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日が昇り辺りが明るくなったころ、わたしは辻馬車の中にいた。目的の地は最東端に位置する港町ノール。
グロッサ王国へ向かうには、陸路よりもノールから海路で向かった方が早い。
馬車の揺れに身を委ね、ぼんやりと窓の外を眺める。王都を後にするにつれ、周囲の景色は寂しげなものへと変わっていった。けれど、その寂しさはやがて豊かな自然に包まれ、美しい風景が広がった。
新たな旅立ちの始まりを告げるかのようだった。
八人ほどいた乗客は、馬車が進むにつれ一人減り二人減り、一人乗ってはまた三人減るというように、次第に乗客の数は減っていった。乗客たちの話し声や笑い声が次第に消え、馬車の中は静けさが増していった。
終点に着いたときには、客はわたしだけだった。御者に礼を告げ、荷物を手に馬車を降りた。
港には旅客船の他に、帆をたたんだ漁船が数隻、そして黒塗りの巨大な貨物船が停まっていた。荷物の積み降ろしや出港の準備に追われる人々の声が響き、港は活気に満ちていた。港の一角には新鮮な海の幸を並べた露店が立ち並び、潮風に乗って美味しそうな香りが漂っていた。
「貨物船って、旅客船よりも大きいのね……」
『何だ、お嬢さん。あの船に乗りたいのか』
貨物船を見上げながら思わずこぼした独り言に、聞き慣れない言葉が返ってきた。
「えっ?」
振り返ると、日に焼けた肌の大きな身体の男性がいた。
彼が話したのは隣国の言葉。お母様から教わっていたから、わたしはグロッサ語を話せる。
『いえ……。貨物船を見るのは初めてなので、あまりの大きさに驚いていたんです』
『そうかい。俺はあの船の船員なんだ。行き先は旅客船と同じグロッサ王国さ。安く行きたいら、乗せてくぜ?』
彼の言葉に一瞬心が揺れた。旅費は限られている。おじい様が保護してくださらなければ、その後の費用は必要だ。
けれど、見知らぬ男性の誘いに乗るのは……。
『遠慮しとくわ』
突然の声に思考が遮られ、振り返る間もなく、誰かに腕を掴まれた。
『探したじゃないの。わたしたちが乗る船はあっちよ』
同世代と思しき女性が、わたしを旅客船の方へと引っ張っていく。栗色の髪を揺らしながら、彼女は小声で言った。
「駄目じゃない! あんな連中について行ったら、どこに連れて行かれるかわかったもんじゃないわよ!」
何が起きたのかすぐに理解できず、わたしはされるがままに彼女に引かれていった。彼女はわたしの顔をじっと見つめ首を傾げる。
「あれ? ウエロスニア王国民かと思ったんだけど……『あなた、グロッサ王国民?』
ようやく状況を理解し、わたしは慌てて頭を下げた。
「いいえ、ウエロスニア王国民です。グロッサ語も話せます。……あの、危ないところを助けてくださって、ありがとうございます」
礼を述べると、彼女のグレーの瞳がふっと和らいだ。
「この辺りはあまり治安が良くないの。船員って言ったって、実際はならず者の集まりよ」
その言葉に促されるように、わたしはさっきの男性の方へ目を向けた。
彼は露店のほうへ歩いて行き、干物や果物が並ぶ店の前で立ち止まった。すると、同じように日焼けした肌の男たちが次々と彼の周囲に集まってきた。仲間の船員たちなのだろう。彼らは時折りこちらを振り返り、何かを囁きながら嗤っていた。
ひやりとした不安が胸をかすめ、わたしは無意識に彼女のそばへ一歩近づいた。
「ねぇ、あなたグロッサ王国に行くんでしょう? わたしグロッサ王国で働いていて、ちょうど帰省から戻るところなの。よければ一緒に行かない?」
彼女の申し出が嬉しくて、わたしは自然と笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。船に乗るのも初めてで、心細かったんです」
「決まりね。わたしはオリヴィア、十八歳よ。リヴって呼んでね」
「わたしはアリシアといいます。十六歳です。よろしくお願いします」
不安とわずかな希望を抱え、ひとりきりで歩むはずだった旅路。けれど、隣に誰かがいるだけで、世界は少しだけ優しく見えた。
「それじゃ、行きましょうか」
リヴの声に背を押されるように、わたしは彼女と並んでグロッサ王国へ向かう船に乗り込んだ。
***
数日の船旅を終え、わたしは母国ウエロスニア王国の東隣に位置するグロッサ王国へとたどり着いた。港に降り立った瞬間、潮風が異国の匂いを運んできて、胸の奥が微かにざわめいた。
リヴと抱擁を交わし、「必ず手紙を書くから」と再会を約束して別れた。彼女の背が人混みに紛れていくのを見送ったあと、わたしは鞄を抱え直し、石畳の道をゆっくりと歩き出した。見知らぬ街の喧騒が少しずつ肌に馴染んでいくのを感じながら、その日の宿へと向かった。
翌朝、身なりを整える。簡素ながらも質の良いワンピースに袖を通し髪をまとめると、鏡の中の自分が少しだけ大人びて見えた。
マーサから渡された小さなメモを手に、わたしは目的の邸宅へと足を向けた。
「大きなお屋敷……」
高い塀の向こうに見えたのは白灰色の外壁の邸宅だった。窓枠や屋根飾りにはグロッサ王国特有の意匠が施されており、贅を尽くした造りは外観だけで圧倒するものがある。
門は邸宅とは対照的にやや控えめな造りだったが、細部まで精緻な手仕事が施され、落ち着いた品格を静かに漂わせていた。
門の前には数人の女性が集まっており、緊張した面持ちで何やら話し込んでいた。わたしは様子を窺いながら、彼女たちへ近づいた。
『ここで働く気がないなら、さっさと帰りなさい』
お仕着せに身を包み、きっちりと髪を結った女性が厳しく言い放つと、わたしの前にいた女性が不貞腐れたようにため息をついた。
『煩そうなオバサンねぇ。こんなところ、こっちから願い下げよ』
彼女はそう吐き捨てると、持っていた封筒をポイっと放り、そのまま立ち去った。
彼女が落とした封筒を拾おうと屈んだとき、お仕着せ姿の女性がわたしに声をかけた。
『アリーというのはあなた?』
「えっ」
“アリー”。幼い頃、母が呼んでいたわたしの愛称。
『もたもたしてないで早くそれをよこしなさい』
『は、はい……!』
急かす声に拾った封筒を慌てて渡した。彼女はそれを受け取ると、目を通したあと強い口調で告げた。
『今日からあなたたちはこの屋敷のメイドです。怠惰は許されません。身を慎み、規律を守り、誠実に務めなさい』
彼女の声が、場の空気をぴんと張らせる。
わたしは一瞬目を閉じ、波立つ思いを沈めた。胸の奥に残っていた僅かな期待は、泡のように儚く消えた。
やはりおじい様はわたしを快く迎え入れてはくださらなかった。けれど、拒まれたわけではない。“アリシア”としてではなく、“アリー”として、この屋敷でメイドとして生きることを許されたのだ。




