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 今日はアンドリュー様が家庭教師から帝王学の講義を受けるため、わたしは侍女としての務めを終えたあと、彼の指示で街へ買い物に出かけていた。


「この通りにも、慣れてきたわね」


 王都の中央にある商店街は、貴族の屋敷が立ち並ぶ通りに隣接しており、裕福な平民や貴族が足を運ぶ店が軒を連ねる一角だった。磨かれたガラス窓には商品が整然と並び、店の前を行き交う人々の足取りにも、どこか余裕がある。


 アンドリュー様の筆記具や、彼が好んでいる蜂蜜漬けのドライフルーツを買い求めようと、わたしはリストに沿って指定された店を回っていた。


 筆記具専門店でインクの銘柄を告げると、店主がすぐに奥から同じものを取り出してくれた。果物店では店主に勧められ、蜂蜜漬けの干しイチジクをひと切れ味見させてもらった。濃厚な甘みとほのかな酸味が広がり、思わず頬が緩んだ。


 店を出て袋を抱えながら通りを歩いていると、ふと背後から聞き覚えのある声が届いた。


「アリシア?」


 足を止めて振り返ると、栗色の髪をふわりと揺らし、グレーの瞳を輝かせた女性が立っていた。


「リヴ!」


 思わず声が弾んだ。あの港町ノールからグロッサ王国へ向かう船で出会い、旅路を共にした女性。わたしにとって、初めて“友人”と呼べる存在だった。


「やっぱりアリシアだった! こんなところで会えるなんて、すごい偶然!」


 リヴは嬉しそうに笑いながら、わたしの手を取った。


「わたし、この近くのお屋敷でメイドとして働いているの。そっちはどう? 元気にしてた?」

「ええ、なんとか。わたしもすぐ近くのお屋敷で働いているのよ」

「えっ、ほんと? じゃあ、ご近所じゃない!」


 リヴは目を丸くして驚き、すぐに笑顔を浮かべた。


「ねえ、時間ある?」

「ええ、少しなら」


 わたしたちは近くのベンチに並んで腰を下ろし、しばらく言葉を交わした。リヴは屋敷での仕事や同僚の愚痴を笑い混じりに話してくれる。わたしも言葉を選びながら、屋敷での出来事やアンドリュー様とのやり取りを打ち明けた。


「当然よ。貴族令嬢がいきなりメイドの仕事をこなせるはずがないもの」

「えっ!?」

「ふふ、気づかれてないと思ってた? 船の中で“商家の娘”なんて言ってたけど、あんなに手入れの行き届いた髪と指先、所作のひとつひとつまで洗練されてる人が平民の出身だなんて無理があるわ」


 リヴは口元に笑みを浮かべ、わたしの視線を受け止めるように言った。


「実はね、わたしも貴族の娘なの。ノールの隣領、ベーカー子爵家の長女よ」


 リヴの言葉に、思わず目を丸くする。


「見えないでしょう? うちは財政が厳しくて、わたしが働きに出るしかなかったの。でも自国で働くと家の体面に関わるから、隣国でメイドをしてるってわけ」


 そう言って、リヴは片目を閉じて笑った。気取らない仕草に、わたしの胸の奥がふっと緩んだ。


 わたしは少しだけ迷ってから、リヴに身の上を打ち明けた。


 婚約が解消されたこと。元婚約者に命を狙われていること。従兄弟がわたしに欲望を向けていたこと。それらすべてから逃れるために、グロッサ王国の祖父を頼ってやってきたこと。けれど歓迎されず、孫としてではなく、ただのメイドとして迎え入れられたこと。


 わたしの語った内容に、リヴは目を見開いて声を上げた。


「アリシア、グレイヘイブン侯爵家のご令息と婚約してたの!? 王太子殿下の側近で宰相補佐官のオズワルド・グレイヘイブン様!? 田舎にいたってその名は何度も耳にしたわよ!」


 リヴは椅子の背にもたれていた体を跳ね起こし、声を張り上げた。


「けれど、とんだ浮気野郎だったってわけね! アリシアを裏切るなんて許せないわ!!」

「ううん。彼女はとても美しくて聡明な方だもの。彼が惹かれるのも仕方ないわ」


 わたしは首を振り、胸の奥に沈んだ痛みをそっと押し隠した。


「アリシア、もし辛くなったらわたしが働いてるお屋敷に来て。今は大旦那様が臥せてらっしゃるからすぐには難しいかもしれないけど、侍女長には話を通しておくわ」

「ありがとうリヴ。何かあったら頼らせてもらうわ」

「絶対よ、わたしはあなたの味方だから! 名残惜しいけどそろそろ戻らなきゃ。また近いうちに会いましょう」

「うん。気をつけて」


 リヴの背が通りの向こうへと消えていくのを見送りながら、わたしはそっと息を吐いた。


(また会える。そう思えるだけで、少しだけ心が軽くなる)






 袋を抱え直し、リストに従って残りの店を順に回った。すべての買い物を終えて帰路につこうとしたとき、通りの反対側に一台の馬車が滑り込むように止まった。


 視界の端にそれをとらえ、わたしの心臓が大きく跳ねた。


 青地の盾に銀の鷲。翼は半ば広げられ、爪には巻物と封蝋。馬車の扉に刻まれたのは、沈黙の威圧を放つグレイヘイブン侯爵家の紋章だった。


 世界が音もなく揺れた気がした。


 わたしは咄嗟に物陰へ身を隠し、袋を胸に抱きしめた。鼓動が耳の奥で脈打ち、呼吸が浅くなる。


 馬車の扉が開き、そこに降り立ったのは、記憶の中の彼と寸分違わぬ姿。


 ——オズワルド様。


 陽光を受けて金の髪が輝き、碧眼が鋭く通りを見渡す。その視線は何かを探しているようだった。


(なぜここに……? わたしを追ってきたの? まだ、命を狙っているの……?)


 彼の意図はわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 見つかってはいけない。


 わたしは物陰からそっと抜け出すと、足音を忍ばせるようにして通りを離れた。やがて焦りが背を押し、屋敷へ向かって走り出した。






 オズワルド様……。領地視察を終えて王都に戻られたはず。わたしとの婚約は解消され、何の問題もなくイザベラ様と婚約を結んだのだろうか。


 幸せそうに微笑み合う二人の姿を思い浮かべるだけで、胸が締めつけられる。


 少し前までのわたしは、オズワルド様と離れる日が来るなんて、夢にも思っていなかった。


 物心ついた頃には、彼はいつもわたしのそばにいてくれた。幼い頃の五歳差は大きかったけれど、彼は嫌がることなく、わたしの遊び相手になってくれた。


 ともに成長し、婚約者となり、何の疑いもなくいずれ結婚して、お父様とお母様のように仲睦まじい夫婦になるのだと信じていた。


 わたしにとってオズワルド様は、兄のような存在だった。けれど、いつの間にかその存在は、大好きな兄から愛する人へと変わっていた。


 両親が亡くなったあの日、彼は泣き続けるわたしを強く抱きしめてくれた。「俺がずっと傍にいる」と何度も言ってくれた。埋葬の間も、ずっと手を握っていてくれた。


 その言葉を、わたしは信じていた。心の支えにしていた。


 だからこそ、今の現実がこんなにも苦しい。


 もし、わたしがイザベラ様より美しかったら。

 もし、彼女よりも優れていたなら。


 わたしを選んでくれた?


 あなたの心に触れるには、どうすればよかった?


 どんな言葉を選べば、どんな振る舞いをすれば、わたしを見てくれた?


 いいえ。わたしがどれほど努力しても、どれほど想いを込めても、彼女をとらえたあなたの瞳は、きっとわたしを通り過ぎていっただろう。


 まるで、そこにわたしなど初めから存在していなかったかのように。


 それでも。


 彼がわたしを殺そうとしていても、わたしは彼を愛している。






 複雑な感情を抱えたまま急ぎ足で屋敷に戻ると、裏門の前でリックと鉢合せた。


「アリー? どうしたんだ、そんなに急いで」

「アンドリュー様の指示で買い物に行っていたの。その、暗くなる前に帰ろうと思って……」

「そっか。荷物、持とうか?」

「ありがとう。でも大丈夫。このまま詰所に行くから」

「じゃあ、俺も一緒に行くよ」


 そう言いつつも、リックは荷物の一部を受け取り、わたしたちは並んで屋敷の中へと歩き出した。


 屋敷の裏口を通り、使用人の詰所の扉を開けた瞬間、メイド長の怒鳴り声が飛んできた。


「アリー! よくものこのこと戻ってこれたわね!! この盗っ人が!!」

「え……?」


 詰所にはメイド長のほか、彼女の取り巻きや他のメイドたち、そしてアンドリュー様の元侍女までもが揃っていた。


「ねぇ、これどうしたの?」


 元侍女はわざとらしく眉をひそめながら、見せつけるように青い宝石がついたネックレスを掲げた。光を受けてきらりと輝いたそれは、わたしの鞄の奥にしまっていたはずのもの。


 息が詰まり視界が滲む。どうして、彼女がそれを持っているの……?


「それは、母の形見のネックレスです!」

「はあ? こんな高価なもの、あんたが持ってるなんてありえないでしょ」

「どうせ、グレタ様の部屋に入ったときにくすねたんでしょ?」

「違います! そんなことしていません! 本当に大切なものなんです……! お願い、返してください!」


 わたしの声は誰にも届かなかった。否定すればするほど嘲りと疑いが重なっていく。


「ふん、盗人のくせに“お願い”だなんて、よく言えるわね」

「こんな子がアンドリュー様の侍女だなんて信じられない。屋敷の品位が疑われるわ」

「さっさと処罰しないと次は何を盗まれるか……」


 胸の奥がじわじわと冷えていく。悔しさも悲しみも怒りも、すべてが混ざり合って言葉にならない。


「メイド長、どうします?」


 取り巻きのメイドの声に、詰所の空気がぴたりと静まった。メイド長はゆっくりとわたしに近づき、冷たい目で見下ろした。


「盗みの疑いがある以上、規則に従ってもらうわ」

「信じてください! わたしは本当に——」

「黙りなさい! 言い訳は聞かないわ」


 乱暴に腕をつかまれ、身体がぐらりと揺れる。周囲の誰もがわたしを“盗っ人”と見なし、誰ひとり手を差し伸べようとはしなかった。


「待ってください! アリーはそんなことする人間じゃ……」

「リック、口を慎みなさい。盗っ人の肩を持つなら、従僕の職を失うことになるわよ」


 リックがわたしを庇って声をあげたが、メイド長の一言に、彼は拳を握りしめたまま黙り込んだ。


 振り返ることも許されず、わたしはメイド長に引きずられるように、屋敷の奥へと連れて行かれた。


 使用人たちの目が届かない廊下を抜け、階段を下り、重い扉の前でメイド長が足を止めた。


「こんなところに……地下牢……?」


 扉を開けると、そこは石造りの壁に囲まれた空間だった。湿った空気が肌にまとわりつき、足元には苔が生えていた。 メイド長は鍵を取り出しながら、口元に薄く笑みを浮かべた。


「ふふ、屋敷には問題のある使用人を一時的に隔離する場所があるのよ」


 格子が軋む音を立てて開き、わたしは背を押されるまま中へ入った。そして、その光景を目の当たりにして、背筋に冷たい戦慄が走った。


 そこには既に十人ほどの女性たちがいた。年の頃は近く、いずれも見目が整っている。だがその瞳は怯えと諦めに沈み、壁際に身を寄せて座っていた。


(どうして、こんな場所に女性たちが閉じ込められているの……!?)


 わたしは言葉を失い、ただその場に立ち尽くすしかなかった。







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