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崩壊する狂奏曲

――そして。


山中では。


白いキングが、なおも前へ進んでいた。



進軍を再開してから、しばらくが経つ。


グラゼルの命令通り、無理に速度を上げることはしていない。


兵には適宜休息を取らせ。


オルディンが残った物資を管理し。


ゼルクは進路を確認しながら、水場を探していた。



やがて。


先行していたゼルクが戻ってくる。



「ありましたよ」


その一言に。


周囲の空気が僅かに緩んだ。



「沢か?」


グラゼルが尋ねる。



「ええ。ただ、抜け道から少し外れます」


「どれほどだ」


「距離そのものは大したことありません」


ゼルクは山の斜面を指す。


「ですが、この人数ですからね。全員に水を回すとなれば、それなりに時間は食います」



また。


時間。



ロギウスの表情が曇る。



だが。


これ以上遅れる可能性を考えれば、水を確保できる時に確保しておくべきだった。



「寄る」


グラゼルは決断した。


「全員、水を補充する」


「承知しました」



ゼルクが先導する。


軍勢は本来の進路を外れ。


やがて岩の間を流れる細い沢へ辿り着いた。



一度に数千人を満たせるほどの水量ではない。


それでも。


順番に汲めば、水筒を満たすには十分だった。



オルディンは自ら水量を確認する。


兵をいくつかの集団へ分け。


混乱が起きないよう順番を決めた。



「慌てるな!」


「後ろまで必ず回す!」


「水筒を満たした者から場所を空けろ!」



疲労していても。


ヴァレリアに連なる精鋭達だ。


割り込みも。


奪い合いも。


起こらない。



少なくとも。



まだ。



レグナスが水筒を口から離した。



「これで少しは楽になったな」


「補給についてはな」


隣に立つロギウスが答える。



「……まだ気にしてんのか?」


「ああ」



レグナスは周囲の森を見る。



黒い羽虫を斬って以来。


どうにも視線が木々の間へ向いてしまう。



枝。


岩陰。


草むら。


頭上。



何もいない。



虫ならいる。


夜の山なのだから当然だ。



だからこそ。


どれが普通で。


どれがそうではないのか。


分からない。



耳の奥には。


相変わらず。


音とも呼べない微かなざらつきが残っている。



気にしなければ。


忘れてしまえる程度。



だが。


一度気づいてしまえば。


妙に落ち着かない。



「……気持ち悪い山だ」


レグナスが小さく呟いた。



ロギウスは否定しなかった。



全軍の水補給を終え。


再び進軍が始まる。



「沢へ寄った分、少し抜け道から外れました」


先頭を進むゼルクが言った。


「ここから戻します」



何もおかしくない。


至極当然の説明だった。



だが。



一時間。



さらに一時間。



道は。


一向に良くならなかった。



岩場。


斜面。


剥き出しの木の根。


ぬかるんだ土。


人ひとりがようやく通れる細道。



同じような景色が。


延々と続いている。



「……なあ」


兵の一人が呟いた。



「何だ」


「あの岩」


前方。


片側だけ大きく割れた岩。



「さっきも見なかったか?」


「山に岩なんていくらでもあるだろ」


「いや……そうなんだけどよ」



さらに進む。



今度は。


根元から折れた大木。



「……これも」


「何だよ」


「いや」


兵士は首を振った。


「何でもない」



だが。


少しずつ。


同じ疑問を口にする者が増えていく。



「この斜面、前にも通らなかったか?」


「沢へ行く時に見たんじゃないのか」


「違う。もっと前だ」


「本当に前へ進んでるのか?」



ゼルクが振り返る。



「山なんて似た景色ばかりですよ」


苦笑する。


「沢へ寄ったせいで、一度進む方向も変えてます」


「余計にそう感じるんでしょう」



説明は。


自然だった。



だから。


兵達も一度は納得する。



それでも。



心の奥に生まれた小さな疑念までは。


消えなかった。



その直後。



「戻れ!」



声がした。



数人の兵士が一斉に振り向く。



「何だ?」


「今……」


「戻れって」



後ろには。


同じ帝国兵達がいるだけ。



誰も。


そんな命令を出していない。



「誰が言った」


「分からない」


「前から聞こえたような……いや、後ろだったか?」



別の場所。



「おい!」



一人の兵士が森を指差した。



「今、誰かいたぞ!」


「どこだ!」


「あそこだ!」


「誰もいない!」


「いた!」


「木の後ろへ隠れた!」



兵達が剣へ手を伸ばす。



だが。


暗い森には。


何もいない。



「疲れてるんだ」


誰かが言った。


「そうだ」


「何時間歩いてると思ってる」


「気にするな」



それで。


終わるはずだった。



「……いるんだよ」



ぽつりと。


一人の兵士が言った。



周囲が振り返る。



「何がだ?」



その兵士は。


森を見ていた。



怯えた目で。



「この山に」


「何かいる」



「馬鹿なこと言うな」



すぐに。


仲間が笑い飛ばそうとする。



だが。



別の兵士が。



「……俺も見た」



声を震わせた。



「何を?」


「人影だ」


「ずっと木の向こうを歩いてる」


「でも」


唾を飲み込む。



「人じゃなかった気がする」



「何言ってんだ、お前ら」



「俺は声を聞いた」


今度は別の場所。



「名前を呼ばれた」


「誰に?」


「……知らない」


「知らない声だった」



そして。



最初に。


『何かいる』


そう言った兵士が。



静かに。



「だから言っただろ」



皆を見る。



「ずっと」


「俺達についてきてるんだ」



その言葉が。


奇妙なほど。


よく通った。



普通なら。


馬鹿馬鹿しいと。


誰かが笑っただろう。



だが。



誰も。


笑えなかった。



何故なら。



声を聞いた者がいる。


人影を見た者がいる。


知らぬ方向へ誘われた者がいる。



そして。


既に。


仲間が消えている。



自分自身には。


何も起きていなくても。



隣にいる誰かが。


何かを経験している。



だから。



「……俺も」


「さっき」


「何だよ」


「後ろを歩いてる奴に肩を叩かれたと思ったんだ」


「振り向いたら?」


「誰もいなかった」



また一つ。



「俺も」



さらに一つ。



恐怖へ。


理由が与えられていく。



「静まれ!」



ロギウスの声が山中へ響いた。



兵達が黙る。



「敵による工作の可能性がある!」


「姿の見えないものを勝手に化物へ変えるな!」


「確認できていないものを事実として広めるな!」



正論だった。



「口頭による進路変更は禁止!」


「必ず直属の指揮官を通せ!」


「隊列を離れる場合は複数で行動しろ!」


「見たものではなく、確認した事実だけを信じろ!」



命令が伝わる。



兵達は従った。



乱れかけた隊列が。


再び形を作り始める。



レグナスがロギウスを見る。



「さすがだな」


「笑い事ではない」


「ああ」



レグナスも笑わない。



「ただ」


森へ目を向ける。



「敵の工作だって言うなら」


低く。



「敵はどこにいる?」



ロギウスは。


答えられなかった。



◆



進軍は続いた。



だが。



今度は。


兵士達が隊列から離れることを嫌がり始めた。



「二人、後方の確認へ行け!」


兵長が命じる。



一瞬。



誰も動かなかった。



「聞こえなかったのか!」


「……兵長」


一人が恐る恐る口を開く。



「あっちへ行った奴」


後方を指差す。



「さっきから、一人戻ってきてません」



兵長の顔が強張った。



人数を確認する。



「……誰だ」


「第四班の男です」


「いつからだ」


「用を足すって、もう一人と離れて……」


「もう一人は?」


「戻っています」


「本人は?」


「途中ではぐれたと」



すぐに捜索が出された。



だが。


見つからなかった。



血も。


装備も。


足跡も。



何もない。



少し先。



別の隊から報告。



「二人足りません!」



さらに後方。



「こちらも一名!」



一人。


二人。


また一人。



まとめて消えるわけではない。



列の端。


少し遅れた者。


用を足しに離れた者。


落とした装備を拾うため足を止めた者。



ほんの少し。


集団から離れた兵士が。



戻らない。



「単独行動を禁止する!」


グラゼルが命じる。



「何をするにも最低二人!」


「可能なら三人で動け!」


「人数確認を細かく行え!」



正しい。


当然の対策だった。



だが。



その瞬間から。



一人で済んでいた仕事に。


二人。


三人を使う。



報告。


確認。


待機。



進軍速度は。


さらに落ちる。



そして。



消える者は。


ゼロにはならなかった。



「……また一人足りません」



その報告が入るたび。



兵士達の視線が。



森へ向く。



「いる」


誰かが呟く。



「やっぱりいるんだ」



「黙れ!」



「じゃあ何なんだよ!」



別の兵士が叫んだ。



「敵だってんなら、どこにいるんだ!」


「一人くらい見つけろよ!」


「何で誰も見てないのに、人だけ消えるんだよ!」



誰も。


答えられない。



その時。



森の中で。



何かが動いた。



ほんの一瞬。



兵士達の視線が集中する。



人影。



だった気がした。



木の幹と。


同じ色をしていた。



次の瞬間には。



何もいない。



「いた!」


「今いたぞ!」


「どこだ!」


「木のところだ!」


「囲め!」



十数人が。


命令を待たずに森へ踏み込もうとする。



「戻れ!」


兵長が叫んだ。



「勝手に隊列を離れるな!」



「でも今!」


「命令だ!」



兵達が。


止まる。



だが。


その表情には。



明確な不満が浮かんでいた。



見つければ。


この恐怖が終わるかもしれない。



なのに。


それすら許されない。



兵士達の中で。



少しずつ。



命令が。



自分達を守るものではなく。



自分達を。


この山へ縛り付けるものに。



見え始めていた。



◆



轟音が上がった。



「止まれ!」



前方。



工作兵が補強した足場が崩れていた。



岩へ打ち込んだ杭が抜け。


支えの木材が斜めに傾いている。



幸い。


大きな崩落ではない。



だが。


軍勢はまた止まった。



「どうなってる!」



兵士が怒鳴る。



工作兵が地面へ転がった杭を拾う。



「分からん!」


「確かに固定した!」



「なら何で外れてる!」


「知るか!」


工作兵も声を荒らげた。



「何千人通ってると思ってる!」


「こんな場所へ軍隊を通してるんだぞ!」



「壊れないようにするのがお前らの仕事だろう!」



「こっちは最初から道でも何でもない場所を通せって言われてんだ!」



「手を抜いたんじゃないのか!」



その言葉で。



空気が変わった。



「……何だと?」



工作兵が振り返る。



「聞こえなかったか?」


兵士も引かない。



「さっきから何ヶ所壊れてる!」


「全部偶然だって言うのか!」



「俺達は全部確認した!」



「じゃあ何で壊れる!」



「知らん!」



互いに。


間違っているとは言い切れない。



工作兵は。


本当に固定している。



兵士も。


実際に壊れた足場を見ている。



だからこそ。


互いを疑う。



「止めろ!」



隊長達が割って入る。



兵達は離れた。



しかし。


怒りまでは。


消えない。



そして。



次の難所でも。



縄が外れた。



さらに先では。


補強した足場が傾いた。



「またかよ!」


「こっちのせいじゃない!」


「じゃあ誰のせいだ!」


「知るか!」



怒鳴り声が増える。



疲労。


恐怖。


疑念。



これまでなら。


笑い飛ばせた程度の言葉が。



棘になる。



ロギウスは。


その光景を見ていた。



おかしい。



ヴァレリアは。


こんな軍ではない。



一人が乱れれば。


二人が支える。



十人が崩れれば。


百人が押さえる。



それが。


彼らだった。



なのに。



今は。



一人の恐怖を。


隣の者が。


支えられない。



――違う。



ロギウスは気づいた。



恐怖が。


一人から次の一人へ。


ただ伝わっているのではない。



皆が。


既に。



恐怖する理由を。


一つずつ持っているのだ。



声を聞いた。


影を見た。


仲間が消えた。


道が壊れた。


命令がおかしい。



だから。



誰かが。



『この山には何かいる』



そう口にするだけで。



全てが。



一つの答えへ。



繋がってしまう。



◆



そして。



補給隊から。



さらなる異常が報告された。



「オルディン様!」



補給兵が走ってくる。



「どうした」



「共同備蓄を確認しました」



「それが?」



補給兵は。


少し戸惑った顔をした。



「予備水と、予備食の大半が」


「既に各隊へ配給されています」



オルディンの目が止まる。



「……誰の指示だ」



「オルディン様です」



沈黙。



「私が?」



「はい」



即答だった。



「行軍が予定より長引いているため」


「共同備蓄を各隊へ分散し、各兵へ追加配給せよと」



オルディンの声が。


低くなる。



「私は」


「そんな命令を出していない」



補給兵が青ざめた。



「ですが……」


「誰から受けた」


「臨時の連絡員です」


「印は」


「確認しました」


「合言葉は」


「一致していました」


「書面は」


「ありました」



全て。


正しい。



手順も。


命令内容も。



今の状況を考えれば。


むしろ合理的だった。



だから。



誰も疑わなかった。



「書面を出せ」



渡された命令書を。


オルディンが読む。



自分の名。


自分の印。


自分が普段使う形式。



だが。



知らない。



「……違う」



小さく。


呟く。



「これは」


「私ではない」



ロギウスが近づく。



「オルディン」


「私は命じていない」



「分かっている」



「何故そう言える」



オルディンが顔を上げる。



レグナスが横から口を挟んだ。



「爺さん」



いつもなら。



すぐに。



『誰が爺さんだ』


と返ってくる。



だが。


やはり。


返らない。



レグナスの顔から。


最後の軽さが消えた。



「お前が忘れたんじゃねえよ」



「……何故だ」



「知らねえ」



周囲の森を見る。



「だが」


「お前が自分の仕事を忘れるより」


「俺達の知らねえ誰かが」


「こっちへ手を突っ込んでるって考える方が」



剣の柄へ手を置く。



「今はよっぽど自然だ」



ロギウスも命令書を見る。



「殿下」



グラゼルが顔を向ける。



「偶然ではありません」



ロギウスは断言した。



だが。



それ以上は。


言わなかった。



この山道そのものが罠なのか。



いつから仕込まれていたのか。



誰が。


何人。



何をしているのか。



そこまでは。


何一つ分からない。



「何者かが」


ロギウスは周囲を見る。



木。


岩。


闇。



どこにも。


敵の姿はない。



「我々の進軍へ」


「意図的に干渉しています」



グラゼルの目が細くなる。



「敵がいるということか」


「恐らく」



「どこに」



ロギウスは。


答えられなかった。



レグナスが低く言う。



「……近くにはいる」



皆が見る。



「近くにいなきゃ」


「兵が消える説明がつかねえ」



誰も。


否定できなかった。



そして。



その会話は。



兵士達の耳にも入った。



「……やっぱり」


一人が。


ぽつりと。



「いるんだ」



「何がだ」



「この山に」



その言葉が。


また。


広がっていく。



「幹部達も気づいてる」


「何かいるんだ」


「ずっと俺達を見てる」


「一人ずつ連れていってる」



「黙れ!」



兵長が怒鳴る。



だが。


今度は。



止まらなかった。



「じゃあ何なんです!」


兵士の一人が上官へ叫んだ。



「敵なら見つけてくださいよ!」



「命令だ! 静まれ!」



「何人消えたと思ってるんです!」



別の兵士。



「俺達、このまま進むんですか?」



「当然だ!」



「どこまで!?」



「山を抜けるまでだ!」



「本当に抜けられるんですか!」



その問いに。



兵長が。



一瞬。



答えを失った。



その一瞬が。



悪かった。



「……もう無理だ」


誰かが言った。



「戻る」



数人が振り返る。



「何だと?」



「俺は戻る!」


一人の兵士が叫んだ。



「ドレヴァン隊まで戻る!」


「ここにいたら消される!」



「勝手な行動は許さん!」



「じゃあここで待ってろっていうのか!」



兵士は。


後方へ歩き出した。



「止まれ!」



止まらない。



「命令だ!」



一瞬。


足が止まる。



だが。



別の兵士が。



「俺も行く」



その横へ並んだ。



さらに。


一人。



「俺もだ」



「おい!」



最初は。


ほんの数人だった。



隊長達が追い。


説得し。


何人かは戻された。



だが。



全員ではない。



そして。



その光景を。



別の隊の兵士達が見ていた。



命令を無視して。


隊列を離れても。



その場で斬られるわけではない。



戻る者が。



実際にいる。



その事実だけで。



兵達の中に。



新しい選択肢が生まれた。



◆



さらに。


進軍が続いた。



前方で。



再び分岐が現れた。



「右だ!」



声が飛ぶ。



後方を進んでいた一隊が。


その声に従って右へ向かう。



しばらくして。



本隊側から。



「左だ! 何をしている!」



別の声。



だが。



既に。


先頭は森の奥へ入っていた。



「戻れ!」


「誰の命令だ!」


「こっちが本隊だ!」



混乱。



結局。


何人かは戻った。



だが。



全員ではない。



人数確認。



「……第三小隊が足りません」



「何人だ」


「三十七名」



「三十七?」


「先程の分岐で」


「右へ進んだ者達かと」



「呼び戻せ!」



捜索隊が出る。



だが。



見つからない。



道が。


いくつにも分かれている。



声が反響する。



どちらから。


何が聞こえたのか。



誰にも。


分からない。



「またか」


誰かが呟く。



その言葉に。



今度は。



誰も怒鳴らなかった。



◆



さらに数時間。



各隊から。



小さな報告が。


次々と入る。



「負傷兵十四名、進軍不能!」


「護衛を残して休ませています!」



「第八隊後方部、応答なし!」


「最後に確認された場所は!?」


「先程の斜面です!」



「十数名が沢沿いへ下ったとの証言があります!」


「誰の命令だ!」


「……命令ではありません!」



「第四隊の一部が、本隊と合流できておりません!」



「第六隊から伝令!」


「後方が詰まり、独自に迂回路を取るとのこと!」



「誰が許可した!」


「隊長判断です!」



一つずつ。



それだけなら。



些細なことだった。



負傷者を休ませる。



詰まった道を迂回する。



本隊を見失った部隊が。



自力で合流を試みる。



どれも。



山中では。



あり得る判断。



だが。



それが。



同時に。



あまりにも多く。



起きている。



本隊から。



兵士が。



少しずつ。



剥がれていく。



一人。


二人。



十人。



数十人。



一個小隊。



その場に留まる者。



後ろへ戻る者。



沢を下る者。



別の道を選ぶ者。



本隊を探して。



逆に離れていく者。



グラゼルの命令は。



まだ。



全軍へ出されている。



だが。



その命令が届く頃には。



そこに。



命令を受けるはずだった部隊が。



いない。



◆



「進め!」



命令を受けても。



動かない兵がいた。



「何をしている!」



「……前に」


兵士は暗い道を見ている。



「何かいます」



「いない!」



「います」



「命令だ、進め!」



「嫌です」



隊長が。



言葉を失った。



「……何?」



「行きたくありません」



声は震えていた。



だが。



兵士は。



一歩も動かなかった。



別の場所。



「後方確認へ行け!」



「誰の命令ですか」



「俺の命令だ!」



「本当に?」



「何だと?」



兵士は。



怯えながらも。



言った。



「さっきの命令も」


「本物だと思ってたんでしょう?」



何も。



返せない。



一度。



偽物の命令が。



正規の手順で。



軍の中を通った。



その瞬間から。



本物の命令にも。



疑いが生まれた。



「それ」


「本当に隊長の命令なのか?」



「印は?」


「合言葉は?」


「誰から聞いた?」



確認。



再確認。



確認のための確認。



命令は。


届く。



だが。



人を。



すぐには動かせない。



指揮官は生きている。



隊長もいる。



兵もいる。



武器もある。



山中には。



まだ。



数千人がいる。



なのに。



一つの命令で。



一つの方向へ。



全員を動かせない。



ロギウスは。



その光景を。



見ていた。



進む者。



止まる者。



怒鳴る者。



怯える者。



戻ろうとする者。



人数を数える者。



仲間を探す者。



沢へ下る者。



森を警戒する者。



別の道を選んだ者。



「……こんな」



レグナスが隣へ立つ。



「なあ」


「何だ」


「俺達」



レグナスは。


長く。


そして。


所々で途切れ始めた隊列を見る。



「まだ」


「軍なのか?」



ロギウスは。



答えなかった。



答えられなかった。



兵士が消えたわけではない。



多くは。



まだ。



この山のどこかにいる。



生きている。



武器も持っている。



だが。



グラゼルの周囲に。



一つの軍勢として。



集まってはいない。



六千の軍勢は。



誰かに打ち破られたわけでもないのに。



少しずつ。



小さな集団へ。



分かれ始めていた。



◆



指揮。



補給。



情報。



道。



士気。



本来なら。



それぞれが。



同じ目的へ向かい。



一つの軍として。



一つの旋律を奏でる。



だが。



今は。



兵士は。



存在しない声を聞く。



見えない何かに怯える。



工作兵は。



自分達が作った道を信じられない。



一般兵は。



工作兵を疑う。



補給兵は。



確かに受けた命令を否定される。



オルディンは。



自分が出していない命令の証拠を。



突きつけられる。



ロギウスは。



正しい命令を出すたびに。



軍が。



さらに遅れていくのを見る。



レグナスは。



何かがいると分かっていながら。



剣を向ける相手すら。



見つけられない。



そして。



グラゼルは。



まだ。



前へ進む。



だが。



その後ろをついてくる兵の数は。



進むほどに。



僅かずつ。



減っていた。



死んだのではない。



倒されたのでもない。



ただ。



同じ道を。



歩かなくなった。



それだけ。



だが。



軍とは。



兵士が生きていれば。



軍でいられるものではない。



同じ命令を信じ。



同じものを見て。



同じ場所へ向かって。



初めて。



一つの軍になる。



その繋がりが。



今。



一本。



また一本と。



切れていく。



誰も。



指揮棒を振ってはいない。



それなのに。



奏でる音だけが。



次々と。



ずれていく。



協奏は。



とうに。



狂奏へ変わっていた。



そして。



その狂奏曲さえ。



今。



崩壊を始めていた。


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