枯野に笑顔は咲かない②
教えられた道を辿り、エミリア達はアイゼル郊外のさらに奥へと進んでいた。
中心街から離れるにつれ、あれほど絶え間なく響いていた槌の音は少なくなっていく。華やかな店はとうに姿を消し、道沿いに並ぶのは古びた工房ばかりだった。
それでも、まだ仕事を続けている場所は分かる。煙突から上がる煙、炭の匂い、遠くから聞こえる鉄を叩く音。
だが、目の前の工房にはそのどれもなかった。
「……ここね」
大きな煙突を持つ、古い工房だった。荒れ果てているわけではない。建物も道具も最低限の手入れはされている。それなのに火の気がなく、炭も焼けた鉄も匂わない。
鍛冶師の工房とは思えないほど、静かだった。
エミリアは扉を軽く叩く。
「誰かいるかしら?」
返事はない。少し待ち、もう一度扉を叩いた。
「バランに会いに来たわ。いるなら出てきなさい」
「……帰れ」
低い声が、奥から聞こえた。
「いるじゃない。入るわよ」
『帰れと言われましたけど……』
「いることは分かったもの」
『会話が成立していませんよ?』
「細かいことは気にしないの」
ルミが苦笑する横で、エミリアは当然のように扉を開いた。
薄暗い工房の中には炉と金床がある。壁には大小様々な道具が並び、そのどれも丁寧に手入れされていた。
だが、やはり火はない。
奥には、一人の老いたドワーフが座っていた。白くなった髪と髭。深く刻まれた皺。鍛冶師らしい広い肩と太い腕は残っているが、その姿には、かつて神へ献上する剣すら任された男の覇気が感じられなかった。
「誰じゃ。勝手に入ってきおって」
「貴方が剣匠バランね?」
「……剣匠?」
老人は自嘲するように鼻を鳴らした。
「もう、そんなものはおらんよ。ここにおるのは、ただのバランじゃ。剣匠に会いに来たんなら、無駄足じゃったな」
「そう。でも、貴方がバランなのね。なら話は簡単よ」
「……何?」
「私の国へ来なさい。私のために鎚を振るうの。貴方が満足するまで仕事を与えてあげるわ」
バランがゆっくりと顔を上げた。
「……何を言っておるんじゃ?」
「聞こえなかった?」
「そういう意味ではないわ。もう儂が鎚を振るうことはない。用がそれだけなら帰れ」
「それを決めるのは――」
エミリアが言葉を続けようとした、その時だった。
奥の部屋から、激しく咳き込む声が聞こえた。
「っ……!」
それまで力のなかったバランの表情が一変する。
「ミンメイ!」
椅子から立ち上がり、慌てて奥の部屋へ向かった。エミリアとルミもその後を追う。
『……ついていくんですね』
「当然でしょう。気になるもの」
『勝手に家へ入った上に、奥の部屋まで……』
「今更ね」
奥の部屋を覗けば、一人の少女がベッドの上で身体を丸めるようにして咳き込んでいた。まだ若いドワーフの少女だった。
顔色は悪く、頬も痩せている。細い身体が咳をするたびに震え、その姿だけで長く病に苦しんでいることが分かった。
「大丈夫じゃ。ゆっくり薬を飲むんじゃ」
先ほどまでとは別人のような優しい声だった。
バランは少女の上体を起こし、小さな器に入った薬を口元へ運ぶ。
「少しずつじゃぞ」
「……うん」
少女は苦しそうに薬を飲み込んだ。バランはその背中をゆっくりと撫で続ける。
しばらくすると激しかった咳は少しずつ治まり、呼吸も落ち着いていった。やがて少女は再び眠りにつく。
バランは毛布を掛け直し、その寝顔をしばらく見つめていた。
「……娘さん?」
「孫じゃよ。ミンメイという」
「病気なの?」
「……魔鉱病じゃ」
その名前には聞き覚えがあった。
エミリアに記憶されている知識の中にも、その病についての情報が残っている。鉱山や鍛冶場の近くで暮らす者に発症することが多い難病。特に魔力の強い者ほど重症化しやすいと言われているが、原因は分かっていない。
高位の神聖魔法を使えば一時的に症状を抑えることはできる。だが、やがて再発する。根本的な治療法は存在しない。
「……治る見込みはない」
バランは眠るミンメイから目を離さなかった。
「儂の妻も、同じ病で死んだ。どれだけ金を使っても、どれだけ偉い治療師に診せても、結局は同じじゃった」
その手が僅かに震える。
「人が苦しむのを、ただ見ておることしかできん……悪魔の病じゃよ」
エミリアは眠るミンメイを見た。
「私の国なら、その病気を治せるわよ」
バランの動きが止まった。
ゆっくりと振り返る。
「……今、何と言った?」
「治せると言ったの」
「馬鹿なことを言うな! 魔鉱病は治らん! 何人もの治療師に診せた。高位の神聖魔法ですら、一時的に症状を抑えるだけじゃ!」
「知ってるわ」
「なら――」
「本当よ。この状況で、貴方に嘘をつく意味なんてないでしょう?」
エミリアは平然とバランを見返した。
「私は貴方を手に入れるために、わざわざ国境を越えてここまで来たの。孫娘を騙して何になるのよ」
「……手に入れる、じゃと?」
「そこに引っかかるの?」
「引っかかるじゃろうが!」
「面倒ね」
エミリアは小さく息を吐いた。
「要するに、私の部下なら治せる可能性があるということよ」
「部下?」
「医療を専門にしている子がいるの。原因不明なら、その原因から調べさせるわ」
「そんなことが……」
「できるわ」
迷いはなかった。
リンならできる。それを疑う理由などない。
「二人で私の国へ来なさい」
「……二人?」
「貴方とミンメイよ。ここにいたところで治らないのでしょう?」
「簡単に言うな……」
「簡単な話でしょう? ここで死ぬのを待つか、私について来るか。選択肢なんて二つしかないわ」
バランは唇を噛んだ。
「勿論、治した後のことは分かっているでしょう?」
「……対価を求めるか」
「当たり前じゃない。私の国へ来て、私のために鎚を振るいなさい」
「だから、儂はもう――」
「それは聞いたわ」
エミリアはばっさりと遮った。
「でも今の貴方が何を言ったところで、説得力なんてないのよ。孫が死ぬかもしれない。それしか頭にない顔をしているもの」
バランが言葉を失う。
「そんな状態で『もう職人ではない』なんて決めつけても意味がないわ。まず、この子を治す。話はそれからよ」
「それでも鎚を持たんと言ったらどうする」
「あら。その時になっても、貴方が断れると思っているの?」
「……何?」
エミリアは楽しそうに笑った。
「私を甘く見ないことね。貴方が自分から鎚を振りたくなるくらい、面白いものを見せてあげるわ」
バランは長い間、何も言わなかった。
眠るミンメイを見る。
そして、目の前のエミリアを見る。
「……本当に、この子を救えるのじゃな?」
「ええ」
即答だった。
「だから二人で来なさい」
そして、エミリアは笑う。
「貴方の孫を救って――その恩ごと、貴方をいただくわ」
何もしなければ、妻と同じ結末が待っている。
ならば、どれほど馬鹿げた話でも縋る価値はあった。
「……分かった」
「決まりね」
「じゃが、もしこの子を騙しておったら――」
「しつこいわね。本当に治せると言ってるでしょう?」
エミリアが呆れたように肩をすくめる。その横で、ルミがそっと身を寄せた。
「……私が治せば、すぐですよ?」
バランには聞こえないほどの小声だった。
「ここで力を使ったらラクシュにバレるんでしょう?」
「まあ、それはそうですけど。国境を越えてからなら気にしなくていいんじゃないですか?」
「分かってないわね」
「……また美学ですか?」
「それもあるけれど」
エミリアは口元を緩めた。
「神に治させたら、神に感謝するでしょう?」
「はい?」
「でも、私の部下が治したなら――私に感謝するわ」
ルミが黙った。
「とっても悪っぽいでしょう?」
「……相変わらず悪いこと考えますね」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
「褒めてません」
バランが怪訝そうに二人を見る。
「……さっきから何をこそこそ話しておる」
「貴方には関係ないわ。それより準備しなさい」
「準備?」
「王国までは馬車で行けるわ。街に預けてあるから、まずそこまで戻るわよ」
バランは眠っているミンメイを見る。
「この子は儂が運ぶ」
「荷物は?」
「そんなもの、どうとでもなる。それより早く孫を助けたい」
「そう」
エミリアはそれ以上何も言わず、静かな工房を見回した。
火の消えた炉。冷えた金床。壁に並んだ道具。そして、その傍らに置かれていた一振りの鎚。
「ルミ。その鎚だけ持ってきておきなさい」
バランが眉を寄せる。
「そんなものは要らん。儂はもう――」
「必要よ。私の国で働くことになるんですもの。それくらい持っていかないと困るでしょう?」
「……話を聞いておったのか?」
「聞いてたわよ」
「儂はもう鉄を打たんと言ったじゃろう!」
「だから、それは貴方が勝手に言っているだけでしょう?」
「勝手も何も――」
エミリアは、ふっと笑った。
「私の国には、貴方が見たこともないものがたくさんあるわ。その鎚、すぐに必要になるわよ」
バランは呆れたように息を吐いた。
「……好きにせい」
「最初からそのつもりよ」
ルミが苦笑しながら鎚を手に取る。
「では、お預かりしますね」
バランはベッドの傍らへ膝をつき、眠るミンメイを起こさないよう慎重に背負った。
かつて大鎚を振るっていた広い背中に、痩せた少女の身体はあまりにも軽い。
バランの表情が僅かに歪んだ。
「……行くぞ、ミンメイ」
眠ったままの少女から返事はない。
バランは一度だけ工房を振り返った。長く暮らした家。火の消えた炉。冷えた金床。そして、自分ではもう必要ないと思っていた鎚は、今はルミの手にある。
何も言わず、扉を閉めた。
持ち出したものは、ほとんど何もない。
最愛の孫娘と。
もう二度と握ることはないと思っていた、一振りの鎚。
それだけだった。
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