エーヴィッヒ
「本日の午後ですが、急遽バイク・スチールの地域担当者との面会が入りました。鉄道の延伸計画が滞っていることについて、具体的な説明があるそうです。道路工事もあの屋敷の前で止まっていることについても説明するそうです」
背中に赤ん坊を背負った秘書は身体をあやすように揺らしながら手元の書類を見ながら言った。
「事件ですか? 事故ですか?」
「事前の報告によると……――」
――あれから数ヶ月、世界はまだ平和なままだった。
しかし、変化は少しずつ起き始めていた。フェリシアンが相続したあの家の近くの集落で、住民の集団失踪が起きているそうだ。おそらく狂気に飲み込まれた彼の仕業だろう。
たった一人生存者がいた。(フェリシアンが置いていった赤ん坊もいれれば二人ということになる)。
近くのレストランの若いウェイトレスだったが、保護されたときに錯乱状態になっていた。
しかし、落ち着きを取り戻し事情聴取が始められようとしていた頃、入院していた病院から忽然と姿を消し今では行方も生死も不明だ。
それは予兆に過ぎない。
しかし、これから何が起こるのかと言うことも知らず、魔王を忘れた人々は、今日もヒトと争いあっている。
「そういえば、私の理事長室に飾ってあるあの聖剣デア・アンファング。もう封印してしまいなさい。何重にも魔法をかけて、学園地下の最下層がいいでしょう」
「かしこまりました。業者に頼んでやらせましょう」
さて、私の見た醜悪な人間たちの紡いだ長い長い物語はここまで。
私? ああ、申し遅れました。
六十年くらい前までは魔王ヴァハトマンスと呼ばれていました。
新たな身体に受肉した魔王という意思を持った悪意です。
今私の器はフォン・バイクと名乗っています。昔らしい言い方をすれば、魔王フォン・バイクといったところでしょうか。
彼の内側から世界を見ていました。悪意の残り香があれば、悪意そのものである私はそれをたぐり寄せて何処でも見通すことが出来ます。
最初の凪の最後の年、私は目覚めて依り代を探しました。そのとき出会ったのがフォン・バイクです。
フォン・バイクは生前はしがない悪徳商人でした。強欲で傲慢でカネのためなら家族さえも犠牲にする。延いては自分自身さえも差し出すような価値観の持ち主でした。
それでいて自分の行いが悪徳であるという凄まじい罪悪感をいだいていたので、ただの小悪党から上り詰めることは出来なかった人間なのです。
しかし、悪事を働きながらその何倍もの罪悪感を抱くフォン・バイクという男は、依り代としてはこの上ない人間性の持ち主でした。
私がフォン・バイクに受肉したとき、彼はささやかな抵抗を見せました。
その中で彼は私に武力や魔力ではない第三の力、資本の力というものを教えてくれました。それさえあれば、全てを支配して、全てを産み出した知覚の懐に全てを戻すことができるということも可能だと教えてくれました。
そこで私は方法を変えたのです。
そして、今の私があるのです。
バイク財閥は世界に唯一無二の財閥になりました。
フォン・バイク殿、フォン・バイクおじさん、バイクの旦那。ただ魔王だけという呼び方から、色々な呼び方をしてくれる。そうやって慕ってくれるのです。
皆、とても可愛いと思いませんか?
私からすれば、新たに生まれた魔王とされているフェリシアン・ガリマールは、自分を魔王だと信じ込んだ偽物に過ぎません。今の彼を正しく言うのであれば、狂気に飲み込まれた勇者です。
魔王は悪意の意思の塊であって、狂気ではありません。狂ったふりでも、本格的に狂気に飲み込まれても、それは悪意とは違うのです。
悪意を悪意であるということを理解するためには、罪悪感が必要です。
自分が悪いことをしているという自覚こそが悪意なのです。
一方、フェリシアンくんが飲み込まれた狂気というものには罪悪感がない。
彼以外の全てが悪いと思うことを、彼は悪いと思わずに実行してしまうようになりました。そこに悪意はありません。
狂気とは、むしろ純粋な悪意とは真反対に存在するのではないでしょうか?
例えばの話です。
私がもしあのとき理事長室でフェリシアンくんに殺されていたら、つまり、魔王が勇者の血筋によって討伐されていたら――恐ろしいことに、刺すだけで魔王を討てる聖剣デア・アンファングがすぐ側にあったのです――、私は依り代を再び選ばなければいけません。
実際に今の私は、魔王としての力を無限に等しい寿命のためにしか使っていないので、簡単に殺されていたかも知れません。
依り代の代わりなら的確な者がいるではないか。
もし魔王が復活するのであらば、この話の中で幾度となく出てきたあの人物を依り代にするだろう。ここまで自己中心的で利己的で、傲慢な者は依り代としてこの上ない適合者がいる。
傲慢で自己中心的で事象の全てを自分のそのときの尺度で書き換え押し通そうとする、まさに絵に描いたような女性。
ですが、フェリシアンの姉、アナンヤ・ガリマール……(最近の姓は何でしたっけ?)は適任ではないのです。
繰り返しになりますが魔王は悪意です。罪悪感を抱かないサイコパスという存在とは相容れないのです。
尤も、彼女はサイコパスと言うよりも、ただ罪悪感を感じないほどの度を超えた我が儘なだけかもしれませんが。
依り代を探すというのは、実はかなり困難なことなのです。魔王魔王と言われても、意外と苦労しているのですよ。
魔王として殺されても二十年経てば蘇ることが出来る、とはいっても依り代は大事なのです。よって悪意にも生存戦略というのが必要なのです。
私はしばらくの間、彼を魔王と言うことにしておきたいと思います。
私以外が魔王を僭称するのは……特に気になりませんね。彼には魔王と自称するには足りる力がありますし。
それに、あくまで期限付きです。勇者は力に目覚めてもその力を私のように不老長寿に当てなければ、やがては老いて死ぬ。勇者ドナシアンがそうだったように。
フェリシアンは私を殺さずに去りました。
しかし、今後彼が世界だけでなく私にとっても脅威となることは間違いありません。偽魔王とは言えども、魔王を倒す可能性のある勇者の力を持った存在です。
とても強いでしょうね。ああ、恐ろしい。
ですが、世の中には悪が必要です。対峙すべき悪がいて、人々はまとまるのです。
魔王を倒せる者は狂い、魔王に刃を向けることはない。魔王は支配の形を変えて生き残る。
支配の形を変えた魔王と人間社会には、偽物の巨悪が必要なのです。
さて、自称魔王ガリマールはこれからどのように暴れるのでしょうか。
かつての歴代の魔王たちがしてきたような世界経済や文明が傾くような凄まじい暴れ方をするのか、それとも私の財閥の金回りが順調になるような、一般人を生かさず殺さずのほどほどで暴れるのでしょうか。
フェリシアンくんの性格を考えれば、おそらく偽物の巨悪が後者を続けることになるでしょう。
真の巨悪である私が生きている限り、凪の二十年は永久の凪であり続けます。
あくまで私が、私を倒せる力を持ったフェリシアン・ガリマールによって心臓に聖剣デア・アンファングを突き立てられなければ、ですが。
世界は今波風の立たない、夜と朝、昼と夜の境を彷徨う永遠の凪にいます。
希望に満ちた朝も絶望に溺れた夜も、二度と来ないなら次がどちらかなど気にするのは無駄というものですよ。
プロローグのノリで続くと思った読者はほとんど脱落してるはず。
最初から最後まで読んでくれた方なんて誰一人いないと思いますが、読んでくれた方がいたらありがとうございました。
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