帝国の落日
帝国へ戻った兵達を待っていたのは、歓声ではなかった。
勝利を祝う鐘も鳴らない。
凱旋を迎える民衆もいない。
北へ向かった一万。
山へ入った六千。
その後方に控えていた三万四千。
五万もの兵を動かした大侵攻。
その果てに。
帝国が得たものは、何一つなかった。
◇
第7皇子ガルドスは、帝国へ帰還してからほとんど自室を出なくなった。
自らが率いた白銀騎兵団も、もはやかつての姿を残してはいない。
北の砦へ向かった一万の軍勢は壊滅的な損害を受け。
帝国最精鋭の一角と呼ばれた騎兵団もまた、多くを失った。
第一皇妃は、そんな息子を案じて自ら部屋を訪れた。
「ガルドス」
静かに扉を開ける。
その瞬間だった。
「来るな!!」
悲鳴にも似た声が響いた。
第一皇妃の足が止まる。
「ガルドス……?」
「近づくな!」
部屋の奥。
ガルドスは壁際まで後ずさっていた。
顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいる。
目の前にいるのは。
自分を産んだ母親。
それでも。
今のガルドスには関係なかった。
女。
その姿を見ただけで、脳裏に蘇る。
巨大な漆黒の十字架を抱えた女。
双剣を手に、自分達を圧倒した女。
小さな身体で戦場を駆け、兵達を翻弄した少女。
逃げても。
逃げても。
その記憶が追ってくる。
「やめろ……」
ガルドスは頭を抱えた。
「もう……来るな……」
「女は……」
「女は、もう……!」
第一皇妃は何も言えなかった。
ただ。
静かに扉を閉じる。
廊下へ出たところで、その表情が僅かに歪んだ。
第2皇子バルカーボは。
禍津神の神罰によって、もはや皇位を争える状態ではない。
そして。
ガルドスも。
兵を失った。
名声を失った。
支持基盤を失った。
何より。
本人の心が折れている。
第一皇妃は、閉ざされた扉を見つめた。
自らが皇帝の座へ押し上げようとしていた二人の息子。
そのどちらも。
皇位継承争いから消えた。
◇
第3皇子グラゼルは、生還した。
だが。
皇位にも。
帝国の未来にも。
既にほとんど興味を示していなかった。
彼が入り浸るようになったのは、会議室でも訓練場でもない。
帝国宮殿の厨房だった。
「違う!」
グラゼルの怒声が響く。
「なぜ膨らまん!」
目の前には。
無惨に潰れた焼き菓子。
料理人達が、何とも言えない顔でそれを見つめている。
「もう一度だ!」
「材料を持ってこい!」
「次こそは必ず成功させる!」
誰にも任せない。
自分自身の手で。
最高に美味しい菓子を作る。
そして。
次にあの女と会った時。
その菓子で歓迎する。
それだけが。
今のグラゼルを突き動かしていた。
不老不死の皇子は。
今日も。
絶望的に才能のない菓子作りへ挑み続けている。
◇
第6皇子は。
兵を捨てて一人だけ逃げ帰った。
生きて戻ったことを喜ぶ者はいなかった。
代わりに待っていたのは。
臆病者。
卑怯者。
兵を見捨てた皇子。
そんな言葉だった。
やがて彼もまた、人前へ姿を見せなくなった。
そして。
第5皇子ロギウス。
彼は。
帰ってきた。
生きて。
正気を保ったまま。
ただし。
帝国へ戻った時。
黒かったはずのその髪は。
大半が白く染まっていた。
◇
皇帝ガルディオスは。
玉座の上で、一つ一つ報告を聞いていた。
これまでにも。
帝国は負け戦を経験してきた。
第1皇子を失った。
第4皇子も失った。
多くの兵を失い。
将を失い。
それでも。
帝国は前へ進んできた。
負ければ。
次に勝てばいい。
失った土地は。
別の土地を奪えばいい。
奪った富で軍を養い。
さらに領土を広げる。
そうして。
バルディア帝国は大きくなった。
だからこそ。
今回のローゼンバーグ侵攻も行われた。
長く続いた戦争で疲弊した帝国へ、新たな富を流し込むため。
弱小国を飲み込み。
土地を得る。
富を得る。
人を得る。
そして。
帝国は再び力を取り戻す。
そのはずだった。
だが。
北へ向かった一万は壊滅。
山へ入った六千も、軍として機能しなくなった。
後方の三万四千は。
戦場へ到達することすら出来ず、撤退した。
皇子達も。
次々と皇位継承争いから脱落している。
そして。
ローゼンバーグから奪えたものは。
何一つ。
ない。
「…………」
ガルディオスは。
長い間、口を開かなかった。
やがて。
掠れた声が落ちる。
「何を……」
誰も動かない。
「何を、間違ったのだ……」
玉座の間に。
答えられる者はいなかった。
「我が帝国は……」
大陸全土を飲み込む。
いずれ。
全てを征服する。
自分の代で届かなければ。
息子達が。
その次の世代が。
いつか必ず成し遂げる。
それこそが。
バルディア帝国なのだと。
そう信じていた。
「それが……」
ガルディオスの手が、玉座の肘掛けを掴む。
「あんな……」
「あんな小石のような王国に……」
声が続かなかった。
「陛下」
静かな声が響く。
第5皇子ロギウスだった。
白く染まった髪を揺らし。
彼は皇帝の前へ進み出る。
「ローゼンバーグとの和平を」
玉座の間がざわめいた。
ガルディオスの目が動く。
「……貴様」
「余に、降伏せよと言うのか」
「いいえ」
ロギウスは即座に否定した。
「降伏ではありません」
「和平です」
そして。
一拍置く。
「それが叶わないのであれば、最低でも停戦を結ぶべきです」
「馬鹿な!」
居並ぶ者の一人が声を上げた。
「帝国にはまだ兵がいる!」
「一度敗れた程度で、なぜあのような小国へ――」
「一度?」
ロギウスの呟きに。
男の声が止まった。
「我々は、五万を動かしたのです」
北へ一万。
山へ六千。
そして。
後方に三万四千。
「その兵力をもって」
ロギウスは静かに尋ねた。
「ローゼンバーグの町を一つでも落としましたか?」
沈黙。
「村を一つでも?」
誰も答えない。
「砦を一つでも?」
答えは。
なかった。
「我々は兵を失いました」
「精鋭を失い」
「将を失い」
「皇族すら、大きく傷ついた」
ロギウスの指先が。
僅かに震えた。
「ですが」
「あの国は違う」
脳裏に浮かぶ。
黒薔薇の女王。
何一つ失わず。
最後まで。
楽しそうに自分達を見ていた女。
「ローゼンバーグは、今回の戦でほとんど疲弊していません」
「本土へ戦火すら届いていない」
「町も」
「村も」
「生産も」
「民の生活も」
「何一つ、壊れていない」
ガルディオスの表情が変わる。
だが。
ロギウスは止まらない。
「そして」
喉が。
僅かに鳴った。
「我々は」
「あの国の主力と、まともに戦ってすらいないのです」
玉座の間から。
物音が消えた。
北で。
一万を止めたのは。
たった三人。
山へ入った軍は。
戦場へ辿り着く前に崩壊した。
そして。
黒薔薇の女王本人は。
剣を振るってすらいない。
「陛下」
ロギウスは皇帝を見た。
「今なら、まだ和平です」
「帝国には、交渉するだけの力が残っています」
「ですが」
もし。
次に。
あの女が攻める側へ回ったなら。
その想像だけで。
背中に冷たい汗が流れた。
「負けるのは」
「帝国です」
「…………」
ガルディオスは。
白くなった息子の髪を見た。
「そこまで……」
掠れた声で問う。
「そこまで、あの女が恐ろしいか」
ロギウスは。
否定しなかった。
「……はい」
迷いすら。
なかった。
だが。
恐怖しているから、和平を求めているのではない。
恐怖するだけの理由があるから。
戦ってはいけないと理解したのだ。
「条件は」
ガルディオスが問う。
ロギウスは答えた。
「ローゼンバーグ前王時代に帝国領となった、北の砦より先の土地を返還します」
「旧国境まで、国境線を戻すのです」
ざわめきが起こる。
だが。
それは。
元々帝国の土地ではない。
帝国にとって。
特別な富を生み出す土地でもない。
失っても。
帝国の根幹が揺らぐことはない。
一方で。
ローゼンバーグにとっては。
帝国から旧領を取り戻したという、明確な戦果になる。
互いに。
和平を結ぶ理由として使える。
「土地を差し出すのではありません」
ロギウスは言った。
「元へ戻すだけです」
「それだけで、あの国と戦わずに済むのであれば」
一度。
息を吸う。
「安いものです」
ロギウスには。
確信に近いものがあった。
エミリアの態度を見る限り。
あの女は。
帝国そのものには興味がない。
帝国を征服したいわけでも。
皇帝を殺したいわけでも。
領土を奪いたいわけでもない。
こちらから手を出さなければ。
おそらく。
何もしない。
だが。
おそらくでは。
駄目なのだ。
ロギウスが欲しいのは。
勝つための方法ではない。
逃げるための方法ですらない。
ただ。
一つ。
――二度と、あの女と戦わなくて済むという確証。
それだけだった。
「……使者を出せ」
長い沈黙のあと。
皇帝ガルディオスは告げた。
その声には。
かつて玉座の間を震わせた覇気は。
もう残っていなかった。
◇
ローゼンバーグ侵攻以降。
皇帝ガルディオスは急速に老け込んだ。
背は曲がり。
頬は痩せ。
かつて周囲を圧していた覇気は、嘘のように消えていった。
そして。
皇帝と共に。
帝国そのものもまた。
勢いを失っていく。
これまで帝国の軍事力を恐れ。
従っていた諸侯。
征服地。
辺境の民族。
各地で。
反乱の火が上がり始めた。
以前ならば。
帝国軍が向かえば。
それだけで鎮圧出来た。
だが。
もう。
その力はない。
一つを鎮めれば。
別の場所で火が上がる。
そこへ兵を送れば。
さらに別の土地が離反する。
大陸全土を飲み込むために広げ続けた国土が。
今度は。
帝国そのものの首を締め始める。
そして。
長い時間をかけ。
バルディア帝国が確実に支配出来る土地は。
帝都と。
その周辺へと。
少しずつ縮んでいくことになる。
かつて。
大陸全土を征服すると豪語した巨大帝国。
その帝国は。
自らが小石と侮った一つの王国に躓き。
かつての勢いを。
二度と取り戻すことはなかった。
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