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事務聖女は定時で帰ります。『善行通販』と『魔導Excel』でブラック部署を立て直したら、冷徹な人狼上官の極上溺愛が始まりました  作者: 月神世一


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14/14

EP 14

解けた心の鎧。残業代わりの甘い抱擁と、初めての『名前呼び』

夕陽が赤く染める、ルナミス帝国・国家財務総局、兵站管理部のオフィス。

先ほどまでの大講堂での喧騒が嘘のように静まり返ったフロアに、カツッ、カツッという桜のヒールの音と、ギルバートの規則正しい革靴の音だけが響いていた。

全員が監査会議に出払っているため、広大なオフィスには二人きりだ。

桜が自分のデスクに辿り着き、抱えていた魔導端末をコトン、と机の上に置いた、その瞬間だった。

「ふぅ……っ」

小さく息を吐き出した途端、ピンと張り詰めていた糸がプツリと切れたように、桜の膝からカクンと力が抜けた。

「天木殿!」

床に倒れ込むよりも早く、背後から伸びてきた屈強な腕が、桜の体をしっかりと受け止めた。

黒の背広越しに伝わってくる、上質な布地の感触と、人狼族特有の圧倒的なまでの高い体温。ギルバートは桜の華奢な体を片腕で支え、もう片方の手で彼女の肩をそっと抱き寄せた。

「だ、大丈夫です……ちょっと、足がもつれただけで……」

桜は慌てて体勢を立て直そうとしたが、体にまったく力が入らない。

無理もない。前世で過労死寸前のブラック企業から異世界に転生し、たった一人でこの理不尽な昭和的軍隊組織の中に放り込まれたのだ。

誰も味方がいない中、必死に『事務のプロ』としての完璧な仮面を被り、魔導Excelを駆使して定時退勤という名の生存競争を戦い抜いてきた。

そして今日、絶対的な権力を持っていた局長を、たった一人で構築したロジックで社会的に抹殺した。

アドレナリンが切れ、極限の緊張状態から解放された彼女の心身には、これまでに蓄積されていた疲労と『孤独』が、何十倍にもなって重くのしかかってきていた。

「大佐……すみません、私……」

強がって営業スマイルを作ろうとした桜だが、ふいに視界がグニャリと歪んだ。

瞬きをした瞬間、ぽろり、と。

自分の意思とは無関係に、大粒の涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。

「あっ……あれ? おかしいな……私、泣くつもりなんて……」

桜は慌てて手で涙を拭おうとした。

だが、一度決壊した感情のダムは、もう彼女の理性では止められなかった。次から次へと涙が溢れ出し、ポロポロと床に落ちていく。

「ごめんなさい……私、ずっと……一人で、気を張ってて……っ。誰かに、弱みを見せたら……また前みたいに、全部押し付けられて、壊れちゃうんじゃないかって……っ」

嗚咽が漏れる。完璧な事務官の仮面の下に隠されていた、等身大の25歳の女性としての、脆くて柔らかな素顔。

そんな桜の震える背中を、ギルバートの大きな手が、ひどく不器用に、しかしこの世の何よりも大切に慈しむように、そっと撫でた。

「……よく一人で、この腐った帝国を支えてくれました」

頭上から降ってきたのは、軍人としての冷徹な声ではない。

一人の男としての、深く、甘く、胸の奥を締め付けるような優しい声だった。

ギルバートは桜を支えていた腕にゆっくりと力を込め、彼女の体を、自らの広い胸の中へとすっぽりと抱き込んだ。

「大、佐……っ」

「もう、あなたは一人ではない。……これからは私が、あなたの盾になります」

ギルバートの大きな手が、桜の黒髪をゆっくりと梳くように撫でる。

彼の胸に顔を埋める形になった桜の耳に、彼自身の力強く、規則正しい心音が聞こえてきた。

トクトク、と響くその音は、キャルルが言っていた『嘘のない心音』そのもので、桜の心を不思議なほどに安心させた。

「あなたは私の、そしてこの軍の命綱だ。あなたが定時で帰り、美味しいものを食べ、温かい布団で眠るためならば……私はこの身を挺して、いかなる理不尽からもあなたを守り抜く。だから……今はただ、休みなさい」

その言葉に、桜はついに子供のように声を上げて泣きじゃくった。

ギルバートの着ているタローマン特注の高級スーツが涙で濡れるのも構わず、彼にしがみつき、今まで我慢してきたすべての感情を吐き出した。

ギルバートは何も言わず、ただ静かに彼女の温もりを抱きしめ続けていた。

彼の銀色の耳は、彼女の悲しみに寄り添うようにペタンと力なく伏せられ、彼女の背中に回された腕は、決して彼女を壊さないように、限界まで優しく力を制御されていた。

どれくらいの時間が経っただろうか。

窓の外の空が完全な夜の闇に包まれ、魔導街灯の光がオフィスに差し込む頃。

桜はヒック、と小さくしゃくりあげながら、ギルバートの胸からそっと顔を上げた。

「……す、すみません。私、大佐の胸で大泣きしちゃって……。スーツ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに……」

泣き腫らした目で、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にする桜。

ギルバートは自分の胸元をチラリと見たが、まったく気にした様子もなく、銀縁眼鏡を押し上げた。

「問題ありません。これはあなたを守った名誉ある勲章(汚れ)だ。タローマンの形状記憶機能があるので、クリーニングに出せばすぐに元に戻ります」

「そ、そういう問題じゃなくてですね……っ」

真顔で冗談なのか本気なのかわからないことを言う彼に、桜は思わずクスッと笑ってしまった。

涙を流し切ったおかげで、胸の奥につかえていた重い泥のようなものはすっかり消え去り、驚くほど心が軽くなっていた。

「……ありがとうございます、大佐。おかげで、すっきりしました。明日からはまた、完璧な事務官としてバリバリ働けます」

桜が晴れやかな笑顔を向けると、ギルバートは一瞬ハッとしたように目を見開き、そして――スッと、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

「……天木殿」

彼の声が、急に低く、硬いものになる。

どうしたのだろうと桜が首を傾げると、ギルバートは姿勢を正し、懐から銀時計を取り出して時刻を確認した。

「現在時刻、17時15分。……痛恨の極みだ」

「え?」

「私の不手際により、あなたの絶対遵守事項である『定時退勤(17時)』を、15分も超過させてしまった」

ギルバートは、まるで部隊を全滅させてしまった敗軍の将のような、この世の終わりのような深刻な顔で桜を見つめた。

「我が部隊の命綱であるあなたに、無給での時間外労働(残業)を強いてしまった罪は重い。……この責任は、必ず私が取ろう。何を要求されても構わない。いっそ、この場で私の腹を……」

「切りませんよ!? なんで残業15分で切腹しようとするんですか昭和の武士ですか大佐は!」

桜は慌てて彼の腕を掴んで止めた。

相変わらず、頭はキレるのにどこかズレているというか、不器用すぎるこの人狼の生真面目さに、桜は愛おしさを通り越して呆れ笑いが出そうになった。

「あのですね、大佐。私が泣きついて勝手に残業になっちゃっただけですから、責任なんて……」

言いかけて、桜はふと、悪戯を思いついたように言葉を止めた。

(何を要求されても構わない、って言いましたよね)

桜は少しだけ背伸びをして、ギルバートの顔を下から覗き込むように見つめた。

まだ涙で少し潤んだ瞳で、上目遣いに彼を捉える。

「……では、その15分間の残業代の代わりに。一つだけ、私の要求ワガママを聞いていただけますか?」

「なんなりと。金貨か、それともゴルド商会の利権か?」

「そんな大層なものじゃありません」

桜はふわりと、花が綻ぶような、とびきり甘い笑顔を浮かべた。

「――私のこと、『天木殿』じゃなくて、名前で呼んでください」

ピタリ、と。

オフィスの中で、ギルバートの時間が停止した。

「……な」

「私、大佐のことは『最高のパートナー』だと思っています。だから、ビジネスライクな名字じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでほしいんです」

桜がそう言って小首を傾げると、ギルバートの顔に、みるみると信じられないほどの熱が集まっていくのがわかった。

「な……な、なまえ……」

ルナミス帝国最強の特務大佐が、狼狽のあまり言葉を失っている。

彼の頭頂部にある銀色の人狼の耳が、根本から先端まで、まるで火が点いたように真っ赤に染まり上がり、ピーンと直立不動になっている。

さらに彼の背後では、隠しきれない銀色の尻尾が『どうすればいい!?』とパニックを起こしたように、バッサバッサと嵐のように揺れまくっていた。

(ああ、もう。本当に……可愛すぎるんですけど、この人)

「……ダメ、ですか?」

桜がもう一押しするように小声で尋ねると、ギルバートは「くッ……!」と小さく呻き、片手で自分の口元を覆い隠すようにして顔を背けた。

耳まで真っ赤にしたまま、彼は数秒間、葛藤するように沈黙し。

やがて、絞り出すような、ひどく甘く、掠れた声で――そっと呟いた。

「…………桜」

たった二文字。

それだけなのに、その声には、彼が必死に抑え込もうとしている熱情と、ありったけの優しさが限界まで詰め込まれていた。

ドクン、と。

今度は桜の心臓が、跳ね上がるように大きな音を立てた。

耳元で囁かれた自分の名前に、全身の血が沸き立つような甘い痺れが走る。

「……はい。ギルバート大佐」

桜は顔を真っ赤にしながらも、嬉しそうに頷いた。

「……今日はもう、業務終了です。明日も定時で帰れるように、一緒に帰りましょうか」

「……うむ。送ろう」

ギルバートは口元を覆ったまま、まだ耳を真っ赤にしてコクリと頷いた。

窓の外には、美しい満月が昇り始めている。

ブラック部署の暗闇を抜け出した二人の間には、もはや上官と部下という冷たい壁は存在しない。

互いの能力を誰よりも尊敬し合い、そして、不器用に想いを寄せ合う一組の男女の、甘く温かい空気が、夜のオフィスを満たしていた。

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