3
かじかんだ手に息を吹きかけこすり合わせる。少しでも温まった気がしたら次の洗濯物を広げ、風が通るように整えていく。
「今日は殊更冷えるわね……けれど、天気がいいからよく乾くでしょう」
青空の下、メイドのお仕着せがひらひらと風に揺れる。冷たい空気に晒されながら黙々と作業を進める。まだぎこちない動作が残るものの、メイドの仕事にも少しは慣れてきた。
「きゃっ……」
突風が吹き抜け、束ねた髪が風に揺れる。むき出しの首筋を撫でる冷気に思わず身を縮めると、干したシーツが勢いよくはためき、その風に巻き込まれた一枚の紙が、ひらひらと舞いながら足元へと落ちた。
「何かしら……」
拾い上げたそれは、問題と解答が書かれた用紙だった。丁寧な字で書かれた解答はほぼ完璧。しかし、ただ一問だけ赤い訂正が記され、わずかな誤りが指摘されていた。
「……ここ、間違えやすいのよね」
わたしがそうつぶやいたとき、小さな足音がこちらへと近づいてきた。振り向くと、黒髪に青い瞳を持つ少年が、うつむきがちに立っていた。
「これは、あなたのものですか?」
問いかけると、彼は小さく頷いた。その仕草はまだ幼く、どこか怯えたような気配を纏っていた。
彼はこの屋敷の嫡男であるアンドリュー様。わたしとは十歳離れた従兄弟にあたる。
この屋敷に来るまで、わたしは自分に従兄弟がいることすら知らなかった。お母様は生家のことをほとんど語らなかったから、わたしが知っていたのは、祖父と伯父がいるということくらいだった。
けれど、今のわたしは平民。名乗ることは許されない。
この屋敷にはアンドリュー様のほかに、長女のグレタ様が暮らしている。彼女はかつて子に恵まれなかった伯父夫婦が遠縁から迎え入れた養女で、アンドリュー様より七歳年上の義姉にあたる。
けれど年が離れているせいか、お二人の仲はあまり良いとは言えず、グレタ様がアンドリュー様に向ける視線には、時折り冷たいものが混じっていた。
そして、おじい様は領地の本邸におられ、伯父夫婦も仕事が忙しく王都の別邸には滅多にお越しにならないのだ。
(この広い屋敷で、アンドリュー様はほとんどひとりぼっちなのね……)
家族に見守られることも、優しく声をかけられることも少ない日々。彼の瞳に宿る影は、その寂しさの色なのかもしれない。
わたしは彼に微笑みかけ、優しく問いかけた。
「これは代数学の問題ですね? この問題をあなたが解いたのですか?」
用紙を差し出すと、彼はモジモジとしながらそれを受け取り、小さく頷いた。
「……でも、間違えてしまった」
かすかに絞り出された声には、悔しさと恥じらいが滲んでいた。
「いいえ、代数学の式変形は、周辺国で貴族の教育に取り入れられている高等数学です。それをその歳で解くなんてすごいことです」
わたしは訂正箇所を指差しながら、彼にゆっくりと語りかけた。
「ここ、計算の途中で数値を間違えてしまっています。最初は合っているのに、次の変形で小さなミスがあります」
彼は紙をじっと見つめ、かすかに眉を寄せた。
「どうすればよかったの?」
わたしは紙に指を滑らせながら、丁寧に説明を続けた。彼はわたしの指が示す箇所に視線を落とし、慎重に紙をなぞるようにして考え込んだ。
「……わかった! つまりここを正しく置き換えれば、次の計算も自然に正しくなるんだ!」
彼は持っていたペンで訂正した式を書き始めた。やがて正しい答えを導き出すと、驚いたように顔を上げた。
「できた!」
彼の笑顔につられるように、わたしの表情も自然とほころぶ。
「ええ、とてもよくできました。間違えることは恥ずかしいことではありません。こうして修正して、より正しい答えを導けるようになることが大切なんです」
「ありがとう!」
彼がそう言ったとき、慌ただしい足音が近づいてきた。そちらへ顔を向けた瞬間、勢いよく腕をつかまれ、頬に鋭い衝撃が走った。
「下級メイドの分際で何をしているの! アンドリュー様に取り入ろうなんて、身の程知らずもいいところよ!」
平手打ちの余韻が肌にじんと残る。顔を上げると、険しい表情を浮かべた侍女がこちらを睨みつけていた。
頬を押さえもせず、わたしは慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。その、落とし物を拾って……」
「言い訳する気!?」
侍女は感情的な声をあげ、わたしを激しく責め立てた。
「やめてよ! この人は悪くない! 僕が……」
わたしを庇おうと声をあげたアンドリュー様を、侍女がすかさず遮った。
「アンドリュー様、お立場をお忘れになっては困ります。メイドと馴れ馴れしくするなど、慎んでいただかないと」
侍女は彼に言い聞かせるように、断固とした口調で言った。
「分をわきまえなさい。二度とこのようなことがないように!」
侍女の苛立ちを滲ませた声が響く。わたしはただ地面を見つめたまま、じっと身を縮めていた。
彼らの気配が消え、わたしはゆっくりと顔を上げた。頬の痛みはまだ残っていたけれど、涙は出なかった。気持ちを切り替えて洗濯籠に手を伸ばし、誰に聞かせるでもなく空に向かってつぶやいた。
「自分で言うのも何だけれど、わたし、変わったわよね」
以前のわたしなら、きっと今頃泣いていた。けれど、この屋敷でメイドとして働くうちに、少しずつ強くなったと思う。
「痛っ……!」
次の布を取ろうと籠に手を入れた瞬間、指先に突き刺すような痛みが走った。咄嗟に手を引くと、薄く赤い血が滲んだ。
指先を押さえながら籠の中を覗くと、底には割れた陶器の欠片が紛れ込んでいた。
(まただわ……)
自分の指よりも先に気にしたのは、洗濯物に血がついていないか、破れたものはないか。慎重に広げて確認し、そっと胸をなでおろした。
「良かった……全部無事ね」
もし汚してしまったりしたら、またメイド長に怒られてしまう。そう考えると、嫌な緊張が背筋にまとわりつく。
「いけない。早く終わらせないと……」
わたしは指先の震えを抑え込みながら、残りの作業を手早く進めた。
片づけを終え、朝食を摂ろうと使用人の食堂へ向かった。けれど、テーブルには小さなパンがひとつ置かれているだけだった。
(これもよくあること)
もう気にするのも疲れてしまって、わたしは黙ったままパンを手に取った。
「ろくに働かないんだから、それくらいで十分でしょ?」
「さっさと食べなさいよ、どうせ仕事も遅いんだから」
「ぐずぐずしてる暇ある? やることなんて山ほどあるのよ!」
他のメイドたちの嘲笑と冷たい視線が突き刺さる。けれど、何も答えずパンを口に運んだ。
突然メイドとして働くことになったわたしは、ろくに仕事もできず、ここでも足手まといとして疎まれていた。でも……。
(命を狙われることも、貞操の危機もない。安心して屋根の下で眠れる。それだけで十分だわ)
そう思いながら固いパンを咀嚼する。淡白な味が広がり、空腹がわずかに和らぐのを感じる。
「おはよう、今日も忙しそうだな」
ふいに掛かった声に顔を上げると、従僕として働く青年が、いつものように気さくな笑みを浮かべながら目の前の席に腰を下ろした。金の髪と碧い瞳、その色がオズワルド様を思い出させて、胸の奥がチクリと痛む。
「それだけじゃ足りないだろう? ついでに持ってきたんだ」
彼にパンとスープの入った皿を差し出され、わたしは戸惑いながらも「ありがとう」と小さくつぶやいた。
「何よ、あれ」
「男に媚びるのだけは得意みたいね」
「リックったら、なんであんな子に構うのよ!」
背中に刺さる声は聞こえない振り。わたしは彼の善意に甘えスープを口に運んだ。優しい温かさが喉を通り、冷え切った体にじんわりと広がった。




