風立ちぬ 第一話
「フォン・バイクさん、こんばんは。今日はとてもいい夜ですね。こんな満月はいつ以来だろう。アーンストート学園の校庭のサクラ、今年もとても綺麗ですね」
春風が弱く吹き続ける満月の夜のことだ。
真っ暗闇の窓から満月によって白く照らされた夜に散るサクラの花びらが見えていた。
「どなたですか? 警察を呼びますよ?」
フォン・バイクはアーンストート学園の理事長室に書類を取りに来ていた。闇の中で揺れるカーテンの影とは別に、机の上に誰かの影が見えていた。
影は「はははは」と軽く笑った。
「嫌だな、僕ですよ。フェリシアンです。フェリシアン・ガリマール」
「なんだ君ですか。ビックリしましたよ。
それにしても久しぶりですね。しかし、まったく、こんなところに真夜中に入って。私でなければ怒られていましたよ。
どうしたというのですか? 紅茶でも淹れさせましょう」
フォン・バイクは安堵のため息を零しながら、部屋の壁に手を伸ばし照明を点けた。しかし、灯りに照らし出されたフェリシアンの様子を見ると息をのんで動きが止まってしまった。
「あなた、な、何をしてきたんですか……?」
理事長室の執務机の上に血塗れのフェリシアンが左足を立て膝にして座り、右足を愉快そうにぶらつかせていた。
乾いて赤黒いセルロイドフィルムのようになった血だらけの腕を舐めながら薄ら笑いを浮かべている。
「それはあなたの怪我……ではないようですね」
「お久しぶりです。バイクさんはぜんぜん変わらない。入学式で見たときのまんまだ」
「当主さま、下がっ」
秘書が背後から理事長室に入ってきた。だが、入ってくると同時にフェリシアンは右腕を前に突き出し、拳を握るような仕草を見せた。
秘書はまるで握りつぶされたように弾け飛び、本棚に赤い筋と肉片の模様をつけた。
「やめなさい」
「大事なのは1と0の間で、もう一人も二人も同じじゃないですか」
フォン・バイクは悟った。彼はもう既に一以上の殺しをしたのだ。
ここに来るまで一体どれほどの人間を殺してきたのだろうか。おそらく本人も数えていないだろう。
「確かに1と0は違います。永久に不可逆ですが、そうであるならばこそ増やさない努力をした方がいいです。
私も殺すのですか? 君がこうならないようにするために、あなたが若いうちに私は最善を尽くしてきたつもりです。
ですが、こうなってしまった。私にも責任はあるでしょう。殺すと言うのなら、受け容れます。
しかし、私は生きていたい。全力で生き残ろうとするでしょう」
「フォン・バイクさん、あなた、僕の姉さんのアナンヤについては知ってましたよね? そう言うなら、何で止めてくれなかったんですか?」
「アナンヤさんは私の学校の生徒ではありませんでしたから、私はあまり知らないのです。確か、何度か離婚されたとか」
フェリシアンは引きつるような笑い声をあげた。
「ホントに知らないですね。でも、バイクさん、知らない、知らなかったは如何なる場合にも理由にはならないって、僕たちに教えましたよね」
フェリシアンは先ほど秘書を握りつぶしたときのように右手を前に掲げた。そして、右手の拳をゆっくり握りしめた。
フォン・バイクは動けなくなり、次第に身体が引き締められるような感覚に襲われた。
これはもうだめかも知れない。フォン・バイクは覚悟を決めて唾を飲み込んだ。




