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帝国の落日

帝国へ戻った兵達を待っていたのは、歓声ではなかった。


勝利を祝う鐘も鳴らない。


凱旋を迎える民衆もいない。


北へ向かった一万。


山へ入った六千。


その後方に控えていた三万四千。


五万もの兵を動かした大侵攻。


その果てに。


帝国が得たものは、何一つなかった。





第7皇子ガルドスは、帝国へ帰還してからほとんど自室を出なくなった。


自らが率いた白銀騎兵団も、もはやかつての姿を残してはいない。


北の砦へ向かった一万の軍勢は壊滅的な損害を受け。


帝国最精鋭の一角と呼ばれた騎兵団もまた、多くを失った。


第一皇妃は、そんな息子を案じて自ら部屋を訪れた。


「ガルドス」


静かに扉を開ける。


その瞬間だった。


「来るな!!」


悲鳴にも似た声が響いた。


第一皇妃の足が止まる。


「ガルドス……?」


「近づくな!」


部屋の奥。


ガルドスは壁際まで後ずさっていた。


顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。


目の前にいるのは。


自分を産んだ母親。


それでも。


今のガルドスには関係なかった。


女。


その姿を見ただけで、脳裏に蘇る。


巨大な漆黒の十字架を抱えた女。


双剣を手に、自分達を圧倒した女。


小さな身体で戦場を駆け、兵達を翻弄した少女。


逃げても。


逃げても。


その記憶が追ってくる。


「やめろ……」


ガルドスは頭を抱えた。


「もう……来るな……」


「女は……」


「女は、もう……!」


第一皇妃は何も言えなかった。


ただ。


静かに扉を閉じる。


廊下へ出たところで、その表情が僅かに歪んだ。


第2皇子バルカーボは。


禍津神の神罰によって、もはや皇位を争える状態ではない。


そして。


ガルドスも。


兵を失った。


名声を失った。


支持基盤を失った。


何より。


本人の心が折れている。


第一皇妃は、閉ざされた扉を見つめた。


自らが皇帝の座へ押し上げようとしていた二人の息子。


そのどちらも。


皇位継承争いから消えた。





第3皇子グラゼルは、生還した。


だが。


皇位にも。


帝国の未来にも。


既にほとんど興味を示していなかった。


彼が入り浸るようになったのは、会議室でも訓練場でもない。


帝国宮殿の厨房だった。


「違う!」


グラゼルの怒声が響く。


「なぜ膨らまん!」


目の前には。


無惨に潰れた焼き菓子。


料理人達が、何とも言えない顔でそれを見つめている。


「もう一度だ!」


「材料を持ってこい!」


「次こそは必ず成功させる!」


誰にも任せない。


自分自身の手で。


最高に美味しい菓子を作る。


そして。


次にあの女と会った時。


その菓子で歓迎する。


それだけが。


今のグラゼルを突き動かしていた。


不老不死の皇子は。


今日も。


絶望的に才能のない菓子作りへ挑み続けている。





第6皇子は。


兵を捨てて一人だけ逃げ帰った。


生きて戻ったことを喜ぶ者はいなかった。


代わりに待っていたのは。


臆病者。


卑怯者。


兵を見捨てた皇子。


そんな言葉だった。


やがて彼もまた、人前へ姿を見せなくなった。



そして。


第5皇子ロギウス。


彼は。


帰ってきた。


生きて。


正気を保ったまま。


ただし。


帝国へ戻った時。


黒かったはずのその髪は。


大半が白く染まっていた。





皇帝ガルディオスは。


玉座の上で、一つ一つ報告を聞いていた。


これまでにも。


帝国は負け戦を経験してきた。


第1皇子を失った。


第4皇子も失った。


多くの兵を失い。


将を失い。


それでも。


帝国は前へ進んできた。


負ければ。


次に勝てばいい。


失った土地は。


別の土地を奪えばいい。


奪った富で軍を養い。


さらに領土を広げる。


そうして。


バルディア帝国は大きくなった。


だからこそ。


今回のローゼンバーグ侵攻も行われた。


長く続いた戦争で疲弊した帝国へ、新たな富を流し込むため。


弱小国を飲み込み。


土地を得る。


富を得る。


人を得る。


そして。


帝国は再び力を取り戻す。


そのはずだった。


だが。


北へ向かった一万は壊滅。


山へ入った六千も、軍として機能しなくなった。


後方の三万四千は。


戦場へ到達することすら出来ず、撤退した。


皇子達も。


次々と皇位継承争いから脱落している。


そして。


ローゼンバーグから奪えたものは。


何一つ。


ない。


「…………」


ガルディオスは。


長い間、口を開かなかった。


やがて。


掠れた声が落ちる。


「何を……」


誰も動かない。


「何を、間違ったのだ……」


玉座の間に。


答えられる者はいなかった。


「我が帝国は……」


大陸全土を飲み込む。


いずれ。


全てを征服する。


自分の代で届かなければ。


息子達が。


その次の世代が。


いつか必ず成し遂げる。


それこそが。


バルディア帝国なのだと。


そう信じていた。


「それが……」


ガルディオスの手が、玉座の肘掛けを掴む。


「あんな……」


「あんな小石のような王国に……」


声が続かなかった。



「陛下」


静かな声が響く。


第5皇子ロギウスだった。


白く染まった髪を揺らし。


彼は皇帝の前へ進み出る。


「ローゼンバーグとの和平を」


玉座の間がざわめいた。


ガルディオスの目が動く。


「……貴様」


「余に、降伏せよと言うのか」


「いいえ」


ロギウスは即座に否定した。


「降伏ではありません」


「和平です」


そして。


一拍置く。


「それが叶わないのであれば、最低でも停戦を結ぶべきです」


「馬鹿な!」


居並ぶ者の一人が声を上げた。


「帝国にはまだ兵がいる!」


「一度敗れた程度で、なぜあのような小国へ――」


「一度?」


ロギウスの呟きに。


男の声が止まった。


「我々は、五万を動かしたのです」


北へ一万。


山へ六千。


そして。


後方に三万四千。


「その兵力をもって」


ロギウスは静かに尋ねた。


「ローゼンバーグの町を一つでも落としましたか?」


沈黙。


「村を一つでも?」


誰も答えない。


「砦を一つでも?」


答えは。


なかった。


「我々は兵を失いました」


「精鋭を失い」


「将を失い」


「皇族すら、大きく傷ついた」


ロギウスの指先が。


僅かに震えた。


「ですが」


「あの国は違う」


脳裏に浮かぶ。


黒薔薇の女王。


何一つ失わず。


最後まで。


楽しそうに自分達を見ていた女。


「ローゼンバーグは、今回の戦でほとんど疲弊していません」


「本土へ戦火すら届いていない」


「町も」


「村も」


「生産も」


「民の生活も」


「何一つ、壊れていない」


ガルディオスの表情が変わる。


だが。


ロギウスは止まらない。


「そして」


喉が。


僅かに鳴った。


「我々は」


「あの国の主力と、まともに戦ってすらいないのです」


玉座の間から。


物音が消えた。


北で。


一万を止めたのは。


たった三人。


山へ入った軍は。


戦場へ辿り着く前に崩壊した。


そして。


黒薔薇の女王本人は。


剣を振るってすらいない。


「陛下」


ロギウスは皇帝を見た。


「今なら、まだ和平です」


「帝国には、交渉するだけの力が残っています」


「ですが」


もし。


次に。


あの女が攻める側へ回ったなら。


その想像だけで。


背中に冷たい汗が流れた。


「負けるのは」


「帝国です」


「…………」


ガルディオスは。


白くなった息子の髪を見た。


「そこまで……」


掠れた声で問う。


「そこまで、あの女が恐ろしいか」


ロギウスは。


否定しなかった。


「……はい」


迷いすら。


なかった。


だが。


恐怖しているから、和平を求めているのではない。


恐怖するだけの理由があるから。


戦ってはいけないと理解したのだ。


「条件は」


ガルディオスが問う。


ロギウスは答えた。


「ローゼンバーグ前王時代に帝国領となった、北の砦より先の土地を返還します」


「旧国境まで、国境線を戻すのです」


ざわめきが起こる。


だが。


それは。


元々帝国の土地ではない。


帝国にとって。


特別な富を生み出す土地でもない。


失っても。


帝国の根幹が揺らぐことはない。


一方で。


ローゼンバーグにとっては。


帝国から旧領を取り戻したという、明確な戦果になる。


互いに。


和平を結ぶ理由として使える。


「土地を差し出すのではありません」


ロギウスは言った。


「元へ戻すだけです」


「それだけで、あの国と戦わずに済むのであれば」


一度。


息を吸う。


「安いものです」


ロギウスには。


確信に近いものがあった。


エミリアの態度を見る限り。


あの女は。


帝国そのものには興味がない。


帝国を征服したいわけでも。


皇帝を殺したいわけでも。


領土を奪いたいわけでもない。


こちらから手を出さなければ。


おそらく。


何もしない。


だが。


おそらくでは。


駄目なのだ。


ロギウスが欲しいのは。


勝つための方法ではない。


逃げるための方法ですらない。


ただ。


一つ。


――二度と、あの女と戦わなくて済むという確証。


それだけだった。


「……使者を出せ」


長い沈黙のあと。


皇帝ガルディオスは告げた。


その声には。


かつて玉座の間を震わせた覇気は。


もう残っていなかった。





ローゼンバーグ侵攻以降。


皇帝ガルディオスは急速に老け込んだ。


背は曲がり。


頬は痩せ。


かつて周囲を圧していた覇気は、嘘のように消えていった。


そして。


皇帝と共に。


帝国そのものもまた。


勢いを失っていく。


これまで帝国の軍事力を恐れ。


従っていた諸侯。


征服地。


辺境の民族。


各地で。


反乱の火が上がり始めた。


以前ならば。


帝国軍が向かえば。


それだけで鎮圧出来た。


だが。


もう。


その力はない。


一つを鎮めれば。


別の場所で火が上がる。


そこへ兵を送れば。


さらに別の土地が離反する。


大陸全土を飲み込むために広げ続けた国土が。


今度は。


帝国そのものの首を締め始める。


そして。


長い時間をかけ。


バルディア帝国が確実に支配出来る土地は。


帝都と。


その周辺へと。


少しずつ縮んでいくことになる。


かつて。


大陸全土を征服すると豪語した巨大帝国。


その帝国は。


自らが小石と侮った一つの王国に躓き。


かつての勢いを。


二度と取り戻すことはなかった。


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