枯野に笑顔は咲かない①
バランが初めて鍛冶場の炎を見たのは、まだ幼い頃だった。
赤く焼けた鉄へ鎚が振り下ろされるたびに火花が飛ぶ。ただの黒い塊だったものが、炎に焼かれ、叩かれ、削られ、やがて一本の剣へと姿を変えていく。
幼いバランには、それが魔法よりも美しく見えた。
やがて家を飛び出し、鍛冶師の工房へ弟子入りした。それから百年以上、ひたすら鉄を打ち続けた。
才能はあった。だが、それ以上に努力した。
昨日より今日。今日より明日。一本でも良いものを作りたい。ただそれだけで、何度失敗しても鎚を振った。満足できず、自分で折った剣も数え切れない。
気が付けば、バランの名はシルヴァニア豊穣公国でも広く知られるようになっていた。王侯貴族から依頼が届き、名のある戦士が剣を求め、ついには神へ献上する剣すら任されるほどの剣匠となった。
それでも、バラン自身は変わらなかった。
金を積まれても、気に入らない仕事なら断る。相手が貴族であろうと頭を下げず、逆に自分が面白いと思えば、大した金にならない仕事でも嬉々として鎚を振った。
バランにとって、作品は商品ではない。
魂を込めて作るものだった。
そんな男にも、やがて妻ができた。
頑固で、愛想がなく、仕事となれば何日も工房へ籠もる夫を、妻は呆れながらも笑って見ていた。
「また飯も食わずに鉄を叩いてたのかい?」
「あと少しだったんじゃ」
「昨日も聞いたよ、それ」
「昨日とは違う」
「はいはい」
鉄を打つ。妻に怒られる。また鉄を打つ。帰れば妻がいる。
そんな生活が、いつまでも続くものだと思っていた。
だが、ある日、妻が倒れた。
診断されたのは、魔鉱病と呼ばれる難病だった。鉱山や鍛冶場の近くで暮らす者に発症することが多く、特に魔力の強い者ほど重症化しやすいとされている。
分かっているのは、それだけだった。
なぜ発症するのか。なぜ魔力の流れが乱れ、身体を蝕んでいくのか。その原因は、まだ誰にも分かっていない。
高位の神聖魔法を受ければ、身体を一時的に正常な状態へ戻すことはできた。しかし時間が経てば、また同じ症状が現れる。
治療というより、延命だった。
そして、それには莫大な金が必要だった。
その頃、アイゼルを治める公爵――ブーサ・ヴェルド・イークがバランの工房を訪れた。
ブーサは以前から、バランへ一振りの剣を依頼していた。戦うためではない。使うためでもない。自らの屋敷へ飾るための、ただ美しいだけの剣。
黄金を使い、宝石を散りばめ、誰もが目を奪われるようなものを作れと求めていた。
バランは、その依頼を一度断っている。
「使いもしない剣を打って、何になる」
「美しいものを作れと言っているのだ」
「剣は使うためのものじゃ。斬るために形があり、受けるために強さがある。その果てに美しさが宿る」
バランは鼻を鳴らした。
「飾るためだけの剣なんぞに、魂は宿らん。わしは作らん」
だが、今は事情が違った。
ブーサは妻の病を知っていた。
「剣を打て、バラン。私の求めるものを作れば、妻君に必要な治療はすべて私が用意しよう」
バランは、すぐには答えられなかった。
金が必要だった。今まで断ってきた仕事を一つ受けるだけで、妻を少しでも長く生かせるかもしれない。
自分の信念など、妻の命に比べればどうでもいい。
そう思った。
その日の夜、バランは妻へ話した。
「……仕事を受けようと思う」
「そうかい」
「金になる。お前の治療も続けられる」
妻はベッドの上から、じっと夫の顔を見つめた。
「何しけた顔してるの」
「……何?」
「そんな顔で鉄を打つつもりかい?」
バランは答えなかった。
「仕方ないじゃろ。お前の命が――」
「仕方なくなんかないさ」
妻は静かに遮ると、少しだけ照れたように笑った。
「……恥ずかしいから、今まで言わなかったけどね。アタシがあんたに惚れたの、いつだと思う?」
「……知らん」
「初めて会った時さ」
バランが目を見開く。
「一目惚れだったんだよ」
「……は?」
「信じられないって顔するんじゃないよ」
妻はくすりと笑った。
「あの時のあんた、鉄を打ってた。真っ赤な鉄を前にして、子供みたいな顔で笑ってたんだよ。昨日より良いものを作れる。次はもっと良いものが作れる。そんなことしか頭にないような顔でさ」
バランは何も言えなかった。
「その顔を見てね。ああ、この人の隣にいたいって思っちまった」
弱った手が、そっとバランの頬へ触れる。
「だからね。アタシは、鉄を打ってる時のあんたの笑顔が好きなんだよ」
「じゃが――」
「アタシのためだからって、嫌々鉄を打つあんたなんか見たくない。鉄を前にして、純粋に笑えないあんたの顔なんて――アタシが好きになった男じゃないよ」
「……お前は」
「何さ」
「死ぬかもしれんのじゃぞ」
「知ってるよ」
妻は、それでも笑った。
「だからって、あんたまで死んだような顔する必要はないだろ?」
バランは俯いた。
「何しけた顔してるの」
もう一度。今度は優しく、妻は言った。
「アタシはね、あんたが好きな仕事をしてる時の笑顔が、一番好きなんだよ」
バランは何も言えなかった。ただ、頬に触れる妻の手へ、自分の手を重ねた。
そして、再びブーサの依頼を断った。
「気が変わったかと思ったが?」
「変わらん」
「妻君の治療費が必要なのだろう?」
「必要じゃ」
「なら――」
「それでも、作らん」
バランは真っ直ぐにブーサを見た。
「表だけ取り繕って、見せかけだけの剣を美しいとは思えん。そんなものは――醜悪じゃ」
その瞬間、ブーサの表情が変わった。
「……今、なんと言った?」
「剣の話じゃ」
「もういい」
静かな声だった。
だが、その目だけは笑っていなかった。
やがて、妻は亡くなった。
バランは泣いた。
それでも槌は置かなかった。妻が好きだと言った自分まで捨てることだけは、できなかったからだ。
だが、それから少しずつ仕事が減っていった。
いつも依頼を持ってきていた商人が来なくなり、馴染みの取引先から素材が届かなくなった。かつてバランに依頼を断られた好事家達も、いつしかブーサに同調するようになっていた。
もともと、アイゼルそのものも変わり始めていた。
戦うための武器より、飾るための武器。機能より、見栄え。
昔ながらの仕事を続けるバランのような職人達は、少しずつ中心街から外れ、郊外へ追いやられていった。
そんな頃だった。
「親父」
工房へ、久しぶりに息子が帰ってきた。その隣には妻。そして、小さな少女の手を引いていた。
「……何しに来た」
「何しにって。親父、仕事なくて困ってるんだろ?」
「余計な世話じゃ」
「そう言うと思ったよ」
息子は笑った。
彼は鍛冶師にはならなかった。その代わり、小さいながら自分の商会を持っていた。
「親父は鉄のことは分かるけど、商売のことは何にも分かってねぇからな」
「帰れ」
「断る」
息子夫婦は、そのままバランの仕事を手伝い始めた。
扱ったのは、バランの作品だけではない。装飾品ばかりが求められるようになったアイゼルで、同じように仕事を失いつつあった昔気質の職人達の品も集めた。
よく切れる包丁。壊れにくい農具。丈夫な鎧。
飾り気はなくても、確かな仕事がされた品々。
必要としている者へ届ければ、売れた。
大きな商会ではなかった。だが、堅実な商売を続けるうちに信用は積み重なり、少しずつではあるが確かな地盤ができ始めた。
やがて、一つの大きな依頼が舞い込む。
豊穣神ラクシュへ献上するための剣。
それをバランに打ってほしいという依頼だった。
「……神に捧げる剣か」
久しぶりに、バランの目に火が灯った。
半端な鉄では打てない。最高の鉱石が必要だった。
だが、必要な鉱石がどこへ行っても手に入らなかった。
買い占められていた。
誰がやったのか、証拠などない。
だが、バランには見当がついていた。
それでも息子夫婦は諦めなかった。
「三国方面なら、まだ手が回ってない」
「馬鹿を言うな。今は山が荒れる時期じゃ」
「でも、このままじゃ間に合わないだろ?」
「依頼なんぞ断ればいい」
「親父がそれで納得できるならな」
バランは、何も言えなかった。
小さな商会だった。遠方からまとまった量の鉱石を仕入れるなら、話をまとめられる息子夫婦自身が行くしかない。
二人は山を越えた。
そして、帰ってこなかった。
嵐だった。
荒れた山道で馬車が滑り、そのまま崖から落ちた。見つかった時には、もう手遅れだった。
素材は届かなかった。
剣は完成しなかった。
ラクシュへ献上するはずだった剣を、バランは納期までに打ち上げることができなかった。
事情を知る者は同情した。それでも、失われた信用まで元に戻るわけではない。
神へ献上する剣すら完成させられなかった。
その事実だけが残った。
そして、息子夫婦が中心となって動かしていた小さな商会も、二人を失えば続けることはできなかった。ようやく作り上げた販路は消え、バランだけではなく、そこへ品を卸していた職人達も再び仕事を失っていった。
バランの元に残されたのは、留守番をしていた孫娘――ミンメイだけだった。
それでも、バランは槌を置かなかった。
仕事は少なかった。かつて神への献上剣を任された男とは思えないほど、暮らしも慎ましくなっていた。
だが、ミンメイがいる。
この子を育てなければならない。
そのために鉄を打った。
「おじいちゃん、ご飯できたよ」
「今行く」
「昨日もそう言って、一時間来なかったよ」
「今日は行く」
「本当?」
「……多分」
「もう!」
そんな生活が続いた。
それだけで良かった。
だが、ある日、ミンメイが倒れた。
診断された病名を聞いた瞬間、バランは言葉を失った。
魔鉱病。
妻と同じ病だった。
妻の時に知っている。
どれほど金を積めば、どれほど時間を稼げるのか。高位の神聖魔法を受ければ、一時的には元気になることも。
そして、結局は治らなかったことも。
蓄えは多少残っていた。
だが、それで何ができる。
また一時的に症状を抑えるだけ。その先には、妻と同じ結末が待っている。
バランの工房から、少しずつ槌の音が消えていった。
◇
「久しいな、バラン」
ある日、工房を訪れた男を見て、バランは顔をしかめた。
ブーサ・ヴェルド・イーク。
アイゼルを治める公爵。
歳月が流れても、その顔を見るだけで嫌な記憶が蘇る。
「……何しに来た」
「話をしに来ただけだ」
「帰れ」
「相変わらずだな」
ブーサは気にした様子もなく、屋敷の奥へ視線を向けた。
「聞いたぞ。孫娘が魔鉱病だそうだな」
バランの眉が動く。
「……何が言いたい」
「昔と同じ話だ」
ブーサは静かに笑った。
「私のために剣を打て」
「断る」
「最後まで聞け」
「聞く必要はない」
「孫娘に、最高の治療を受けさせてやる」
バランの手が僅かに震えた。
「金はいくら掛かっても構わない。高位の神聖魔法を定期的に受けさせれば、少なくとも今より長く生きられる」
「…………」
「今回は、よく考えることだ」
ブーサはそれ以上、答えを求めなかった。ただ、去り際に足を止める。
「妻君の時とは違う選択をしても、誰もお前を責めはしない」
そう言い残し、工房を後にした。
扉が閉じる。
静寂だけが残った。
バランはしばらく動かなかった。
やがて、ミンメイの眠る部屋へ視線を向ける。今日も体調が悪く、ほとんどベッドから起き上がれていない。
バランは何も言わず、一人で工房へ入った。
長い間、火の入っていなかった炉に炭を入れる。火を起こし、風を送り込めば、やがて懐かしい熱が戻ってきた。
鉄を入れる。
十分に熱したところで取り出し、金床へ置く。
何万回と繰り返してきた動作だった。
バランは鎚を握り、振り上げる。
「…………」
そこから先へ、腕が動かなかった。
力がないわけではない。
鎚が重いわけでもない。
何を作る。
何のために打つ。
それが、何も浮かばなかった。
かつては炎を見るだけで胸が躍った。一本の剣を見れば、もっと良いものを作りたいと思った。
昨日より良い一本を。
今日より優れた一本を。
それだけで、百年以上も鉄を打ち続けてきた。
だが今は、赤く焼けた鉄を前にしても心は何も動かなかった。
ゆっくりと腕を下ろす。
金床の上で、鉄だけが少しずつ赤い光を失っていく。
「……そうか」
誰に聞かせるでもなく、バランは呟いた。
その先を、口にはしなかった。
工房の火を落とす。
そして何事もなかったような顔で、ミンメイのいる部屋へ戻った。
自分がもう、鉄を打てなくなっていることを。
バランは、孫には伝えなかった。
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