EP 13
定時の鐘とスタンディングオベーション。腐敗の終わり、そして事務聖女の帰還
「離せッ! 私は局長だぞ! 貴様ら、気合が足りんのだぁぁぁ……ッ!!」
ボルドーの断末魔のような絶叫が、講堂の重厚な扉の向こうへと消えていく。
その野太い声が完全に遠ざかるまで、第一大講堂の中は水を打ったような静寂に包まれていた。
ルナミス帝国・国家財務総局の中枢を担う数百人のエリート官僚たち。
彼らは皆、自らの目が信じられず、ただ呆然とスクリーンに映し出された『完璧な裏帳簿のログ』と、証言台に立つ一人の小柄な事務官を見つめていた。
数年間にわたり帝国軍の予算を食い物にしていた、昭和の根性論を振りかざす巨悪。
それが、一切の暴力も、魔法の爆発も伴わず。
ただ『デジタルデータの完全な記録』と『完璧なロジック』、そして『領収書という物理的証拠』だけで、たった十数分の間に社会的に完全に抹殺されたのだ。
「……信じられん。あのボルドー局長が、あんなにもあっさりと……」
「彼女が構築したという『魔導Excel』……あれは、魔法などというチャチなものではない。国家の腐敗を根絶やしにする、神の如きシステムではないか……!」
ヒソヒソという囁きが、やがて波紋のように広がり、講堂全体をざわめきで包み込んでいく。
そのざわめきの中、最前列のVIP席から、内務省トップであるオルウェルがゆっくりと立ち上がった。
「静粛に」
オルウェルの低く通る声が一言発せられただけで、講堂は再び静まり返った。
彼は真っ直ぐに証言台の桜を見つめ、口元に魅力的な笑みを浮かべた。
「天木桜くん。君が提示した証拠は、極めて完璧であり、反論の余地がない。内務省トップの権限において、ボルドーの横領罪を認定し、即座に彼の全財産を没収、および帝都地下牢への無期投獄を決定する」
「……賢明なご判断、痛み入ります。オルウェル様」
桜が事務的に一礼すると、オルウェルはさらに言葉を続けた。
「ボルドーが失脚した以上、兵站管理部は実質的に機能不全に陥る。……どうだろう、天木くん。この場で君を新たな『兵站管理部・局長』に任命し、その卓越した魔導Excelの技術で、部署全体を再構築してもらえないだろうか? もちろん、特例的な大出世だ。給与は破格の額を約束しよう」
再び、講堂内がどよめいた。
平の事務官が、一気に局長へと大抜擢される。前代未聞の人事だ。周囲の官僚たちが羨望と驚愕の入り交じった視線を桜に向ける。
だが、当の桜は、1ミリも表情を変えなかった。
彼女は困ったように眉を下げ、完璧な営業スマイルで首を横に振った。
「オルウェル様。大変光栄なご提案ですが……謹んで、辞退させていただきます」
「ほう? なぜだね。権力には興味がないと?」
「はい。権力には、それに比例した責任と『残業』が伴います。私は、与えられたタスクを効率よくこなし、毎日17時に定時退勤をして、美味しいご飯を食べてお風呂に入って寝る……という、ささやかなホワイトライフを望んでいるだけの、ただの事務官です」
桜のその言葉に、オルウェルは一瞬きょとんとし、次いで、腹の底から楽しそうに笑い声を上げた。
「くくっ……ははははっ! なるほど、君らしい合理的な判断だ! 権力よりも、己の生活の質を選ぶと! いいだろう、君のそのブレない姿勢、ますます気に入ったよ」
オルウェルが笑い収めると、今度は最前列に座っていた軍の幹部たち――先ほどボルドーの領収書を握り潰していた将官たちが、次々と立ち上がった。
彼らは重い軍靴を鳴らして桜とギルバートの前まで歩み出ると、一斉に、深く頭を下げた。
「天木事務官。……そして、ギルバート大佐。我々軍上層部の目が節穴であったせいで、前線の兵士たちに多大な苦労をかけ、あまつさえ貴女のような有能な人材に謂れのない罪を着せようとしてしまった。心より、謝罪する」
白髪の将軍が、声を震わせて頭を下げる。
周囲の官僚たちも、それに続くように次々と立ち上がり、桜に向けて敬意の眼差しを向けた。
「天木殿……あなたこそ、真の愛国者だ」
「予算ゼロの中で、あれほどの極上物資を調達してくれたと聞く。我が部隊の兵士たちも、あなたを『兵站の聖女』と呼んで涙を流していた……!」
「どうか、これからも我々の命綱を、その素晴らしい手腕で支えていただきたい!」
次々と投げかけられる、称賛と感謝の言葉。
理不尽な横領犯の濡れ衣を着せられそうになっていた小柄な事務官は、たったの数十分で、帝国の中枢を担うエリートたち全員から『絶対的な承認』を勝ち取ったのだ。
(……ふふっ。営業事務冥利に尽きますね。でも『兵站の聖女』って……なんだか恥ずかしい二つ名がついちゃいました)
桜が少しだけ照れくさそうに頬を掻いた、その時。
キィン、コォン、カァン、コォン。
ルナミス帝国の中央時計塔が、一日の業務の終わりを告げる『17時』の鐘の音を、高らかに響かせた。
その音を聞いた瞬間、桜はサッと表情を切り替え、魔導プロジェクターから手際よくケーブルを抜いてノート型端末を閉じた。
「皆様。大変恐縮ですが、ただいまをもって本日の私の業務時間は終了いたしました。これより先の案件、および称賛や感謝の言葉につきましては、明日の午前9時以降に順次対応させていただきます」
「……え?」
感動的な空気に包まれていた将軍や官僚たちが、ポカンと口を開ける。
「それでは、本日はこれにて失礼いたします。お疲れ様でした!」
桜はペコリと一礼すると、呆然とする数百人のエリートたちを置き去りにして、タローマン製の防弾ヒールをコツコツと鳴らしながら、講堂の出口へと歩き出した。
「な、なんと……あの空気の中で、本当に定時で帰ってしまったぞ……」
「あれだけの功績を上げながら、一切の未練もなく……。まさに、完璧な仕事人だ……!」
誰からともなく、拍手が巻き起こった。
最初はパラパラとしたものだったが、それは瞬く間に広がり、やがて講堂全体を揺るがすような割れんばかりの『スタンディングオベーション』へと変わった。
鳴り止まない拍手の中、講堂の出口へと向かう桜のすぐ斜め後ろには、完璧な黒の背広を着こなした最強の人狼、ギルバート・ヴォルフが影のように寄り添っている。
「大佐。お疲れ様でした。大佐が集めてくれた『物理的証拠』のおかげで、完璧なプレゼンができました」
歩きながら桜が微笑みかけると、ギルバートは銀縁眼鏡を押し上げ、フッと短く笑った。
「私はただ、あなたの完璧な盤面に、最後のピースを置いただけだ。……天木殿。あなたの知性と、その一切ブレない姿勢は、帝国軍の一個師団にも勝る。私の目に狂いはなかった」
言葉こそクールだが、彼の頭頂部でピンと立った銀色の耳は、桜に向けられる周囲の称賛の拍手に誇らしげにピクピクと反応し、背中の尻尾は『俺の最高のパートナーを見たか』と言わんばかりに、ブンブンと左右に力強く揺れまくっていた。
(本当に、わかりやすくて……可愛くて、頼もしい人)
「ありがとうございます。……でも、少し疲れましたね。やっぱり、大勢の前でプレゼンするのは肩が凝ります」
桜が小さく息を吐き、無意識に首筋をトントンと叩いた。
その微かな疲労のサインを、ギルバートの鋭い視覚と聴覚は見逃さなかった。
「……当然だ。あなたは昨日から、たった一人でこの巨大な腐敗と戦い続けてきたのだからな」
ギルバートの声が、一段と低く、優しくなる。
「天木殿。あなたの今日の戦い(業務)は、すでに終わった。……残りの時間は、私が責任を持って、あなたの心身の回復に努めよう。さあ、行きましょう」
ギルバートが、周囲の拍手から桜を庇うように、その大きな背中でそっと彼女を包み込む。
講堂の重厚な扉が開かれ、二人は夕陽に染まる帝国の廊下へと歩み出た。
昭和の根性論とブラックな悪習は、完全に打ち砕かれた。
だが、張り詰めていた緊張の糸が切れた桜の心と体に、ここ数日間の過労と孤独が、静かに、そして確実に押し寄せようとしていた。
誰もいないオフィスに戻った時、完璧な事務官の仮面の下に隠されていた『一人の女性としての素顔』が、ついに最強の獣の腕の中で解き放たれることになる。
読んでいただきありがとうございます。
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