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月の狂奏曲

――その頃。


崩落によってドレヴァン達と切り離された本隊は、なおも山中を進んでいた。


だが、そこから先。


道は、明らかに姿を変えた。



これまで曲がりなりにも「道」と呼べていたものが、急速にその形を失っていく。


傾斜は増し、土は消え、剥き出しになった岩肌と絡み合った木の根ばかりが足元を覆う。


場所によっては、一人ずつ岩の隙間を抜けなければならない。


別の場所では工作兵が縄を張り、それを掴みながら斜面を横切った。


足を滑らせれば、そのまま数メートル下まで転げ落ちる。


人ひとりが通るだけなら。


まだ、道と言えたかもしれない。


だが。


数千もの軍勢が進む場所ではなかった。



「……おい」


レグナスが前方を見ながら呟いた。


「本当にこっちで合ってんのか?」


誰もが心のどこかで抱き始めていた疑問だった。


ゼルクが振り返る。


「合ってますよ」


「さっきまでと違いすぎるだろ」


「あそこまでは山の外側ですからね」


ゼルクは周囲を見回した。


「今が、ちょうど中ほどでしょう」


「人の手が一番入りにくい場所まで来たってことです」


グラゼルが足元の岩を踏み越える。


「では、この険しさが本来の姿ということか」


「そんなところでしょうね」


ゼルクは肩をすくめた。


「そもそも、軍勢で越えるなんて考えられてなかった山です」


「むしろ今までが歩きやすすぎたくらいですよ」


確かに。


この道は当初、軍の進路としては使用不可能と判断されていた。


工作兵が倒木を除き、足場を整え、必要な場所へ縄を張り。


ようやく軍勢が通れる程度にしただけの道だ。


険しくて当然。


そう考えれば、何もおかしくはない。



「俺は少し先を見てきます」


ゼルクが言った。


「この先まで同じだと、予定よりかなり時間を食いますから」


「頼む」


ロギウスが答える。


ゼルクは一人、前方へ消えていった。



進軍は続いた。


だが、その速度は目に見えて落ちていく。


工作兵が岩を退かす。


兵士達が一列になって通る。


ようやく全員が抜けた頃には、また次の難所が現れる。


足場の悪い斜面。


崩れかけた岩。


頭上を塞ぐ倒木。


泥。


木の根。


荷を背負った兵士達の呼吸は、次第に荒くなっていった。



「間隔を空けるな!」


「前だけを見るな! 足元も確認しろ!」


隊長達の声が飛ぶ。


ヴァレリアに連なる精鋭達だ。


この程度で弱音を吐く者はいない。


だが。


鍛えていることと、疲れないことは違う。


岩を越え。


斜面を登り。


身体を支え。


荷を背負ったまま、それを何時間も繰り返す。


一歩ごとに。


確実に。


体力は削られていった。



そして。


少しずつ。


隊列の中に妙な乱れが生まれ始める。



「おい!」


怒鳴り声が上がった。


「どこへ行く!」


数人の兵士が、本来の道から横へ逸れようとしていた。


呼び止められた兵士が振り返る。


「え?」


「そっちは違うぞ!」


「ですが……」


兵士は困惑したように周囲を見る。


「今、こちらだと……」


「誰が?」


「先導の者が」


だが。


そこには誰もいなかった。


兵士自身も、それに気づいたらしい。


「……いや」


首を傾げる。


「確かに、声が……」


「疲れてんだろ。列へ戻れ」


兵長が兵士達を押し戻す。


それだけなら。


長時間の山岳行軍による疲労。


そう片付けられた。



だが。


似たことが。


少し離れた場所でも起こった。



「そっちじゃない!」


「ですが、前から声が!」


「前には誰もいないぞ!」


一人。


二人。


場所も違う。


聞いたという言葉も違う。


ただ。


皆が共通して。


誰かに呼ばれた。


誰かに進む方向を示された。


そう主張した。



レグナスの表情から。


いつもの軽さが消えていく。



「……妙だな」


ロギウスが振り向く。


「何がだ?」


「全部だよ」


レグナスは歩きながら周囲を見る。


「落盤」


「足場」


「消えた奴」


「聞こえるっていう声」


「一個ずつなら、山だからで済む」


視線が暗い森を撫でる。


「だが、重なりすぎてる」


「作為を感じる、と?」


「ああ」


レグナスは短く答えた。



その時だった。


視線の端を。


小さな影が横切った。



レグナスの目が動く。



黒い羽虫。


夜の山なら、珍しくもない小さな虫。


木の枝へ止まる。


兵達が通り過ぎる。


しばらくすると、また飛ぶ。


そして。


少し先の枝へ止まった。



レグナスの足が止まる。



「……またか」


「どうした?」


グラゼルが尋ねた。


レグナスは答えない。


その黒い虫を見ていた。



先程も見た気がする。


さらに、その前にも。


同じ個体かどうかなど、普通なら分かるはずがない。


だが。


動きが妙だった。


兵達が進めば飛ぶ。


止まれば止まる。


そしてまた。


隊列が進み始めると、少し先へ移動する。



まるで。


軍についてきている。



黒い虫が翅を広げた。



次の瞬間。



銀光が走った。



一度。


ただ一度だけ。


レグナスの剣が空を切る。



小さな何かが二つに分かれ。


地面へ落ちた。



「……何をしている」


グラゼルが呆れたように言う。


「虫を斬ったのか?」


レグナスは答えず。


落ちたものを拾い上げた。



黒い翅。


黒い胴。


見たところ。


やはり、ただの羽虫にしか見えない。



だが。



レグナスが眉を寄せた。



「……ん?」


何かが。


変わった。



それまで。


耳の奥へ薄く貼り付いていたような、不快な感覚。


音として聞こえていたわけではない。


だからこそ。


そこにあったことにすら、気づいていなかった。



耳鳴りとも違う。


頭痛とも違う。


ただ。


妙に落ち着かない。


集中を少しだけ削られるような。


微かなざらつき。



それが。



虫を斬った瞬間。



ほんの少しだけ。


消えた気がした。



「……ロギウス」


「何だ」


「今」


レグナスは耳へ手を当てる。


「静かにならなかったか?」


ロギウスが眉を寄せた。


「静か?」


風は吹いている。


木々は鳴っている。


兵士達の声も。


装備の擦れる音も。


何も変わってはいない。



だが。



「……いや」


ロギウスも気づいた。


「何かが……」


言葉を探す。



耳の奥。


頭の片隅。


そこにあったはずの、不快な何かが。


僅かに薄れている。



そして。



数秒後。



レグナスの顔が変わった。



「……戻った」


ロギウスも目を細める。



いつの間にか。


あの微かな不快感が。


再び。


そこにあった。



二人の視線が。


地面に落ちた黒い羽虫へ向かう。



実際には。


その瞬間。


一つの中継点が失われていた。


だが。


周囲に散らばる別の黒い翅が。


すぐにその穴を埋めた。



もちろん。


そんなことを知る者は。


帝国軍の中にはいない。



「普通の虫が」


レグナスが低く呟いた。


「軍隊について山を歩くかよ」


ロギウスの目が細くなる。


「同じ個体だと?」


「分からねえ」


レグナスは即答した。


「だが、俺にはそう見えた」


手の中の黒い虫を見る。


「それに」


一拍。


「斬った直後だけ、何かが変わった」


ロギウスは否定しなかった。



理由は分からない。


この虫が何なのかも。


あの不快感と関係があるのかも。


何も分からない。



だが。



偶然として片付けるには。


少しずつ。


出来すぎていた。



「殿下」


ロギウスがグラゼルを見る。


「一度、進軍を止めるべきかもしれません」


「ここでか?」


「はい」


「レグナスの言葉だけではありません」


ロギウスは後方へ視線を向けた。


「我々は既に予定より大幅に遅れています」


「ドレヴァン隊とも分断された」


「道の状況も予測を外れ始めている」


「聞こえるはずのない声まで出始めた」


「ここで一度状況を整理し、可能であればドレヴァン達との再合流を――」


「今戻れば」


グラゼルが遮る。


「今まで進んだ距離を、そのまま戻ることになる」


「その通りです」


「落盤もある」


「あります」


「ならば、戻ることも安全ではない」


ロギウスは否定しなかった。


「はい」


だからこそ。


判断は難しい。



進む危険。


戻る危険。


どちらにも理由がある。



「少なくとも」


レグナスが口を開く。


「俺はドレヴァンと合流した方がいいと思うぜ」


グラゼルが見る。


「理由は?」


「気に入らねえからだ」


「……それだけか?」


「戦場じゃ、割と大事だぜ」


レグナスは笑わなかった。


「俺達はさっきから」


周囲の森を見る。


「自分達で進んでるつもりで」


「誰かの用意した場所を歩かされてるような気がする」


ロギウスも静かに頷く。


「私もレグナスの意見に賛成です」


「確証はありません」


「だからこそ、これ以上不確定要素を増やすべきではない」



その時。


前方から人影が戻ってきた。



「殿下」


ゼルクだった。


「ちょうどいい」


グラゼルが言う。


「一旦止まる」


「兵を休ませろ」


命令が伝わり。


長く伸びていた隊列が、徐々に停止していく。



兵士達は岩へ腰を下ろし。


水筒へ手を伸ばした。


汗を拭う。


肩で息をする者もいる。



精鋭であっても。


険しい山を歩けば疲れる。



ただ一人。



グラゼルだけは。


その疲労から取り残されていた。



身体は軽い。


喉も渇かない。


足も痛まない。



日付が変わったあの瞬間。


折れていた腕も。


蓄積していた疲労も。


空腹も。


渇きも。


全て消えた。



今のグラゼルの身体は。


まるで、今しがた山へ足を踏み入れたばかりのようだった。



それが。


ほんの僅かに。



彼と。


兵士達との感覚を隔てていた。



「どうだった」


グラゼルがゼルクへ尋ねる。


「良くはないですね」


ゼルクは率直に答えた。


「しばらく、この調子です」


「山を抜けるまでの時間は?」


「朝は無理です」


ゼルクは少し考える。


「昼頃」


「下手すりゃ、それより掛かります」


予定では。


夜明け前後には王国側へ抜けるはずだった。



半日近い遅延。



ロギウスの表情が険しくなる。



「戻る場合は?」


「似たようなもんですよ」


ゼルクが答えた。


「来た道も楽じゃない」


「それに落盤がある」


「迂回してドレヴァン達と合流するにしても、かなり時間を食います」


レグナスが腕を組む。


「じゃあ、お前は進む方か」


「ここまで来たなら」


ゼルクは頷いた。


「俺なら進みます」


「戻るも進むも苦労が変わらねえなら、目的地に近づく方を選びますね」


山を知る者として。


おかしな意見ではない。



グラゼルは二人を見る。


レグナス。


ロギウス。



「二人は戻る」


「少なくとも、ドレヴァンとの合流を優先すべきです」


ロギウスが答える。


「俺も同じだ」


レグナスも続いた。



そして。


ゼルク。



「お前は進む」


「はい」



判断が割れた。



その時だった。



「……殿下」


聞き慣れた声。


だが。


いつもの穏やかさがなかった。



オルディンが歩いてくる。



その顔色を見て。


レグナスが眉を寄せた。



「どうした、爺さん」



いつもなら。


間髪入れずに返ってくる。



『誰が爺さんだ。私はまだそんな歳ではない』


あるいは。


『お前より少し年上なだけだ』



そんな。


いつもの応酬が。



なかった。



オルディンは。


レグナスを見もしなかった。



「……おい」


レグナスの表情から、僅かに残っていた軽さが消えた。


ロギウスも気づく。


「オルディン?」


「……確認したいことがありましてな」


手には。


補給記録が握られていた。



「何だ?」


グラゼルが尋ねる。



オルディンは。


すぐには答えなかった。



「物資に問題がございます」



ロギウスの目が鋭くなる。


「不足か?」


「……そう言えば、そうなのですが」


オルディンは首を横へ振る。


「少し違います」



記録を開く。



「食料」


「飲水」


「医療用品」


「その他消耗品」


指で数字を追っていく。



「現在までの消費量と、残量」


「数字は合っております」



グラゼルが眉を寄せた。


「ならば、何が問題なのだ」



オルディンは記録を睨んだ。



数字は合っている。


記録も間違っていない。


兵士達が使用した量。


残っている量。


全て辻褄が合う。



だからこそ。


おかしい。



「……予備が」


オルディンが呟いた。


「何?」


「予備がございません」



沈黙。



「どういう意味だ」


ロギウスが尋ねる。



オルディンは記録から目を離さなかった。



「この量ならば」


「当初の予定通り、夜明けまでに山を抜ける」


「その行程だけを考えるならば、確かに足ります」



食料も。


水も。


必要量はある。



兵を。


目的地まで歩かせるだけならば。



「ですが」


オルディンの声が低くなる。



「我々は」


「山を越えた先で戦うのですぞ」



誰も口を挟まなかった。



「空腹の兵を戦場へ送るなど、私は認めません」


「喉を渇かせた兵も同じです」


「どれほど鍛えた精鋭であろうと、人間である以上」


「腹が減れば力は落ちる」


「喉が渇けば判断も鈍る」


「疲労を抱えれば、本来の力など出せぬ」



オルディンにとって。


補給とは。


兵士を目的地まで生かして運ぶことではない。



兵士を。


十全な状態で。


戦場へ届けることだった。



「私は必ず予備を積みます」



その声に。


僅かな苛立ちが混じる。



「行軍が遅れることもある」


「負傷者が出ることもある」


「予定外に水を消費することもある」


「道を失うことも」


「天候が変わることもある」



そんなことは。


戦場では。


起こって当然なのだ。



「その全てが起きても」


「兵を万全な状態で戦わせる」


「その下地を整えるのが」


「私の役目です」



記録を握る手に力が入る。



「なのに」


「ないのです」



あるはずの。


余裕が。



「予備が」


「一切」



ロギウスが記録を受け取った。


「記載漏れでは?」


「私もそう思いました」


「ですから全て確認しました」


「帳簿も」


「実物も」


「補給兵にも聞きました」



オルディンは唇を噛む。



「ありません」



グラゼルの表情からも。


余裕が消えた。



「では、残りはどれほどだ」


「食料は、配分を変えれば保ちます」


オルディンが答える。


「問題は水です」



周囲の兵士達が持つ水筒へ視線を向ける。



「現在の消費量であれば」


「朝までは問題ありません」



そして。



「その先は」


言葉を切った。



「補給なしで進むことになります」



グラゼルがゼルクを見る。



「昼まで掛かると言ったな」


「ええ」


「つまり」


ロギウスが呟く。


「数時間」


「状況によっては、それ以上」


「水の補給なしで、この山を進むことになる」



ゼルクが顎へ手を当てた。



「水だけなら」


全員が見る。



「沢を探せばいいでしょう」



レグナスが眉を上げる。


「あるのか?」


「山ですよ」


ゼルクが答えた。


「どこかにはあります」


「この辺りの地形なら、小さな沢の一つ二つはあってもおかしくない」


ただし。



「探す分だけ、時間は食いますけどね」



ロギウスが目を細めた。



「さらに遅れる」


「そうなります」



「……問題は」


ロギウスが静かに言った。


「水が尽きることそのものではありません」



全員が見る。



「我々から」


「これ以上遅れる余裕が消えたことです」



オルディンが。


ゆっくり頷いた。



その通りだった。



精鋭である。


数時間程度。


水を口にできずとも。


歩くことだけなら出来るだろう。



だが。



この先。


さらに何かが起きたら。



その時。


もう。


補給に余裕はない。



レグナスが腕を組んだ。


「俺は戻るべきだと思う」


「少なくとも、ドレヴァンと合流する」


グラゼルを見る。


「歩くだけなら、まだいけるだろうさ」


「だが」


手にした黒い羽虫へ視線を落とす。


「さっきから、何が起きるか分からねえ」


「俺が怖いのは」


「さらに遅れた時だ」



ロギウスも頷く。


「私もレグナスに賛成です」


「原因の分からぬ異常が多すぎます」


「軍を再編し」


「補給を確認し」


「状況を整理してから動くべきです」



オルディンは何も言わなかった。


だが。


その表情が。


二人と同じ結論に立っていることは分かった。



グラゼルは。


三人を見た。



ロギウス。


レグナス。


オルディン。



それから。


ゼルクを見る。



「お前は」


「それでも進めると思うか」



ゼルクは少し考えた。



「進めるかどうかなら」


「進めます」



即答ではなかった。


それが。


かえって現実味を持たせた。



「楽じゃありません」


「兵も疲れてる」


「水場を探すなら時間も掛かる」


それでも。



「戻ったところで」


「同じ山をもう一度歩くことになる」


「落盤を越えて」


「ドレヴァン隊と合流して」


「そこから再び作戦を組み直す」



ゼルクは首を横へ振る。



「俺なら」


「前へ進みます」



グラゼルは黙った。



ロギウスの言葉。


レグナスの警告。


オルディンの報告。



そのどれもが。


無視してよいものではなかった。



戻る。


ドレヴァンと合流し。


補給を確認し。


軍を再編する。



軍を預かる者としては。


それが最も堅実な選択なのかもしれない。



だが。


戻るにも、同じ険路を越えなければならない。


背後には落盤がある。


時間を失えば。


奇襲という最大の利点も消える。



もし。


これらの異常が。


敵の仕業だったとしたら。



足を止めることこそ。


敵の狙いなのかもしれない。



いや。



そう思わせて。


前へ進ませることが狙いなのかもしれない。



どちらにも取れる。



グラゼルは目を閉じた。



答えが。


出ない。



その時。



木々の隙間から。


白い光が差した。



グラゼルが。


ふと。


顔を上げる。



山の上。


夜空に。


満月が浮かんでいた。



白く。


静かに。


全てを見下ろす月。



グラゼルの瞳へ。


その光が映る。



折れたはずの腕。


蓄積した疲労。


空腹。


渇き。



全てを消し去った。


あの祝福を。


思い出す。



女神は。


確かに。


自分へ力を与えた。



あれは。


幻ではない。



グラゼルは。


しばらく。


月を見つめていた。



まるで。


その光に魅入られたように。



――俺には。


女神がついている。



胸の奥にあった迷いが。


少しだけ。


薄れる。



何を怯える必要がある。



そう思いかけて。



グラゼルは。


そこで。


三人の顔をもう一度見た。



違う。



恐れるべきものを。


恐れなくなることと。


勇気は。


同じではない。



ロギウス達は。


自分を止めるために言っているのではない。


勝つために。


生きて帰るために。


進言しているのだ。



だから。



その言葉を。


捨てるつもりはない。



「……まだだ」



グラゼルが呟いた。



ロギウスが顔を上げる。



「まだ」


グラゼルは月から視線を戻した。


「退くほどではない」



その声に。


先ほどまでの迷いはなかった。



だが。


傲慢な確信でもない。



「二人の意見は聞いた」


レグナスを見る。


「お前の違和感も、忘れない」



ロギウスを見る。


「状況が想定を外れていることも理解している」



そして。


オルディン。


「補給の問題もだ」



三人の進言を。


否定したわけではない。



その上で。



「進む」



グラゼルは決断した。



「ただし、予定通りの速度は捨てる」


「兵を潰してまで急ぐつもりはない」


「ゼルク」


「はい」


「進路上で水場を探せ」


「本隊を大きく逸らす必要があるなら、その時点で報告しろ」


「承知しました」



「オルディン」


「はい」


「残った水を管理しろ」


「兵を十全に保つことを優先しろ」


「……承知しました」



「ロギウス」


「はい」


「状況が一つでも大きく変われば」


「もう一度判断する」


「……承知しました」



最後に。


レグナスを見る。



「まだ何か感じるなら」


「遠慮なく言え」


レグナスは僅かに目を細める。


「言われなくてもそうするさ」



グラゼルは頷いた。



そして。


もう一度だけ。


満月を見る。



「俺には」


小さく。


誰にも聞こえない声で。


「女神がついている」



それは。


前へ進む理由の全てではなかった。



だが。



最後に天秤を傾けた。


ほんの僅かな。


一押しにはなった。



「進軍再開!」



命令が山中へ伝わる。



兵士達が立ち上がった。



疲れた身体へ。


再び荷を背負い。



長い列が。


ゆっくりと動き始める。



水が足りないことは。


まだ。


致命傷ではない。



道が険しいことも。


致命傷ではない。



疲労も。


聞こえる声も。


一匹の奇妙な黒い羽虫も。



一つ一つなら。


乗り越えられる。



だからこそ。



彼らは。



まだ。



前へ進むことができた。


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