EP 5
無能上司のデータ改ざんと、冷え性の手を包む熱い獣の体温
ルナミス帝国・国家財務総局、局長室。
分厚いオーク材のデスクの上で、ボルドー局長は自身の爪をガリガリと噛みながら、血走った目で羊皮紙の束を睨みつけていた。
「ええい、あの小賢しい女め……! ギルバート大佐に取り入りおって!」
予算ゼロでの前線補給という嫌がらせを、桜は完璧に、しかも最高品質の物資でクリアしてしまった。おまけに、帝国最強と名高い人狼大佐からの絶大な信頼まで勝ち取っている。
このまま桜が財務総局内で発言力を強めれば、いずれ「過去の帳簿」にメスを入れられるのは火を見るより明らかだった。
ボルドーは過去数年間にわたり、軍資金を巧妙に中抜きし、ポポロ村で取引される高級嗜好品『ポポロシガー』の購入や、夜のキャバクラ代として経費を横領し続けてきたのだ。
「フン。デジタルだかエクセルだか知らんが、所詮は脆弱な魔法の小細工。帝国軍人の『闘気』を叩き込めば、帳簿の数字などいかようにも書き換えられるわ!」
ボルドーは立ち上がり、誰もいない昼下がりのオフィス(桜は別室で会議中だった)へと忍び足で向かった。
桜のデスクにある魔導端末の前に立つと、ボルドーは両手にギリギリと闘気を練り上げた。昭和の根性論と闘気至上主義に染まりきった彼は、「気合さえあれば機械や魔法のデータも物理的に曲げられる」と本気で信じているのだ。
「フンッ! ハァッ!!」
ボルドーが端末に闘気を流し込みながらキーボードを乱暴に叩くと、画面上の「使途不明金」の項目が、強引に「天木桜の特別決裁」という名目に書き換わった。
物理的な干渉による、極めてアナログで強引なデータ改ざんである。
「はーっはっは! 見ろ、闘気の前には魔法の記録など無力! これで横領の罪はすべてあの生意気な小娘のものだ! 明日の監査会議で、まとめて首を切ってくれるわ!」
ボルドーは自分の完璧な隠蔽工作(と思い込んでいるもの)に酔いしれながら、意気揚々と局長室へ引き上げていった。
◇◇◇
16時30分。会議から戻った桜は、自分のデスクに座り、魔導端末のスリープを解除した。
その瞬間。
『ピーッ! セル【H45】から【K120】に不自然な上書きが検出されました』
桜が独自に組んでいた「条件付き書式」と「変更履歴の自動追跡マクロ」が働き、画面の一部が真っ赤に点滅していた。
「……あら?」
桜はマウス(に相当する魔石)を操作し、『変更履歴の追跡』ログを開く。
そこには、ご丁寧に【最終更新者:ボルドー局長】【更新時刻:14時22分】【変更内容:横領データの宛先を『天木桜』に書き換え】という事実が、1秒の狂いもなく克明に記録されていた。
(うわぁ……。他人のパソコンを勝手にいじってデータを改ざんしたつもりなんでしょうけど、『変更履歴の記録』をオフにするのを忘れるとか、ITリテラシーが化石レベルですね。しかも、強引に闘気で上書きしたせいで、ファイル全体にエラー吐いてますし)
前世のブラック企業でも、「俺のミスはお前のミス」とエクセルの数字を勝手にいじる上司はいたが、ここまで証拠を大声で主張している改ざんは初めてである。
(明日の全体監査会議で、私を横領犯に仕立て上げるつもりですね。……いいでしょう、売られた喧嘩です。完璧な論理で、完膚なきまでに社会的に抹殺して差し上げます)
桜は静かに、しかし絶対零度の営業スマイルを浮かべた。
相手を完全に詰ませるためには、この変更履歴の完全なバックアップと、ボルドーが過去に購入したポポロシガーなどの「物理的な領収書のデータ」を照合する作業が必要だ。
「……今日ばかりは、定時退勤はお預けですね。未来の残業ゼロのための、先行投資です」
桜は引き出しから『時間外労働申請書』を取り出し、デスクの端に置いた。
◇◇◇
時刻は20時を回っていた。
ルナミス帝国のオフィスは、19時を過ぎると経費削減のために「魔導暖房」の術式が切られる。初冬の冷え込みがコンクリートの床から這い上がり、オフィスは冷蔵庫のように冷え切っていた。
「くしゅっ……。さ、寒いです……」
たった一人で残業を続ける桜は、タイトスカートから伸びる脚を擦り合わせ、キーボードを叩く手を止めた。
彼女は極度の冷え性だった。手先が氷のように冷たくなり、指の関節が強張ってタイピングの速度が落ちてきている。かじかんだ両手に「はぁーっ」と白い息を吹きかけるが、気休めにしかならない。
「あと一息で、完璧な弾劾資料が完成するのに……指が、動きません……」
限界を感じて桜が肩を落とした、その時だった。
「――天木殿。定時の化身であるあなたが、こんな時間まで何をしているのですか」
静まり返ったオフィスに、低く落ち着いた声が響いた。
ハッとして顔を上げると、闇に溶け込むような黒の背広に身を包んだギルバートが立っていた。銀縁眼鏡の奥の金色の瞳が、怪訝そうに桜を見下ろしている。
「大佐……。どうしてここに?」
「夜間巡回です。我が部隊の命綱である補佐官が、過労で倒れられては軍の損失ですからね」
淡々と答えるギルバートだが、本当は17時を過ぎても一向に帰宅する気配のない桜のことが気になり、無意識のうちに足が向いてしまっただけである。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。ですが、どうしても今日中に終わらせておきたい『害虫駆除』の準備がありまして」
「害虫駆除……?」
「ええ。明日の会議で、部署の膿を出し切るための……あっ!」
桜が説明しようと手を動かした瞬間、冷え切った指先がキーボードの上で滑り、手元の資料の束を床に落としそうになった。
サッ、と。
ギルバートが一瞬で距離を詰め、床に落ちる寸前で資料を受け止めた。
それと同時に、彼の空いたもう片方の大きな手が、空を彷徨っていた桜の両手を――すっぽりと、優しく包み込んだ。
「え……?」
桜は息を呑んだ。
彼女の氷のように冷たかった両手が、ギルバートの分厚く、大きな手の中に閉じ込められている。
人狼族は、人間よりもはるかに基礎体温が高い。その手から伝わってくるのは、まるで上質な暖炉の火のような、圧倒的で安心感のある熱だった。
「た、大佐……?」
「あなたの手は、まるで氷だ」
ギルバートは桜の手を包み込んだまま、片膝をついて彼女と視線を合わせた。
鋭い爪を隠した、敵を引き裂くための強靭な獣の手が、壊れ物を扱うように桜の小さな手を温めている。
「体幹温度の低下は、思考力と事務処理速度に30%以上の遅延をもたらします。さらに、その強張った指ではタイプミスを誘発する。……違いますか?」
「そ、それは……そうです、けど……」
「ならば、温めるのが合理的な判断だ」
ギルバートは極めて真面目な、一切の私心がないとでも言いたげな真顔で告げた。
「キーボードが冷えているのでしょう。……少し、私の体温を分けておきます。これも、前線の兵站を維持するための、立派な軍事行動の一環です」
(軍事行動って……無茶苦茶な言い訳……!)
顔に熱が集まるのを感じながら、桜はギルバートの手の心地よさに抗えなかった。
至近距離で見つめてくる彼の瞳は冷徹な色を帯びているが、よく見れば、彼の背後で――普段は背広の内側に隠されているはずの人狼の強靭な尻尾が、服の裾を押し上げるようにして『ゆさっ、ゆさっ』とゆっくり、しかし力強く揺れているではないか。
(顔はクールなのに、尻尾が……すごく嬉しそうに動いてる……)
「……大佐は、ずるいですね」
「何がです」
「いえ。……とっても温かいです。ありがとうございます、ギルバート大佐」
桜が照れ隠しにふわりと微笑むと、ギルバートの動きがピタリと止まり、彼の尖った耳がカッと赤く染まった。
「……ッ。十分温まったら、無理をせずに切り上げなさい。夜道は私が護衛する」
ギルバートは逃げるように手を離すと、わざとらしく咳払いをし、彼女のデスクの端に温かい『ポポロ・コーヒー』の缶を置いて立ち上がった。
残された桜は、自分の両手に残る熱と、じんわりと胸の奥に広がる甘い感覚を反芻していた。
「……さて」
体温も、気力も、完璧にフルチャージされた。
桜は魔導端末に向き直り、先ほどよりもはるかに滑らかな指の動きでタイピングを再開する。
「明日の全体会議、ボルドー局長には最高の舞台をご用意して差し上げますね」
冷え性の手を温めてくれた不器用な獣への恩返しのためにも。
ブラック上司を社会的に抹殺する、完璧な『ざまぁ』の準備が、今夜ついに整おうとしていた。
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