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愚者たちに捧げる終曲 後半

「あら」


エミリアは、レグナスに押さえ込まれながら震えるグラゼルを見下ろした。


「正義の味方様、もう壊れちゃったのかしら」


そこにあったのは、嘲笑というより純粋な落胆だった。


「ここは信念を燃やして、『これで勝ったと思うなよ!』くらい言ってくれたら面白かったのに」


「……負けてない」


掠れた声が漏れる。


「俺は……負けてない……」


エミリアは少しだけ待った。


だが、それ以上の言葉は出てこない。


すると。


ふっと。


エミリアの表情が消えた。


怒りも。


嘲りも。


先ほどまで浮かべていた悪戯っぽい笑みすらない。


「……もういいわ」


グラゼルから視線を外す。


「帰ってもいいわよ」


あまりにも、あっさりとした言葉だった。


「あなた達には、もう興味ないもの」


「……違う」


グラゼルが顔を上げた。


「俺は……負けてない……!」


レグナスが腕を掴む。


「グラゼル。行くぞ」


「離せ!」


「終わったんだ」


「終わってない!」


再び暴れようとする。


「俺は負けてない! 負けてない!」


先ほどまで死を恐れて泣き叫び。


今度は敗北そのものを認めまいと、子供のように足を踏ん張る。


エミリアの眉が寄った。


「……幕引きまで汚すなんて」


心底呆れたように、小さく息を吐く。


「演者として、三流以下ね」


だが。


次の瞬間。


エミリアの紫の瞳が、僅かに輝いた。


「……そうだわ」


レグナスが、その変化を見逃さなかった。


「何だ」


「王子様が、演奏を捧げた王女へ再会の約束をして退場する」


エミリアは胸の前で手を合わせる。


「美談じゃない?」


「……何をするつもりだ」


レグナスの声が低くなる。


エミリアは答えない。


そのまま、グラゼルへ向かって歩き出した。


その瞬間。


レグナスの【感】が、再び警鐘を鳴らす。


「待て」


エミリアは止まらない。


「エミリア」


「大丈夫よ」


「何が大丈夫なんだ」


それでも。


レグナスは剣を抜かなかった。


先ほどと同じ。


理由は分からない。


だが、この少女へ不用意に刃を向けるべきではない。


それだけは分かる。


エミリアはグラゼルの前で足を止めた。


「王子様」


「…………」


「私の目を見なさい」


俯いていたグラゼルが、ゆっくりと顔を上げる。


紫の瞳と。


グラゼルの視線が重なった。


「再会の約束をしましょう」


「……再会?」


「ええ」


エミリアは少しだけ身を屈めた。


そして。


甘く囁くように告げる。


「次に私と会う時は――」


悪戯っぽく笑う。


「あなた自身が作った、とーーっても美味しいスイーツで、私を歓迎しなさい」


「……俺が?」


「そうよ」


「自分で……作る?」


「もちろん」


エミリアは満足そうに頷いた。


「それが出来たら、もう一度会ってあげる」


「…………」


グラゼルは、ただエミリアを見つめていた。


一秒。


二秒。


そして。


その表情が。


ぱっと輝いた。


「……作る」


「うん?」


「作るぞ!」


声が弾んだ。


つい先ほどまで、死の恐怖に震えていた男とは思えない。


「俺が作る! 必ず!」


「ええ」


「誰にも任せん! 俺自身の手で、とびきり美味いものを作ってみせる!」


「楽しみにしているわ」


「そうか……!」


グラゼルの顔に、歓喜が浮かんだ。


「ならば、こんな所にいる場合ではない!」


勢いよく立ち上がろうとして、押さえていたレグナスが思わず手を緩める。


「……おい?」


「帰るぞ!」


「は?」


「帝国へ戻る!」


先ほどまで帰ることを拒んでいたとは思えない勢いだった。


「菓子の作り方を覚えなければならん! 材料も必要だ! まずは基礎からだな!」


既に。


頭の中は。


敗北でも。


失われた軍でも。


自分が一度死んだことでもなかった。


次にエミリアと会う時。


自分自身の手で作った最高の菓子を並べる。


ただ、それだけで満たされている。


エミリアは、そんなグラゼルを眺めながら、自分の手へ視線を落とした。


「……へぇ」


少し感心したように呟く。


「初めて使ってみたけれど」


そして、嬉しそうに笑った。


「魅了、ちゃんと効くのね」


ルミが、何とも言えない顔をした。


「……エミリア様」


「何よ」


「私がお与えした加護のひとつ――《魅了》を、初めて使った理由が……」


嬉々として帰る準備を始めるグラゼルを見る。


「王子様にお菓子作りをさせるためですか?」


「いいじゃない」


エミリアは胸を張る。


「手作りは大事よ」


「そういう問題ではないのですが……」


ルミは、小さく溜息を吐いた。





「……魅了」


ロギウスが呟いた。


「それが、貴女が女神から授かった祝福なのか」


「そうだけど?」


エミリアは何でもないことのように答えた。


ロギウスは黙り込む。


魅了。


確かに恐ろしい力だ。


だが。


それだけなら。


少しだけ、納得出来る気もした。


この女には、軍勢を真正面から吹き飛ばすような力がない。


だからこそ。


人を潜ませ。


情報を集め。


道を用意し。


補給を乱し。


心理を誘導し。


これほどまでに複雑な策を張り巡らせた。


力に頼れないから。


知恵を使った。


そう考えかけた時だった。


「……もしかして」


ルミが、ロギウスを見る。


「エミリア様の魅了を、随分と小さな力だと思っています?」


「……何?」


「今」


ルミは首を傾げた。


「だからこんな回りくどいことをしたんだ、みたいな顔をしていましたよ?」


ロギウスの表情が固まる。


「……違うのか」


「ええ」


ルミは、さらりと言った。


「最初から魅了で片付けるおつもりでしたら――」


一拍。


「今回の帝国侵攻くらい、エミリア様お一人でも止められましたよ?」


「…………は?」


ロギウスの思考が止まった。


「それは……どういう……」


「そのままの意味です」


ルミは、それ以上説明しなかった。


どうやって。


どこまで。


何人に。


何が出来るのか。


何一つ。


エミリアも、特に気にした様子はない。


ロギウスだけが、ゆっくりとエミリアを見る。


ならば。


この女は。


策を使わなければ勝てなかったのではない。


他にも。


もっと簡単な方法があった。


その上で。


わざわざ、これを選んだ。


「……なら」


声が震えた。


「なら何故、こんな回りくどいことをした!」


偽りのゼルク。


狩人。


伝令。


補給。


無線。


蟲。


山中へ散らされた、正体すら分からない者達。


どれだけの準備をした。


どれだけの手間を掛けた。


それが。


必要なかった?


エミリアは、本当に不思議そうに首を傾げた。


「そんなの決まってるじゃない」


「……何?」


「魅了して終わりなんて」


小さく鼻で笑う。


「面白くないもの」


「…………」


そして。


三日月のような悪い笑みを浮かべた。


「それに、さっき言ったでしょう?」


「その方が――」


「悪として美しいじゃない」


ロギウスは、何も言えなかった。


また。


間違えた。


理解したと思った。


理解出来るものだと思った。


だが。


違った。


この女は。


力がないから策を使うのではない。


使えるものを並べ。


その中から。


自分が最も美しいと思う勝ち方を選んでいる。


――敵わない。


もう。


何度目かも分からない。


だが。


今度こそ。


それは確信になった。


この女には。


逆らってはいけない。





「さて」


エミリアが軽く手を叩いた。


「今度こそ終わりね」


ロギウスが、僅かに身構える。


もはや。


この少女が口を開く度に、新しい何かが出てくる気がする。


「もう帰っていいわよ」


「……本当に?」


「さっきからそう言っているでしょう?」


エミリアは呆れたように答えた。


「戦争は終わったもの」


オルディンが一歩前へ出る。


「……我々を捕虜とはしないのですか」


「必要ないわ」


あっさりとした返事だった。


オルディンは、しばらくエミリアを見つめ。


深く頭を下げる。


「……感謝します」


「別に、あなた達のためじゃないわよ」


エミリアは肩を竦めた。


それから。


「あ」


何かを思い出したように声を上げる。


ロギウスの肩が、びくりと跳ねた。


「……まだ何かあるのか」


「帰り道よ」


エミリアは北を指差す。


「北の砦を通っていいわ」


「……砦を?」


「ええ。また山の中を戻るのは大変でしょう?」


まるで、旅人へ近道でも教えるような口調だった。


「こちらから話は通しておくわ」


「そうか!」


真っ先に反応したのはグラゼルだった。


「ならば急ぐぞ!」


「…………」


レグナスが横目で見る。


「お前……」


「何をしている、レグナス! 時間が惜しい!」


「…………」


「帝都へ戻ったら、まず菓子職人を探さねばならん。いや、俺が作るのだから厨房も必要だな……」


既に。


完全に別の方向を向いている。


「それから――」


エミリアが続けた。


ロギウスが、また身構える。


「関税」


「……関税?」


「ええ」


エミリアは、今の帝国兵達を眺めた。


泥にまみれ。


装備を失い。


水も食料もほとんど残っていない。


「でも、今のあなた達」


口元へ手を当てる。


「払えそうにないわね」


「…………」


「仕方ないから」


にっこりと笑う。


「先に届けてもらった、あなた達の武器や防具は預かっておくわね」


ロギウスの顔が強張った。


オルディンも、僅かに目を見開く。


黒鉄重装兵団。


彼らへ完全装備を与えるため。


商人に偽装し、事前に王国内へ運び込んでいた大量の武具。


「……あれを」


「商人を装って」


エミリアは指を一本立てる。


「申告もせずに」


もう一本。


「大量の武器を」


さらに一本。


「私の国へ持ち込んだのよ?」


そして。


悪びれる様子もなく笑った。


「密輸品として徴収しただけだわ」


「…………」


誰も反論出来なかった。


事実だった。


「安心して?」


エミリアは優しく微笑む。


「取りに来たら、返してあげる」


帝国兵達の何人かが。


露骨に顔を引き攣らせた。


もう一度。


この国へ来る。


その光景を想像しただけで。


身体が拒絶する。


「まあいいわ」


エミリアは小さく手を振った。


「それじゃあ、気をつけて帰りなさい」


それが。


第一次帝国侵攻に対する。


ローゼンバーグ女王からの、最後の言葉だった。


「待て!」


だが。


グラゼルが声を上げた。


エミリアが振り返る。


「何?」


グラゼルは、嬉しそうに。


それでいて、どこか誇らしげに胸を張った。


「待っていろ、エミリア!」


「…………」


「たとえ永遠の時がかかろうとも――」


力強く、自分の胸へ拳を当てる。


「必ず、お前のための最高のスイーツを、この手で作り上げてみせる!」


一瞬。


誰も言葉を発さなかった。


エミリアだけが、満足そうに笑う。


「ええ」


軽く手を振った。


「楽しみにしているわ、王子様」


グラゼルも、満面の笑みで頷いた。


誰も。


その言葉を笑えなかった。


何故なら。


彼には本当に。


永遠と呼べるほどの時間があるのだから。





オルディンは、すぐに動いた。


「歩ける者は負傷者を支えろ。水は分け合え。不要な荷は捨てろ」


残った帝国兵達へ、矢継ぎ早に指示を飛ばす。


勝つためではない。


戦うためでもない。


生きて帰るための命令。


「隊列は崩れて構わん。ただし、一人になるな」


「はい!」


疲れ切った兵達が、弱々しく答える。


百余り。


山を抜けた兵達。


その姿に、帝国最精鋭の面影はほとんど残っていなかった。


それでも。


帰れる。


故郷へ。


帝国へ。


その一点だけが、彼らの足を動かした。


ただ一人。


グラゼルだけは違った。


「急ぐぞ!」


妙に明るい。


「菓子とは、どこから学べばいいのだろうな。焼き菓子か? 生菓子か?」


「グラゼル」


レグナスが疲れた声を出す。


「少し黙れ」


「何故だ?」


「いいから黙れ」


「妙な奴だな」


グラゼルは首を傾げる。


だが、すぐに。


「エミリアは、どんな甘味を好むのだろうな……」


再び考え込み始めた。


レグナスは、もう何も言わなかった。


ロギウスも。


兄を見ることが出来なかった。


あれほど敗北を認めることを拒んでいた男が。


今は一刻も早く帝国へ戻ることだけを望んでいる。


エミリアとの再会を夢見て。


嬉しそうに。


歩いている。


それもまた。


ロギウスには酷く恐ろしく見えた。





帝国兵達は北へ向かった。


王国兵が一定の距離を保ちながら、彼らを誘導する。


村へ入ることはない。


街を通ることもない。


誰かに敗残兵として晒されることもなかった。


ただ。


帰るための道だけが用意されていた。


やがて。


北の砦が見えてくる。


帝国軍が、一万を差し向けた場所。


だが。


砦は立っていた。


焼け落ちてもいない。


壁が崩れ落ちてもいない。


遠目に見れば、ここで一万もの軍勢が攻撃を仕掛けたことすら疑いたくなるほどだった。


帝国兵達の間に、ざわめきが走る。


「……ここを」


「本当に、一万で攻めたのか……?」


答える者はいない。


やがて。


砦の門が近づく。


その前には。


三人の女が立っていた。


一人は。


巨大な漆黒の十字架を抱えた、静かな女。


一人は。


双剣を腰に佩いた、凛とした女騎士。


そして。


年若い少女の姿をした、小柄な女。


三人とも。


戦場に立つ者とは思えないほど、美しい。


その中から。


双剣を佩いた女――ベルンが、一歩前へ出た。


「エミリア様より話は伺っている」


落ち着いた声。


立ち姿も、言葉遣いも。


騎士そのものだった。


「諸君らの通行は許可されている。このまま砦を抜け、帝国へ戻るといい」


それから。


疲れ切った帝国兵達を眺める。


僅かに、口元が緩んだ。


「随分と酷い有様だな」


責めるでも。


嘲るでもない。


何度も戦場を経験してきた先輩騎士が、無茶をした後輩を見るような声音だった。


「ここまで辿り着いたのだ。今は大人しく帰ることだ」


「ベルン」


小柄な少女――クルドが横から顔を出した。


「もう通していいんだろ? こいつら、早く帰りたそうだぞ」


「クルド。急かすものではない」


「でもさー」


その隣。


巨大な漆黒の十字架を抱えた女――ウルが、一度だけ帝国兵達を見る。


「……通れ」


それだけだった。


クルドが笑う。


「ほら! ウルもそう言ってる!」


ベルンは小さく息を吐いた。


「まったく……」


どこにでもいそうな。


仲の良い三人。


そう見えても、おかしくない。


だが。


レグナスだけは。


足を止めていた。


「…………」


胸の奥で。


【感】が。


けたたましく警鐘を鳴らしている。


山中で、自分達を惑わせた女達。


偽りのゼルク。


狩人。


伝令。


あの者達も、イミタートだった。


常人では到底及ばない技を持ち。


自分達を散々弄んだ者達。


だが。


違う。


レグナスには分かった。


目の前の三人は。


あの者達とは。


力の質が違う。


何かを見せられたわけではない。


殺気もない。


構えてすらいない。


それでも。


もし。


ここで剣を抜いたら。


もし。


この三人と対峙したら。


頭に浮かぶ光景は。


ただ一つだった。


自分が。


死ぬ。


勝ち筋が浮かばない。


どの角度から斬り込んでも。


何を仕掛けても。


最後に見えるのは。


自分の死だけ。


戦場で磨き続けてきた【感】が。


全力で告げている。


――敵うはずがない。


レグナスの頬を、冷たい汗が流れた。


「……化け物じゃねぇか」


小さな呟きだった。


ベルンが、僅かに眉を上げる。


「何か言ったか?」


「……いや」


レグナスは視線を逸らした。


「何でもねぇ」


ベルンは少し不思議そうな顔をしたが。


それ以上は聞かなかった。


「では、行くといい」


三人は。


それだけで道を開けた。


誰一人。


剣も。


十字架も。


何も構えない。


なのに。


レグナスには。


その間を通り抜けるだけのことが。


巨大な獣の喉元を歩くように感じられた。





砦を抜け。


帝国側へ続く道を進んだ時だった。


レグナスが、ふと足を止めた。


「……おい」


道の脇。


そこに。


巨大な鎧が残されていた。


重厚な鎧。


胸部には、凄まじい力で叩き込まれたかのような大きなへこみが残っている。


そして。


その傍らには。


巨大な鎚。


「これは……」


ロギウスの顔が強張る。


レグナスの声が低くなった。


「オルグレンのだ」


間違えるはずがない。


千人殺し。


オルグレン。


その巨体を包んでいた鎧。


そして。


数多の兵を薙ぎ払ってきた大鎚。


それだけが。


静かに残されていた。


「……本人は?」


誰かが呟いた。


答える者はいない。


レグナスは。


先ほど見た三人の女を思い出した。


そして。


小さく舌打ちする。


聞く必要は。


ない気がした。


帝国兵達は、再び歩き出す。


そして。


更に先。


今度こそ。


全員の足が止まった。





月明かりの下。


山肌が。


異様な姿を晒していた。


抉れた大地。


焼け焦げた岩。


砕け散った巨石。


薙ぎ払われた木々。


そして。


山そのものを。


巨大な何かが走り抜けたかのような。


長い。


長い傷跡。


帝国兵達は。


その名を知らない。


その仕組みも。


ここで何が起きたのかも。


知らない。


ただ。


目の前に。


理解不能な破壊の痕跡だけが残されている。


「……一体」


一人の兵が。


掠れた声を漏らした。


「ここで……何が起きたんだ……」


誰も答えられなかった。


北へ送られた。


一万の帝国軍。


自分達が山で戦っている間。


ここでも。


何かが起きていた。


そして。


一万は敗れた。


なのに。


目の前の砦は。


ほとんど姿を変えることなく残っている。


ロギウスの顔から、血の気が引いていった。


山の六千だけではなかった。


北の一万も。


その後ろに控えていた三万四千も。


全て。


この国に止められた。


違う。


止められた。


そんな言葉でいいのかすら分からない。


帝国は。


五万もの軍勢を動かした。


ローゼンバーグへ。


戦争を持ち込むために。


だが。


結局。


戦争そのものを。


この国へ持ち込むことすら出来なかった。


レグナスは、山肌に残された巨大な傷跡を見つめた。


脳裏に浮かぶのは。


砦にいた三人。


そして。


道端に残されていた、オルグレンの鎧と大鎚。


「……あいつらか」


小さく呟く。


どうやったのかは分からない。


何が起きたのかも。


分からない。


だが。


あの三人なら。


そう思えてしまう。


それが。


何より恐ろしかった。


オルディンは、しばらく山肌を見つめ。


やがて、ゆっくりと目を閉じた。


「……進むぞ」


静かな声だった。


「ここで立ち止まるな」


「しかし……」


「知ったところで何も変わらん」


オルディンは前を向いた。


「今は帰ることだけを考えろ」


「…………」


帝国兵達が、再び歩き始める。


誰も。


もう。


後ろを見ようとはしなかった。


ただ一人。


グラゼルだけは。


どこか嬉しそうな顔で。


小さく呟く。


「……果物を使った菓子も良いかもしれんな」


誰も答えなかった。


屈強であるはずの帝国兵達は。


敗北と。


恐怖と。


消えることのない絶望を胸に抱きながら。


静かに。


帝国へ向けて撤退していった。


その頃。


ローゼンバーグ王国の多くの民は。


自分達の国へ五万もの帝国軍が迫っていたことも。


その戦争が。


既に終わっていたことすら。


知らなかった。


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