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英雄遺産のエーヴィッヒ  作者: 大浣熊猫
老いた勇者の幕は下り
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風立ちぬ 第二話

 だが、フェリシアンは力を込めて下膊が膨らむ寸前で掌を開き、握りつぶすのを止めて笑い出した。

 フォン・バイクは締め付けられる力から解放されて胸をなで下ろした。


「あなたは殺しませんよ。あなたはあなたがたった今言ったとおりに、僕にはいつでも優しかった。だから、殺したくない。でも、殺されてしまった方があなたはこれからむしろ困らないんじゃないかな」


「なぜですか?」


 尋ねると「凪の二十年(ツワンツィヒ)」とフェリシアンは一言答えて間を開けた。


「みんなもう忘れてるみたいだけど、今日で終わりみたいです。僕は次の世代の魔王になるみたいなんです。力が、湧いてくるんですよ。湧いてくるだけならいいんだけど、抑えられないんです」


 フェリシアンは右手を壁に向かって勢いよく伸ばして握りしめた。すると部屋に飾ってあった聖剣デア・アンファングの強化ガラスのケースが割れた。

 剣がケースから落ちるとガランガランとまるであのときのような鐘を強く打つような音を上げた。


「困りましたね。ヒトは魔王を前にすると、どれほど自分が弱くとも戦わなければいけない宿命にあるんです。

 戦わなければ自分の中にある悪意を見逃すと言うことになりますからね。

 ですが、その圧倒的な力に敵うわけなどない。それに抗い打ち勝てるのは勇者と呼ばれた者だけなのです。

 勇者ドナシアンは死に、今この世で勇者になれたかもしれないあなたがこうなってしまいました」


 フォン・バイクはフェリシアンに視線を向けたまま、窓側へと回り込んだ。

 鍵を開けて窓を雲一つ無い満月の夜空に向かって大きく開け放した。風が吹き込みカーテンが揺れると、サクラの花びらが数枚部屋の中に入り漂った。


「行きなさい、フェリシアンくん。私はあなたと戦って負けたくない。そこで私は逃げるという選択肢を選びました」


 フォン・バイクがそう言うと、フェリシアンは笑い出した。


「やっぱりあなたは最高ですよ。他の人間とは考えていることが違う。だから、大財閥の当主になれたのですね。

 実は今日はあなたを殺しに来たんじゃなくて、お礼を言いに来たんです。まだ僕に人間らしさがあるうちにね。

 まだ人間だった頃の僕がここまで生きてこられたのは、漏れなくあなたのおかげなんです。

 言い方を変えれば、あなたは魔王の依り代を長い年月をかけて大事に育ててしまったと言うかも知れませんが。

 でも、もしそれであなたを責めるようなヤツらがいれば、僕が殺して差し上げますよ」


 フェリシアンは宙に浮かび上がった。背中に黄金の輪が浮かび上がり、空中で止まっているように浮かんでいる。

 掌を握るのはかつて勇者ドナシアンが使いこなしていた重力魔法だ。

 そして、今目の前でフェリシアンが浮いているのは紛れもない勇者の力であり、フェリシアンはその力に目覚めたのだとフォン・バイクは確信した。


 勇者は悪意を抑える存在であって、善意の化身ではない。悪意と知識を生み出した意識に善意はない。

 善意は悪意の自覚のあとに来て、狂気に飲み込まれれば善悪は消滅する。狂気は意識の死だ。

 今目の前にいるのは、魔王ではなく狂気に飲み込まれた勇者だ。だが、自分を魔王だと思い込んでしまった勇者は狂気に耳を塞がれているだろう。


「さようなら、フォン・バイクさん。毎度毎度、ありがとうございました」


 フェリシアンは窓から飛び出し、満月に向かって浮かんでいくように飛んでいった。

 巻き起こる風で散るサクラの花びらの渦を起こし、その真ん中に浮かぶ満月の灯りの中へと飛んでいき、やがて小さく見えなくなり消えて行った。


「せめてあなただけは長生きしてくださいね」


 とにかく死なずに済んだとフォン・バイクは肩を下ろして、理事長室を見渡した。

 随分荒れてしまったものだと、理事長室の机を見ると、小さな網籠が置かれていた。その中で赤ん坊がすやすやと寝息を立てていた。

 この状況でよく眠れるものだ。一体誰の子だろうと籠の中を覗くと小さな四角い紙が入っており、そこには血の指紋と『ドナシアン・ガリマールjr』と書かれていた。


「ああ、そう言う名前なのですね。jrということは男として育てろ、ということですか。この子もまた、業を背負って生きていくのですね。彼と同じように」


 開け放された窓から穏やかな風が吹き込み、カーテンが静かに揺れていた。

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