愚者たちの終曲
山を抜けた。
その事実を理解するまで、誰もが少し時間を必要とした。
木々が途切れた先には、月明かりに照らされた平地が広がっている。湿った森の空気ではない。冷たい夜風が頬を撫でた。
「……出た」
誰かが呟く。
その一言をきっかけに、兵達が次々と地面へ崩れ落ちていった。
座り込む者。仰向けに倒れる者。肩で息をしながら、ただ月を見上げる者。
ようやく。
本当に、山を抜けたのだ。
グラゼルも大きく息を吐き、後ろを振り返った。
ロギウス。
レグナス。
オルディン。
ゼルク。
そして、その後ろに続く兵達。
少ない。
あまりにも少ない。
山へ入った時には六千いた。
帝国でも屈指の精鋭。王国へ奇襲を仕掛け、そのまま後続三万四千を呼び込むはずだった軍勢。
今、同じ出口へ辿り着いた者は、百を僅かに超える程度しかいない。
残りは山の中だ。
死んだ者もいるだろう。
負傷して動けなくなった者。
脱走した者。
沢を下った者。
別の道を選んだ者。
部隊ごと離散した者。
その多くは、まだ山のどこかで生きているのかもしれない。
だが。
六千という一つの軍は、もう存在していなかった。
「……これだけか」
グラゼルの声が掠れた。
誰も答えなかった。
答える必要すらない。
目の前にあるものが、全てだった。
それでも、まだ終わってはいない。
グラゼルは前方へ視線を向けた。
ここは、本来なら帝国側が準備していた武具の受け渡し地点だった。
商人を装わせ、王国内へ密かに運び込ませた武器と防具。
山中では軽装だった兵達も、それを受け取れば再び戦える。
奇襲は失敗した。
軍も失った。
だが、自分は生きている。
ロギウスも。
レグナスも。
オルディンもいる。
武器さえ手に入れば、まだ――。
「……いた」
前方。
月明かりの下に人影が見える。
数十人ほどの集団。
グラゼルの胸に、僅かな安堵が生まれた。
「ようやくか」
一歩前へ出る。
「遅いぞ。こちらは――」
「兄上」
ロギウスが腕を伸ばした。
「お待ちください」
「何だ」
「……あれは」
ロギウスの目が細くなる。
グラゼルも改めて人影を見る。
商人ではない。
全員が整然と並んでいる。
統一された鎧。
剣。
そして胸元に刻まれた、薔薇の徽章。
ローゼンバーグ王国。
「……王国兵?」
兵達の間に緊張が走る。
僅か数十人。
だが、何故ここにいる。
何故、この場所を知っている。
やがて王国兵達が左右へ分かれた。
その中央から、一人の少女が歩いてくる。
月光を受ける銀髪。
漆黒を基調とし、深い紫を差したドレス。
普段の王宮で纏うものとは違う。
肩を飾る装飾。
軍服を思わせる直線的な意匠。
金属の輝き。
優雅でありながら、戦場へ立つために仕立てられたかのような黒衣。
少女は悠然と歩み出ると、困ったように小さく息を吐いた。
「待ちくたびれたわ」
グラゼル達を見渡す。
「予定では、もう少し早く到着すると思っていたのだけれど」
口元へ笑みを浮かべる。
「女を待たせる男は嫌われるわよ?」
僅かに首を傾げた。
「――王子様」
グラゼルの思考が止まった。
「……エミリア」
何故。
何故、この女が。
「なぜ……」
声が震える。
「なぜ貴様がここにいる!」
エミリアは瞬きをした。
「随分なご挨拶ね」
「わざわざ迎えに来てあげたというのに」
「ここは……!」
グラゼルが周囲を見る。
間違いない。
帝国側が秘密裏に指定した場所。
山を抜けた先。
密輸した武具を受け取る予定だった地点。
王国側が知るはずがない。
「そうそう」
エミリアが何かを思い出したように手を叩いた。
「一つ、確認しておかなければいけなかったわ」
「……何だ」
「入国手続き」
グラゼルの眉が動く。
「……は?」
「お済みかしら?」
エミリアは至って真面目な顔で尋ねた。
「困るのよね。不法入国なんてされると」
そして楽しげに笑う。
「さて――お代は、何をいただこうかしら?」
「ふざけるな!」
グラゼルの怒声が響いた。
理性が、もう追いついていなかった。
山中で一晩以上削られた。
軍を失った。
ドレヴァンが死んだ。
ガルドスの軍も敗れたという。
ようやく山を抜けた先では、この女が全てを知っていたかのように待っている。
だが。
敵は僅か数十。
こちらには、まだ百を超える精鋭がいる。
「所詮、この程度の兵数!」
グラゼルが剣を抜いた。
「エミリア!」
「貴様さえ討てば、この戦は終わる!」
「兄上!」
ロギウスが止める。
「お待ちください!」
「何故この女がここにいるのか! そこを考えるべきです!」
「黙れ!」
グラゼルが振り払った。
「目の前に敵国の女王がいるのだぞ!」
「これ以上の好機がどこにある!」
レグナスも王国兵達を睨んでいた。
「……俺も、やめといた方がいいと思うぜ」
「何?」
「山ん中で散々やられた後だ」
レグナスは低く言った。
「こんだけ堂々と待ってる連中が、何も用意してねえとは思えねえ」
「臆したか、レグナス!」
「そうじゃねえ」
「ならば!」
グラゼルが剣を掲げた。
「討て!」
「エミリアを討ち取れ!」
疲労し切った帝国兵達。
それでも、長年身体へ染み込ませた命令への反応だけは残っていた。
剣。
槍。
盾。
残った武器を手に、王国兵へ向かう。
エミリアは動かなかった。
ただ横を見る。
そこに立っていた男が、一歩前へ出た。
ハルト。
「第一列」
短い号令。
王国騎士達の一部が前へ出る。
手には、帝国兵達が見たこともない長い武器。
筒状の長い銃身。
木製の銃床。
銃身には淡い魔力光を帯びた線が走っている。
「何だ、あれは……」
帝国兵の一人が呟いた。
「構え」
騎士達が一斉に長銃を肩へ据える。
銃口が揃った。
帝国兵達へ、真っ直ぐに。
「――放て」
轟音。
ほぼ同時だった。
火花にも似た魔力光が走り、帝国兵の前列が一斉に崩れる。
鎧を穿ち。
盾を砕き。
見えないほどの速度で飛来した何かが、次々と兵を地面へ叩き伏せた。
「な――」
グラゼルの目が見開かれる。
「怯むな!」
レグナスが叫んだ。
彼は見ていた。
撃ち終わった長銃。
銃身を走っていた魔力光が弱まっている。
すぐには次を撃てない。
「連射できねえ!」
「今だ!」
「距離を詰めろ!」
その判断は正しかった。
レグナス自身にも、一発の魔導弾が迫っていた。
だが、彼が見ているのは弾そのものではない。
銃口。
構え。
射線。
撃たれる前から、飛んでくる場所は読める。
剣が閃いた。
魔導弾を捉える。
弾丸が砕けた。
レグナスはそのまま前へ踏み込む。
「行け!」
兵達が走る。
だが。
砕けた弾頭は、単純な硬質弾ではなかった。
命中時に崩れ、衝撃を広げるよう作られた弾丸。
剣によって空中で強引に破壊されたことで、細かな破片が予測不能な方向へ散っていた。
その一片が。
少し後方にいた男の胸へ。
深く。
潜り込んでいた。
「第一列、後退」
ハルトの声。
王国騎士達が一斉に下がる。
「第二列、前へ」
その後ろから、同じ長銃を持った騎士達が現れた。
レグナスの顔色が変わる。
「……待て」
銃口が揃う。
「待て!」
「――放て」
二度目の轟音。
また、帝国兵達が崩れた。
「うわあああっ!」
「まだいる!」
「まだ撃てるぞ!」
「無理だ!」
「逃げろ!」
一人が背を向けた。
それが引き金だった。
既に山中で限界まで削られていた精神が、二度目の斉射で完全に切れた。
「俺はもう嫌だ!」
「山へ戻るな!」
「どこでもいい! ここから離れろ!」
武器を捨てる者。
地面へ伏せる者。
後方へ逃げる者。
軍ですらなくなった残党が、最後の戦意まで失っていく。
「第三列」
ハルトの号令。
さらに奥から、もう一列。
同じ長銃が並ぶ。
だが。
三発目は必要なかった。
構えられた銃口を見ただけで、帝国兵達は完全に動けなくなっていた。
「……兄上?」
ロギウスが、不意に小さな声を漏らした。
グラゼルが動かない。
剣を握ったまま立っている。
「兄上?」
もう一度呼ぶ。
グラゼルが、ゆっくりと自分の胸へ手を当てた。
血。
「……何だ」
指を見る。
赤い。
「これは……」
身体が揺れた。
胸の奥が熱い。
いや。
冷たい。
息が入らない。
「兄上!」
ロギウスが駆け寄る。
グラゼルの胸には、小さな傷がいくつもあった。
レグナスがそれを見る。
自分の剣。
斬った弾丸。
砕けた方向。
グラゼルの位置。
全てが繋がる。
「……俺が」
顔から血の気が引いた。
「俺が……斬ったせいで……」
グラゼルが膝をつく。
息ができない。
身体から力が抜ける。
視界が暗くなる。
「何だ……」
地面が近い。
「待て……」
怖い。
その感情が、何より先に湧き上がった。
死ぬ覚悟。
そんな言葉なら、何度でも口にした。
皇子として。
武人として。
戦場へ立つ者として。
死など恐れぬと。
だが。
違った。
死ぬということは、そんな言葉ではなかった。
身体が自分の言うことを聞かない。
息ができない。
光が消えていく。
深い。
深い。
底の見えない場所へ落ちていく。
戻れない。
何もない。
ただ、暗い。
「……嫌だ」
グラゼルの唇が震える。
「死に……たく……」
言葉は最後まで続かなかった。
身体から力が抜けた。
「兄上!」
ロギウスが叫ぶ。
返事はない。
レグナスが立ち尽くしている。
「……俺が」
剣を握る手が震えていた。
「俺が……」
ロギウスは周囲を見た。
逃げる兵。
倒れた兵。
未だ長銃を構える王国騎士。
そして、グラゼルの亡骸。
ドレヴァンは死んだ。
北砦の軍も敗れた。
六千は山で散った。
総大将まで死んだ。
「……終わった」
ロギウスの声が静かに落ちた。
「我々は……敗けた」
オルディンも、地面へ座り込んだ兵達を見ていた。
喉の渇き。
空腹。
疲労。
まともに立つことすら出来ない兵。
全て、自分が管理すべきものだった。
水。
食料。
予備。
行軍。
補給。
「……どこだ」
オルディンが呟く。
「私は……どこで間違えた……?」
帳簿は合っていた。
計算も合っていた。
自分の記憶も。
予備を用意した。
はずだった。
偽の命令も、自分は出していない。
なのに。
結果だけを見れば、自分は兵を十全な状態で戦場へ届けられなかった。
「どこで……」
分からない。
自分の何が間違っていたのか。
それすら分からないことが、何より恐ろしかった。
数分。
誰も、グラゼルの死を否定できない時間が流れた。
エミリアも倒れた皇子へ一度視線を向け、小さく息を吐く。
「……殺すつもりまではなかったのだけれど」
だが。
起きたことは戻らない。
少なくとも。
この場の誰も、そう思っていた。
エミリアは残された三人へ視線を向ける。
レグナス。
ロギウス。
オルディン。
「ねえ」
三人が見る。
「あなた達」
僅かに笑う。
「私の下僕にならない?」
「断る」
レグナスは即答だった。
「あら。早いわね」
「俺は帝国の人間だ」
「そう」
エミリアは肩を竦めた。
「残念ね」
少し間を置いて、楽しそうに続ける。
「でも、あなたは惜しいわ」
レグナスの眉が動く。
「山の中で、ほんの一瞬だけ」
「私の盤面から外へ出たもの」
「……何の話だ」
「後で教えてあげる」
エミリアは次にオルディンを見る。
「あなたは?」
オルディンは疲れ切った顔を上げた。
それでも。
「……お断りいたします」
「そう」
エミリアは少しだけ残念そうに言った。
「あなたも欲しかったのだけれど」
オルディンが怪訝な顔をする。
エミリアは、彼が見ていた補給兵達へ視線を向けた。
「ちなみに」
「あなた、別に間違えていないわよ?」
オルディンの目が見開かれる。
「……何?」
「帳簿も、計算も、あなたが用意した予備も」
「ちゃんと合っていたわ」
「…………」
「だから欲しかったの」
エミリアは笑った。
「自分の仕事をちゃんと出来る人って、貴重だもの」
オルディンの顔から、さらに血の気が引いた。
何故。
敵国の女王が。
それを知っている。
その問いに、まだ答えは与えられない。
最後。
エミリアはロギウスを見る。
ロギウスは黙っていた。
兄は死んだ。
軍はない。
侵攻作戦は完全に失敗した。
自分は皇子。
帝国へ戻れば、この敗戦の責任から逃れることはできない。
それ以前に、帰れる保証すらない。
目の前の女王は。
少なくとも今。
自分を殺すつもりはない。
「……私なら」
エミリアが口を開く。
「殺さないわよ?」
ロギウスの目が動いた。
長い沈黙。
そして。
「……分かった」
レグナスが振り向く。
オルディンも顔を上げた。
「ロギウス?」
ロギウスは、ゆっくりとエミリアを見る。
「私は……貴女に従おう」
エミリアの顔が、ぱっと明るくなる。
「助かるわ」
「ちょうど帝国との外交官が欲しかったのよ」
「…………何?」
ロギウスが固まった。
「あなた、帝国の皇子でしょう?」
「帝国の事情にも詳しい」
「外交官としてぴったりじゃない」
「そんな馬鹿な話があるか!」
ロギウスが叫んだ。
「出来るわけがないだろう!」
「どうして?」
「私は帝国の皇子だぞ!」
「だから適任なのでしょう?」
「そういう意味ではない!」
ロギウスの声が裏返る。
「私が王国へ降り、その王国の外交官として帝国へ戻れば、どうなると思っている!」
「勿論」
エミリアはにっこり笑った。
「その前に、あなたが知っている帝国の情報は洗いざらい教えてもらうけれど」
「…………」
ロギウスの顔が完全に引き攣った。
エミリアはそこで、ふと周囲を見る。
レグナス。
オルディン。
そして。
横たわったグラゼル。
「あら」
口元へ指を添える。
「この場で言ってはいけなかったかしら?」
笑う。
「ごめんなさい」
「貴様ぁぁぁ!」
ロギウスの絶叫が夜へ響いた。
「これでは本当に帝国へ戻れんではないか!」
「だから、外交官として戻るのよ?」
「死ねと言っているようなものであろうが!」
「あら」
エミリアは首を傾げた。
「有能な皇子様なら、それくらい生き延びられるんじゃなくて?」
そして当然のように言う。
「私は有能な部下が欲しいのよ」
その時だった。
横たわっていたグラゼルの指が。
僅かに動いた。
誰も。
最初は気づかなかった。
日付が変わった。
何の光もない。
何の音もない。
神々しい奇跡など、何一つ起こらない。
ただ。
死んでいた男が。
突然。
「――っ、はぁッ!」
大きく息を吸った。
「…………」
全員が止まった。
グラゼルが身体を起こす。
ロギウスの目が見開かれる。
「……兄上?」
レグナスも言葉を失った。
オルディンが立ち上がる。
ハルト達王国騎士も僅かにざわめいた。
そして。
エミリアも。
初めて、完全に予想外のものを見る顔をした。
「……は?」
グラゼルは自分の胸へ手を当てた。
つい先ほどまで、そこには確かに穴が開いていた。
心臓を穿たれ。
血を流し。
息すら出来ずに死んだはずの場所。
だが今は、傷一つない。
痛みもない。
山中を歩き続けた疲労も。
乾いた喉の不快感も。
足に蓄積していた重ささえ消えている。
ただ一つ。
死んだ瞬間の記憶だけが。
鮮明に残っていた。
グラゼルの指が、僅かに震える。
心臓を貫かれた感覚。
呼吸が出来なくなった恐怖。
光が消えていく瞬間。
底のない闇へ、自分が落ちていった感覚。
「……あ」
胸元の服を掴む。
「俺は……」
何もない。
傷はない。
それでも。
指先の震えが止まらない。
「死んだ……」
声が掠れた。
「俺は……今……」
確かに。
死んだ。
死ぬということを。
知ってしまった。
それは、想像していたものとはまるで違った。
怖い。
ただ。
どうしようもなく。
怖かった。
それでも。
グラゼルは奥歯を噛み締めた。
深く息を吸う。
震える身体を意志で押さえ込み、ゆっくりと立ち上がる。
皇子として。
持ち前の精神力で。
無理矢理に自分を立て直す。
そして。
周囲を見渡した。
「……午前零時だ」
グラゼルは、自分の胸へ手を当てた。
「日付が変われば、俺の身体は元へ戻る」
ロギウス達が、言葉もなくグラゼルを見る。
「どれほど傷つこうと、疲れ果てようと――」
そこで一度、声が止まった。
暗闇へ沈んでいく感覚が蘇る。
息が出来ない。
身体が動かない。
光が消えていく。
そして最後に、自分が口にした言葉。
――死にたくない。
グラゼルは、その記憶を力ずくで押し込めた。
「……たとえ、死んだとしてもだ」
震えていた手を強く握り締める。
「記憶だけを残して、俺は何度でも蘇る」
自分自身へ言い聞かせるように。
その言葉が真実であることを確かめるように。
グラゼルは声を強めていく。
「俺はもう、死に奪われる側の人間ではない!」
その視線が、真っ直ぐエミリアを射抜いた。
「女神に選ばれた、不老不死の存在――」
一度死んだ。
それでも、こうして立っている。
ならば。
あの恐怖すら、女神に選ばれた証なのだと。
そう信じなければ。
今にも膝が震え出しそうだった。
「人の理を超えた――神にも等しい生命なのだ!」
夜の平原へ、グラゼルの声が響く。
だが。
その言葉を聞いたエミリアは、怯えるでも、驚愕するでもなかった。
ただ少しだけ目を丸くすると、隣に立つルミへ顔を向けた。
「へぇ……そうなの?」
ルミは平然と頷いた。
「そうですね」
「神かどうかは別といたしまして」
少しだけ考える。
「魂そのものを消滅させるような手段でも用いない限り、日付が変われば元へ戻る」
「そういう意味では、不死身なのは間違いございません」
エミリアの目が僅かに輝いた。
「面白い」
その一言。
グラゼルは勝ち誇ろうとした。
だが。
その口元は。
まだ僅かに震えていた。
一方。
ロギウスの目には、失われていた光が戻っていた。
「……不死」
グラゼルを見る。
無傷。
完全に生きている。
「そうか……」
「そうだったのか……!」
先程まで。
完全に終わったと思っていた。
兄は死んだ。
帝国は負けた。
だから自分は、生きるためにエミリアへ降った。
だが。
女神に選ばれた兄がいる。
死なない兄がいる。
なら。
まだ。
「素晴らしい!」
ロギウスがグラゼルへ歩み寄った。
「兄上がいれば!」
「まだ終わっておりません!」
「兄上がいる限り、我々はまだ――!」
「…………」
エミリアが、ゆっくりとロギウスを見る。
「あら?」
ロギウスが止まった。
「あなた」
エミリアが首を傾げる。
「さっき、私の下僕になるって言わなかったかしら?」
「…………」
ロギウスの顔が引き攣った。
「そ、それは……!」
言葉が出ない。
エミリアは怒らなかった。
むしろ、楽しそうに笑った。
「いいわよ?」
「生き残れそうな方へ付く」
「合理的で、とてもあなたらしいもの」
ロギウスが何も言えない。
「ただ」
エミリアの笑みが、僅かに冷たくなる。
「今、どちらが強いのか」
「そこを見誤るようでは――」
肩を竦める。
「採用は見送りね」
「な……!」
「外交官の件も無し」
「待て!」
「残念だったわね」
ロギウスの顔から。
希望が。
また消えた。
「それより」
エミリアはグラゼルへ視線を戻した。
「一つ、気になるのだけれど」
「何だ」
グラゼルが睨み返す。
エミリアは、その足を見る。
指を見る。
呼吸を見る。
そして笑った。
「あなた、今」
「死んで、恐怖を覚えたわね?」
グラゼルの表情が固まった。
「……何を」
「その祝福を授かった時」
エミリアが一歩前へ出る。
「考えなかったの?」
「死んでも蘇るということは――」
笑う。
「捕らえられたら、復活するたびに何度でも死ねるってことを」
グラゼルの呼吸が止まった。
「今日、たった一度死んだだけで」
「そんなに震えているのに」
エミリアの笑みが深くなる。
「楽しみね」
「あなたは、何度」
「どんな死を体験して」
「どこまで耐えられるのかしら?」
グラゼルの脳裏に、先程の闇が蘇った。
息が出来ない。
身体が動かない。
落ちる。
何もない場所へ。
また。
あれを。
何度も。
何度も。
「……っ」
グラゼルが一歩後ずさる。
ルミが、感心したように声を漏らした。
「あー……」
エミリアが振り向く。
「何よ」
「いえ」
ルミは少し考えてから頷いた。
「確かに、そんなこと出来ますね」
そして、にっこり笑う。
「すぐにそこまで思いつくあたり、悪の女王っぽいですね」
「当たり前じゃない」
エミリアは胸を張った。
「私は悪なんですから」
「褒めております」
「ならいいわ」
冗談なのか。
本気なのか。
グラゼルには、もう判断できなかった。
「さて」
エミリアが、ふと周囲を見回した。
「それと」
何かを思い出したように言う。
「そろそろ、労いの言葉も必要かしらね」
誰に向けた言葉なのか。
グラゼル達には分からなかった。
エミリアは彼らではなく、その後ろを見る。
そして微笑んだ。
「――お疲れ様」
二人が動いた。
一人は。
《山猫》のゼルク。
もう一人は。
少し前、後方から追いついてきた伝令兵。
「……?」
グラゼルの眉が寄る。
二人は帝国兵達の間を抜けた。
何も言わず。
そのままエミリアの元へ歩いていく。
そして。
跪いた。
「……は?」
グラゼルが声を漏らす。
「おい」
「ゼルク」
返事はない。
「何をしている!」
ゼルクがゆっくり立ち上がった。
自分の顔へ手を掛ける。
指が頬へ食い込む。
そして。
ずるり――。
顔が剥がれた。
「な――」
グラゼルの目が見開かれる。
皮膚そのものにしか見えなかった薄い面。
《千貌面》。
変装を専門とするネームレスが、自らの技術と能力をさらに高めるために与えられた専用魔道具。
面が外れる。
その瞬間。
雰囲気が変わった。
髪。
顔。
声。
身体つき。
立ち姿。
先程まで確かにそこにいた《山猫のゼルク》が消える。
代わりに立っていたのは、一人の女だった。
若く。
整った顔立ち。
明らかに美しい。
それなのに、妙なほど印象が薄い。
一度視線を外せば、次に会った時には思い出せない。
そんな錯覚すら抱かせる女。
「……女?」
グラゼルが呟く。
隣。
伝令兵も、自らの偽装を解いていく。
男の兵士だった輪郭が崩れる。
声。
姿勢。
体格。
纏っていた空気。
全てが変わった。
現れたのは、こちらも一人の女。
だが。
先程の女とは対照的だった。
目を引くほどに美しい。
穏やかな表情。
人を安心させるような柔らかな笑み。
山中で、あれほど自然に帝国兵へ紛れ込んでいた人物とは到底思えない。
ロギウスの顔が青ざめた。
「……待て」
その女を見る。
「貴様……」
「先程」
「ドレヴァン殿の死を報告した……」
女は静かに微笑んだ。
あの時の。
必死に後方から追いついてきた伝令兵の顔ではない。
エミリアの前へ、もう一度静かに跪く。
グラゼルが二人を見る。
エミリアを見る。
「……何だ」
声が震える。
「これは……」
エミリアが。
楽しげに笑った。
「答え合わせよ」
その一言で。
グラゼルの背筋を、冷たいものが走った。
エミリアは、偽りの《山猫》へ視線を向ける。
「道中は、快適だったかしら?」
グラゼルが何も言えない。
「一応、通りやすいように整備しておいたのだけれど」
そして。
悪戯っぽく首を傾げた。
「まさか」
「わざわざ整備していない道を選んで歩く」
「お馬鹿さんなんて、いるわけないわよね?」
グラゼルの頭の中に。
山中の光景が、一気に蘇った。
沢。
迂回。
分岐。
似た岩。
倒木。
終わらない斜面。
何度も失った道。
そして。
ずっと自分達を導いていた男。
《山猫のゼルク》。
「……貴様」
グラゼルが震える声で女を見る。
「いつからだ」
女は答えない。
エミリアが代わりに笑った。
「さて」
「どこから話しましょうか」
月明かりの下。
悪の女王が、ゆっくりと敗残の皇子達を見渡す。
「あなた達」
「ずっと」
「何が起きているのか、知りたかったのでしょう?」
エミリアの笑みが深くなる。
「なら、教えてあげるわ」
「あなた達が」
「あの山で」
「何と戦っていたのかを」
感想いただけると嬉しいです




