悪の女王は落日に嗤う
数日後。
ローゼンバーグ王城。
謁見の間には、バルディア帝国から遣わされた使者の姿があった。
その表情は硬い。
当然だった。
彼が携えてきたのは、単なる外交文書ではない。
バルディア帝国とローゼンバーグ王国。
両国の戦を終わらせるための、正式な和平の申し入れだった。
玉座にはエミリア。
その傍らには、リンとセリアが控えている。
使者は深く頭を下げた。
「此度の両国間の戦について、我がバルディア帝国は和平を申し入れたく存じます」
「和平?」
エミリアが小さく首を傾げた。
「はい。その証として、前王の御代に帝国領となりました旧ローゼンバーグ領を返還いたします」
謁見の間に、僅かなざわめきが走った。
帝国が一度手にした領土を、自ら返す。
それだけでも異例のことだった。
「国境線を以前の位置へ戻し、今後、両国は互いの領土を侵さぬものとする。以上をもって、此度の戦を終結させたいとの意向にございます」
使者は再び頭を下げた。
その時。
「……戦争?」
ぽつり。
リンが呟いた。
使者が顔を上げる。
リンは本当に分からないという顔で、隣のセリアを見た。
「帝国との戦争って、北の砦の話?」
「私も、それだと思うのですが……」
セリアも首を傾げる。
「ですが、あちらは既に終わったのでしょう?」
「うん」
リンは少し考えた。
「じゃあ、和平って何?」
「……さあ?」
二人揃って使者を見る。
使者の表情が引きつった。
「……あの」
セリアが遠慮がちに尋ねる。
「もしかして、北の砦以外でも何かあったのですか?」
「…………」
使者は答えに詰まった。
何か。
そんな一言で済む話ではない。
帝国は五万もの兵を動かした。
北へ一万。
山岳路へ六千。
その後方には、三万を超える本隊まで控えていた。
皇子達を送り。
精鋭を送り。
帝国の威信を賭けた大侵攻だった。
それを。
王国最高幹部であるはずの彼女達が。
知らない。
「エミリア様?」
リンが玉座を見る。
「他にも帝国軍が来てたんですか?」
「来ていたわよ」
エミリアはあっさり答えた。
「山の方に」
「山?」
「聞いてないんだけど」
「私も聞いておりません」
「言ってないもの」
「何で!?」
思わず声を上げたリンに、エミリアは不思議そうな顔をした。
「だって」
「あなた達が出るほどのことでもなかったでしょう?」
「…………」
リンが黙った。
セリアも黙った。
そして。
帝国の使者も黙った。
五万もの兵を動かした侵攻。
その一角を担った精鋭六千。
それすら。
この女王にとっては、直属の最高幹部を動かすほどの出来事ではなかったらしい。
使者の背中を、冷たい汗が伝った。
だがエミリアは、既に興味を失ったように書面へ視線を戻していた。
「それで」
返還領土について記された箇所を、指先で軽く叩く。
「返すというのは、この旧領ね?」
「はい」
「返す、と言うのなら」
エミリアは使者を見る。
「もちろん、全部返してくれるのよね?」
「勿論でございます」
使者は即座に答えた。
「旧ローゼンバーグ領につきましては、その全域を返還いたします。それ以上の領土となりますと、改めて交渉が必要となりますが……」
「ああ」
エミリアは軽く手を振った。
「そこまでは望んでいないわ」
使者が僅かに安堵する。
「私は、奪われたものを返してほしいだけよ」
「……はい」
「土地も」
一拍。
「そこに暮らす人達の生活もね」
使者の表情が僅かに変わった。
エミリアは涼しげに続ける。
「安心しなさい」
「帝国領だった間も、きちんと行政が行き届いていて」
「道路も、水路も、農地も」
「そこに暮らす人達の生活も、きちんと守られていたというのなら――」
にこり。
「こちらから何か請求するつもりはないわ」
使者が小さく息を吐く。
「……行き届いていれば、ね?」
その息が止まった。
「もし、過剰な徴税をしていた」
エミリアが指を一本立てる。
「必要以上に物資を徴発していた」
もう一本。
「土地から得られる資源を帝国本土へ一方的に持ち出していた」
さらに一本。
「その上、道路や水路、農地まで荒れたまま放置していた」
使者の額に汗が浮かぶ。
「そんなことになっていたら」
エミリアは、さも当然のことのように言った。
「元へ戻すためのお金が必要でしょう?」
「……それは」
「復興に必要な費用くらいは、そちらで負担してくれるわよね?」
「…………」
使者は答えられない。
エミリアは不思議そうに首を傾げた。
「何かおかしいかしら?」
「……いえ」
「でしょう?」
満足そうに頷く。
「こちらでも調べさせるわ」
「きちんと統治していたのなら、何も心配する必要はないでしょう?」
「……仰る通りでございます」
その声は、先ほどより随分と弱くなっていた。
エミリアは書面を捲る。
「ああ、それから」
まだあるのか。
使者の顔に、一瞬だけそんな色が浮かんだ。
「王国内で見つかった、大量の武器と甲冑についてなのだけれど」
使者の肩が跳ねた。
「あれは……」
「あなた達の物なの?」
「……はい」
「へぇ」
エミリアは楽しそうに笑った。
「商人を装って」
「申告もせず」
「大量の武器や甲冑を、私の国へ持ち込んでいたのね?」
「…………」
「それって」
エミリアは頬へ指を当てる。
「密輸じゃない?」
使者は何も言えなかった。
「返してほしい?」
「可能であれば……返還をお願いしたく存じます」
「いいわよ?」
「……よろしいのですか?」
あまりにもあっさりした返答に、使者が目を瞬いた。
「欲しいなら、自分達で取りに来なさい」
「こちらから帝国まで運んであげる義理はないもの」
「勿論でございます」
「それと」
エミリアは楽しそうに続ける。
「関税は払ってもらうわ」
「……関税、でございますか?」
「当然でしょう?」
「本来、申告して持ち込むべき品だったのでしょう?」
「…………」
「しかも、あれだけ大量の軍用装備」
エミリアは微笑む。
「税率については、こちらで決めさせてもらって構わないわよね?」
使者の顔から血の気が引いた。
「何しろ、正規に申告すらされていない品なのだから」
「…………」
「まあ」
エミリアは少し考えるように頬へ手を添えた。
「どうしても返してほしいと言うのなら、だけれど」
「最近、農具を作るための鉄が少し足りないのよね」
使者が、嫌な予感に顔を上げた。
「そんな時に」
エミリアは涼しげに笑う。
「王国内で、誰の物とも知れない大量の鉄くずが見つかったそうなの」
「使者殿は」
「何かご存じかしら?」
「…………」
長い。
長い沈黙が流れた。
所有権を主張すれば。
密輸品として、高額な関税を支払って持ち帰ることになる。
知らないと言えば。
帝国の精鋭に用意された大量の武器と甲冑は。
その瞬間から、ただの鉄くずになる。
使者は目を閉じた。
「……存じ上げません」
「あら、そう」
エミリアは満足そうに頷いた。
「なら、農具に使ってしまっても問題ないわね」
「…………はい」
それ以外に。
何と答えればいいのだろう。
そして。
今度は使者の方から、おそるおそる口を開いた。
「それから……北方にて捕虜となりました我が国の騎兵達についてでございます」
「ああ」
エミリアが視線を向ける。
「あの者達の多くは、帝国貴族の家に連なる者達にございます」
「でしょうね」
「各家より身代金を支払わせますので、返還をお願いしたく存じます」
「ええ」
エミリアはあっさり頷いた。
「構わないわよ」
使者は今日初めて、心の底から安堵した。
「ただ」
安堵が一瞬で消えた。
「身代金を払えない者は、どうするの?」
「……は?」
「全員が全員、払えるわけではないでしょう?」
「それは……」
エミリアは少しだけ考えた。
そして。
「あら」
何か良いことを思いついたように笑う。
「そういう兵達は、私がもらってしまってもいいのかしら?」
「なっ……!」
使者が思わず顔を上げた。
エミリアは不思議そうに瞬きをする。
「何をそんなに驚いているの?」
「もらう、と申されましても……」
「丁度、返してもらう土地があるでしょう?」
書面を指先で叩く。
「道路を直す」
「水路を整える」
「農地を確認する」
「必要なら建物も直す」
「人手はいくらあっても困らないわ」
「まさか……」
「働いて返してもらうだけよ?」
使者が止まる。
「働いた分は、きちんと身代金から引いてあげるわ」
「払い終わったら帰って構わない」
「寝床も食事も用意するわよ」
エミリアは胸を張った。
「私は悪の女王だけれど」
「返せない借金を永遠に背負わせるほど、悪趣味ではないもの」
「…………」
使者は何とも言えない顔になった。
悪いのか。
良いのか。
もう判断がつかない。
横で聞いていたリンが、小さく呟く。
「……エミリア様」
「何よ?」
「興味なさそうだった割に、すごく取りますね」
「失礼ね」
エミリアは心外そうに眉を寄せた。
「返してもらっているだけよ」
「こちらが損をする理由なんて、どこにもないでしょう?」
「……まあ、そうなんだけど」
リンがセリアを見る。
セリアは困ったように微笑むしかなかった。
使者は、もはや必死に条件を書き留めている。
「これらにつきましては、一度帝国へ持ち帰り、改めて検討を――」
「ああ」
エミリアは軽く手を振った。
「別に今すぐ答えろなんて言っていないわよ」
「……よろしいので?」
「好きになさい」
「持ち帰って、好きなだけ相談すればいいわ」
あまりにも興味がなさそうだった。
使者は思わず彼女を見る。
領土。
補償。
武具。
捕虜。
帝国にとっては、一つ一つが国政を左右しかねない問題。
それを次々と突きつけておきながら。
本人は。
まるで、ちょっとした遊びを終えたような顔をしている。
エミリアは。
そんな使者の強張った表情を見て。
涼しげに笑った。
「あら?」
小さく首を傾げる。
「何か怖いことでもあったのかしら?」
「…………」
使者は答えなかった。
答えられるはずがなかった。
その時。
――ドォォォォン!!
王城のどこかで、大きな爆発音が響いた。
窓が僅かに震える。
「なっ!?」
使者だけが勢いよく振り返った。
だが。
誰も動かない。
リンも。
セリアも。
衛兵達も。
そして。
玉座のエミリアも。
何事もなかったかのようにしている。
「…………」
使者は恐る恐る前へ向き直った。
今のは。
何だったのだ。
いや。
聞かない方がいい。
何故か、そう思った。
「では……」
使者は気を取り直す。
「和平につきましては、これらの条件を帝国へ持ち帰り、改めて――」
「好きにしなさい」
エミリアは頬杖をついた。
「和平でも」
「停戦でも」
「あなた達がそうしたいのなら、そうすればいいわ」
「こちらから帝国へ何かする理由なんて、今のところないもの」
「では……」
使者の顔に、僅かな安堵が浮かぶ。
だが。
エミリアは楽しそうに笑った。
「その後」
「あなた達が何をするかも、好きになさい」
「またこちらへ来るというのなら――」
赤い瞳が。
使者を捉える。
そこに怒りはない。
殺意もない。
脅しですらない。
ただ。
純粋に。
楽しそうだった。
「その時は」
「また遊んであげるわ」
そして。
悪戯っぽく微笑む。
「悪の女王らしくね」
「…………」
使者は深く頭を下げた。
「帝国へ、そのようにお伝えいたします」
こうして。
バルディア帝国にとっては。
国の未来を左右する和平交渉が。
ローゼンバーグ王国にとっては。
返してもらえるものを確認するだけの話として。
あっさりと終わった。
使者が謁見の間を出ようとした、その時。
――ドンッ!
また。
王城のどこかで何かが爆発した。
使者の足が、一瞬だけ止まる。
だが。
今度は。
振り返らなかった。
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