだ就任してません。」


「じゃあ『やる気満々記念』!」


「記念日を作らないでください。」


 ツバキは両手を広げて宣言する。


「ご馳走を作るわ!」


「料理長が泣きます。」


「じゃあ飾り付け!」


「経費が増えます。」


「プレゼント!」


「だからそれが財政を圧迫するんです!」


「うぅ……。」


 しょんぼりするツバキ。


 ルファはそんな女王の頭をぽん、と軽く叩いた。


「真夏が一番喜ぶのは、きっと一緒にご飯を食べることですよ。」


「……そうかな?」


「ええ。あの子は物より、人との時間を大切にする子です。」


 ツバキの赤い瞳がぱっと明るくなる。


「それなら、お茶会!」


「それくらいなら賛成です。」


「お菓子も!」


「予算内で。」


「飾りは?」


「予算内で。」


「お花は?」


「予算内で。」


「ルファって時々マットウに似てる。」


「光栄です。」


「そこは否定して!」

 

 王宮に、二人の笑い声が響いた。

 

 その頃――図書館では真夏が、生き物図鑑を片手にソラへ話しかけていたことなど、二人はまだ知らない。

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