小さな掌 第一話
「アタシ、ちょっと街の方で長めの用事あるから、一週間くらいその子の面倒見といて」
そう言ってアナンヤは家を出て行った。
普段は昼まで起きてこないアナンヤにしては珍しく、まだ日も昇りきったばかりのような朝の早い時間だった。
とても高そうな毛皮のコートを羽織り、やたら白くなった顔に派手な口紅を差している。ヒールは高くつま先はほとんどバレリーナのトゥーシューズのようであり、細く伸びたヒールの先端は地面に突き刺さっている。
普通に歩くだけで足がもつれてぐらついてしまいそうだ。
フェリシアンは買い物の際には足にされるので何を買っているか見てきたはずなのに、高そうなそれらをいつ買ったのか見当が付かなかった。
ただ一つ分かるのは、身につけている物全ては高価であると言うことだけだった。
玄関先ではムスッとした顔の甥が彼の高級車に寄りかかっていた。甥はいつも通りのだぼっとしたパーカーを着ている。黒地に金の刺繍で下品な言葉が刺繍されたいつものパーカーだった。
親子二人でどこかへ行く様子ではなく、アナンヤを何処か高級な場所へ送るために迎えに来ていたようだ。
アナンヤは息子の不機嫌な顔に構わず、玄関に乗り付けていた高級車の助手席のドアを開けて乗り込み出かけていった。
フェリシアンの屋敷一帯は曇り空が広がり、今にも天気が悪くなりそうな空模様だった。
十年も住んでいればその空がこれから何を齎すかは分かっていた。冬の白い使者が舞い降りてきて大地を埋め尽くす季節がやってきたのだ。
これから数ヶ月の間、視界いっぱいに広がる森と平原は雪に覆われ銀色になる。フェリシアンが一番好きな季節だ。
一週間とは短いがこの素晴らしい季節をまた孤独に迎えられたことにフェリシアンは開放感とささやかな喜びを感じていた。
フェリシアンは玄関脇にある傘立てにアナンヤのお気に入りの傘が置き去りにされていることに気がついた。
この地に長年住んでいなくとも、その空模様を見ればこれから雪が降り出すというのは誰でも分かるはずだ。
フェリシアンの屋敷一帯は昔カフェとヨガスタジオがあったあの街よりも北に位置しているので、冬は長く、その間の悪天候はほぼ雪になる。
雪だから傘無しで良いだろうという程度では済まされないのも予想が付くはずだ。
しかし、フェリシアンはアナンヤを呼び止めて傘を渡したりはしなかった。まぁ何とかするのだろう、地方都市部にもここほどではないが雪は降る、そちらの方が降雪グッズもたくさんある、行けば傘も買えるだろう、その程度で終わらせてしまい、孤独と雪を楽しもうと冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
玄関で見送りをしていると、早くも雪がちらつき始めた。遠ざかっていく甥の高級車はやたらと排気量があり音が無駄に大きい。その音がいつもより早く消えて行ったようにフェリシアンは感じていた。
白い息を上げながら雪の降り出した空を見上げた。寒さと静寂に心地よさを覚えていると、部屋の奥から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
フェリシアンはその声にハッとすると慌てて赤ん坊のところへ向かった。
それから一週間経ったが、アナンヤが帰ってくることはなかった。




