愚者たちに捧げる終曲 前編
「――お疲れ様」
エミリアの声が、静かな夜へ溶けていった。
誰も答えなかった。
数十の王国騎士が並び、未だ見慣れぬ長銃を構えている。その前に立つのは、漆黒のドレスを纏った銀髪の少女。そして、その傍らには禍津神。
ほんの少し前まで六千を数えた帝国軍は、今や見る影もない。
山を抜けてきた者は百余り。
その者達すら、既に戦意を失っていた。
月明かりの下。
最初に動いたのは、オルディンだった。
彼はエミリアではなく、周囲を見ていた。
立っている兵。座り込んだ兵。負傷者。捨てられた武器。残された水。王国兵との距離。そして、背後に広がる山。
勝てるか。
そんなことは、もう考えていなかった。
勝敗は決している。
ならば、次に考えるべきことは一つしかない。
――何人、生かして帰せる。
補給を預かる者として。
何度も戦場を歩いてきた者として。
オルディンの思考は、既にそこへ切り替わっていた。
つい先ほどまで、自分の記憶すら信じられなくなっていた。
だが、エミリアは言った。
自分は間違っていなかった。
帳簿も、計算も、命令も。
間違っていたのは、自分の周囲に作られた現実だったのだと。
恐ろしい。
到底、納得出来る話ではない。
それでも、原因が分かった。
ならば、もう自分を疑う必要はない。
オルディンは深く息を吐いた。
「……撤退すべきです」
静かな声だった。
ロギウスが振り返る。
「オルディン?」
「この作戦は失敗しました」
感情を挟まず、事実だけを並べる。
「北の陽動軍は敗北。後続もこちらへ進出出来ない。我々も、もはや軍として戦闘を継続出来る状態ではありません」
グラゼルから返事はない。
俯いたまま、動かない。
「残った兵をこれ以上戦わせても、損害を増やすだけです」
オルディンは王国兵を見た。
そして、エミリアを見る。
「武器を捨てるなり、捕虜となるなりしてでも、まず生存を確保するべきです」
それは、戦争を続けるための方法ではない。
戦争を終わらせるための方法だった。
ロギウスは、そんなオルディンを見つめる。
つい先ほどまで、自分の失敗を探して取り乱していた男が、もう現実を見ている。
恐怖していないわけではない。
屈辱がないわけでもない。
それでも。
自分の役割へ戻っている。
◇
一方。
レグナスは、何も言わなかった。
その目は、ただ一人。
エミリアだけを捉えていた。
距離は遠くない。
十数歩。
いや。
自分なら、もっと短い。
剣はまだ手にある。
一気に踏み込めば届く。
王国兵に撃たれても構わない。
護衛に斬られてもいい。
自分の命と引き換えに、あの女へ一太刀。
それだけなら。
出来るはずだった。
レグナスは、ゆっくりと剣の柄へ力を込める。
エミリアは武器を構えていない。
華奢な少女。
細い腕。
立ち姿にも、剣士らしい構えなど見えない。
隣には禍津神がいる。
王国兵もいる。
だが、自分が死ぬことさえ受け入れれば。
一太刀だけなら。
――斬れる。
はずだ。
「…………」
レグナスの額から、一筋の汗が落ちた。
足が。
動かない。
何故だ。
護衛が動くからか。
女神がいるからか。
王国兵の長銃があるからか。
違う。
その程度なら、覚悟は出来る。
死ぬことそのものを、今さら恐れているわけではない。
なのに。
踏み込めない。
剣士として見れば、斬れる。
間合いに入れる。
首でも。
胴でも。
届く。
だが。
数え切れない戦場を潜り抜け、何度も死にかけ、その度に生き残ってきた戦士としての何かが。
全力で警告していた。
――行くな。
レグナスの背中へ、じっとりと汗が滲む。
理屈はない。
根拠もない。
ただ。
どうしても。
斬れる気がしない。
「……なんなんだよ、お前」
本人にも聞こえるかどうかという、小さな声だった。
エミリアが、僅かに視線を向ける。
それだけ。
殺気もない。
威圧もない。
なのに。
レグナスの指が止まった。
山中で、黒い蟲を見つけた時と同じだった。
理屈より先に。
何かがおかしいと感じる。
敵の罠。
隠された刃。
目に見えない危険。
――こいつにも、まだ何かある。
レグナスは、ゆっくりと剣から手を離した。
今は。
踏み込むべきではない。
その判断だけは。
自分の【感】を信じた。
◇
ロギウスは、その一部始終を見ていた。
オルディンは撤退を考えている。
レグナスは剣を取らない。
否。
違う。
ロギウスには分かった。
レグナスは一度、確かにエミリアを斬ろうと考えた。
死を覚悟して。
それでも。
止まった。
あのレグナスが。
数々の戦場で先陣を切り、敵の刃を恐れず、未知の魔導銃を前にしてさえ即座に前へ出た男が。
目の前の少女へ。
踏み込めない。
ロギウスの背筋を、冷たいものが這った。
――格が違う。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
禍津神ルミナ。
人の理を超越した神。
恐ろしいに決まっている。
人間など、その気になれば指一本でどうにでも出来るのかもしれない。
だが。
今、ロギウスが見ているのは、その神ではなかった。
神のすぐ隣。
人を蕩かすような美貌を持つ、銀髪の少女。
黒薔薇のエミリア。
あの女は、自ら剣を振るっていない。
大魔法も使っていない。
軍を率いて、正面から激突したわけでもない。
それなのに。
五万の帝国軍は、王国へ本格的な戦争を持ち込むことすら出来なかった。
北の一万は砕かれた。
山へ送った六千は、軍として消滅した。
三万四千は、入ることすら出来ない。
そして。
自分達は、その全てを。
合理的な判断だと思って進めていた。
この少女が。
用意した選択肢の中で。
「…………」
ロギウスの喉が鳴った。
真に恐れるべきものは。
禍津神なのか。
違う。
少なくとも。
今の自分にとっては違う。
神は恐ろしい。
だが、神が恐ろしい理由は分かる。
圧倒的な力を持っているからだ。
この少女は。
違う。
何をされたのか。
理解した後ですら。
どこまでが少女の手なのか。
分からない。
それが。
何より恐ろしい。
ロギウスの視線が、ゆっくりとグラゼルへ向いた。
◇
グラゼルは。
まだ俯いていた。
何も言わない。
拳だけを、強く握っている。
僅かに。
だが、確実に震えていた。
――正義の味方様だったのね。
――なら、相手が悪かったわね。
――戦争は、もう終わっていたのよ。
――真の悪は、姿を現す前に結末を作っているものなの。
――だから、悪は美しいのよ。
エミリアの言葉が。
頭の中で。
何度も繰り返される。
違う。
グラゼルは、ヴァレリア騎士公国の血を継ぐ者だった。
帝国皇族として生まれ。
才能にも恵まれた。
武にも。
軍略にも。
幼い頃から、常に人より優れていた。
地位があった。
力があった。
才能があった。
そして。
目的があった。
いつか帝国の頂点へ立つ。
ヴァレリア騎士公国を復興する。
かつて奪われた誇りを取り戻す。
民のために。
自分には、それを成す資格がある。
そう信じてきた。
戦場でも同じだった。
常に圧倒してきたわけではない。
苦戦したことはある。
劣勢に陥ったこともある。
策に嵌められたことも。
撤退を余儀なくされたこともある。
それでも。
最後には勝った。
最後には、自分が勝利を手にした。
だから。
負けるということを。
本当の意味では知らなかった。
だが。
今。
自分は、六千の精鋭を失った。
ドレヴァンを失った。
数々の戦場を共に越えてきた臣下達。
ヴァレリアの名を背負い。
自分を信じ。
自分の命令に従った兵達。
そのほとんどを失った。
そして。
目の前の女は。
それを。
歯牙にもかけていない。
グラゼルの指が、強く掌へ食い込む。
この俺が?
ヴァレリアの正統な血を引く、このグラゼルが?
こんな。
小娘の。
掌の上で。
最初から最後まで。
踊っていた?
ありえない。
ありえない。
そんなこと。
あるはずがない。
アリエナイ。
アリエナイ。
アリエナイアリエナイアリエナイ。
「……違う」
ロギウスが顔を上げる。
「兄上?」
「違う……」
グラゼルの声が震えていた。
「俺は……」
拳を握る。
「俺は正しい……」
誰へ言っているのか。
もはや分からない。
「俺は……ヴァレリアを……」
呼吸が荒くなる。
「民のために……」
「俺が……」
「俺こそが……!」
その声が、急激に大きくなった。
「正義なのだ!」
グラゼルが、伏せていた顔を上げる。
「俺が負けるはずがない!」
血走った瞳。
そこに理性は、まだ残っている。
だが。
必死だった。
自分自身を。
自分自身の中で。
守ろうとしている。
「こんなことが!」
「こんなことがあるはずがあるかぁぁぁッ!」
咆哮。
その視線が、エミリアを捉えた。
エミリアも。
グラゼルを見ていた。
ただ。
静かに。
銀色の髪。
白い肌。
美しい顔。
そして。
赤い瞳。
視線が合った。
その瞬間。
グラゼルの身体が、僅かに竦んだ。
「…………っ」
何故。
分からない。
エミリアは何もしていない。
殺気などない。
魔法も。
威圧も。
ただ。
見ているだけ。
なのに。
怖い。
ほんの一瞬。
そう思ってしまった。
そして。
思い出した。
胸を穿たれた感触。
息が出来ない。
空気が入らない。
身体が動かない。
視界が暗くなる。
落ちる。
深い。
深い。
何もない場所へ。
あの。
闇。
「……あ」
グラゼルの口から、小さな音が漏れた。
――捕らえられたら。
――復活するたびに。
――何度でも死ねるってことを。
エミリアの声が、蘇る。
「……やめろ」
誰も。
何もしていない。
「やめろ……」
グラゼルが一歩下がった。
違う。
自分は不死身だ。
死なない。
何度でも蘇る。
だから。
怖くない。
怖いはずがない。
だが。
身体は覚えている。
あの闇を。
死を。
「イヤだ……」
声が。
子供のように震えた。
ロギウスの顔が強張る。
「兄上……?」
「イヤだ……」
グラゼルが、自分の胸を掴んだ。
「もう……イヤだ……」
息が荒い。
「兄上、落ち着いてください!」
ロギウスの声など、届いていない。
暗い。
怖い。
息が出来ない。
また。
あそこへ。
「イヤだ……!」
頭を振る。
「イヤだイヤだイヤだ……!」
思考が。
崩れていく。
「コワイ……」
その言葉を。
ロギウスは、確かに聞いた。
「コワイ……コワイ……」
目の前の男は、第三皇子グラゼル。
ヴァレリアの血を誇り、幾度もの戦場を勝ち抜いてきた男。
その兄が。
今。
一人の少女を前に、震えている。
ロギウスの心臓が冷たくなる。
「コワイコワイコワイコワイ――!」
「グラゼル!」
レグナスが叫んだ。
次の瞬間。
グラゼルが、突然剣を振り回した。
「うああああああああああッ!」
「兄上!」
「近づくな!」
誰へ向けているのか。
もう本人にも分かっていない。
「来るな!」
剣が空を斬る。
「来るな来るな!」
「グラゼル! 落ち着け!」
レグナスが動いた。
剣を避け、背後へ回る。
腕を取り。
力任せにグラゼルを押さえ込んだ。
「離せ!」
「しっかりしろ!」
「離せぇぇぇッ!」
「グラゼル!」
「また死ぬ!」
その一言に。
全員が止まった。
「死ぬ……!」
グラゼルは、レグナスの腕の中で必死にもがいていた。
「また……あそこに……!」
「イヤだ……!」
「もう……死にたくない……!」
不死身の皇子が。
泣きそうな声で、そう叫んだ。
レグナスの表情が歪む。
それでも、腕は離さない。
「落ち着け!」
「ここにいる!」
「今は生きてる!」
必死に声を掛ける。
だが。
グラゼルには届かない。
オルディンは、その姿を黙って見ていた。
そして。
ゆっくりと目を閉じる。
もう、この男に軍を率いることは出来ない。
ならば。
自分が残った兵を帰す方法を考えなければならない。
それだけだった。
ロギウスは。
動けなかった。
兄が壊れていく。
レグナスが押さえている。
オルディンは、既に次を考えている。
そして。
その全てを。
エミリアは静かに見ていた。
笑ってすらいなかった。
それが。
ロギウスには何より恐ろしかった。
魔法ではない。
神の呪いでもない。
エミリアは。
ただ。
真実を教えただけだ。
自分達が何を選び。
どう進み。
どう敗れたのかを。
それだけで。
グラゼルは壊れた。
ロギウスは、ゆっくりと禍津神ルミナを見る。
美しい女神。
人の理を超えた存在。
そして。
その隣に立つ。
さらに小さな、一人の少女。
違う。
真に恐れるべきなのは。
神ではない。
少なくとも。
この国においては。
この女だ。
黒薔薇のエミリア。
その名が。
恐怖と共に。
ロギウスの心へ。
深く。
深く。
刻み込まれた。
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