EP 8
第8話:たった一ミリの傷さえ許さない。不器用な獣による、甘く静かなる手当て
「……天木殿。その指は」
路地裏の冷たい静寂の中、ギルバートの低く、少しだけ掠れた声が響いた。
先ほどまで、ゴロツキたちをネクタイ一本で鮮やかに無力化していた「冷徹な特務大佐」の顔が、そこにはなかった。彼の金色の瞳は、桜がカバンを持つ手――正確には、その人差し指の先端に向けられている。
「あ、いえ。これは……」
桜は慌てて手を隠そうとした。
先ほど、ゴロツキの襲撃から身をかわそうとして壁に手をついた際、石垣のザラついた表面でほんの少しだけ指先を擦りむいてしまったのだ。血すら滲んでいない、ただ少し赤くなっている程度の、1ミリにも満たないかすり傷である。
前世のブラック企業では、コピー用紙で指を切ろうが、給湯室で火傷をしようが、上司からは「書類を血で汚すなよ」と冷たく言われるだけだった。だから桜にとって、この程度の痛みは「怪我」の部類にすら入らない。
「本当に大したことありません。少し壁にこすってしまっただけで――」
「見せなさい」
ギルバートは一切の反論を許さない、静かだが有無を言わせぬ声で告げた。
彼は長い脚を一歩踏み出し、桜との距離をゼロにする。そして、彼女が隠そうとした小さな両手を、自身の人狼の大きな手で、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
「あっ……」
桜の口から、微かな吐息が漏れた。
ギルバートの手は、昨日残業の時に触れた時と同じように、いや、それ以上に熱かった。数多の戦場を潜り抜けてきた厚いタコと、強靭な骨格を持つ武人の手。それでいて、桜の細い指を包み込む力加減は、信じられないほど優しく、繊細だった。
「……申し訳ない。私がもっと早く駆けつけていれば、こんな石垣の塵にすら、あなたを触れさせなかったものを」
月明かりの下、ギルバートは心底悔しそうに顔を歪めた。
その表情は、まるで国を揺るがすような大失態を犯してしまったかのようだ。
「大佐、大げさですよ。血も出ていませんし、舐めれば治る程度です」
「いけません。ここは不衛生な路地裏だ。破傷風などの感染症のリスクを考慮すれば、舐めるなどという非科学的な処置は言語道断です」
ギルバートは極めて大真面目な顔で桜を嗜めると、そのまま、スッと石畳の上に片膝をついた。
「えっ……? た、大佐!? なにを……!」
桜はパニックになりかけた。
ルナミス帝国最強と謳われ、軍のトップエリートである特務大佐が、薄汚れた路地裏で、一介の事務官である自分の前で膝をついているのだ。まるで、主君に忠誠を誓う騎士のように。
ギルバートは桜の戸惑いなど気にも留めず、自らの背広の胸ポケットから、折り目正しく畳まれた純白のハンカチを取り出した。上質な絹で織られた、埃ひとつない清潔な布だ。
「本来ならば、あなたの『善行通販』で適切な医療品を取り寄せていただくのが最善ですが、今は緊急避難的な処置をお許しいただきたい」
そう言って、彼は桜の小さな人差し指に、純白のハンカチをそっと巻きつけ始めた。
至近距離。
片膝をついたギルバートの顔が、桜の腰のあたり――桜が少し視線を下げるだけで、彼の整った顔立ちがすぐ目の前にある位置にあった。
長く美しい銀色のまつ毛。知的な銀縁眼鏡。そして、真剣そのものの金色の瞳。
彼の吐息が、桜の指先に微かに触れる。
ドクン、と。
桜の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
(……どうしよう。大佐の顔が、近すぎます……)
今まで、彼とはあくまで「ビジネスパートナー」としての距離感を保ってきたつもりだった。有能な軍人と、有能な事務官。互いのプロフェッショナルな部分を尊敬し合う、対等な関係。
しかし今、桜の指先をそっと包み込み、丁寧にハンカチを巻いてくれているこの男の姿は、どう見ても「仕事の範疇」を大きく逸脱している。
「……明日の監査会議では、あなたが魔導端末を操作し、プロジェクターに資料を投影するはずです。指先の微細な痛みは、タイピングの速度と正確性に影響を及ぼす。これは、明日の勝利を確実にするための、必要な事前準備です」
ギルバートは、まるで自分自身に言い聞かせるような、堅苦しい言い訳を口にしながら、ハンカチの端をキュッと結んだ。
「……はい。ありがとうございます、大佐。これで明日のタイピングも完璧です」
桜は照れ隠しに、小さく笑って頷いた。
ハンカチを結び終えたギルバートは、「うむ」と短く応え、ゆっくりと立ち上がる。
その瞬間。
二人の視線が、ふたたび真っ直ぐに交差した。
物理的な距離は、わずか数十センチ。
ギルバートの大きな手が、まだ桜の手を優しく包み込んだままだ。彼の体温が、ハンカチ越しに、そして直接触れ合っている肌から、桜の全身へと伝わってくる。
「天木殿」
「は、はい」
「……私は」
ギルバートが何かを言いかけた時、桜の視界の端に、あるものが映った。
彼の頭頂部でピンと立っている、銀色に輝く人狼の耳。
その、普段は凛々しい獣の耳が――根本から先端まで、まるで熟したリンゴのように、真っ赤に染まり上がっていたのだ。
(あ……)
桜は息を呑んだ。
冷徹で、完璧で、一切の隙がないように見えるこの男が。
たったこれだけの接触で、ただ不器用に指先の手当てをしたというだけで、耳を真っ赤にして照れている。
「……大佐。耳が、すごく赤いです」
無意識のうちに、桜の口からそんな言葉が零れ落ちていた。
言ってしまってから「しまった」と思ったが、もう遅い。
「なっ……!?」
ギルバートは弾かれたように桜から手を離し、バッ! と手で自分の耳を隠した。
その狼狽ぶりは、先ほどゴロツキの凶弾を無表情で弾き返した男と同一人物とは到底思えない。
「こ、これは、違う! 路地裏の冷気に当てられて、人狼族の体温調節機能が過剰に働いた結果であり、決して、その……あなたの手に触れて、どうにかなりそうだったとか、そういう不純な……!」
早口で弁解すればするほど、彼の耳の赤さは増していく。
さらに彼の背後では、隠しきれない銀色の尻尾が、完全にパニックに陥ったように『パタパタパタパタッ!』とものすごい高速で左右に揺れまくっていた。
(……可愛い。どうしよう、本当に可愛い人……)
前世から今まで、男性に対して「守られたい」とか「愛されたい」などと強く願ったことはなかった。自分の身は自分で守る。仕事は自分で終わらせる。そうやって生きてきた。
けれど、こんなにも不器用で、真っ直ぐで、自分のたった1ミリの傷を世界の終わりのように心配してくれて、手が触れただけで耳を真っ赤にする純情な獣を前にして――桜の胸の奥で、今まで感じたことのない『愛おしさ』が爆発しそうになっていた。
「ふふっ……ふふふっ」
桜はたまらず、口元を両手(片方はギルバートのハンカチ付きだ)で覆い、くすくすと笑い出した。
「あ、天木殿……笑わないでいただきたい。私は至って真面目に……」
「ごめんなさい、大佐。でも、本当に……大佐って、不器用で、素直で、すごく優しい方なんですね」
桜が心からの、柔らかで無防備な笑顔を向けると、ギルバートはピタリと動きを止めた。
彼の人狼の瞳が、少しだけ見開かれる。
ドクン、ドクンと、彼自身の心臓が早鐘を打つ音が、桜の鋭い聴覚(というより、この静寂な空間)にまで聞こえてきそうだった。
「……あなたのその笑顔を守るためならば、私は喜んで、この帝国のすべてを敵に回そう」
それは、軍人としての言葉ではなく、一人の男としての、嘘偽りのない誓いだった。
ギルバートは咳払いを一つして、耳の赤さを必死に隠しながら、再び桜に向かって手を差し出した。
「……寮まで送ります。今夜はゆっくり休んでください」
「はい。よろしくお願いします、ギルバート大佐」
桜は今度は躊躇うことなく、彼のエスコートを受け入れた。
並んで歩く夜道。
冷たい夜風が吹いていたが、桜は少しも寒さを感じなかった。ギルバートが風上に立ち、その大きな体と熱で、桜をすっぽりと守ってくれていたからだ。
(明日の監査会議。ボルドー局長には、確実に引導を渡します)
ハンカチで包まれた指先をそっと胸に当てながら、桜は決意を新たにする。
自分のためだけではない。
こんなにも温かく、不器用な優しさで自分を守ってくれる最強の味方に、これ以上、つまらない連中の尻拭いをさせないために。
星の瞬くルナミスの夜空の下、二人の距離は、ほんの少しだけ――確かな熱を伴って、近づいていた。
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