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終曲への行軍

――翌日。


太陽は、既に山の真上近くまで昇っていた。


本来なら、夜明け前後には王国側へ抜けているはずだった。だがグラゼル達は、未だ山の中にいる。


夜が明ければ多少は楽になる。誰もがそう思っていた。


暗闇が消えれば道が見える。奇妙な声も、人影も、夜の闇が作り出した錯覚だったと笑えるようになる。


そんな期待は、朝日と共に消えた。


明るくなっても、道は分からなかった。


むしろ視界が開けたことで、自分達がどれほど深い山中にいるのかを嫌というほど思い知らされる。


同じような尾根。

同じような谷。

同じような木々。


目印になるものが、何もない。


ゼルクが先行し、何度も周囲を確認する。その度に本隊は止まった。


「目印は?」


ロギウスが尋ねる。


「この辺りはありません。元から、人がまともに使う場所じゃないんですよ」


ゼルクは周囲を見回した。


「少し先まで見てきます」


また待つ。


戻ってくる。


進む。


分岐が現れる。


止まり、確認し、また進む。


それを何度も繰り返した。


沢へ寄った。

道を探し直した。

人数確認のために止まった。

消えた兵を探した。

崩れた足場を直した。

勝手に離れようとした兵を連れ戻した。


確かに歩いている。


何時間も。


それなのに、前へ進んでいるという感覚だけが、どんどん失われていった。


「……またかよ」


兵士の一人が前方の岩を見た。


「何だ?」


「いや……」


昨日から何度目か分からない。


見覚えのある岩。

見覚えのある倒木。

見覚えのある斜面。


同じ場所なのか。


似ているだけなのか。


もう、誰にも自信がなかった。



昼を過ぎた頃。


後方から、一人の兵士が走ってきた。


「伝令!」


その声に、周囲の兵達が一斉に振り返る。


後方。


その言葉だけで、一瞬、僅かな期待が生まれた。


「ドレヴァン隊か?」


「追いついたのか?」


伝令兵は息を切らせながら、グラゼル達の前へ駆け込んだ。


「殿下!」


膝をつく。


「後方部隊より、報告いたします!」


ロギウスが即座に口を開いた。


「待て」


伝令兵を見る。


以前なら、そのまま報告を受けていただろう。


今は違う。


「所属」


「第十二後方支援隊!」


「隊長名は」


伝令兵が答える。


「識別印」


差し出す。


「合言葉」


答える。


一つ。

また一つ。


全て合っている。


レグナスも、黙って伝令兵を観察していた。


不審な点はない。


「……続けろ」


ロギウスが言った。


伝令兵は一度息を整え、そして口を開く。


「ドレヴァン隊は……壊滅しました」


空気が止まった。


「何?」


グラゼルの声が低くなる。


「壊滅、だと?」


「はい」


伝令兵の声が震えた。


「北砦群から敗走した兵が、山中へ逃げ込んできました」


ロギウスの顔色が変わる。


「待て。北砦群から?」


「はい」


「……では、ガルドス殿下の軍が」


伝令兵は俯いた。


「敗れたものと思われます」


誰も、すぐには言葉を出せなかった。


一万。


陽動とはいえ、帝国が送り込んだ一万の軍。


それが、負けた。


「それで」


グラゼルが尋ねる。


「何故ドレヴァン達が壊滅する」


「敗残兵を、王国兵が追撃していたようです」


伝令兵が続けた。


「山へ逃げ込んだ兵を追って、王国兵の一部が山中へ侵入。そのまま、道を開いていたドレヴァン様の部隊と接触しました」


レグナスの目が鋭くなる。


「交戦したのか」


「はい」


「ドレヴァンは?」


伝令兵が唇を噛んだ。


「討ち取られました」


沈黙。


レグナスは何も言わない。


朱槍のドレヴァン。


正面から戦わせれば、自分達の中でも誰より頼りになる男だった。


そんな男が、簡単に死ぬとは思えない。


だが昨日から、あり得ないことばかりが起きている。


「……あの馬鹿が」


レグナスが低く呟いた。


「簡単に死ぬかよ」


伝令兵が顔を上げる。


「最後まで、戦っておられました」


「……そうか」


それ以上、レグナスは何も言わなかった。


「指揮系統は」


ロギウスが尋ねる。


「ドレヴァン様から、生存した者へ引き継ぐよう命令が出されました。それで工作兵達が開いていた崩落箇所を、人が何とか通れる程度まで広げ、通れる者から離脱しております」


「お前はそこを抜けてきたのか」


「はい」


ロギウスは少し考えた。


そして。


「どれほど掛かった」


「……はい?」


「ドレヴァン隊の位置から、ここまでだ」


伝令兵が戸惑う。


「正確には分かりません。途中で何度か道を確認しましたので」


「大体でいい」


伝令兵は少し考えた。


「数時間も……掛かってはおりません」


誰も動かなかった。


レグナスの顔から表情が消える。


「……は?」


伝令兵を見る。


「数時間?」


「はい」


「俺達は」


レグナスが周囲を見る。


「昨日からずっと歩いてたんだぞ」


誰も答えない。


夜を越えた。

朝を越えた。

昼になった。


歩いた。


何時間も。


何時間も。


なのに。


後方に取り残されたはずの部隊と、大して距離が開いていない。


「……ゼルク」


ロギウスが呼ぶ。


ゼルクは僅かに眉を寄せた。


「あり得ない話じゃありませんよ」


「理由は」


「山道です」


ゼルクは地面へ視線を落とす。


「直線で進んでるわけじゃない。沢にも寄った。道を探し直した。迂回もした。何度も止まってる」


そして山を見回した。


「歩いた距離と、進んだ距離は同じじゃない」


理屈は分かる。


正しい。


だが、その正しさが余計に兵達を怯えさせた。


「……じゃあ」


どこかで兵士が呟いた。


「俺達、ずっとこの辺を歩いてたのか?」


別の兵士が言う。


「王国兵が後ろまで来てるってことか?」


「じゃあ戻れないじゃないか」


「前にも何かいる」


「後ろには王国兵」


「横は山だぞ」


ざわめきが広がる。


「おい」


「俺達、囲まれてるんじゃないのか?」


「違う!」


兵長が怒鳴った。


だが、その声は昨日ほど兵達を黙らせなかった。


「何が違うんです!」


「仲間は消える!」


「道は分からない!」


「後ろから敵まで来てる!」


「静まれ!」


「どこへ行けばいいんだよ!」


声が重なる。


それぞれが、違う音を奏で始める。



「全員、黙れ!」


グラゼルの声が山中へ響いた。


ざわめきが少しずつ止まる。


グラゼルはロギウスを見る。


「戻れるか」


ロギウスは、すぐには答えなかった。


後方には崩落。


離散した部隊。


混乱した兵。


そして、王国兵が侵入しているという報告。


「……いいえ」


やがて首を横へ振る。


「戻るべきではありません」


昨日。


戻るべきだと進言した男が、今日はそう言った。


「今の軍を反転させれば、狭い山道で前後を入れ替えるだけでも大きな混乱が起きます。後方には崩落もある。王国兵が進入している可能性もある」


レグナスも頷いた。


「俺も反対だ」


所々で途切れ始めた隊列を見る。


「この状態で後ろ向けって言ったところで、全員が後ろ向くとは思えねえ」


オルディンも静かに口を開く。


「兵の疲労も限界へ近づいております。同じ道を、もう一度歩かせる余裕はありません」


グラゼルはゼルクを見る。


「前は」


「抜けられるのか」


ゼルクが少し考える。


「道さえ外さなければ、抜けられます」


「今日中に?」


「……保証はできません」


正直な答えだった。


「ですが」


ゼルクは前方を見る。


「戻るよりは、出口へ近い」


グラゼルは目を閉じた。


奇襲。


既に、そんなものは消えている。


夜明けに王国へ襲いかかる。


その計画は、とうの昔に破綻していた。


今、考えるべきことは一つ。


この山から出ること。


「……進む」


グラゼルが目を開いた。


ロギウスが黙って次の言葉を待つ。


「奇襲は捨てる。作戦速度も、隊列の維持も、必要なら捨てろ」


兵達がグラゼルを見る。


「負傷者を置き去りにしろとは言わん。動ける者が支えろ」


一度、言葉を切る。


「だが、一人のために全軍を止めるな」


オルディンが僅かに目を伏せた。


厳しい。


だが、今は必要だった。


「我々の目的を変更する」


グラゼルが前方を指す。


「王国軍を奇襲することではない」


「山を抜ける」


「まず、それだけを考えろ」


そして。


「多少の犠牲は、覚悟する」


「前へ出るぞ」



そこからの行軍は、さらに形を失った。


本来なら軍は隊列を整え、指揮官の号令で同じ速度で動く。


だが今は違う。


進める者から進む。


狭い場所では一列になる。


遅れた者を待たない。


後ろから追いつく。


また離れる。


そんな行軍だった。


「前へ!」


「止まるな!」


「道を空けろ!」


ゼルクが先頭を進み、少しでも通れそうな場所を探す。


時には、本来の抜け道すら外れた。


「こっちだ!」


「ここなら尾根を越えられる!」


兵達が続く。


だが、全員ではない。


「嫌だ!」


一人の兵士が叫んだ。


「そっちは森だ!」


「道じゃない!」


「ここに道なんかもうねえよ!」


別の兵が怒鳴り返す。


「沢を下りる!」


「水沿いなら人里へ出られる!」


「勝手に行くな!」


「王国兵が後ろから来てるんだぞ!」


十人。


二十人。


兵が本隊から外れる。


隊長が呼び戻す。


戻る者もいる。


戻らない者もいる。


「放っておけ!」


レグナスが怒鳴った。


「今は前を止めるな!」


その判断は正しい。


だがその瞬間、二十人が軍から消えた。


死んだのではない。


戦ったのでもない。


ただ、別の道を選んだ。



「第七隊!」


「応答しろ!」


返事がない。


「第七隊はどこだ!」


「さっきの分岐までは!」


「その後は分かりません!」


「伝令を――」


ロギウスが言いかけて、止めた。


伝令を一人では出せない。


二人。


三人。


護衛を付ける。


その分、また人を使う。


「……やめろ」


ロギウスが言った。


「本隊を止めるな」


自分の口から、その言葉が出る。


少し前までなら、あり得なかった。


部隊を置いて進む。


だが探しに戻れば、本隊まで止まる。


「進め」


命令を出す。


第七隊は戻らなかった。



夕刻。


人数確認が行われた。


「正確な数字は?」


グラゼルが尋ねる。


兵長が答えに詰まった。


「……分かりません」


「分からない?」


「所在を確認できない部隊が、多すぎます」


離散。


脱走。


別路。


負傷者。


捜索へ出たままの者。


後方に残った者。


命令が届いていない者。


「本隊に現在ついてきている人数だけなら」


兵長が喉を鳴らした。


「千を、大きく下回っています」


グラゼルの手が僅かに握られる。


六千。


山へ入った時、自分の後ろには六千の兵がいた。


今。


目の前にいるのは、その一部。


「残りは?」


「……山中です」


それしか答えようがなかった。


死んだわけではない。


少なくとも、大半はそうだろう。


だが、どこにいるのか分からない。


軍は消滅していない。


ただ。


六千という一つの形を失った。



日が沈む。


また夜が来た。


その瞬間、兵達の間に明確な恐怖が走った。


「……また夜か」


誰かが呟く。


昨夜、何が起きた。


声。


影。


消える仲間。


崩れる道。


誰も忘れていない。


「止まるな!」


ロギウスが叫ぶ。


「今夜は止まらない!」


それは、休ませたくないからではない。


止まれば。


恐怖が追いつく。


そう分かっていた。


進む。


ただ、進む。


足を引きずり。


仲間の肩を借り。


荷物を捨てる。


盾を捨てる。


一部の鎧を外す。


持てないものを山へ置いていく。


もはや。


戦うための行軍では、完全になくなっていた。


生きるために歩いている。


「もう少しだ!」


ゼルクが叫ぶ。


何度目か。


誰も信じようとしなかった。


「本当だ!」


「この先は下りになる!」


「抜け道の出口は近い!」


兵達は、ただ足を動かす。


信じるからではない。


止まる方が怖いから。



また、人が減る。


「もう歩けない……」


地面へ座り込む兵。


「立て!」


「無理だ」


「立て!」


仲間が腕を掴む。


だが別の兵士が、それを止める。


「行け」


座り込んだ兵が笑った。


「俺は少し休んだら、後から行く」


誰もが、それが難しいことを分かっていた。


それでも。


「……必ず来いよ」


そう言って進む。


一人。


また軍から離れる。


別の場所では五人が森へ消えた。


誰も追わない。


追えない。


さらに十数人。


別の尾根へ。


負傷兵と、その護衛。


道を見失った一団。


進むほどに、グラゼルの後ろは短くなっていった。



夜も深くなった。


声すら少ない。


怒鳴る体力も、もう残っていない。


ただ足音と、荒い呼吸と、装備がぶつかる音だけが続く。


ロギウスは何度も後ろを見た。


兵が少ない。


あまりにも少ない。


「……何人だ」


誰へともなく呟く。


レグナスが隣を歩く。


「数えるか?」


「……いや」


ロギウスは首を振った。


今は、数えたくなかった。


数えれば。


現実になる。



「見えた!」


前方から声が上がった。


全員が顔を上げる。


ゼルクが、少し先。


木々の向こうを指していた。


「出口だ!」


その言葉だけで、兵達の足が僅かに速くなる。


森が薄くなる。


木々の間隔が広がる。


斜面が緩やかになる。


岩ばかりだった足元に、土が増えていく。


一人の兵士が転んだ。


それでも笑った。


「……道だ」


その先。


月明かり。


木々の向こうに、開けた場所が見える。


「出られる」


誰かが呟いた。


「出られるぞ」


そして一人。


また一人。


森を抜ける。


グラゼルも木々の間を抜けた。


風が頬を撫でる。


山中の湿った空気とは違う。


広い空。


月。


そして。


平地。


「……出た」


誰かが声を漏らした。


その瞬間。


兵士達が次々と地面へ崩れ落ちた。


座り込む者。


仰向けになる者。


声を殺して泣く者までいた。


山を抜けた。


ようやく。


抜けた。


グラゼルは振り返る。


ロギウス。


レグナス。


オルディン。


ゼルク。


そして、その後ろに残った兵達。


少ない。


数えるまでもない。


六千など、どこにもいない。


千すらいない。


百を僅かに超える程度。


山へ入った時。


帝国最精鋭と呼ばれた六千の軍。


そのうち。


グラゼルと同じ出口へ辿り着いた者は。


それだけだった。


「……これだけか」


グラゼルの声が掠れた。


ロギウスは答えない。


残りは山の中。


別の道を歩いているかもしれない。


沢を下っているかもしれない。


どこかで休んでいるかもしれない。


王国兵に捕らえられた者もいるかもしれない。


死んだ者もいるだろう。


だが。


一つだけ。


確かなことがある。


六千の軍は。


もう。


存在しない。


敵軍とまともに戦うことすらなく。


ただ山を歩いただけで。


一つの軍勢としては。


完全に消えた。


グラゼルは空を見上げる。


満月。


まだ高い。


そして。


ふと気づく。


日付が変わるまで。


もう、それほど時間は残っていない。


疲労で震える手を握る。


身体は重い。


足は痛い。


喉も渇いている。


だが。


あと少し。


あと少しで。


女神の祝福が。


再び自分へ降りる。


グラゼルは月を見上げた。


軍は失った。


作戦も失敗した。


それでも。


自分は、まだ生きている。


その瞳には。


完全には消えていない光が。


まだ残っていた。


――日付が変わるまで。


あと僅かだった。


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