悪の女王は指揮棒を振るわない
――同じ頃。
ローゼンバーグ王国。
城の一室。
窓の向こうには、月明かりに照らされた山脈が見えていた。
部屋の中央には。
一つの盤面が置かれている。
通常のチェス盤ではない。
山岳地帯を模して作られた、歪な盤面。
細く入り組んだ道。
分岐。
崖。
沢。
そして。
その上に並べられた、白い駒達。
エミリアは椅子に腰掛けたまま。
その盤面を眺めていた。
出発した時。
白い駒達は整然と並んでいた。
キングを中心に。
それを守るルーク。
二枚のビショップ。
盤面を自在に跳ねるナイト。
そして。
前へ進む無数のポーン。
一つの軍として。
綺麗に。
同じ目的へ向かっていた。
だが。
今は違う。
エミリアの指先が。
一つの白いルークへ触れた。
盤面から離れた場所。
岩壁を模した駒の向こう側で。
横倒しになっている。
「キングを守るルークは、もう倒れた」
ルミが隣から盤面を覗き込む。
「ドレヴァン、でございますね」
「ええ」
エミリアはルークから指を離した。
「優秀だったわ」
「分断された後も、ちゃんと部隊を立て直そうとした」
「自分達が狙われていることにも気づいた」
「指揮系統まで組み直したもの」
僅かに笑う。
「だから、戦わせなかった」
ルミが瞬きをする。
「戦えば厄介だったからですか?」
「それもあるけれど」
エミリアは頬杖をついた。
「せっかくなら」
「得意なことをさせずに負けてもらった方が」
「悪らしいでしょう?」
ルミは少し考えてから。
「なるほど」
と頷いた。
エミリアの視線が。
今度は一頭のナイトへ向かう。
「でも」
その声には。
ほんの少しだけ楽しげな響きがあった。
「ナイトは面白かったわね」
「レグナス様、ですか?」
「ええ」
エミリアは白いナイトを摘まみ上げた。
他の駒とは違う。
素直には進まない駒。
「違和感だけで」
「見えないものへ手を伸ばした」
その時。
部屋の端に控えていた侍女の動きが止まった。
瞳から僅かに焦点が外れ。
ほんの数秒。
虚空を見る。
やがて。
「エミリア様」
静かな声が響いた。
「報告を受信しました」
エミリアはナイトを手にしたまま答える。
「どうぞ」
「中継点、一箇所消失」
「帝国兵によって発見、破壊された可能性あり」
「周辺個体による迂回経路への切り替えを完了」
「通信、復旧しております」
エミリアの口元が。
ゆっくり持ち上がった。
「やっぱり」
手の中のナイトを見る。
「この子ね」
ルミが首を傾げる。
「ご予定にはなかったのでしょうか?」
「黒い蟲そのものへ気づく可能性は考えていたわ」
「でも」
ナイトを盤面へ戻す。
「実際に一つ斬るとは思っていなかった」
少しだけ。
嬉しそうに。
「いい勘をしているわ」
褒めるような言葉だった。
だが。
それだけ。
一つの中継点を失っても。
盤面全体は。
何も変わっていない。
エミリアの指が。
二枚のビショップへ移る。
一枚は。
キングのやや後方。
盤面全体を見渡すような位置。
もう一枚は。
ポーン達の列へ寄り添うように置かれている。
「ビショップも」
「二枚とも、ちゃんと仕事をしている」
一枚に触れる。
「ロギウスは、盤面がおかしいことに気づき始めている」
「一度立ち止まって」
「駒を並べ直そうとしている」
もう一枚。
「オルディンも同じ」
「数字が合っているからこそ」
「その裏にある異常へ気づいた」
エミリアは。
少し感心したように目を細めた。
「優秀ね」
ルミが不思議そうに尋ねる。
「敵を、そこまで褒められるのですね」
「敵だからこそよ」
即答だった。
「馬鹿を相手にして勝ったところで」
「何も面白くないでしょう?」
そして。
二枚のビショップから。
その前に並ぶポーン達へ。
白い兵士達。
本来なら。
もういくつも先のマスへ進んでいるはずだった。
だが。
前が詰まり。
横へ逸れ。
取り残され。
足を止め。
予定していた場所へ。
辿り着けていない。
「ルークは倒れた」
「ナイトは、少し面白い手を見せた」
「二枚のビショップも」
「必死に盤面を立て直そうとしている」
エミリアの指が。
白いポーンを一つ。
僅かに前へ押した。
しかし。
すぐ前には。
別の駒がいる。
進めない。
「でも」
「ポーン達は」
別の駒へ触れる。
それも。
進めない。
「進むはずだったマスへ」
「進むことすら出来ていない」
ルミが盤面を眺める。
そして。
一つだけ。
なお前を向いている駒を見る。
「ですが」
「キングは進んでおりますね」
エミリアの視線が。
白いキングへ向かった。
「ええ」
静かな声。
「進んでくれているわ」
戻るという手もあった。
止まるという手もあった。
部下達の進言を受け入れることもできた。
それでも。
キングは。
自分で。
前を選んだ。
エミリアは白いキングへ触れない。
ただ。
その行く先を眺めている。
「私は」
ぽつりと呟く。
「一度も」
「進めなんて命じていないのにね」
ルミは何も答えなかった。
エミリアは。
盤面の外へ視線を移す。
そこには。
一つの黒い駒が置かれていた。
キングでも。
クイーンでも。
ルークでも。
ビショップでも。
ナイトでもない。
何にも見立てられていない。
名すら刻まれていない。
無銘の黒駒。
エミリアは。
それへ指先を添えた。
だが。
まだ。
盤面には置かない。
「軍というものはね」
エミリアが静かに言った。
「兵士が残っていれば」
「軍でいられるわけじゃないの」
盤面を見る。
「指揮」
「情報」
「補給」
「道」
「士気」
白い駒を。
一つずつ眺める。
「全部が同じ方向を向いて」
「同じ旋律を奏でて」
そして。
「初めて、一つの軍になる」
エミリアの指が。
盤外の黒駒から離れた。
「なら」
楽しそうに。
微笑む。
「少しずつ」
「音をずらしてあげればいい」
その時。
侍女が再び顔を上げた。
「エミリア様」
「配置に変更なし」
「各員、予定位置を維持」
「対象部隊、進軍を継続しております」
「そう」
エミリアは満足そうに頷いた。
「なら」
「万事、抜かりはないようね」
報告は終わった。
部屋に。
再び静寂が戻る。
エミリアは暫く。
白いキングを眺めていた。
そして。
「さて」
椅子から立ち上がる。
「そろそろ準備をするわ」
ルミが顔を上げた。
「何のご準備で?」
「決まっているでしょう?」
エミリアは窓へ目を向ける。
窓の向こうには。
帝国軍が今も進んでいる山脈。
そして。
その上に浮かぶ満月。
「王子様を迎えに行くんだもの」
振り返る。
「それにふさわしいドレスが必要でしょう?」
ルミは。
エミリアの姿を上から下まで眺めた。
今のエミリアも。
十分すぎるほど華やかだった。
黒を基調としたドレス。
深い紫を差し色に。
薔薇を思わせる装飾が随所にあしらわれている。
優美でありながら。
どこか威圧的。
玉座へ腰掛ければ。
誰が見ても。
悪の女王と呼ぶに相応しい姿だった。
ルミが首を傾げる。
「そのままでも十分では?」
「いつも通りですし」
「十分お似合いですよ?」
エミリアが眉を寄せた。
「わかってないわね」
「そうでしょうか?」
エミリアは腰へ手を当てる。
「悪の女王にはね」
「その場その場に相応しい衣装というものがあるのよ」
ルミが。
もう一度。
今のエミリアを見る。
黒いドレス。
紫の薔薇。
見るからに悪役然とした装い。
「今でも」
少し考えて。
「十分、悪っぽいですが?」
「そういう問題じゃないの!」
エミリアが即座に返した。
「これは普段の悪の女王でしょう?」
「普段の悪の女王……」
「今から行くのは戦場よ」
エミリアは。
胸を張った。
「戦場には」
「戦場に相応しい悪の女王があるの」
ルミは。
数秒。
真面目な顔で考えた。
そして。
「よく分かりませんが」
にこりと笑う。
「エミリア様が楽しそうですので、問題ございません」
「その理解で十分よ」
エミリアも満足そうに頷いた。
ルミは一歩下がり。
恭しく一礼する。
「では」
「お召し替えの準備をいたします」
「お願い」
エミリアは。
最後にもう一度だけ。
盤上の白いキングを見る。
まだ。
進んでいる。
その先で。
誰が待っているのかも知らずに。
エミリアは。
小さく笑って。
ルミと共に。
部屋を後にした。
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