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愚者たちの奏でた終曲

「あなた達が、あの山で何と戦っていたのかを」


エミリアの言葉が、静かな夜へ落ちた。


グラゼルは、彼女の傍らに立つ女を睨みつけていた。


つい先ほどまで、間違いなく《山猫のゼルク》だった女。


「……いつからだ」


絞り出すような声だった。


「いつから、貴様はゼルクと入れ替わっていた」


エミリアは少し考えるように首を傾げた。


「いつから?」


そして、くすりと笑う。


「随分前からよ。あなた達が山へ入ってから、なんて話じゃないわ」


《千貌面》を外した女へ視線を向ける。


「本物のゼルクには、もっと早い段階で退場してもらったの」


「……何?」


「だって困るでしょう?」


エミリアは、さも当然のように言う。


「本物の《山猫》なんて呼ばれるほど山に詳しい人を、あの場所へ連れて行ったら」


笑みが少し深くなる。


「余計なことに気づかれてしまうかもしれないもの」


ロギウスが息を呑んだ。


ゼルクは道を見誤ったのではない。


異変を見抜けなかったわけでもない。


そもそも、あの山へ入ってすらいなかった。


帝国でも屈指の山岳経験を持つ男。


何度も道を確認させた。


何度も判断を仰いだ。


その言葉を疑うことなく信じた。


だが、そこにゼルクはいなかった。


最初から。


「そして――」


エミリアの視線が、もう一人の女へ移る。


先ほどまで帝国兵の姿をしていた、美しい女。


「この子も同じ頃には、もう帝国へ入り込んでいたわ」


グラゼルの眉が動いた。


「……何だと?」


「少し、準備が必要だったから」


女は何も言わない。


ただ穏やかに微笑んでいる。


その表情を見て、オルディンが僅かに顔を強張らせた。


エミリアはそれを見逃さなかった。


「ああ、そうそう」


今度はオルディンを見る。


「あなたは、間違っていないわ」


「……何をした」


低い声だった。


「私の補給に、何をした」


「だから、あなたは何も間違えていないって言っているでしょう?」


「なら何故!」


オルディンの声が荒れた。


「何故、あれほど補給が狂った!」


水。


食料。


人数。


予備。


配分。


何度確かめても、自分の記憶と目の前の現実が噛み合わなかった。


帳簿を見直した。


兵に確認した。


自分の指示を思い返した。


それでも原因が分からなかった。


エミリアは、そんなオルディンを見ながら指を一本立てる。


「人ってね、ほんの少し数字をずらされるだけで、簡単に勘違いを起こすものなのよ」


「……数字を?」


「一度に大きく変えたら、あなたなら気づくでしょうね。だから、そんな馬鹿なことはしないわ」


数える者。


受け取る者。


報告する者。


確認する者。


「それぞれが見ているものを、ほんの少しずつずらしてあげるの」


オルディンの瞳が揺れる。


「一つなら誤差。二つなら確認不足。それが別々の場所で少しずつ食い違ったら?」


誰も、自分が間違っているとは思わない。


だから別の理由を探す。


別の数字を疑う。


もう一度数える。


辻褄を合わせようとする。


その間にも、軍は進み続ける。


「あなたの帳簿は正しかった。計算も、あなた自身が出した命令もね」


「…………」


「だから、あなた自身を間違わせる必要なんてなかったのよ」


エミリアは、優しく慰めるように微笑んだ。


「あなた以外の現実を、少しずつ変えてあげればいいだけ」


オルディンの唇が震える。


「補給隊長は、最後まで間違えていなかったわ」


そして。


笑う。


「間違っていたのは――あなた以外の現実の方よ」


オルディンは何も言えなくなった。


グラゼルもまた、黙ったままそのやり取りを聞いていた。


補給が崩れた。


だから進軍速度が落ちた。


兵が疲弊した。


判断が遅れた。


自分は何度、オルディンへ原因を問うた。


何故分からない。


何故直せない。


そう苛立った。


だが。


オルディンは、間違っていなかった。


グラゼルの奥歯が、僅かに軋んだ。


「さて」


エミリアは再び、美しい女へ視線を戻す。


「この子には、他にも大切な仕事をお願いしたわ」


「仕事……?」


「あなた達を、山へ案内すること」


一瞬、意味が分からなかった。


最初に反応したのはロギウスだった。


「……まさか」


エミリアが笑う。


「ええ」


「あなた達が見つけた、あの狩人」


女が僅かに頭を下げた。


「この子よ」


「な……」


グラゼルの口が開いたまま止まる。


あの狩人。


偶然、山で見つけた。


帝国軍が知らなかった道を知っていた。


ゼルクが確認した。


ロギウスも危険性を検討した。


そして最後に。


使うと決めたのは――自分。


「あの道は……」


声が掠れる。


エミリアは、あっさりと答えた。


「私が準備していた道よ」


胸の奥で。


何かが、小さく軋んだ。


「昔からあった細い山道を調べて、あなた達でも通れる程度に手を入れておいたの」


立派な軍道ではない。


それでは不自然だ。


斥候が見れば。


山を知る者が確認すれば。


秘密裏に軍を通せる。


そう判断したくなる程度。


「私が準備していた抜け道にね」


エミリアは悪戯っぽく首を傾げた。


「ちゃんと案内してもらえたでしょう?」


「…………」


「でも、勘違いしないでね」


指を一本立てる。


「私は一度も、そこを通れなんて命令していないわ」


道を調べた。


通れると判断した。


六千の精鋭を送り込むと決めた。


それは帝国。


そして。


自分だった。


「狩人としての役目が終わった後は、そのまま姿を消してもらったわ」


エミリアは続ける。


「そして今度は――伝令兵」


ロギウスの表情が変わった。


「そういえば」


エミリアは楽しそうに首を傾げる。


「道中、不思議に思う報告はなかったかしら?」


誰も答えない。


「確かに聞いたはずなのに、後になったら少しだけ内容が違う」


「誰かがそう言ったはずなのに、確かめれば微妙に話が噛み合わない」


ロギウスの脳裏に、いくつもの報告が蘇った。


行方の分からない兵。


別の隊が見たという人影。


進路。


後方。


王国兵。


正しいのか。


間違っているのか。


最後には、報告そのものを疑わざるを得なくなった。


「全部を嘘にする必要なんてないのよ。さっきの数字と同じ」


エミリアは女の肩へ軽く手を置いた。


「ほんの少しだけ、受け取り方をずらしてあげればいい」


そして楽しげに笑う。


「それに、この子はとっても優秀でね」


女も柔らかく微笑んだ。


「人って、疲れている時ほど複雑なことを考えたくなくなるでしょう?」


簡単で。


筋が通っていて。


今置かれている状況を説明してくれる答え。


「そういうものを目の前に置いてあげると、人は自分からそちらへ考えたくなるものなのよ」


「……誘導したというのか」


ロギウスが呟いた。


「そんな大袈裟なものじゃないわ」


エミリアは首を振る。


「この子が得意なのは、相手が次に何を考えたくなるのかを、ほんの少し先回りすること」


考えるのは本人。


選ぶのも本人。


ただ、その時。


一番楽に選べる答えが、そこに置かれているだけ。


「決定的だったのは……あれかしらね?」


エミリアが頬へ指を添える。


「ドレヴァンの件」


ロギウスの顔から血の気が引いた。


後方から駆け込んできた伝令兵。


ドレヴァンの死。


北で敗れた帝国兵を追って王国兵が山へ入ったという知らせ。


後続部隊が壊滅したという報告。


戻れば敵。


ならば。


前へ進むしかない。


そう判断した。


自分達が。


エミリアは指を三本立てた。


「あの時、この子がついた嘘は――たった三つよ」


一本。


「自分が、後方から追いついてきた帝国の伝令兵だったこと」


二本。


「北で敗れた帝国兵を追って、王国兵が山へ入ってきたこと」


三本。


「その王国兵によって、後続部隊が壊滅したこと」


三本の指を、グラゼルへ向ける。


「それだけ」


「……それだけ、だと?」


「ええ」


エミリアは頷いた。


「ドレヴァンが死んだことは、本当」


グラゼルの眉が動く。


「道の復旧が進んでいたことも本当。彼が最後まで指揮を放棄せず、部隊を立て直そうとしていたこともね」


本当。


本当。


本当。


その中へ。


三つだけ、嘘。


だから。


疑わなかった。


「本当のことが沢山入っていると、少しくらい混ざった嘘には気づきにくいものなのよ」


グラゼルの拳が震え始める。


「では……我々は、あの報告に騙されて――」


「あら?」


エミリアの表情から、笑みが少し薄れた。


「騙された?」


静かな声。


「違うでしょう?」


グラゼルが言葉を止める。


「戻らないと決めたのは、あなたよ」


前へ進めと命じたのも。


損害を許容してでも山を抜けると決めたのも。


全部。


「あなた」


「……っ」


「私は何も命令していないわ」


エミリアは再び女へ視線を向ける。


「この子が差し出したのは、考えやすい答えだけ」


そして。


ニコリと笑った。


「それを美味しそうに飲み込んだのは、あなた達でしょう?」


一拍。


「甘い蜜を仕込んだ伝令は――美味しかったかしら?」


グラゼルは答えなかった。


答えられなかった。


胸の奥で。


先ほどよりも大きな音を立てて。


何かが軋んだ。


「だが……」


ロギウスが掠れた声を絞り出す。


「それでも、おかしい」


エミリアが見る。


「何が?」


「何故、そこまで我々の動きを知っている」


ロギウスは周囲を指した。


「どこで止まった。どこで道を変えた。何人残っている。誰が何に気づいた」


「貴女は、まるで山の中にいたかのように知っている!」


「ああ」


エミリアは納得したように頷いた。


「なんでそんなに自分達の行動が知られているんだ、って顔をしているものね」


「当然だ!」


「通信魔法って、あるわよね?」


突然の問いに、ロギウスが眉を寄せる。


「……ある」


「でも遠距離通信ともなれば、固定した場所で大掛かりな術式を組んで、多大な魔力を使うはず」


「ああ」


今度はオルディンが答えた。


「山中でその規模の魔法を使えば、こちらが気づかないはずがない」


「そうね」


エミリアは頷く。


「だから、別の技術を使ったの」


「別の……?」


「無線」


聞き慣れない言葉。


「ものすごく大雑把に言えば、目に見えない波に情報を乗せて、離れた場所へ届ける技術よ」


「波に……情報を?」


理解出来ない。


だが、エミリアは詳しく説明するつもりもないらしい。


「現地には逐一状況を知らせてくれる子達がいたから」


「あなた達がどこにいるのか。何人残っているのか。誰が何に気づいたのか」


口元を吊り上げる。


「ほとんど筒抜けだったわ」


グラゼルの指先が、ぴくりと動いた。


自分達が必死に敵の目を避け。


隠密行軍をしているつもりだった間。


ずっと。


見られていた。


「そして、こちらから指示を返す時に使ったのが、その無線」


そこで。


エミリアの視線が一人へ向いた。


レグナス。


「その波を繋いでくれていたのが――あの子達よ」


「……?」


レグナスの表情が変わる。


思い出す。


木々の隙間。


黒い翅。


妙な違和感。


剣を抜き。


一匹。


斬り落とした。


「……あの蟲か」


エミリアの顔が明るくなった。


「正解」


「《黒翅蟲》よ」


「一匹一匹は大したことないのだけれど、何匹も配置しておけば、波を次々と渡していけるの」


レグナスが目を細める。


「俺が斬ったのも……」


「ええ」


エミリアは即答した。


「あなたに斬られた時は、びっくりしたわ」


「…………」


「その辺りの繋がりが、一瞬だけ消えたもの」


レグナスの目が見開かれる。


エミリアは、純粋に感心したように彼を見る。


「正直、あれは想定外だったわ。あの状況で、あんな小さな蟲にまで違和感を覚える人がいるなんてね」


レグナスは何も言わない。


山へ入ってから。


初めて。


自分が敵の想定を外していた。


「もっとも」


エミリアはさらりと続けた。


「一匹いなくなったくらいなら、別の子を経由すれば済むのだけれど」


「……そうかよ」


レグナスが乾いた笑いを漏らした。


「でも、本当に惜しかったわね」


エミリアは少しだけ目を細める。


「あの黒い蟲を見つけた時、あなたはほんの一瞬だけ、私が用意した盤面の外へ顔を出したもの」


だから欲しかった。


先ほどの勧誘の意味を、レグナスはようやく理解した。


「では……」


グラゼルが低く呟いた。


「山の中で起きていた、あれは……」


声。


人影。


突然消えた兵。


崩落。


耳の奥を撫で続けた不快な音。


後方で起きたドレヴァンの死。


「全部……貴様らが……」


「全部、この二人がやったと思っている?」


エミリアは首を傾げる。


「それは買い被りすぎよ」


二人の女を見る。


「道を弄った子。声を届けた子。姿を惑わせた子。あなた達から兵を抜いていった子。情報を運んだ子。後ろを止めた子」


淡々と指を折る。


「それぞれ、別よ」


「……別?」


「ええ。一人で何でも出来る化け物なんて、そう都合よくいないもの」


当然のように告げる。


「だから、それぞれに得意なことを一つずつやってもらっただけ」


ほんの数人。


ただ。


それぞれが自分にしか出来ない仕事を。


必要な場所で行った。


ロギウスの視線が、目の前にいる二人の女へ向く。


若い。


美しい。


そして。


その身体から感じる、人とは明らかに異なる魔力。


「……まさか」


声が震える。


「こいつら……イミタート……?」


エミリアは微笑んだ。


「ええ」


それだけだった。


だが。


それだけで十分だった。


北では。


僅か三人のイミタートが、一万の軍を正面から打ち砕いた。


こちらでは。


名も知らぬ数人が。


六千の精鋭を。


まともに戦うことすらなく。


一つの軍として壊した。


「……最初から」


グラゼルが呟いた。


「全部、分かっていたというのか」


エミリアは意外そうな顔をした。


「まさか」


「……何?」


「そんなわけないでしょう?」


あまりにもあっさりと否定した。


「あなたが次に何を考えるのか。誰がどこで何に気づくのか。いつ、どんな判断をするのか」


肩を竦める。


「そんなもの、全部分かるわけないじゃない」


グラゼルは言葉を失った。


なら。


何故。


自分達はここまで。


「だから」


エミリアは笑った。


「選びやすい手を、いくつか盤面に置いておいたのよ」


道がある。


使うかもしれない。


戻れる。


戻らないかもしれない。


情報が来る。


信じるかもしれない。


疑うかもしれない。


「どれを選ぶかは、あなた達の自由」


「でも」


エミリアの瞳が細くなる。


「どれを選んでも、こちらが困らないようにしておけばいいでしょう?」


グラゼルの表情から。


少しずつ。


色が消えていった。


「私は一度も、前へ進めなんて言っていない」


道を調べたのも。


通れると判断したのも。


六千を送り込むと決めたのも。


引き返さないと決めたのも。


最後まで前へ進んだのも。


「あなた達自身よ」


違う。


グラゼルの頭の奥で、何かが小さく呟いた。


違う。


自分は。


自分の意志で。


自分の判断で。


軍を率いて――。


「……俺は」


グラゼルが掠れた声を漏らした。


エミリアが見る。


「俺は、ヴァレリア騎士公国の血を継ぐ者だ」


拳を握り締める。


「いずれ帝国の頂点に立ち、ヴァレリアを復興させる」


かつて失われた祖国。


誇り高き血。


その名を取り戻すこと。


「民のために」


それだけは。


間違っていない。


「俺は正しい」


声が少しずつ強くなる。


「俺こそが正義だ!」


グラゼルは顔を上げた。


「俺が負けるはずがない!」


戦場へ立てば。


劣勢に陥ったことはある。


策に嵌まったことも。


退かざるを得なかったこともある。


だが。


最後には必ず勝った。


自分が。


勝利を掴んできた。


「俺は負けない!」


夜の平原へ、グラゼルの叫びが響く。


エミリアは。


そんな彼を黙って見ていた。


やがて。


「あら?」


僅かに首を傾げる。


「正義の味方様だったのね」


「……何?」


エミリアは口元へ指を添えた。


少しだけ考えるような仕草。


そして。


ニイッ――と。


その唇が、三日月のように吊り上がる。


「なら、相手が悪かったわね」


グラゼルの表情が止まった。


「正義と悪が同じ舞台に立って、真正面から戦うから、勝ち負けになるのでしょう?」


エミリアは楽しそうに言う。


「だったら――」


両手を軽く広げた。


「最初から、その舞台に上げなければいいじゃない」


グラゼルの瞳が揺れる。


「あなた達、私の国へ戦争を持ち込むつもりだったのでしょう?」


北の一万。


山へ入った六千。


後ろに控えていた三万四千。


帝国は五万の軍勢をもって。


ローゼンバーグへ侵攻するはずだった。


だが。


北の一万は、砦を突破出来なかった。


山へ入った六千は、戦場へ辿り着く前に軍として崩壊した。


そして。


道も。


橋頭堡も。


先導する兵も失った後続三万四千は。


王国へ入ることすら出来ない。


エミリアは微笑んだ。


「残念だったわね」


「あなた達が戦場へ辿り着く前に――」


一拍。


「戦争は、もう終わっていたのよ」


グラゼルの喉が鳴った。


自分は。


戦っていたはずだった。


敵国へ侵攻し。


軍を率い。


勝利を掴もうとしていた。


なのに。


エミリアと向き合った時には。


六千は消えていた。


北の一万も敗れていた。


後続も来ない。


剣を交えた時には。


もう。


終わっていた。


「真の悪はね」


エミリアの声が静かになる。


「姿を現してから、どうやって勝とうかなんて考えないの」


グラゼルの身体が僅かに強張った。


「あなた達が私を敵として見つけた時には、もう遅い」


「真の悪は――姿を現す前に、結末を作っているものなのよ」


エミリアは胸元へ手を添えた。


そして。


心底それを愛おしむように。


目を細める。


「だから、悪は美しいのよ」


「…………」


グラゼルは、何も言えなかった。


自分は正義。


エミリアは悪。


ならば。


最後には正義が勝つ。


そのはずだった。


だが。


目の前の女は。


正義を否定すらしなかった。


ただ。


自分は悪だと笑い。


その悪に。


グラゼル達は。


まともに戦うことすら許されなかった。


「本当に、読みやすかったわ」


エミリアは楽しそうに目を細めた。


「次に何をするのか。何を疑って、何を信じて、どちらへ進もうとするのか」


グラゼルの拳が震える。


「まるで、子供のお遊戯ね」


「自分達で曲を作って、自分達で奏でているつもりだった?」


エミリアは首を傾げる。


「残念」


「楽譜は、最初から私が置いていたのよ」


違う。


グラゼルの頭の奥で。


何かが呟いた。


「私は舞台と楽譜を用意しただけ」


違う。


「あとは全部――あなた達が、自分から奏でてくれたの」


違う。


違う。


そんなはずはない。


「まあ」


エミリアは満足そうに笑った。


「お遊戯会としては、十分楽しませてもらったわ」


そして。


ふと何かを思い出したように首を傾げる。


「……あら?」


「そういえば最初に、不法入国のお代をいただくって言ったわね」


くすりと笑う。


「これだけ楽しませてもらったのなら――」


「お代は、もういただいたということかしら?」


誰も。


何も言えない。


エミリアは漆黒のドレスの裾を摘まんだ。


まるで。


演奏を終えた者達へ礼を送る貴婦人のように。


優雅に一礼する。


「それでは」


顔を上げる。


三日月のような笑みを浮かべたまま。


「帝国楽士団の皆様」


「素敵な演奏をありがとう」


そして。


最後の一言だけは。


妙に明るく。


本当に彼らを労うかのように。


「――お疲れ様」


グラゼルは。


顔を上げられなかった。


違う。


自分は正しい。


ヴァレリアの血を継いでいる。


帝国の頂点へ立つ。


祖国を復興する。


民を救う。


これまでだって。


勝ってきた。


なら。


こんな。


こんなことが。


あるはずがない。


拳が震えていた。


傷などない。


零時の祝福によって。


肉体は完全に元へ戻っている。


それなのに。


心臓を穿たれた場所が。


妙に冷たい。


呼吸が。


少しだけ浅くなる。


そして。


一瞬だけ。


脳裏に。


あの闇が浮かんだ。


息が出来ない。


光が消える。


深い。


深い場所へ。


落ちていく。


グラゼルは咄嗟に、その記憶を振り払った。


違う。


今は関係ない。


自分は生きている。


不死身だ。


何度でも蘇る。


だから。


何も。


恐れる必要などない。


そう。


何度も。


自分へ言い聞かせる。


けれど。


エミリアの声が。


頭から離れなかった。


――戦争は、もう終わっていたのよ。


――真の悪は、姿を現す前に結末を作っているものなの。


――あなた達自身よ。


グラゼルは、俯いたまま拳を強く握り締めた。


まだ。


何も。


壊れてなどいない。


そう思っているのは。


もはや。


彼自身だけだった。


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