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冷たい大理石の床に膝をつき、雑巾を動かす。濡れた布を押し付けるたび、ひんやりとした感触が手のひらに伝わる。
——ガンッ!
すぐそばでバケツが倒れ、水が床へと流れ出した。慌てて顔を上げると、広がる水たまりの向こうに、メイドたちが見慣れた嘲笑を浮かべて立っていた。
「あら大変。こんなところに置くからよ」
「何やってるのよ、さっさと片付けなさい」
「本当に愚図なんだから。邪魔なのよ」
彼女たちの満足げな表情と、声に滲む含み笑いから、バケツが故意に倒されたのだとわかる。
「すみません」
けれど、抗議の言葉は飲み込む。それを口にすれば、状況が悪くなるのは目に見えている。すぐに手を動かし、雑巾で水を拭い取る。
「っ……!」
右手に重みがのしかかり、強い痛みが突き抜けた。咄嗟に手を引いたが、覆った右手にはじんとした痺れが残る。
「もたもたしてるから、つい踏んじゃったわ」
悪びれる気配はなく、メイドたちの悪意が降り注ぐ。わたしは唇をかみしめ、痛みが引くのを待つ。
そのときメイド長が現れ、彼女たちはさっと態度を改めた。
「申し訳ありませんメイド長、アリーがバケツを倒してしまって……」
すかさず誰かがそう告げると、メイド長は眉を吊り上げ苛立ちをあらわにする。
「またアリーなの!? 何度言えばわかるの! みんな忙しいんだから、余計な仕事を増やさないでちょうだい!」
語気が強まり場の空気が凍りつく。メイドたちはちらりと視線を交わし、笑みを浮かべていた。
「今日は特に忙しいのよ! グレタ様がお帰りになるから」
その名が告げられた途端、メイドたちの雰囲気が変わった。先ほどまでの嘲笑は消え、空気にわずかな緊張が走った。
この屋敷の長女であるグレタ様。わたしがここで働くようになってから、数える程しか姿を見たことがない。メイドたちの話では、素行に難があり滅多に屋敷に戻らないらしい。帰邸されるとなると、みんな少しだけ気を張るようだ。
「アリー、グレタ様の私室の暖炉に火を入れておきなさい」
「かしこまりました」
メイド長の指示に、メイドたちがクスクスと小さく笑い声を漏らした。わたしはそれに反応せず、平静を保ちながら頷いた。
メイド長が踵を返すと、メイドたちはその後ろにぞろぞろと続いていった。やがて彼女たちの姿が廊下の角に消えると、少し離れた場所で様子を見ていたらしい二人のメイドが、こちらへ歩み寄りながら声をかけてきた。
「アリー、大丈夫? 手伝おうか?」
「ほんと性格悪いわよね、あの三人。メイド長の取り巻きなのよ」
ひとりが心配そうに、もうひとりが小声で続ける。
「あの子たち、綺麗な子ばっかり虐めてるの。もう何人も辞めてるのよ」
「最近は自国じゃ人が集まらなくて、隣国のウエロスニア王国にまで求人募集を出してるらしいわ」
彼女たちの気遣いに、わたしは小さく微笑みながら答えた。
「大丈夫よ、心配してくれてありがとう」
彼女たちはほっとしたように頷き、持ち場へと戻っていった。わたしはその背を見送りながら、屋敷の外れにある薪置き場へと足を向けた。
「薪って思ったより重いのね」
積み上げられた薪を代車へ積み込み、足元に気を配りつつ崩れないよう慎重に台車を押す。積んだ薪の重みで、台車がギィィっと軋む音を立てる。
「きゃっ……!」
地面のわずかな凹凸に車輪が取られ、薪がずり落ちそうになる。慌てて支えようとしたが、バランスを崩し膝がふらついた。
「危ない!」
咄嗟に駆け寄る影が、わたしの腕を支え、倒れかけた荷をしっかりと押さえた。体勢を整えながら顔を上げると、リックが安堵の息を吐き、わたしを覗き込んだ。
「一人で運ぶのは無理だろう? 手伝うよ」
彼はそう言いながら薪を積み直し、台車の持ち手を握った。
「ありがとうリック……。でも、あなたも自分の仕事があるでしょう。勝手に持ち場を離れたりしたら、あなたが叱られてしまうわ」
わたしを手伝ったせいで執事長に叱られでもしたら申し訳ない。そんな考えがよぎり慌てて台車へ手を伸ばすが、彼は片目を瞑り余裕のある笑顔を見せた。
「休憩時間だから平気さ」
「でも……」
彼の仕草に気が緩むものの、わたしは周囲に視線を走らせた。誰かに見られていたら、後で何を言われるのだろう。
「心配しなくても大丈夫だって」
「……」
リックはわたしの様子を見て、眉を下げつつも敢えて明るい声で言った。
彼は平民の出だが、整った顔立ちと飾らない性格、そして従僕には不釣り合いなほど鍛えられた体つきで、メイドたちの間では密かに人気があった。だからこそ、わたしに優しく接すると、すぐに嫉妬の目を向けられる。
わたしは小さく息を吐き、彼に笑顔を向けた。
「じゃあ、屋敷の裏口までお願いできるかしら」
「ああ。……なぁアリー、その……平気か? 何かあったらすぐに俺に知らせるんだぞ?」
「ふふ、わかったわ」
大丈夫。理不尽に傷つける人ばかりじゃない。優しさを向けてくれる人も、ちゃんといる。
グレタ様の私室は屋敷の東翼にある。扉を開けた瞬間、甘い香りがふわりと鼻をかすめた。主の姿はないのに、部屋には彼女の気配が色濃く残っている。
壁には淡い藤色の布が垂れ、窓辺には白いレースのカーテン。調度品はどれも上質で、磨き抜かれた木目が光を受けて艶やかに輝いている。
かつて見慣れた光景は、どこか懐かしさを感じさせる。しかし、その美しさは今では遠いものになってしまった。
部屋の中央に設置された暖炉に近づき、慎重に薪を並べながら形を整える。適当に置いても火はつかない。火種を作り、組み終えた薪にそっと火を灯す。最初は頼りない炎だったが、空気を含ませると、じわりと薪へと広がり始める。ゆらゆらと揺れる炎が、ようやく部屋に暖かさをもたらし始めた。
薪がパチリと爆ぜた瞬間、部屋の扉が乱暴に開いた。
振り返ると、黄色のドレスを纏い桃色の髪を緩やかに結い上げた少女が立っていた。眉間には深い皺が寄り、唇はきつく結ばれている。髪と同じ桃色の瞳には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
グレタ様だ。
「お帰りなさいませ、グレタ様」
わたしが頭を下げると、彼女はわたしを一瞥し、不機嫌そうな声で言い放った。
「用が済んだらさっさと出て行って!」
わたしは火の勢いを確かめ、落ちた薪くずを拾い集めた。火掻き棒を元の位置に戻し、ざっと周囲を見回してから台車を押して扉へ向かった。
台車を片付けて使用人詰所へ戻ると、メイド長が勢いよくわたしに近づいてきた。
「アリー! あなた、アンドリュー様に何をしたの!!」
「え……?」
メイド長の言葉に戸惑っていると、彼女は腕を組み、厳しい声で告げた。
「アンドリュー様がお呼びよ。すぐに向かってちょうだい」
「は、はい。かしこまりました……!」
わたしは急ぎ足で階段を上がり、アンドリュー様の部屋へ向かった。扉をノックし一礼してから中に入ると、アンドリュー様は机の上に広げた本をぱたんと閉じ、わたしを見上げた。
「アリー、来てくれた!」
「はい、わたくしにご用とのことで参りました。どうかなさいましたか?」
部屋にはアンドリュー様の他に、彼の侍女——以前わたしの頬を打った女性と、執事長が控えていた。
アンドリュー様は椅子から降りて、わたしの前にちょこんと立った。大きな瞳には期待が滲み、甘えた声で言った。
「ねえ、アリー。ぼくの侍女になってよ」
「わたしが……侍女に、ですか?」
「うん。ぼく、アリーに勉強を教えてほしいんだ」
アンドリュー様がまっすぐにわたしを見つめる。ちらりと執事長に目を向けると、彼は黙ったまま、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
(この屋敷でメイドとして働くことは許されたけれど、侍女となると話は別だ。勝手なことをしていいのだろうか……)
そう考えながら視線をずらせば、執事長の後ろに立つ侍女が、納得のいかない様子でわたしを睨みつけていた。
「彼女は僕の侍女を辞めるんだ。だから、次の侍女が見つかるまでの間だけでもいいから。ねえ、いいでしょう?」
躊躇しながらも、アンドリュー様のねだるような声と執事長の静かな頷きに背を押され、わたしは決意を固めた。
(少しの間だけなら……)
「わかりました。わたしでよければ、喜んで務めさせていただきます」
わたしが頷くと、アンドリュー様はぱっと顔を輝かせた。
「やったあ! じゃあ、メイド長には執事長から伝えてもらうから、アリーは明日から僕の部屋に来てね!」
その後、執事長とともに使用人詰所へ戻ると、彼が落ち着いた口調で事情を説明した。メイド長は表情を曇らせたが、執事長の言葉には逆らえず渋々了承する。その背後では取り巻きのメイドたちが不満げな顔でわたしを見やり、視線に露骨な敵意を滲ませていた。
(明日からアンドリュー様の侍女……)
胸の奥に、かすかな光が灯った気がした。




