EP 10
エリート内務官からの極秘スカウトと、嫉妬で大理石を粉砕する人狼の尻尾
午前8時45分。
ルナミス帝国・国家財務総局の最上階に位置する『第一大講堂』の前には、異様なまでの熱気と緊張感が漂っていた。
月に一度おこなわれる全体監査会議。
財務総局の各部署のトップはもちろん、軍の幹部や監査役など、帝国の中枢を担うエリートたちが一堂に会する場である。
(……いよいよですね。準備は万端、あとはボルドー局長が自ら掘った落とし穴に、気持ちよく飛び込んでいただくだけです)
桜は講堂の巨大な両開き扉の前に立ち、腕に抱えた魔導端末の感触を確かめながら小さく深呼吸をした。
彼女のすぐ斜め後ろには、完璧な黒の背広を着こなしたギルバート・ヴォルフ特務大佐が、彫像のように静かに、そして圧倒的な威圧感を放ちながら付き従っている。
周囲の官僚たちが、ギルバートの放つ冷徹なオーラと、その後ろ盾を得ている桜を見て、ヒソヒソと囁き合っていた。
「見ろ、あの天木とかいう平の事務官……なぜ特務大佐が護衛のようについているんだ?」
「なんでも、人狼部隊の補給を一人で完璧にこなしたらしいぞ。ボルドー局長の無茶振りを跳ね返したと……」
そんな周囲の喧騒をよそに、講堂の廊下の奥から、ひときわ目を引く一団が近づいてきた。
周囲の役人たちが、モーゼの十戒のように慌てて道を空ける。
その中心を歩いてくるのは、仕立ての良い白銀の軍服を身に纏った、知的な中年の男だった。
鋭い眼光。口元に浮かべた、すべてを見透かすような柔和な笑み。歩くたびに、彼から放たれる洗練されたカリスマ性が周囲を圧倒している。
「……内務官の、オルウェル様だ」
「帝国の中央省庁を裏で操る『頭脳』……なぜこんな会議に?」
ルナミス帝国内務省トップ・オルウェル。
『君主論』や『1984年』といった高度な統治学のバイブルを愛読し、徹底した情報管理と合理主義で帝国を支える、影の権力者である。
そのオルウェルが、真っ直ぐに桜たちの前へと歩み寄ってきた。
「君が、天木桜くんだね」
オルウェルは立ち止まり、まるで長年の友人に接するかのような、親しげで魅力的な笑みを桜に向けた。
「は、はい。兵站管理部の、天木と申します」
桜が完璧な角度で一礼すると、オルウェルはスッと手を差し出し、桜の右手を優しく、しかし確かな力強さで握った。
(わっ……大物政治家みたいな、人を惹きつける握手ですね)
「いや、挨拶は不要だよ。君の噂は、私の情報網にも届いている。……予算ゼロという制約の中で、地球の『エクセル』なる未知の論理構築を用い、前線の兵站を完璧に立て直したそうじゃないか」
「……過分な評価です。私はただ、与えられたタスクを効率化しただけですので」
「謙遜はいらない。ボルドーのような無能な上司の下で、君のような類まれなる才能がくすぶっているのは、帝国にとって重大な損失だ」
オルウェルは握った桜の手をゆっくりと引き寄せ、少しだけ顔を近づけた。
その瞳には、極めて高い評価と、強い独占欲が浮かんでいる。
「どうだろう、天木くん。私の直属……内務省の『特別監査室』に来る気はないか? 給与は現在の3倍を約束しよう。もちろん、君が望む『17時の定時退勤』も完全に保証する。私と共に、この非効率な帝国を真の完全管理社会へとアップデートしてくれないか?」
周囲の役人たちが「ひっ!」と息を呑んだ。
帝国のナンバーツーとも言えるオルウェルからの、公衆の面前での直接スカウト(ヘッドハンティング)。
前世の日本で言えば、ブラック企業でこき使われている平社員が、いきなり超一流外資系企業のCEOから「年収3倍でウチに来い」と右手を差し出されたようなものである。
「オルウェル様……。そこまで私を高く評価していただき、事務官としてこれ以上の光栄はありません」
桜は、営業事務時代に培った『大口の顧客(VIP)に対応する最高の笑顔』を浮かべた。
相手は帝国の重鎮。ここで無下にするのはビジネスのセオリーに反するし、純粋に自分の「効率化」の努力を正当に評価してくれたことは嬉しかったからだ。
「とても魅力的なお話です。前向きに、検討させていただ――」
桜がそう言いかけた、その瞬間。
――ドゴォォォォンッ!!!
桜のすぐ背後で、鼓膜を劈くような轟音と、マグニチュード強の局地的な地震が起きた。
「ひゃあっ!?」
桜が驚いて振り返ると、そこには、無表情のまま立ち尽くすギルバートの姿があった。
いや、顔は無表情なのだが……。
彼の背広の裾から飛び出した、強靭な『人狼の尻尾』が、床の大理石に凄まじい勢いで叩きつけられていたのだ。
ビキビキビキッ……!
帝国が誇る最高級の分厚い大理石の床が、蜘蛛の巣状に無残にひび割れ、粉々に砕け散っている。
「た、大佐!? なにをして……ッ」
「……手が、滑りました」
ギルバートは、一切手など動かしていないのに、真顔でそんな物理法則を無視した嘘をついた。
彼の金色の瞳は、桜の手を握ったままのオルウェルを、絶対零度の吹雪のような殺気で睨みつけている。
(て、手が滑ったって……尻尾で床を粉砕しておいて!? しかも、目が完全に『獲物を前にした獣』になってますけど!?)
「オルウェル殿」
ギルバートは一歩前に出ると、桜とオルウェルの間に、強引にその大きな体を割り込ませた。
そして、桜を背中で庇うようにして立ち、銀縁眼鏡の奥からオルウェルを見下ろす。
「我が部隊の兵站を維持する『命綱』を、激戦の最中に引き抜こうなどという真似は、控えていただきたい。彼女の事務処理能力は、我が軍の生存率に直結する。……内務省の書類整理などに、彼女の才能を浪費させるわけにはいかない」
言葉こそ理路整然とした「軍事上の抗議」である。
だが、その背中で暴風のようにバッサバッサと揺れ動く尻尾と、頭頂部でピンと逆立った銀色の耳からは、**『俺の女に気安く触るな』**というドス黒い独占欲と、凄まじいヤキモチがダダ漏れになっていた。
(大佐……。顔はクールなのに、ヤキモチの焼き方が物理的すぎて怖いです……! あと、床の弁償代は経費で落ちるんですかこれ!?)
一触即発の空気に、周囲の役人たちは完全に言葉を失い、恐怖で震えている。
しかし、スカウトを断られた形のオルウェルは、怒るどころか、楽しそうにフッと笑った。
「……なるほど。あの『狂犬』と恐れられたギルバート大佐に、ここまで首輪を深く食い込ませるとはね。天木くん、君は私が想像していた以上に、恐ろしくて魅力的な女性のようだ」
オルウェルは肩をすくめ、桜に向かって優雅に一礼した。
「引き抜きは一時保留としておこう。だが、内務省のドアはいつでも君に開かれている。……さて、そろそろ時間だ。君たちが用意したという『最高の舞台』を、特等席で見せてもらうとしよう」
オルウェルは意味深な笑みを残し、付き人たちを引き連れて講堂の中へと消えていった。
嵐が去り、廊下に静寂が戻る。
残された桜は、粉々に砕けた大理石の床と、未だに不機嫌そうに尻尾を揺らしているギルバートを見上げて、深い深いため息をついた。
「……大佐。公共物の器物損壊は、始末書モノですよ。これ、後で私が修理申請の書類を作らないといけないんですからね?」
「…………」
ギルバートは気まずそうに視線を逸らし、眼鏡をクイッと押し上げた。
「……不可抗力だ。あのような男に、あなたが愛想よく微笑みかけるから……我が部隊の損失を計算し、人狼の防衛本能が過剰に働いたのだ」
(ぜんっぜん防衛本能じゃないですよね、それ。ただのヤキモチですよね)
だが、いつもは冷徹で完璧な上官が、自分の一挙手一投足に振り回され、ここまで感情を露わにして(尻尾で)嫉妬してくれているという事実は、桜の胸の奥をどうしようもなく甘く、くすぐったくさせた。
「ふふっ。大丈夫ですよ、大佐」
桜は、ギルバートの背広の袖を、少しだけツンと引っ張った。
「私は今、ボルドー局長の下で働くことに誇りを持っているわけではありませんが……私が担当した『前線』の皆様のことは、最後まで責任を持ってサポートしたいと思っていますから」
「天木殿……」
「それに。冷え性の私の手を、あんなに不器用に、でも一生懸命温めてくれる上官は……大佐しかいませんしね」
桜が少しだけ上目遣いで、意地悪く微笑むと。
ボンッ! と音が聞こえそうなほど、ギルバートの顔が、耳の先まで真っ赤に染め上がった。
「な、なな、何を……! あれは純粋に、体幹温度の低下を防ぐための……っ!」
「はいはい、わかってますよ。さぁ、行きましょうか、私の最高のパートナーさん。いよいよ、決戦の時間です」
桜はクスッと笑いながら、講堂の重厚な扉に手をかけた。
ギルバートは必死に顔の熱を冷まそうと深呼吸をしながらも、桜のその『最高のパートナー』という言葉に、どうしようもないほどの愛おしさと、絶対的な忠誠を胸に誓っていた。
ギィィィィ……。
重い扉が開く。
そこには、自分たちを待ち受ける数百人の官僚たちと、余裕の笑みを浮かべて桜を睨みつける、無能なブラック上司・ボルドー局長の姿があった。
「さあ、始めましょうか。昭和の根性論を終わらせる、完璧な『事務監査』を」
桜のタローマン製防弾ヒールが、講堂の赤い絨毯を踏みしめた。
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