EP 7
悪徳プロデューサーの甘い罠。夢と恩返しを食い物にする『奴隷契約書』
ポポロ村の中央広場。
大成功を収めたゲリラライブから数日が経ち、村はかつてないほどの活気に満ちていた。
農作物の収穫量は右肩上がりを続け、桜の構築した魔導Excelの物流網によって、村には莫大な利益が還元されつつある。
その広場の片隅で、ピンク色の芋ジャージを着たリーザは、今日も一人、真剣な表情で発声練習をしていた。
「あー、あー。……ダメですの、まだ高音の伸びが甘いですわ。桜様に買ってもらったマヌカハニーを飲んで、もっと完璧なコンディションを作らないと」
リーザは喉をさすりながら、小さく息を吐いた。
彼女の頭の中には、あの夜、桜が自分に高級なオーガニック弁当とハチミツを渡してくれた時の言葉が焼き付いている。
『これは先行投資です。あなたはプロとして最高のパフォーマンスを発揮する義務があります』
(桜様は、私を信じて投資してくれましたの。だから私は、もっともっとビッグなアイドルになって、桜様やキャルルちゃん、大佐……村の皆さんに、最高の『恩返し』をしなければいけませんわ)
リーザが両手で拳を握りしめ、決意を新たにしていた、その時だった。
「――ブラボー! 実に素晴らしい心がけだね、未来のトップアイドル!」
不意に、背後からわざとらしい拍手の音が響いた。
リーザが驚いて振り返ると、そこには、のどかな村の風景にはおよそ似つかわしくない、嫌味なほどに仕立ての良いスーツと、高級な毛皮のコートを羽織った男が立っていた。
男の背後には、護衛と思われる屈強でガラの悪い傭兵が二人控えている。
「あ、あなたは……? 観光客の方ですの?」
リーザが首を傾げると、男はわざとらしく大げさな身振りでお辞儀をした。
「初めまして、美しい人魚姫。俺は帝都でエンタメ商会『ダーク・プロモーション』の代表を務めている、ドルゴという者だ。……君の『ゴッドチューブ』でのライブ配信、見させてもらったよ」
ドルゴは、ねっとりとした、まるで獲物を品定めするような蛇のような目でリーザを舐め回した。
「君のその歌声の魔力……まさに、神界を揺るがすほどのダイヤの原石だ。だが、こんな田舎村の広場で、そんなみすぼらしいジャージを着て歌っているなんて、もったいないにも程がある。……どうだい? 俺の商会と専属契約を結んで、帝都のドームで数万人のファンを熱狂させる『本物のアイドル』にならないか?」
「えっ……?」
帝都のドーム。数万人のファン。
その言葉に、リーザのエメラルドグリーンの瞳がピクリと揺れた。
ファンの時間を奪い、彼らを幸せにすることこそが自分の義務だと信じているリーザにとって、「より多くの人に歌を届ける」という提案は、喉から手が出るほど魅力的なものだった。
「……でも、私にはすでにプロデューサー(桜様)がいますの。それに、この村を離れるつもりはありませんわ」
リーザが警戒して一歩下がると、ドルゴはニヤリと口角を上げた。
「ああ、あの優秀な事務官殿のことか。確かに彼女の配信の手腕は見事だった。だがね、エンタメ業界の『裏』を知らない素人の小娘では、いずれ限界が来る」
ドルゴは懐から最高級のポポロシガーを取り出し、火をつけた。
紫色の煙が、リーザの顔に吹きかかる。
「君の配信はバズった。それはつまり、神界の神々――特に『炎上神ワイズ』様のような影響力を持つ神々の目に留まったということだ。強力なバックボーン(後ろ盾)を持たないフリーのアイドルがどうなるか……業界の巨大な力に潰されて、二度と歌えなくなるかもしれないぜ?」
「っ……!」
「だが、俺の商会と組めば話は別だ。炎上神ワイズ様とも太いパイプを持つ俺が、君をあらゆる危険から守り、最短ルートで頂点へと引き上げてやる」
ドルゴの言葉巧みな脅しと甘言に、世間知らずな人魚姫の心に「不安」という波紋が広がっていく。
自分が潰されるだけならいい。だが、もし自分のせいで、桜やキャルル、ポポロ村の皆に迷惑がかかったら……?
ドルゴはその心の隙を、見逃さなかった。
「なぁに、安心しな。村を離れる必要はない。むしろ、俺の商会がこのポポロ村の特産品……月見大根やポポロシガーを『アイドル公式グッズ』として独占販売してやる。そうすれば、村には莫大な利益が落ちて、君の恩人たちも大喜びするはずだ。まさにウィンウィン(win-win)のシナジー効果ってやつさ!」
「村の、皆さんが……豊かになる……?」
「ああ、そうだとも! 君が俺の商会に入るだけで、君の夢も叶うし、お世話になった村のみんなに『恩返し』もできる。君がサイン一つするだけで、全員が幸せになるんだよ」
悪徳プロデューサーの吐き出す『恩返し』という言葉が、リーザの純粋で強欲な心に深く突き刺さった。
(私が……私がサインすれば、桜様も、キャルルちゃんも、もっと幸せになれるの……?)
「さあ、この『専属アイドル契約書』にサインを。難しいことは何も考えなくていい。君はただ、俺の用意したステージで、ファンに笑顔を振りまくだけでいいんだ」
ドルゴは、分厚い羊皮紙の束――契約書と、一本の羽根ペンをリーザの前に差し出した。
契約書の表紙には、綺麗な飾り文字で『専属契約』と書かれている。
だが、その分厚い書類の奥深く、虫眼鏡でなければ読めないような極小の文字で、恐るべき搾取条項がびっしりと書き連ねられていた。
『第4条:乙の配信収益およびグッズ売上の99%は甲の取り分とする』
『第8条:ポポロ村の全特産品の流通権利は、自動的に甲の商会に無償で譲渡されるものとする』
『第12条:契約解除の場合、乙は違約金として金貨100万枚を即時一括で支払うこと』
まさに、夢と純真さを食い物にする、現代エンタメ業界の闇を煮詰めたような完全な『奴隷契約書』。
一度でもサインしてしまえば、リーザは声が枯れるまで無給で歌わされ続け、ポポロ村の富はすべてドルゴのものとなるのだ。
「……」
リーザは震える手で、羽根ペンを受け取った。
(桜様。私、桜様のおかげで、自分の歌に自信が持てましたの。だから……この力で、皆さんを幸せにしますわ……!)
彼女の頭の中には、桜の優しい笑顔と、村人たちの喜ぶ顔しかなかった。
自分が騙されているかもしれないという疑念よりも、「恩返しをしたい」という純粋な思いが勝ってしまっていたのだ。
「そう、それでいい。そのまま名前を書くんだ。今日から君は、俺の最高の『商品』だ……」
ドルゴが下卑た笑いを噛み殺しながら、リーザの手元を凝視する。
リーザの持つ羽根ペンの先が、契約書の署名欄へとゆっくりと下ろされていく。
あと一センチ。
あと数ミリで、人魚姫の運命と、ポポロ村の未来が、悪徳商人の手に堕ちる――。
「――ストップです。そのサイン、保留でお願いします」
不意に、広場の静寂を切り裂くような、凛とした声が響いた。
「あ……」
リーザの羽根ペンが、紙に触れる寸前でピタリと止まる。
「な、なんだお前は!? 邪魔をするな!」
ドルゴが忌々しげに舌打ちをして振り返る。
そこには、小脇にノート型の魔導端末を抱えた、スーツ姿の小柄な女性が立っていた。
背筋をピンと伸ばし、足元のタローマン製防弾ヒールをコツン、と鳴らして歩み寄ってくる。
「桜様……っ!」
リーザが顔を輝かせた。
「おや。君が噂のプロデューサー気取りの事務官殿か。悪いが、この子は俺の商会と専属契約を結ぶことで合意しているんだ。部外者は引っ込んで――」
「部外者ではありませんよ。私は彼女の才能を見出した『初期投資家』であり、この村の物流を管理する国家財務総局の事務官です」
天木桜は、ドルゴの言葉を冷徹に遮り、極上の営業スマイルを浮かべたまま、ドルゴとリーザの間にスッと割り込んだ。
「それに、大切な『商品』の契約に際して、契約書のリーガルチェックを行わないなんて、ビジネスパーソンとしてあり得ません。……リーザちゃん、少しその契約書、拝見してもいいですか?」
桜はリーザの手から分厚い契約書の束を優しく、しかし有無を言わせぬ手つきで抜き取った。
「なっ……! 返せ! それは機密文書だぞ!」
ドルゴが慌てて手を伸ばすが、桜はすでに魔導端末を開き、契約書の束に『魔導スキャン』の光を当てていた。
「ふむ……。なるほど、なるほど」
桜の瞳の奥で、魔導Excelの関数が高速で処理されていく。
分厚い書類の束を一瞬でデジタルデータとして読み込み、そこに隠された『バグ(搾取条項)』を洗い出していく、事務聖女の絶対的なロジック展開。
「……ドルゴ社長。随分とまぁ、昭和の悪徳プロダクションも真っ青の、バグだらけの『紙切れ』をお持ちになったのですね」
桜が顔を上げ、ドルゴに向かって放ったのは――ボルドー局長を社会的に抹殺した時と同じ、完全なる絶対零度の笑みだった。
夢と恩返しを食い物にしようとした悪徳プロデューサーへの、容赦のない『論破』の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
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