禍津神の悪戯
太陽神との一件以来、ルミナは自分の内側に生まれた僅かなざわめきを持て余していた。
月と死と転生を司る禍津神。
人の生など瞬きほどの時間でしかなく、国の興亡すら、永い時の中で幾度となく繰り返されてきた光景に過ぎない。
興れば眺める。
栄えれば眺める。
争えば眺める。
滅びれば、それで終わり。
人間の一生も、国家の歴史も。
神であるルミナにとって、本来はそれほどのものだった。
なのに最近は、気がつけば一人の人間を追っている。
黒薔薇のエミリア。
何を始めるのか。
誰を使うのか。
次は、どんな物語を紡ぐのか。
あの女の続きを、つい見てしまう。
「……妙ね」
原因など考えるまでもない。
面白いからだ。
今まで見てきた人間とは、少し違う。
ただ、それだけ。
ルミナはそう結論づけた。
それ以上の意味など、あるはずもなかった。
◇
そんな折。
エミリアの周囲へ、帝国という名の虫がたかり始めた。
第2皇子バルカーボ。
随分と下らない男だった。
エミリアへ一方的な要求を送りつけ、自分の誘いへ従うのが当然だと思っている。
だが。
エミリアは、その虫が動き出すより以前から、帝国へいくつもの仕込みを済ませていた。
バルカーボの要求には応じない。
その結果として帝国の怒りを買い、向こうからローゼンバーグへ攻め込ませる。
そこまで含めて、あの女は自分の盤面を作っていた。
「…………」
ならば。
少しくらい、その盤面へ指を入れてやったら。
どんな顔をするのかしら。
ちょうど、エミリアお気に入りの三人も、バルカーボという虫へ随分と腹を立てていた。
クロエ。
リン。
セリア。
ならば、その怒りをほんの少し後押ししてやればいい。
ルミナは三人を帝国へ送り、バルカーボの部屋を外界の因果から切り離した。
死んで逃げることも。
狂って逃げることも。
忘れて逃げることも許さない。
好きなだけ神罰を執行できる舞台を用意してやった。
そして最後には、その日に味わった全てを、毎日同じ時刻に再演する祝福まで添えてやる。
肉体も精神も、一日の終わりには元へ戻す。
だから、永遠に壊れない。
ルミナにとっては砂粒一つほどの力。
神罰などと大仰な名をつけるのも可笑しいほどの、ほんの悪戯だった。
そして。
その悪戯は、確かにエミリアを少しだけ困らせた。
どうやらバルカーボを先に壊したことで、帝国側の駒が入れ替わったらしい。
帝国が怒り、ローゼンバーグへ攻めてくる。
そこまでは予定通り。
けれど。
誰が軍を動かし。
誰が率い。
どんな手で攻めてくるのか。
そこが変わった。
エミリアは少し考え、自分の計画を組み直した。
それだけだった。
怒りもしない。
ルミナへ文句を言いに来るでもない。
助けを求めるでもない。
盤上の駒が一つ変わったなら、それに合わせて次の手を置き直す。
まるで、それすら初めから想定していたかのように。
「…………」
随分と、可愛げのない女だこと。
私があなたの盤面へ、勝手に手を入れたというのに。
もう少しくらい、こちらを見てもいいのではなくて?
――かまえよ、このおんな。
「…………?」
ルミナの眉が僅かに動いた。
今、何か妙な雑音が混じった気がする。
何を考えていたのだったか。
まあ、どうでもいい。
◇
しばらくして。
今度は帝国の虫の一匹が、自らルミナへ声を掛けてきた。
第3皇子、グラゼル・バルディア。
バルカーボが神罰に震える部屋で、その男は神へ救いを求めたのではない。
ルミナへ、賭けを持ちかけた。
自らの人生を。
そして、自分が敗れたならば、バルディア帝国の未来まで。
賭け金として差し出す。
その上で、ルミナが寵愛するエミリアを手折り、自分の足元へ跪かせてみせると傲然と言い放った。
愚か。
本来なら、その一言で終わる。
だが。
少しだけ興味を引かれた。
だから、魂だけを自らの神域へ招いてやった。
神威に魂を軋ませながらも、グラゼルは膝をつかなかった。
人としては、多少見どころがあるらしい。
望みを問えば、返ってきた答えは不老不死。
永遠に帝国の皇帝として君臨する。
この大陸全てを、自らの正義の下へ置く。
あまりにも人間らしい、真っ直ぐな欲望だった。
ルミナは笑った。
そして、ふと思いつく。
エミリアは、自らを悪の女王と称している。
ならば。
その前へ、強大な正義の味方を置いてやったらどうなるのだろう。
死なない。
老いない。
倒されても、日付が変われば再び立ち上がる。
そんな男が正義を掲げ、悪の女王へ立ちはだかる。
困る?
苛立つ?
それとも。
喜ぶ?
「…………」
悪くない。
目の前の虫そのものには、たいして興味などない。
だが、虫でも役に立つのなら益虫というものだ。
「いいわ」
ルミナは微笑んだ。
「そんなものなら、今すぐ与えてあげる」
人間が幾千年と追い求めてきた不老不死。
それすら、ルミナにとっては砂を一握り与えるほどのこと。
勝ってから与える必要もない。
むしろ、先に渡した方が面白い。
今ある肉体と魂を、輪廻の始点として固定する。
毎日午前零時、その日の生を終え、始点の姿へ再び生まれ直す。
肉体が失われても。
死んでいても。
同じ。
そして記憶と意志だけは輪廻の外へ置く。
昨日までの全てを覚えたまま、何度でも、何度でも、同じ肉体で生き続ける。
さらに。
他の神の祝福を受けることも。
ルミナの加護を拒むことも許さない。
途中で嫌になったからと、逃げることすら出来ない。
ルミナは、それがどういう意味かまで、わざわざ忠告してやった。
「不死というものは、とても退屈よ?」
死ねない。
終われない。
逃げられない。
生きる意味を失っても、輪廻は続く。
それでもグラゼルは笑った。
不老不死を望む。
永遠に生きる。
永遠に帝国を支配する。
そう、迷いなく言い切った。
ならば。
好きにすればいい。
グラゼルはルミナの手を取った。
「我が女神よ!」
黒い月光が、その魂へ刻み込まれる。
契約成立。
「せいぜい、私を楽しませてちょうだい」
ルミナは楽しげに目を細めた。
「正義の皇子様」
けれど、その時既に。
ルミナの興味はグラゼル本人から外れていた。
――さて。
エミリア。
この虫を、あなたの舞台へ放したら。
どんな顔をするのかしら。
◇
そして。
帝国とローゼンバーグの戦いが始まった。
戦争。
人間達なら、そう呼ぶのだろう。
何万もの兵が動き、国と国が互いの存亡を賭ける。
敗れれば国が一つ滅びるかもしれない。
共に滅びることすらあるだろう。
「戦争……ね」
ルミナは僅かに口元を歪めた。
そんな大層なものではない。
少なくとも、自分にとっては。
今日も人間達が争っている。
ただ、それだけ。
国が一つ消えようが。
二つ消えようが。
人が何万人死のうが。
そんな出来事。
永い神の時間から見れば、幾度繰り返されたかも分からない、ありふれた一日に過ぎない。
今回だけ。
ルミナがわざわざそこへ目を向け、自ら悪戯まで仕込んだ理由はただ一つ。
そこに。
エミリアがいるから。
そして今回は、あえて全貌を知ろうとはしなかった。
見ようと思えば全て見える。
誰がどこに潜み。
どんな仕掛けを置き。
何を企んでいるのか。
神の目なら、答えを先に知ることなど容易い。
けれど。
そんなもの、つまらない。
エミリアが何を作ったのか。
その答えは、最後まで知らずに見たい。
「さあ」
ルミナは地上を見下ろす。
「見せてちょうだい、エミリア」
帝国には五万もの兵がいる。
人間としては十分すぎる戦力。
将もいる。
英雄もいる。
そして。
ルミナ自身が与えた、死ぬことのない正義の皇子までいる。
多少は困るだろう。
少しくらい、こちらを頼るかもしれない。
エミリアが一言。
帝国を薙ぎ払いなさい。
そう言えば、それで終わる。
国土の端から端まで神の力で薙ぎ払う程度、ルミナにとって難しいことではない。
エミリアも、それを知っている。
なのに。
頼まない。
何故なら、あの女にとって勝つことなど最初から当たり前だから。
必要な手を打ち、勝つ。
そんなものは結果でしかない。
面白くしたいのは、そこへ至る過程。
だから。
ルミナへ頼めば一瞬で終わることを、わざわざ自分で何手も、何十手も使って進めていく。
「…………」
戦いが進むにつれて、ルミナの目が僅かに細くなった。
「役者が違うわね」
帝国が弱いわけではない。
人間の尺度なら、むしろ十分に強い。
だが。
北へ送った一万。
山へ向かった六千。
後ろに控える三万四千。
どの駒も、エミリアへ届かない。
あの女自身は、まだ表舞台にすら立っていないというのに。
「これでは、困ることすらないじゃない」
ルミナは頬杖をついた。
まして、自分へ頼る理由などどこにもない。
「…………」
また。
胸の奥に、あのざわめきが生まれた。
私なら一瞬なのに。
一言、命じればいいだけなのに。
それなのに。
あの女は、こちらを見ようともせず、楽しそうに自分の物語を紡いでいる。
――かまえよ、このおんな。
「…………?」
また。
雑音。
最近、随分と頻繁になったものね。
◇
それでも。
まだ一つ、楽しみが残っていた。
グラゼル。
死ぬことのない正義の皇子。
ようやくエミリアの前へ出る。
そして。
死んだ。
胸を穿たれ、本当に一度死んだ。
数分後。
午前零時。
ルミナが与えた輪廻が、グラゼルを再び生へ戻す。
その瞬間。
ルミナは、エミリアの感情がほんの僅かに揺れたのを感じた。
「…………」
表情には、ほとんど出ていない。
精々、意外そうに。
「へぇ……そうなの?」
と返した程度。
だが。
ルミナには分かった。
驚き。
そして。
歓喜。
悪の女王へ立ちはだかる、死ぬことのない不死身の正義の味方。
エミリアは。
それを面白いと思った。
「……ふふ」
ルミナの口元が自然と緩んだ。
自分が用意したものを、エミリアが気に入った。
ただ、それだけ。
それだけのことなのに。
妙に気分がいい。
「さあ」
ルミナの期待が少しだけ高まる。
「どうするのかしら」
不死身。
倒しても、次の日には蘇る。
悪の女王に立ちはだかる、強大な正義の皇子。
きっと、面白いことになる。
そう。
思った。
のに。
「…………」
グラゼルが震えていた。
一度。
死んだ。
ただ、それだけ。
死の記憶を思い出し、息を乱し、エミリアを前に後ずさる。
「……は?」
ルミナの笑みが消えた。
一度。
たった一度、死んだだけ。
それなのに。
もう心が折れ始めている。
「…………」
だから言ったではないか。
死ねないこと。
終われないこと。
逃げられないこと。
それが不死なのだと。
神である自分が、わざわざ忠告してやったというのに。
それでも欲しいと。
永遠に生きるのだと。
あれほど傲然と言い放ったくせに。
「……つまらないわね」
ルミナの声から興味が消えた。
結局。
虫は。
虫だった。
そして。
先ほどまで、エミリアが僅かに喜んでいたことを思い出すと。
何故か、それまで以上にグラゼルがつまらないものに見えた。
せっかく。
あの女が面白そうにしていたというのに。
「…………」
何故そこが、こんなにも引っ掛かるのか。
ルミナは考えなかった。
◇
その時。
エミリアが動いた。
壊れかけたグラゼルへ、何事もなかったように近づいていく。
「……?」
ルミナが僅かに目を細める。
そしてエミリアは、自分が与えた祝福の一つ。
《魅了》を。
初めて、意識して使った。
「…………」
普段ならば。
グラゼルほどの自我を持つ者へ、あれほど綺麗に通るものではない。
だが。
今は違う。
敗北。
死。
恐怖。
絶望。
誇りの崩壊。
強固だった心に、ほんの僅かな綻びが出来ている。
そしてエミリアは、そこへ抜け道を潜るように魅了を通した。
「…………」
ルミナの目が僅かに見開かれる。
分かって。
やったのかしら。
エミリアは、自分へ与えられた祝福の全てを詳しく知っているわけではない。
それなのに。
最も通りやすい瞬間へ、何の迷いもなく力を滑り込ませた。
偶然?
それとも。
あの女は、そこまで読んでいた?
分からない。
それが。
面白い。
そして。
もっと面白かったのは、その後だった。
ルミナが与えた不死。
エミリアを少しは困らせようと用意した、死ぬことのない正義の味方。
それがいつの間にか、グラゼル自身を閉じ込める檻になっていた。
死ぬ。
蘇る。
死の記憶は残る。
そして永遠に、その輪廻から逃げられない。
エミリアは。
ルミナの祝福を消そうともしない。
破ろうともしない。
ただ。
そのまま利用した。
自分が与えた檻へ。
自分が与えた魅了を通し。
次の瞬間には。
あれほど帰還を拒絶していたグラゼルが、エミリアとの再会を夢見て嬉々として帝国へ帰ろうとしている。
最高のスイーツを、自らの手で作るために。
「…………」
ルミナは、しばらく言葉を失った。
困らせようとした。
困らなかった。
頼らせようとした。
頼らなかった。
強大な正義の味方を用意した。
エミリアは、一瞬喜んだ。
その男が期待外れだと分かれば。
今度は、自分が与えた祝福ごと別の結末へ組み替えてしまった。
まるで。
全てが最初から、そうなると決まっていたかのように。
自分の期待を。
全て裏切る。
そして。
自分の期待を。
全て上回る。
「……ふ」
ルミナの唇から、小さな笑いが漏れた。
「ふふ……」
気付けば笑っていた。
胸の奥に溜まっていた、あの得体の知れないざわめき。
それが今は、妙に心地よい。
次は何をする。
次は何を見せる。
次は、自分の予想をどう裏切る。
「エミリア……」
ルミナは静かに、その名を口にした。
初めは、ただの玩具だった。
次は、少し変わった面白い人間。
そして。
今は。
「…………」
何なのかしらね。
まだ分からない。
分からないままで構わない。
ただ。
もっと見たい。
もっと、自分の期待を裏切ってほしい。
もっと、自分の想像を超えてほしい。
「いいわ」
禍津神は愉しげに微笑んだ。
「もっと私を楽しませなさい、エミリア」
その声には。
ほんの僅か。
本人すらまだ気付いていない何かが混じっていた。
国が一つ滅びることより。
何万もの命が失われることより。
今のルミナにとって。
たった一人の女が、次にどんな物語を紡ぐのか。
その方が。
遥かに興味深かった。
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