地下室に眠る天才④
王城へ戻った頃には、老人はほとんど意識を失っていた。
担架のまま王城の一室へ運び込まれ、寝台へ横たえられる。付き添っていたハルトは、そのあまりに弱り切った姿を見て眉を寄せた。
「エミリア様、すぐに医師を――」
「必要ないわ」
エミリアは首を振った。
「ここからはルミに任せる。ハルト、貴方は外で待っていて」
「しかし――」
「大丈夫よ」
有無を言わせない口調だった。
ハルトは納得していない様子だったが、やがて一礼して部屋を出ていく。
扉が閉じた。
残ったのはエミリアとルミ、そして死の淵にいる老人だけだった。
老人が薄く目を開く。
「……城か」
「ええ。約束通り連れてきたわ」
「研究室は……?」
「貴方、本当にそれしか考えてないのね」
エミリアは呆れながらも、少しだけ笑った。
「その前に問題があるわ。今の身体じゃ研究どころじゃないでしょう?」
老人は自分の手を見る。
震えている。指先にはほとんど力が入らず、視界も霞んでいた。
「……そうだな」
「だから、身体を替えるわ」
老人の目だけが僅かに動いた。
「替える?」
「新しい身体を用意するの。今より若くて、健康で、手も震えない。目だってちゃんと見えるわ」
老人は数秒だけ黙った。
「研究はできるのか?」
「もちろん」
「なら、やれ」
「即答なのね……」
「この身体に未練はない」
あまりにも簡単な答えだった。
エミリアはルミを見る。
「だそうよ」
「分かりました」
ルミが寝台へ近づく。
老人は銀髪のメイドを見上げた。
「お前にそんなことが出来るのか?」
「出来ますよ」
ルミは微笑んだ。
「ただし、一度始めたら元の身体には戻れません」
「構わん」
「新しい身体が、今までとは大きく違っていても?」
「研究に支障がなければ何でもいい」
ルミがエミリアを見る。
エミリアも肩を竦めた。
「本人がそう言ってるんだから、いいんじゃない?」
「では」
ルミが老人の額へ手を伸ばす。
柔らかな月光のような光が部屋を満たした。それは魔法とは明らかに違う、もっと静かで根源的な何かだった。
老人の身体から淡い光がゆっくりと浮かび上がる。
魂。
長い年月を生きた老人の魂を、ルミは壊れ物を扱うように優しく掬い上げ、傍らに用意されていた新しい器へと導いていく。
「これで貴方も、エミリアのドールズですね」
最後に聞こえたルミの声を境に、老人の意識は深い闇へ沈んでいった。
◇
目を覚ます。
柔らかい。信じられないほど柔らかい。
ここは……?
ベッドの上だろうか。こんな寝具など知らない。何が起きた?
身体に違和感がある。だが、先程までの記憶が蘇る。
黒いドレスの女。
自分を理解した女。
自分を認めた女。
そこで私は飛び起きた。
軽い。
身体が軽い。信じられないほど。
「気分はどうかしら?」
声が聞こえる。
焦点の合わなかった視界が鮮明になり、そこにいたのは言葉で表現できないほど美しい女性だった。
漆黒のドレス。夜空を切り取ったような黒に、銀の刺繍が流れ星のように走っている。
まるで――悪の女王。
そんな言葉が自然と浮かんだ。
その後ろには、銀髪のメイドが静かに控えている。
「あなたは……?」
「そういえば、ちゃんとは名乗っていなかったかしら?」
女は微笑んだ。
「私はエミリア。ローゼンバーグ王国第一王女よ」
息が止まる。
王女。それも第一王女。
慌てて姿勢を正そうとした。
その時。
ふにょん。
柔らかい何かが腕に当たった。
いや、当たったのではない。
ついていた。
下を見る。
見慣れない双丘。細い腕。白い指。
「……は?」
声が高い。
しわがれた老人の声ではない。鈴の音のような声だった。
混乱する。何が起きているのか、何も分からない。
それでも、礼だけは言わなければならないと思った。
「わ、わたしの名前は――」
「そんなものいらないわ」
言葉が止まる。
頭が真っ白になった。何か気を損ねたのだろうか。
「昔の名前なんて知らないし、興味もないもの」
エミリアが視線を向けると、ルミが姿見を運んできた。
そこに映っていたのは、知らない女性だった。
長い金髪。柔らかく波打つ髪が腰まで流れ、知性を感じさせる琥珀色の瞳がこちらを見ている。
整った顔立ち。
息を呑むほど美しい女性。
それが、自分だった。
「貴方の身体は、もう昔のものじゃないわ」
エミリアは満足そうに言う。
「ルミに新しい身体を用意してもらったの。だから、その身体に相応しい名前をあげる」
紫の瞳が細められた。
そして、宣言する。
「貴方の名前はクロエよ」
その日、長い地下生活を終えた老人は、クロエになった。
それからエミリアは、紙に奇妙な図を描いていた。
それを見たクロエが、興味深そうに身を乗り出す。
「ほう? 何を書いているんだい?」
エミリアは得意げに紙を持ち上げた。
「便器よ」
数秒の沈黙。
クロエは真顔になった。
「便器?」
「水の力だけで汚物を流す装置よ」
クロエの目が細くなる。
「ほう? 魔法は?」
「使わないわ」
「ほう?」
「使わないの」
クロエは椅子から立ち上がり、エミリアから紙を奪い取った。
「詳しく」
エミリアは満足そうに頷く。
どうやら食いついたらしい。
「高い場所に水を貯めるの。そして管を繋ぐ。後は勝手に流れるわ」
クロエは図面を凝視した。
「待て。待て待て待て」
指が図面の上を走る。
「つまり、水そのものが重要ではないな?」
「ええ。高い場所が重要よ」
クロエの口元が吊り上がった。
「なるほど。水を利用しているように見えて、実際は高さを利用しているわけか。面白い」
ぶつぶつと呟きながら図面へ書き込み始める。
しかし次の瞬間、クロエは顔を上げた。
「だが待て。水魔法で良いのでは? 魔道バッテリーでも動かせるだろう」
エミリアはあっさり頷く。
「城だけならね」
クロエの動きが止まった。
「……ほう?」
エミリアは紙の端に数字を書く。
十。百。千。一万。
数字が増えるたびに、クロエの眉が寄っていく。
「足りないな」
「でしょう? 王都全部となると魔道バッテリーでは厳しいわ。維持費も掛かるし、故障もする。魔法使いだって必要になる」
クロエは腕を組み、しばらく唸った。
「では?」
エミリアは新しい図を描く。
一本の大河。巨大な貯水池。そして、王都へ伸びる管。
「川を使う。高低差を使う。自然を使う」
クロエは図面を凝視した。
数秒。
十秒。
二十秒。
やがて口元が緩む。
「ククッ。なるほど。人を使わない。魔力も使わない。自然そのものを働かせるのか」
エミリアは楽しそうに微笑んだ。
「その方が美しいでしょう?」
「美しい?」
「ええ」
エミリアは頬杖をつく。
「誰か一人に頼らない。誰かが居なくなっても動く。百年後も、千年後も、私の王都を動かし続ける。それって、とても美しいと思わない?」
クロエは再び図面を見下ろした。
川。貯水池。配管。水圧。自然の流れ。
単純。
だが巨大。
そして――確かに無駄がない。
長い沈黙の後、クロエの口元が大きく吊り上がった。
「面白いじゃないか。実に面白い。美しいかどうかは知らないが、これは研究しがいがある」
エミリアは満足そうに頷く。
「そう。気に入ったのね」
クロエは既に新しい紙を取り出していた。
「取水設備、貯水池、沈殿槽、ろ過装置、配管、圧力管理……王都全域への展開」
猛烈な勢いで書き殴り始める。
エミリアはその姿を眺めながら、小さく笑った。
どうやら釣れたらしい。
◇
数日後。
「クロエ」
「何だい?」
「研究は一旦中断よ」
エミリアはそう言って研究室へ乗り込んだ。
クロエは不思議そうに首を傾げる。
「上水設備の設計が佳境なんだが?」
「だからよ。今の貴方を表へ出すことはできないわ」
「何故?」
「鏡を見なさい」
クロエは素直に鏡を見る。
乱れた金髪。インクの付いた指。煤の付いた頬。
研究者なら必要だろうと、とりあえず用意しておいた白衣も、僅か数日で皺と染みだらけになっていた。
「なるほど」
エミリアは少し安心した。
理解したらしい。
「研究に集中しすぎたな」
「違うわ」
即答だった。
エミリアは深く溜息を吐き、椅子へ腰掛ける。
「まず説明するわ。その前に、ルミのことも教えておく必要があるわね」
クロエがルミを見る。
「この子の本当の名前はルミナ。月と死と転生を司る、この世界の六柱神の一柱よ」
「……神?」
「ええ」
クロエは数秒だけルミを見つめた。
「後で身体の構造を調べても?」
「駄目よ」
「まだ何も言ってませんよ?」
ルミが苦笑する。
「顔を見れば分かるわ」
エミリアは話を戻した。
「そして、貴方のその身体。正式名称は【黒薔薇人形】――ブラック・ドールズ。普段はドールズと呼ぶわ」
クロエは興味深そうに頷く。
「格好いいな」
「でしょう?」
エミリアは満足そうだった。
「ルミが創造した神造人間。私直属の最高幹部で、高い身体能力と成長性を持つ。そして魂と器が少しずつ融和して、器に相応しい人格へと変化していくわ」
「興味深い」
クロエは自分の身体を見下ろし、腕を動かし、脚を曲げる。そして胸元へ視線を落とした。
「特にこの脂肪は――」
「そこじゃないわ」
エミリアが即座に止めた。
「何故女性なのか。何故美しい身体なのか。それを説明しているの」
クロエは真面目に聞いている。
「私の直属には美しさが必要だからよ。私の美学ね」
「なるほど」
クロエは考え込む。
だが、まだ腑に落ちないらしい。
「そこで」
エミリアは用意していた箱を取り出した。
「今日からこれを着なさい」
クロエが箱を開ける。
そこには、深いスリットの入った黒いチャイナドレス。
新しい白衣。
そして眼鏡。
「ほう。白衣は理解できる」
クロエは眼鏡を持ち上げた。
「これは?」
「眼鏡よ」
「見れば分かる。何故付ける?」
「知的に見えるでしょう?」
「私は知的だが」
「そういう話じゃないの」
エミリアは頭を抱えた。
「視力補正機能は?」
「無いわ」
「魔力補助機能は?」
「無いわ」
「防御機能は?」
「無いわ」
「では何故?」
エミリアは叫んだ。
「見た目よ!」
それから三日間。
クロエにとっては研究以上に理解し難い、悪の美学レッスンが行われた。
三日後、着替え終わったクロエが姿見の前へ立っていた。
深いスリットの入った黒いチャイナドレスに白衣。長い金髪に、伊達眼鏡。
間違いなく美しかった。
だが、クロエは難しい顔をしている。
「気に入らない?」
エミリアが聞く。
「いや。理解しようとしている」
クロエは鏡を見つめ、静かに口を開いた。
「私は今まで、効率だけを求めていた。より良い理論、より良い設計、より良い発明。それだけだ」
エミリアは黙って聞く。
「だが、優れた理論には美しさがある。無駄のない数式、完成された機構、洗練された設計図。人はそれを美しいと呼ぶ」
エミリアの口元が少し緩んだ。
「ならば、人も同じなのかもしれない。外見、所作、言葉、振る舞い。それらを磨くことで完成度を高める」
クロエはゆっくり頷く。
「確かに、それが出来ないのは損失だ。研究対象としても興味深い」
エミリアが立ち上がった。
「そう! それが悪の美学よ!」
ようやく伝わった。
クロエも納得したように頷く。
「理解した」
エミリアは満足そうだった。
本当に理解したらしい。
その時だった。
「でも」
クロエが眼鏡を持ち上げる。
「これは?」
沈黙。
エミリアは数秒考えた。
「目の保護よ!」
ヤケクソだった。
横でルミが吹き出す。
「嘘ですね」
「ルミ!」
こうして、クロエへの三日間に及ぶ悪の美学レッスンは終了した。
◇
「エミリア様!」
勢いよく執務室の扉が開いた。
飛び込んできたのはクロエだった。
深いスリットの入った黒いチャイナドレス。白衣。そして伊達眼鏡。
三日間に及ぶ悪の美学レッスンの成果である。
もっとも、興奮すると全て吹き飛ぶのだが。
「出来ました!」
案の定だった。
エミリアはペンを置く。
「何が?」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「トイレです!」
沈黙。
エミリアは静かに立ち上がった。
「案内しなさい」
クロエに連れられて向かった先には、白い陶器で作られた便器が置かれていた。
まだ王都に上水設備は存在しない。そのため、魔道バッテリーと既存の魔道具を利用した試作品である。
しかし形状は間違いなく、元の世界で見慣れた水洗トイレだった。
「まだ試作段階ですが、給水機構、排水機構、洗浄機構、全て問題なく動作します。将来的には上水設備へ接続する前提ですね」
エミリアは感動していた。
本当に作った。
この短期間で。
「使っても?」
「もちろんです! むしろ使ってください! 感想をお願いします!」
クロエの目が輝いている。
「では失礼するわ」
エミリアは試作トイレの扉を閉めた。
王国初。
魔道具式水洗トイレ。
まだ上水設備は完成していないため、魔道バッテリーを利用した試作品ではあったが、それでもエミリアにとっては革命だった。
「ついに……」
感慨深い。
元の世界では当たり前。
だが、この世界では夢の設備。
エミリアは静かに腰を下ろした。
数分後。
「……素晴らしいわ」
文明の勝利だった。
思わず天を仰ぐ。
やはり水洗トイレは偉大である。
心からそう思った。
そして、以前の自分の発言を思い出す。
『特にウォシュレットが必要だわ!』
そのため、クロエは律儀に洗浄機能まで搭載していた。
「仕事が早いわね……」
便座の横には、小さな操作部がある。
洗浄。
停止。
そして。
「……ビデまであるの?」
『ビデ?』
(女性用の洗浄機能よ)
『女性用……?』
元のエミリアの声に、微妙な間が生まれた。
蓮も操作部を見つめる。
元の世界では男だった。
ウォシュレット自体は当然知っているし、何度も使っていた。
しかし。
(……そういえば、こっちは使ったことないのよね)
『え?』
(ビデ)
沈黙。
『使うんですか?』
(せっかくクロエが作ったんだもの。動作確認は必要でしょう?)
『何でちょっと楽しそうなんですか!?』
(研究よ、研究)
『絶対違います!』
頭の中から抗議が飛んでくるが、無視する。
何しろ今の身体は女性だ。
元の世界では使う機会のなかった機能を、実際に試すことが出来る。
「……まあ、試作品の確認は必要よね」
『言い訳にしか聞こえません!』
まずは通常の洗浄機能。
魔道具のスイッチを押す。
次の瞬間。
「ひゃっ!?」
身体が跳ねた。
予想以上だった。
冷たい。
くすぐったい。
妙な感覚だった。
『な、何ですか今の!?』
(ウォシュレットよ)
『ウォシュレット!?』
(説明すると長いわ)
『凄いです! 凄いです! 凄いです!』
(落ち着きなさい)
『だって凄いじゃないですか! 水が! お尻を!』
(言わなくていいわ)
エミリアは額を押さえた。
頭の中が騒がしい。
『これ、王城全部に付けましょう!』
(そのために水道を作ってるのよ)
『天才ですか!?』
(当然でしょう)
『さすがです! 未来の悪の女王です!』
(でしょう?)
少しだけ気分が良くなる。
通常洗浄を止め、もう一度操作部を見る。
「次は……」
ビデ。
『本当にやるんですか!?』
(動作確認よ)
スイッチを押す。
「――っ!?」
反射的に背筋が伸びた。
先ほどとは、水の当たる位置が違う。
蓮は思わず目を瞬いた。
「なるほど……本当に位置が違うのね」
『感心するところなんですか!?』
(いや、元の世界じゃ使う機会なかったし)
『どうしてです?』
(男だったから)
『……あっ』
ようやく元のエミリアも納得したらしい。
もっとも。
『でも何でそんなに冷静なんですか!?』
(今の身体で確認できるんだから、確認するでしょう?)
『研究者みたいなこと言い始めました!』
(クロエに感化されたかしらね)
しばらく試してから停止する。
機能そのものは問題ない。
ただし。
「冷たいわ」
これは駄目だ。
便利ではある。
だが、快適とは言い難い。
「温水ね」
『温水?』
「ええ。ここまで作ったなら、温かい方がいいに決まってるじゃない」
『また何か始まりました……』
その予感は正しかった。
数分後、扉を開ける。
「どうでした!?」
待ち構えていたクロエが飛び出してきた。
目が輝いている。
完全に発明家の顔だった。
「ほぼ完璧よ」
「ほぼ?」
「洗浄機能もビデもちゃんと動いたわ。ただし、水が冷たい」
クロエの目が細くなる。
「なるほど……温度ですね」
「温水に出来ない?」
クロエはすぐに考え始めた。
「可能です。ただ、水を温める魔道具を追加するだけでは効率が悪い。温度管理も必要になりますね」
「その話は後。まず資料を見せなさい」
「分かりました!」
既にクロエの頭の中では、次の改良が始まっているらしい。
そのまま二人は執務室へ戻った。
机の上には大量の書類が積まれている。
上水設備計画書。取水設備案。王都配管設計図。沈殿槽設計。ろ過設備案。維持管理計画。
どれも完成度が高い。
「順調ね」
「ええ。面白い研究でした」
「でした?」
クロエはあっさり答える。
「基礎理論は完成しました。後は実務担当者へ引き継げば問題ありません。私は別の研究を始めようかと」
エミリアは苦笑した。
本当に発明バカだった。
普通なら人生を賭けるような大事業である。だがクロエにとっては、基礎を解き終えた時点で既に次の研究対象へ興味が移っているらしい。
「次は何を研究するの?」
クロエの目が輝いた。
「実はですね――」
「待ちなさい。その前に、私も試してみたいことがあるの」
クロエが首を傾げる。
「試したいこと?」
「ええ。少し手伝ってもらえるかしら?」
その笑顔を見て、クロエも笑った。
「もちろんです。面白そうですね」
「でしょう?」
エミリアは立ち上がる。
「研究室へ行くわよ」
こうして、王国初の水洗トイレ完成を祝う暇もなく、新たな研究が始まるのだった。
研究室へ戻ると、クロエは早速、新しい設計図を机いっぱいに広げ始める。
「それでですね、エミリア様。次は魔道バッテリーの小型化を――」
「待ちなさい」
エミリアが手を上げる。
クロエは不思議そうに首を傾げた。
「何でしょう?」
「その前に少し話があるの」
珍しく真面目な声だった。
「実は、今貴方と話している私は、本当のエミリア本人ではないの」
クロエは黙って聞いていた。
「私の本当の名前は橘蓮。別の世界で三十年ほど生きていた人間よ」
「異世界?」
「ええ。死んで生まれ変わったわけじゃないわ。ルミから【憑依】という力を貰って、魂の状態でこの世界へ来た。そして今、このエミリアの身体に憑依しているの」
エミリアは自分の胸元を軽く指す。
「元のエミリア本人も消えてないわ。今もちゃんと中にいる」
『います』
数秒の沈黙。
「なるほど」
クロエはあっさり頷いた。
それだけだった。
エミリアは頭を抱える。
「驚かないの?」
「異世界の知識がありますよね?」
「あるわ」
クロエの目が輝いた。
「最高じゃないですか! 未知の技術! 未知の理論! 未知の文化! もっと早く言ってください!」
『そんなことって……』
頭の中でエミリアの魂が呟く。
王国の存亡に関わりかねない秘密より、異世界知識の方が重要らしい。
「それで本題よ」
エミリアは机の上へ一枚の設計図を置いた。
先程完成したばかりの水洗トイレだった。
「クロエ。今の魔道具って、基本的に一つのことしか出来ないでしょう?」
「そうですね。火を出す、水を出す、風を起こす。基本的には単機能です」
エミリアは設計図を指差す。
「今回のトイレもそう。水を作る。水を動かす。給水する。洗浄する。それぞれ別々の魔道具を組み合わせている」
「ええ。寄せ集めですね」
「でも魔法使いは違うでしょう?」
クロエの表情が変わる。
「火を出して、操って、維持して。複数の術式を扱える」
「……なるほど?」
「なら」
エミリアは笑う。
「魔道具も、同じことが出来るんじゃないかしら?」
クロエは固まった。
「待ってください」
珍しく即答しない。
「その発想自体はあります」
「あるの?」
「ええ。私も考えたことがあります。複数の術式を統合する理論。ですが成立しませんでした」
その声には、僅かな悔しさが混じっていた。
「何かが足りなかったんです」
エミリアは楽しそうに笑う。
「だから試したいの」
「試す?」
「貴方の知識を借りて、私の知識と合わせる。そうすれば、答えが見えるかもしれない」
クロエは数秒呆然とした。
そして。
「面白い! やりましょう!」
「方法は簡単よ」
エミリアは自分を指し、次にクロエを指す。
「私が、貴方の身体を借りるの」
クロエの笑みがさらに深くなった。
「それは実に面白そうですね」
ルミは少し離れた場所で、そんな二人を眺めていた。
蓮は意識を集中する。
エミリアの身体から魂が離れ、そのままクロエへ憑依した。
◇
『あれ……?』
残されたエミリアは目を瞬いた。
指が動く。
腕が動く。
身体が動く。
『動きます……!』
思わず立ち上がった。
久しぶりだった。
自分の身体を、自分で動かす感覚。
『私……私です……!』
感動する。
その時だった。
鏡が目に入る。
『……』
沈黙。
『きゃあああああっ!?』
研究室に悲鳴が響いた。
『なっ!? 何ですかこの格好は!?』
慌てて身体を隠す。
顔が真っ赤だった。
『背中が開いてます! 足も見えてます! 何故こんな服を!?』
ルミは平然としていた。
「中身の趣味ですね」
『良かった……』
一瞬安心する。
「良くないですけど」
『良くないです!!』
◇
一方、クロエの身体へ入った蓮は目を閉じていた。
圧倒的な知識が流れ込んでくる。
魔石学。
術式理論。
素材学。
魔道具理論。
老人が人生を捧げて積み上げた知識の全て。
(何だこれ。頭おかしいだろ)
『褒め言葉として受け取っておきます』
頭の中でクロエが答えた。
(全部理解してるのか?)
『しています』
(全部?)
『全部です』
(怖っ)
蓮は設計図へ視線を落とした。
(やっぱりここだ)
『ええ。私もここまでは辿り着いていました。ですが、その先が見えなかった』
(魔法使いは複数の術式を扱える)
『ええ』
(なら、魔道具も出来るはずだ)
蓮は紙へ線を引く。
術式。
術式。
術式。
それらを繋ぐ。
まるで電子回路のように。
『待ってください』
クロエの声が震えた。
『そうか……術式そのものではない。術式の接続です』
猛烈な勢いで計算を始める。
『出来る。理論上可能です』
(マジか)
『いえ、可能どころではありません。相乗効果が発生します。複数の術式を一つの基盤で制御できる。自動化も可能です。条件分岐も――』
(落ち着け)
『無理です』
蓮も笑った。
そこからは二人が同時に考えた。
蓮が元の世界で知っていた、回路や制御という考え方。
クロエがこの世界で積み上げてきた、魔法と術式の知識。
二つを重ねていく。
一本の基盤上に複数の術式を置き、その間を新しい接続式で繋ぐ。
最初は動かなかった。
次は術式同士が干渉した。
さらに書き直す。
魔力の流れる順番を変え、条件によって次の術式へ送る仕組みを加える。
そして。
机の上に置かれた小さな試作基盤へ、魔道バッテリーから魔力が流れた。
一つ目の術式が起動する。
条件を満たす。
二つ目へ魔力が渡る。
さらに三つ目へ。
最後まで止まらない。
蓮とクロエは、しばらく無言でそれを見つめた。
動いた。
一つの魔法を再現しただけではない。
複数の術式を、一つの基盤が順序立てて動かした。
『……出来ましたね』
(ああ)
二人は紙を見る。
回路を見る。
そして理解した。
これは、ただの新しい魔道具ではない。
新しい技術体系だ。
(魔道具じゃないな)
『ええ』
(新しい技術だ)
クロエは静かに笑った。
『これから生まれるものは、魔道具ではありません』
少しだけ間を置く。
『魔導具です』
魔法を使うための道具ではない。
魔法を導き、繋ぎ、制御する道具。
同じ音。
だが、その意味は全く違う。
(じゃあ、この技術そのものは?)
『新しい学問になりますね』
科学と魔法。
蓮の世界と、この世界。
二つが重なって生まれたもの。
(魔科学)
クロエが笑った。
『いい名前です』
しばらくして、蓮はエミリアの身体へ戻った。
机の上に残された回路図へ目を向ける。
「……あれ?」
分かる。
クロエが持つ膨大な知識を全て理解できるわけではない。
だが、先ほど二人で組み上げた理論だけは、感覚として残っていた。
どこへ魔力が流れ、何を条件に、どう次の術式へ繋がるのか。
「……面白いわね」
エミリアの口元が緩む。
その時だった。
「エミリア様!!」
クロエが勢いよく立ち上がった。
「予算ください!」
「いくら?」
「とりあえず全部です!」
「却下よ」
「では半分で!」
「却下」
「四分の一!」
「却下」
「十分の一!」
「何に使うの?」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「温水です!」
沈黙。
「温水?」
「トイレから温水を出せるようにします! 冷たい水しか出ませんからね! 快適性向上です! 王国の未来です!」
エミリアは額を押さえた。
「……善処するわ」
「やりました!」
その日、ローゼンバーグ王国に【魔科学】という新たな学問が誕生した。
そして、世界で最初の【魔導具】が形になった。
なお。
その技術が最初に本格投入される予定の研究テーマは――温水洗浄便座だった。




